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聖書の使徒10:10~28質問があります。

全ての食物が清いというのは何人をも清くないと呼ぶべきではないことなんですか? 使徒 10 「10 しかし非常に空腹を覚え,[何か]食べたくなった。人々が準備している間に,彼はこうこつとした状態になり, 11 天が開けて,何か器のようなものが,ちょうど一枚の大きな亜麻布がその四隅を持って地上に降ろされるかのように下って来るのを見た。 12 そしてその中には,地のあらゆる四つ足の生き物,はうもの,また天の鳥がいた。 13 そして,「立ちなさい,ペテロ,ほふって食べなさい!」という声がした。 14 しかしペテロは言った,「いえ,それはできません,主よ。わたしはいまだかつて汚れたものや清くないものを何も食べたことがないからです」。 15 すると,その声が再び,二度目に彼に[言った],「あなたは,神が清めたものを汚れていると呼んではならない」。 16 こうしたことが三度起こり,それからすぐ器は天に上げられた。 17 さて,自分の見た幻は何を意味するのだろうかとペテロが内心ひどく思い惑っているうちに,見よ,コルネリオから派遣された人たちがシモンの家を尋ねて来て,そこの門のところに立った。 (略) 28 こう言った。「ユダヤ人にとって,別の人種の人と一緒になったり近づきになったりするのがいかに許されないことか,あなた方もよく知っておられます。ですが神は,何人をも,汚れているとか清くないとか呼ぶべきでないことをわたしにお示しになりました。 パウロが空腹の時に起こった出来事で、神が清めた地のあらゆる生き物を食べるようにと主の幻が三度起こったと書いてありますが、ペテロは食べませんと答えていますがなぜ、ペテロは食べないんですか? 神が清めたものと書いてありますが、全ての食物が清いとされたのは、このイエスが死んだ後の出来事の前のイエスが生きていた時の言葉で、 マルコ 7 「18 それで[イエス]はこう言われた。「あなた方も彼らのように悟る力がないのですか。外から入って行くものは何一つとしてその人を汚すことができないことに気づいていないのですか。 19 それは,[その人の]心の中にではなく,腸の中に入って行き,それから下水に出て行くからです」。こうして[イエス]はすべての食物を清いとされたのである。 20 さらにこう言われた。「人から出て来るものが人を汚すのです。 21 内側から,つまり人の心から,害になる推論が出て来るのです。」 ここで、すべての食物は腸から下水に流れるが、害になる推論は人から出る、だから食物は清いとイエスが言っています。確かにここでイエスはすべての食物を清いとされたと書いてありますが、 使徒10では、ペテロは汚れているものは食べないと言っています。 そのあとペテロは自分が見た幻は何を意味するのだろうかと内心ひどく思い惑い、幻について思い巡らした後、「神は,何人をも,汚れているとか清くないとか呼ぶべきでないことをわたしにお示しになりました。」と言っていますが、マルコですべての食物が清いとイエスが言ったことはすべての人は清いという意味なのであればマルコの福音書は間違っているということですか? それともこの事自体が、ペテロから害になる推論が出ている証明になっているんでしょうか? マルコの福音書が間違っているのであれば、旧約聖書で禁止されている食物はペテロの言葉にならって食べないことが正しいことになるのですが、すべての食べ物が清められたのであれば、ペテロから既に害になる推論が出始めている証拠になるんですが、どっちなんでしょうか? しかし、パウロは食物のことで、 コリント第一 8 「13 それで,食物がわたしの兄弟をつまずかせるなら,わたしはもはや二度と肉を食べません。わたしの兄弟をつまずかせないためです。」 ここでもまだ、食べる者が滅ぼされるのか、食べない者が滅ぼされるのか正しい教えがはっきりしません。どっちが滅ぼされるんですか? また、ここでパウロは真理を悟ったのだとしたら、 ヨハネ16 「13 しかし,その者,すなわち真理の霊が到来するとき,あなた方を真理の全体へと案内するでしょう。」 で、真理の全体に案内されたのはこの時ということですか?しかし次を読むと、 ガラテア2 「14 しかし,彼らが良いたよりの真理にしたがってまっすぐに歩んでいないのを見た時,わたしはみんなの前でケファにこう言いました。「あなたは,自分ではユダヤ人でありながら諸国民のように生活し,ユダヤ人がするようにはしていないのに,どうして諸国民の者たちに,ユダヤ人の習わしにしたがって生活することを強いているのですか」。」 で、ケファ(ヨハネ1:42ペテロはケファ「岩」と呼ばれるでしょうにより)が真理にしたがって歩いていないのをパウロは見たとありますがいつ真理の全体に案内されたんですか? 真理の全体に案内されたのがいつかによって、 ヨハネ16 「32 見よ,あなた方がそれぞれ自分の家に散らされてわたしを独りだけにする時が来ます。そうです,現に来ているのです。それでも,わたしは独りではありません。父が共にいてくださるからです。」 で、使徒が自分の家に散らされてイエスを独りだけにする時がいつまでなのかを解く大事なところだと思うのですが、 もし十二使徒から枝別れしてしているが、キリストの根から吸っている者達だとしたら。正確に伝えられなくても兄弟だとしたら、イエスの新しい掟である、兄弟が互いに愛し合うことが守れなくないですか?誰かが一番正しいんでしょうか?それとも全員間違っているから神のみが高められて聖書が完成されるんでしょうか? ローマ10 「15 また,遣わされたのでなければ,どうして宣べ伝えるでしょうか。「良い事柄についての良いたよりを宣明する者の足は何と麗しいのだろう」と書かれているとおりです。」 ここで、良い事柄についての良いたよりを宣明する者の足は何と麗しいのだろうと書いてありますが、 使徒はなぜ足を洗ってもらう必要があったんですか?もし、害になる推論が出て来ることが足を洗ってもらう意味だったとすると、足を洗ってもらえさえすれば使徒は全身清いものであるとイエスが言っているのにすべての食物が清いのかすべての人が清いのかにこだわる意味はあるんでしょうか? そう考えると、(神を見るとイエスに見える者、イエスを見ると神に見える者)=神とイエスは同じ者に見える事の何が滅ぼされる要因になるのか、どうしてもエホバの証人のこの部分が理解できません。 (正確な知識で無ければ滅ぼされる、自分達は正確である)つまり自分達以外は滅ぼされるという教えがどうしても納得できません。パウロに沿うなら三位一体でカトリックがつまずくなら私も神とイエスは同じ者であると言うほうが愛が優先されていると思うのですが、本当にどこかの人間の山の一つが高められるんでしょうか? 啓示2 「2 『わたしはあなたの行ないを知っている。また,あなたの労苦と忍耐を,そしてあなたが悪人たちに耐えることができず,使徒であると言いはするが[実は]そうでない者たちを試して,それが偽り者であるのを見いだしたことを[知っている]。 3 またあなた方は忍耐を示しており,わたしの名のために耐えてきた。そしてうみ疲れたことがない。 4 とはいえ,わたしにはあなたを責めるべき[こと]がある。それは,あなたが,最初に抱いていた愛を離れたことである。 5 「『それゆえ,自分が何から落ちたかを思い出し,悔い改めて以前の行ないをしなさい。もしそうしないなら,わたしはあなたのところに来て,あなたの燭台をその場所から取り除く。あなたが悔い改めなければ[そのようにする]。」 で、あなたは使徒であると言いはするがそうでない者を見出すが、あなたは愛を離れたとあります。 イエス以外、人間は誰も神の家に立てなかったことが証明されて神の山(天は玉座、地は足台、神に人間の建てた家に住めというのかという聖句がまだ未解決)のみが高められ栄光を帰す日が来るんでしょうか?人間の中から王を立てることも間違っていて、もう正確なことを知るにはイエスに来てくれという以外にどうしようもないと思うのですが、どこかの人間の山だけは正確に伝えているんでしょうか?足を洗ってもらう以外全身清い者が、害になる推論が出ている者であるがキリストに属している者の場合、この者達に敵意を示しているエホバの証人が滅ぼされることになるんですが、イザヤ48によると、 全地に散らされたイスラエルを島々から再び集めると書かれている部分で、イスラエルの神の名を真実によらず義によらずに語り告げる者たちだが、わたしはわたしの名のために怒りをとどめ,わたしの賛美のためにあなたに対して自分を制し,わたしは苦悩の溶鉱炉であなたを選んだと書いてありますが、まずここでどっちが真実によらず義によらず語り告げていいるかではなく、最たる例としてでも神の名の為に助けられる者がいるということで、この者達は真実を語り告げていないが助けると神が言っているのにどうやって、何を根拠にキリストに永遠の命を求めて信仰を働かせている者を裁けるのかということです。敵対している者同士おのおの自分は当てはまっていないと考えるでしょうが、この聖句に当てはまっているものも神は助けると書いてあるのは間違いないと思います。神が助ける事に決めた者に敵意を示せるだけの理由は何なんでしょうか? まず、全ての食物が清いというのは何人をも清くないと呼ぶべきではないことなのかからですが、いつ使徒達は真理の全体に連れて行かれたのかを教えてください。

みんなの回答

  • s0i
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回答No.6

まずあなたにひとつお願いなのですが、、。 お宅へ伺うエホバの証人がほんとうにエホバの証人であれば、 意見の相違が生じたり議論になったりしたとしても、彼らは「大声で怒鳴ったり」「聖書に憑りつかれている」などと言ったりはしないはずです。 エホバの証人は感情だけでなく、理性的に聖書を調べるように すべての人にお勧めしているわけですから、上のようなことはいたしません。 もしほんとうにそのようなことをするエホバの証人がいるとすれば、とってもいけない方です(笑)。 あなたがエホバの証人にたいしてそのような感情を抱いているのであれば、それはきっと エホバの証人の(「ものみの塔」の)聖書理解の仕方を学ぶことをすこし難しくしてしまうでしょう。 多くの一般の方々も、エホバの証人は(何度も訪問してしつこい、と感じることはあるにしても) 決してなにか強要したり、捨て台詞を吐いたりはしないことをご存じのはずです。 ですので、このような開かれた空間でエホバの証人にたいしての中傷をすることは 是非やめていただきたいとおもいますし、 それは質問者さんの尊厳を低めることになってしまいます。 ともあれ、質問者さんが聖書をよく読まれて疑問を抱かれていることはよくわかりますし、 それはとてもすばらしいとおもいます。 エホバの証人であっても、誰もがこのように熟読しているかというと、それは人それぞれです。 (逆にそこがすごいとも言えますけれど!) 聖書じたいがすべての人に〈開かれて〉いる以上、すべての人は疑問をいだく権利があり、 またそれを神はよしとされていることがわかります。 しかし、聖書はとっても、とっても深いです。 どんな方面から聖書に入っていってもよいのでしょうけれども、 エホバの証人の聖書の理解の仕方は一貫していてほぼ整合性がとれていることは事実です。 ですから質問者さんもおっしゃっているように、一度、エホバの証人が聖書をどう読んでいるか、 知ってほしいと切に願います。 エホバの証人になる、ということは、この組織に属したいという意志がなければなれませんので 勧誘されて引きずり込まれるということは絶対にありません。 パウロはヘブライ11:1で信仰の定義について述べています。 「信仰とは、望んでいる事柄に対する保証された期待であり、 見えない実体についての明白な論証です。これによって昔の人々は証しされたのです」。 聖書の真理に関係することがらにかんしては、 「これは絶対確実だ」とその本人に証しするのは、本人の信仰です。 そのような意味で、信仰なしに聖書を真に理解することはできないけれども 敢えてパウロは「論証」というように堅い言葉をつかって (パウロはユダヤの、言ってみれば法学の教育を受けています) その信仰は冷静な判断に拠るものだということを言わんとしています。 質問者さんがここで質問なさっていることは、とっても重要な部分ではありますが、 それらにひとつひとつ返答することよりも、 聖書そのものは神が人間になにを伝えようとしているのか、 それを知ることのほうがもっと重要だとわたしは考えます。 それを知ることは、これまでに質問者さんの抱かれた疑問にたいしてなんらかのヒントになるか、 あるいは直接の答えになるとおもいます。 エホバの証人も、毎週毎週あたらしい資料で、聖書を学んでいます。 まだまだみんなが途上にあります。 どんなに知性があっても、どんなに長く学んでいても、 聖書に書かれていることからは、際限なくすばらしい知識を取り入れることができます。 そしてそれは毎度毎度心を強め、平安と明日のための活力を与えるものです。 勇気づけられる希望も持つようになりました。 これまでに質問者さんの質問をいくつか考慮して、 わたしもいろいろと勉強になりましたし、質問者さんに親しみも覚えました。 もしできることなら、本当に真理を知りたい、とおもうのでしたら 未だはっきり知らぬ神にそのことをお願いしていただけたらとおもいます。 エホバという名前には「彼はならせる」という意味があります。 「わたしは、わたしを求めたことのない者たちにわたしを尋ね求めさせた。 わたしは、わたしを探し求めたことのない者たちにわたしを見いださせた。 わたしは、わたしの名を呼び求めていなかった国民に、 『わたしはここにいる、わたしはここにいる!』と言った」(イザヤ65:1) これがわたしの一番好きな聖句です。 わたしは、エホバご自身があなたに理解を得させてくださることを祈っています。

  • s0i
  • ベストアンサー率15% (2/13)
回答No.5

◆パウロやペテロは分裂していたのか パウロは旧約聖書のなかの多くの書・手紙の筆者であります(おなじようにペテロの手紙も「正典」として収められています)。 聖書をあなたが‘信じる’のであれば、それはそれを書かせた神によって保証された言葉であることも同時に信じなければなりません。「正典」として守られてきたこの全体は、多くの試練に耐えて、現在でも世界の90%の人が母国語で読めるようにされています。 分裂していた使徒たちのことば双方を、神が大切に守り、現代のわたしたちに読ませるでしょうか。分裂している人々のなかに「真理」をみいだすことなどできるでしょうか。 聖書を「正典」として‘信じて’読むことは必ずしも要求されているわけではありませんが、もしその登場人物の一挙一動に「この言動は正しいか、あるいは間違っているのか」という疑問を差し挟むのであれば、それはある部分を信じ、ある部分に疑いを持つ、ということになります。 聖書の登場人物の言動は、神の目からみて、正しいことも、間違ってしまったことも記されています。エホバの証人は、キリスト教の一部がしているように、たとえば使徒たちを‘聖人’扱いすることはしません。彼らは立派な宣教者であり、愛すべき模範的なクリスチャンですが、彼らはわたしたちとおなじ人間であり、失敗もしました(使徒14:11-)。

sonarfisx
質問者

お礼

絶対的な証拠は訂正します。 絶対とか言われたら何もかけないですよね。すいません。 今のところの教理でいいのでこの部分を解決できそうな聖句があれば もう少し教えてください。

sonarfisx
質問者

補足

イエスが全ての食べ物が清いと言った部分なんですが、 口から出る物が人を汚す 口に入る物では人は汚れない この2つは対比させて書かれていますよね これは口にから出る物が人を汚すことを強調するためにその逆を表す為に 食べ物を清めたとなっていますよね。 そうすると、口に入る物は人を汚さないから食べ物は清いという意味が全ての人が着よいという意味だと、口から出るものは何を意味してるんですか? ここは何か他の意味(全ての人が清い)をもたせていると、マルコの文がめちゃくちゃになるわけですが、これはどう解決しているんですか? マルコだけではなく同じ事がマタイにも書かれています、こっちは人から害になる推論など他いろいろになっています。マルコの害になる推論は淫行・盗み・殺人の事だという方を選択した理由はなんですか? マタイは害になる推論・淫行・盗み・殺人となっているので、口から害になる推論が出るを私が考慮しなければいけないと思った理由は、この2つの福音書の違いだけではなく、推論の単語がすなわち殺人を意味するというのは少しおかしいと思うので、ペテロと同じくこのイエスの言葉の意味がマルコもわかっていないとしたらこんな文になってもおかしくは無いとおもったのです。マタイとは違うわけですからこの事は考慮しなければいけないはずです。推論とはその単語は推察した論理のことですよね。 そうでないなら訳が違うならまた話はちがって来ると思います。 その前に、律法が破棄されたという意味について詳しく教えてもらいたいのですが、誰も教えてくれません。私も永遠をかけて真実を勉強しているので、あたらしく質問したので永遠をかけてこうだろうとかではなく全てを悟った状態で絶対に引き返せない絶対的な証拠を教えてください。お願いします。

  • s0i
  • ベストアンサー率15% (2/13)
回答No.4

◆ペテロ(ケファ)は、パウロからの叱責のあと、会衆と協力して業をつづけています。叱責を受け入れ、自分の落ち度を認めたということがわかります。彼らは分裂していません。イエスの捕縛後に散り散りになったのは12使徒であり、他の方もおっしゃっているようにそれはイエスの復活までのあいだの一時的なものでした。 ◆マルコに述べられている、「害になる推論」とは「すなわち、淫行・盗み・殺人・姦淫・貪り・邪悪な行為」とありますので、たとえばテモテ第二4:3,4にあるような「耳を真理からそむけ」ることや「作り話」を指していません。同じく、使徒 20:29,30に出てくるような「圧制的なおおかみ」が表れるという種の‘分裂’であれば、これらの人の目的は「(キリストの)「弟子たち」を引き離して自分につかせようとする」ことであり、ペテロはそのようなことはしていません。当然、パウロもそのようではなく、そのことについて警告した、使徒の一人です。いみじくもその頃すでに、外典のようなものは出回っていました(ガラテア1:8)。 ◆「すべての食物が清い」「すべての人が清い」のだとすると、それはなにを意味するでしょうか。 イスラエル人に与えられた律法は、養育係としてイスラエル人を保護し、懲らしめ、彼らをその教訓者であるメシアの到来に備えさせる目的であったこと(ガラ 3:24)、また律法の様々な面は、来たるべき、より偉大な事柄を表わす影であり、その影は正しい心を持つイスラエル人がメシアを見分ける助けになった(イスラエル人はメシアがそれら預言的な型をどのように成就したかを見ることができたから)(ヘブライ10:1、コロサイ2:17)。 このように、イスラエル人の律法が、キリストと、彼に属する(クリスチャンにたいする)おきてを導きだす役割を持っていたことを踏まえると、「すべての人が清い」という、「その言葉自体が本当に真理に則しているのか」という疑問は、律法とキリストの教え全体(聖書で‘真理’と述べられていること)を覆すことになってしまいます。 聖書には、言葉尻をとらえると矛盾しているような表現がいくつもありますが、それらを聖書全体に敬意を払いつつ(テモテ第二3:16)も、理性的に読めば、多くの点でその矛盾を解消することができますし、いちばん重要なことを心に影響を与える仕方で知ることができます。

sonarfisx
質問者

お礼

口論のようになってしまいすいません。 今のところ納得がいく回答が誰からも得られなかったのでもう一度、今度は聖書だけではなく、ものみの塔の冊子で教理を勉強してみようと思います。 今でも、神のとイエスの事を知ったのはエホバの証人が家に来たからだと思ってますし、独自の聖書解釈ですが、エホバの証人が最も小さきものなので、最も大いなる者と呼ばれる神の組織だと聖書だけを使って証明のようなものができるので、自分の解釈があってるにせよ、間違ってるにせよものみの塔の本を勉強するしかないと思ってます。 エホバの証人が家に来る度に、お前は聖書にとりつかれている、精神病院行け、と玄関先で大声で叫んで帰るのでかなりむかついていましたが、それでも聖書の記述により、エホバの証人が神の組織である可能性が消えませんでした。 もう一度勉強しなおそうと思います。ありがとうございました。

sonarfisx
質問者

補足

ヨハネ 16:8 「8 そして,その者が到来すれば,罪に関し,義に関し,裁きに関して,納得させる証拠を世に与えるでしょう。」 この証拠とは何ですか? ヨハネ 16:8 「10 次いで,義に関してとは,わたしが父のもとに行き,あなた方がもうわたしを見ないからです。」 この後、イエスが生き返って使徒はイエスを見ていて話もしています。 それなのに、このイエスが生きている時の言葉で使徒がもうイエスを見ない証拠、つまり、使徒それそれが自分の家に散らされてイエスを一人きりにする証拠を私が提示している以上、その証拠が子供騙しであり、証拠にもなっていないと証明する、絶対的な証拠が必要なはずです。 これがすべて解れば真理の霊から来ている真理なのは間違いありません。そう書いてあるからなのですが。 これと同じ事がユダの福音書に書かれていて、ユダは13番目の精霊と書かれています。精霊を侮辱したものは永遠に許しがないと書いてある以上、絶対にユダはイエスが最も愛していて友と呼んだ弟子ではない真理をことごとく悟った者の証拠が必要です。証拠と書いてあるわけですからこう思うとか、じゃないでしょうかとかではなく、絶対に証拠でなければいけないはずです。 ここからは永遠をかけた発言になってしまうと思いますが、他の群れを否定している以上もう引き返せないはずです。最後まで教えてください。 お願いします。

回答No.3

sonarfisx さん こんにちわ できるだけ全てのご質問に答えたいと思いますので、少し長くなります。 ペテロが3度も見た幻は、言わば「体験的な例え話」です。 要は、今後、異邦人(非ユダヤ)を区別して見るべきではない。という、神の目的の、長い歴史の中の、変更点にあったため、それを定着させるために、極めて印象的に教えるためになされたことです。 ですから、その目的に適えば別に「食物」でなくても良かった訳ですが、これが一番端的で、分かり易い例だったので、採用された幻だったのでしょう。 注目すべきは、認識、みなし方の変更であって、その時に全ての動物が文字通り「清められた」わけではありません。 動物自体には何の変化も起きていません。従って、それまで「汚れていた」のでもありません。それは、ある目的のために「汚れている」とユダヤ人に見なされていた。そうみなすように教えられて来たということに過ぎません。 そのある目的とは、一つには「保護する」というものです。子供が親の保護管理下にある間は、出入りする場所や口にするものなどに制限を設けるのと似ているかも知れません。 マルコ7章 この場合も「食物」に関連した部分は比喩です。つまりそれは人の内に「外から入る物」の一例であり、代表です。恐らくここは、飲食、消化吸収、排泄という人体のシステムを一つの「浄化作用」とみなした上で、そうしたもので、人そのものが「汚されることはない」と述べているのだと思います。 「それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」(7:19) (イエスが全ての食物を清いとしたのではなく、人体のシステムの話しです) 逆に、人を汚すものは「外から入る」物ではなく、その人の中から、つまり人の「悪い考え」歪んだ思考から生み出されるものが、その人自身を「汚す」ことになると言うことです。 「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。(7:20.21 ) ここでは、「全ての人」に限らず、どんな人も、それ自体で「清い」「汚れている」とも定められていません。 どんな人であれ、基本的神に受け入れられる(つまり清い)が自らの「悪い思い」で自分を汚した人は「汚れた人」になってしまうということです。 コリント第一 8章 >「13 それで,食物がわたしの兄弟をつまずかせるなら,わたしはもはや二度と肉を食べません。わたしの兄弟を つまずかせないためです。」 ここでも、「食物(肉)」に言及していますが、これも「一例」であって、パウロがここで問題にしているのは「偶像に捧げられ食物」のことであり、「偶像崇拝」がテーマです。 「食物がわたしの兄弟をつまずかせるなら,わたしはもはや二度と肉を食べません」は「お酒がわたしの兄弟をつまずかせるなら,わたしはもはや二度と酒を飲みません」に置き換えることができます。 問題は、気の小さなクリスチャンを「つまづかせる」つまり偶像崇拝の罠に落としてしまいかねない危険性がもしあるなる、譲歩して、肉を食べないことにする。」ということで、もし、誰もつまずくことがない状況なら、パウロが肉を絶つ理由は何もないということです。 >「食べる者が滅ぼされるのか、食べない者が滅ぼされるのか正しい教えがはっきりしません。どっちが滅ぼされるんですか?」 「食べても、食べなくても」誰も滅ぼされることはありません。ただ、人のことを何も考慮せず、(正当な自由の行使であったとしても)「私の勝手だ」という態度で、結果的に人をつまずかせてしまうなら、その責任を問われるということは言えます。 「クリスチャン精神」とはそういうものです。 ヨハネ16 >「13 しかし,その者,すなわち真理の霊が到来するとき,あなた方を真理の全体へと案内するでしょう。」 これは、ペンテコステの時に120人程の弟子たちに成就しました(使徒2章)  「真理の全体へと案内」という表現ですが、何をもって「全体」とするかは難しい所です。また「案内する」と言われますが、全ての人が真理全体というゴールに「到達」するというニュアンスまでは読み取れません。 恐らく、「その時に必要な真理をことごとく悟れるように導く」と言うことではないでしょうか。 この時から、約2000年も後でさえ、まだ到達はしないようです。 「ダニエルよ,あなたは終わりの時までこれらの言葉を秘し,この書を封印しておくように。多くの者が行き巡り,[真の]知識が満ちあふれる」。(ダニエル 12:4) 「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」(16:13 ) 「この真理をことごとく」の意味するところは、「これから起こること」に関する知識と関係があることが判ります。イエスはこの約束の後、地上の舞台を去ることになり、言わば「聖霊」の働きは、彼らを導くという役割をバトンタッチして受け継ぐことになります。 具体的には、この時に発足した「クリスチャン会衆」というものが、その働きを担ってゆく事になりました。 ガラテア2 >「真理の全体に案内されたのはこの時ということですか?」 一夜にして「案内された」と過去形で言えるものではないと考えられます。 ケファの人間的な弱さや間違いは、「真理の全体へ導かれる」こととは別の問題と捉えるべきだろうと考えます。「真理をことごとく悟った」としても、依然、不完全な人間である以上、恐れや、弱さ、間違った自尊心など、それに起因する問題が消滅するわけではありません。 しかし、ケファのこうした出来事や、叱責、悔恨などの経験や、その実話を聞く人々にとって、それが、「真理全体」への案内のプロセスとなっていることは確かでしょう。 ヨハネ16 に関する部分の質問の意図が汲み取れません。 イエスを置いてけぼりにして、独りだけにする、というのは、最終的にイエスが捕縛された時に、弟子たちが皆逃げた時に成就しました。それはごく一時的な出来事でした。 ローマ10 これ以降の質問の内容は漠然とした印象でご質問の意図がよく分かりませんが、イザヤ48章の内容に基づいて、神が、ご自分の意に適わなかった者をさえ、救出されると言うのだから、誰が清いか清くないかという論議や、「どこかの人間の山だけ」(特定の人間のグループ?)が救いに預かり、他は滅ぼされると排斥、糾弾することは無意味ではないのか。 というような趣旨と理解した上で、最後に幾らかのコメントを述べることにします。 主な内容は「バビロンの囚われ」から解放救出するというものです。しかし無条件ではありません。 「あなたがわたしのおきてに実際に注意を払いさえすれば」が条件です。 この預言には、最終的な預言が関係しています。それは、「バビロンから出なさい」という呼びかけが、啓示18章で「終わりの時」になされる事として描写されていることからも判ります。 「…あなた方はバビロンから出よ! 」(イザヤ 48:20) 「…「わたしの民よ,彼女の罪にあずかることを望まず,彼女の災厄を共に受けることを望まないなら,彼女から出なさい。」(啓示 18:4) この預言の後に残っている地上の物事は、この「大いなるバビロン」の滅びと「野獣と偽預言」の滅び、サタンの幽閉だけです。逆に言うと、大患難などはもう過去となっている時点です。 つまり、未だ成就していません。 では、この時「大いなるバビロン」の中にいる「私の民」とは誰でしょうか。 イザヤの時代の先の預言は、バビロン捕囚になっている「ユダヤ人」(全員)に向けて語られているもので、「しぶとく居座って」いる残りの者に最後通告をしているわけではありません。同様に、「わたしの民」は残らず、「彼女の中に」捕らわれています。 ですから、救われる「私の民」と「彼女」と一緒に滅ぼされることになる人々の分離はまだ生じていません。 このことはまた別の事例からも立証されます。 例えば、マタイ13章の「小麦と雑草」の例え話です。 小麦の後からすぐに雑草が捲き足されます。そして終わりの時までそれが続きます。 早々と雑草(と、おぼしきもの)を抜き取らずにそのままにした目的は、その区別が最後まで判らないからであり、それが2000年も継続する理由は、その間に「小麦」が存在するからに他なりません。 このように1世紀以降すぐに背教が始まり、瞬く間に背教した会衆しか存在しない状態が続いた永い歴史のなかから、「小麦」が選ばれてゆくのですから、その信仰や、知識などは様々です。 宗派、教団間の相違を神は問題にしてはおられないことが分かります。そうでないとすると、全てを成長させたままにし、最後に刈り取るという計画そのものが無意味になるからです。 それらの「小麦」の収穫はイエスが来られて「選ばれた者たちが集められる」時です。これは「大患難のすぐ後」の事です(マタイ24:30) では、それまで「真のクリスチャンはどこにいるのでしょうか。 「小麦と雑草」が入り交じった畑(世界)の中です。 つまり、誰も判らない日に突然、雑草は集め出されて火に焼かれることが生じるまで、渾然一体のままです。 真のクリスチャンだけが、どこかに、あるいは特定の教団に集まっていると言える聖書的根拠は皆無です。 これら全ては、聖書の「解釈」ではありません、注意深く読めば誰でも確認できる事柄です。

参考URL:
http://yoberu-t.com/file06.html
sonarfisx
質問者

お礼

すいません補足は無視してください

sonarfisx
質問者

補足

私が言っているのではなく、そう書いてあるからなんですが、 マルコ 7-19 「こうして[イエス]はすべての食物を清いとされたのである。」 と書いてあるからで、 なぜこの句を引っ張り出したのかというと、主の幻が現れて食べなさいと言ったあと、ペテロは食べませんと言いましたが、その後、神が清めた物を汚れていると呼んではならないと書いてあるので、どこで食べ物が清められたのかを調べたら マルコ 7-19 「こうして[イエス]はすべての食物を清いとされたのである。」 と書かれているからなんですが。

  • s0i
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回答No.2

さきほど回答した者なのですが、、。 ひとつ、「清い」ということについての、この場合の意味について補足します。 モーセの律法下で言うところの「清い」あるいは「清められている」は 何かの目的にたいしてふさわしい状態であるか、ということと関係があるようです。 食物であれば、「清い」ものは、食べるのに「ふさわしい」。 ユダヤ人は(律法を守っているゆえに全体として)「清い」から、 神の選民として「ふさわしい」。 この意味で異邦人は「清くない」。 しかし、イスラエル国民が選民であったことには目的がありましたし、 それに、いつまでもそのまま彼らのみが「清い」国民であることは 神による、‘人類ぜんたいにたいする救い’という観点からすると 永続的な取り決めではありませんでした。 聖書によると、真の宗教(高められる山)は将来的に、 「あらゆる国民と国語からくる大群衆」によって構成されるようになる、とあります。 というわけで、異邦人が清いか否か、というのは、 真の神の崇拝にたいして、ふさわしいか否か、ということなのです。 ペテロの幻やパウロの異邦人への宣教以降、異邦人も「清められ」ることによって、 それまでユダヤ人の神であったエホバにたいする崇拝の門戸が 諸国民にたいして開かれた、という意味です。 そしてそれは、この神がはじめから意図しておられた事柄だったと言えます。 故に、「律法は彼(イエス)によって廃された」とあるのです。 逐一律法を参照してがんじがらめになる(当時のユダヤ教はそうだった)より高い掟、として 神を愛すること、と、隣人を愛すること、という新しい掟がイエスによって述べられます。 これはモーセの律法の意図を集約しており、さらにそれを超えた掟です。 こういった、ユダヤ教徒からキリスト教徒へ、人々が改宗した時代には、 個々のユダヤ人は先ほどのペテロのように、 伝統的な習慣の影響が根深いものだったので、 食べ物に関することなどで、食べる・食べない(律法を守る・棄てる)でもめたようです。 それでパウロは、食べ物のことなんかでもめるなら 自分の意志は「食べる」だとしても、‘弱い’人をつまづかせないために 「食べない」を選択する、と述べているのです。 疑問におもわれている点の答えになっているか、わからないですが 補足させていただきました。

sonarfisx
質問者

補足

聞き方が下手なんでしょうが、肝心なところが教えてもらえないので一番大事な部分を絞って教えてください。 ガラテア 2 「11 しかし,ケファがアンティオキアに来た時,わたしは面と向かって彼に抵抗しました。彼には責めるべきところがあったからです。 (略) 13 残りのユダヤ人たちも彼と共にこの虚偽に加わり,その結果,バルナバさえも彼らと共にその虚偽に引かれて行きました。 14 しかし,彼らが良いたよりの真理にしたがってまっすぐに歩んでいないのを見た時,わたしはみんなの前でケファにこう言いました。」 で、ペテロたちは虚偽に引かれて真理に従って歩んでいないとパウロは言っていますが、全ての食物が清いというのが全ての人が清いという意味だと言ったことが害になる推論でない証明を聞きたいんです。 この証明がなぜ必要なのかをもう少し細かく説明すると、 たしかにペテロが真理の道を歩んでいるなら、マルコとパウロは虚偽に引かれていて、真理の道を歩んでいないのはパウロとマルコ自身だと思うのですが、 ペテロの言葉の文字通り全ての食べ物が清いというのは全ての人が清いと書いてあるのは間違いありませんが、私が聞いているのは、その言葉自体が本当に真理に則しているのかということなんです。 このガラテア2章により、ペテロからすでに害になる推論が出ている可能性が、全ての人が清いという線と互角に浮上してしまっているので、ペテロから既に害になる推論が出ているのではない方を選択した根拠を教えて欲しいんです。前半部分に関してはこれが一番知りたいことです。 ペテロとパウロとマルコの誰が正しいのか証明できなくても このこと自体により初期の使徒から既に分裂している証明にはなっているので、食べ物が清いのか人が清いのかは私の書いた質問の後半にはあまり関係ないのですが、一応全ての人が清いという方が正しく、ガラテア2章を解決した状態での根拠を教えてもらえるとうれしいです。 あと、使徒から既に分裂しているのは私が言っているのではなく、イエスが、ヨハネ16で 「10 次いで,義に関してとは,わたしが父のもとに行き,あなた方がもうわたしを見ないからです。」 と、使徒達は生き返ったイエスを見たはずなのにもうイエスを見ないと書いてあって、 同章で 「32 見よ,あなた方がそれぞれ自分の家に散らされてわたしを独りだけにする時が来ます。そうです,現に来ているのです。それでも,わたしは独りではありません。父が共にいてくださるからです。」 と、神の家ではなく自分の家に散らされてイエスを一人にすると書いてあって、 マタイ26で 「31 それからイエスは彼らにこう言われた。「今夜,あなた方は皆わたしに関してつまずくでしょう。『わたしは牧者を打つ。すると,群れの羊は散り散りになるであろう』と書いてあるからです。」 と書いてあるからこれがいつまでなのかが質問なのであって、使徒から既に分裂しているというは私が言っているわけではないです。 万が一、ペテロの推論の方が正しい根拠を提示できたなら、ガラテア2章によりパウロがペテロに対して虚偽にひかれ、真理の道を歩んでいないと言っていることにより、 パウロ自信が真理の道を歩んでいない線が互角に浮上することになるんですが、これはどうやって解決したのかも教えてください。 分裂の証明は他にも大量にあるんですが、 ヤコブ1:1~26業によって義と宣せられるとあり、 ローマ3:20だと、業によって義と宣せられることはないとあります。 ヤコブ2:20~23アブラハムは業によって義と宣せられたとあり、 ローマ4:1~3だと、業ではなく信仰が義とされたとあります。 で、わざわざパウロはヤコブの言葉を打ち消した後に何が正しいのかを言っているのが一つ。 ローマ9 「3 わたしは,自分の兄弟たち,肉によるわたしの同族のために,自分自身がのろわれた者としてキリストから引き離されることをさえ願うのです。」 で、どんな理由だとしても、呪われてキリストから引き離されることをパウロは願うと書いてある事実が一つ。 全福音書を場面ごとに並べて比べると台詞だけではなく内容が逆のものもがあるので、どっちかの福音書を優先すれば他の福音書が成り立たなくなるのが一つ。 神が助けるのは全地に散らされたヤコブの家と書いてあるが、創世記で11人は末の子でヤコブが一番愛していた一人を騙したあと、悔い改めて飢饉で12人全員が助かったことから11人は嘘を教えている神のストーリーの可能性が一つ。(これも今度の飢饉は水でも食べ物でもなく神を知ることの飢饉だと旧約に書かれているのも気になるし、啓示で12使徒と、12部族を繋いでいるのも気になるし、イスカリオテの子ユダが、年少者だと言われているのも気になるし、イエスがもっとも愛していた弟子の名前が福音書の中ですべて隠されていて、彼はペテロのやることとは関係なく、彼はイエスが来るまでとどまるのだとイエスが生き返った後の言葉で言っているのが気になる) 他の質問でもしてるんですが、イエスを殺すことは神の命令で不法な者は使徒であるという証明ができてしまったのが一つ。 パウロは他の者達が分裂してしまっているが、キリストの名前がまだ知られていないところにだけ行くことを目標にし、その理由が、他の人が建てたキリストの土台を塗り替えないようにするためと書いてあるので教えが一致していれば塗り替えるとかいう単語は不要なはずと思ったのが一つ。 ユダの福音書に、この世の支配者は使徒で、あなた達が再びそろって一つになるためにイエスはユダを特別な存在にした、終わりの日にはユダはイエスを犠牲としたことで、使徒たちの頂点に君臨し、恥が地に落ちると書いてあるのが私が聖書を読んときの解釈と完全に一致していたのが一つ。 この預言が成就と書いてある部分を旧約から徹底的に調べると、銀30枚を投げ込んだあと、兄弟の契りが無効になって分かれた一人を神は最初に助けると書いてあるのが一つ。 これらにより全ての食べ物が清いのか全ての人が清いのかですべてが決まるぐらい私の中では重要なことなので、もう少し詳しく全ての人が清いというのが真理に則している証明を聞きたいんです。 よろしくお願いします。

  • s0i
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回答No.1

だいぶ混乱しているようですが、、。引用は新世界訳からですね。 質問が多すぎるので、ひとつだけ返答してみたいとおもいます。 ペテロの見た幻の要点には、ユダヤ教徒の背景と深くかかわっています。 ユダヤ人は皆、モーセの律法のもとにありましたが、その律法には、 異邦人(=異教徒)と深く交友関係になることを禁じていました。 それは、自分たちの立場(エホバとの契約関係にある民)を固守するためであり、 彼らを差別してよいという意味ではありませんでしたが、 1世紀頃には、その頃のラビ(宗教指導者)たちの誇り高い考え方の影響で、 やはりユダヤ人たちは一般的に、異邦人にたいして差別的な考え方が身についてしまっていました。 ペテロにもその習慣が身についてしまっていた、と考えられます。 モーセの律法の食物にかんする面には、「汚れたもの」とされる動物の肉を 食べてはならない、というものがありました。 今の時代に科学的に考えれば、それらは寄生虫の繁殖しやすい動物(反芻をしないもの)など 遊牧民であったユダヤ人たちの健康に寄与するおきてでした。 以上の2点を踏まえて(ご存知のことだったとはおもいますが)、 ペテロの幻では「神が清めたものを汚れていると言ってはならない」。 使徒たちははじめ、イエスを「メシアだ!」と認め、彼から聞いた‘新しく増し加わった真理’を 仲間であるユダヤ人たちに伝え歩いていました。 そこへ幻によって、神がペテロに伝えようとしていたことは、つまり あらゆる国民(ユダヤ人以外=異邦人)にも、その真理を伝えるべき‘時’がきた、ということです。 (イエスはユダヤ人だけでなく、すべての人のための贖いとして死なれました) ユダヤ人たちにとっては、伝統的な考え方を、明らかにされた真理のために柔軟にすべき時でした。 さらにこの伝道活動の変遷については、パウロも神の聖霊から指示を受けて、 コルネリオやエチオピアの宦官(双方、非ユダヤ人)などに伝え始めました。 ペテロは弱い部分をもっていたので、ユダヤ教の誇り高い高位の人が部屋に入ってきた時に、 自分がそれまで「異邦人」と一緒にいたことを隠そうとしました。 それでパウロに叱責されました、が。 使徒たちは皆、何度も何度も、人間的な弱さゆえに失敗しています。 そのひとつが、イエスが捕縛された夜に、イエスと一緒にいたことを否定したこと、 また逃げて散って行ってしまったこと。 けれどもそれらの出来事は、使徒たちを悔やませ、立ち直らせ、 (イエスは復活して現れたときに、彼らを勇気づけ、重要な仕事を託して信頼を表わしました) やがて使徒たちは皆、大規模な迫害にも怯まない、強い伝道者たちになってゆきました。 そのころにはクリスチャンの「統治体」「長老」というものが機能していましたし、 会衆は組織化され、まとまりを得ていました。 エホバの証人であるがゆえに、「わたしは滅ぼされない」と断言できるひとはひとりもいません。 エホバの証人でないがゆえに、彼は絶対に滅ぼされる、ということでもありません。 そうであるかどうかを人が考えることはかなり僭越です。 また、エホバの証人でありながら、何らかの「敵意」を示しているのなら、それは間違いです。 誰にたいしても、またどんな組織にたいしても、 「敵意」を持っていいとは聖書のどこにも書かれていません。 「人の憤りは、神の義の実践にはならない」です。 ひとつひとつ質問してくだされば、また喜んでお答えします。 その答えは、「エホバの証人はどうかんがえているか」というものであって、 もちろんその裏付けを申し分なくみつけているからなのですが、 それでも独善的になってよいとはおもっていません。 エホバの証人とのあいだで嫌な経験を過去になさったのであれば、 申し訳なくおもいます。。。

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