• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:新約聖書が継承するのはパウロの人間への憎悪だ)

新約聖書の要約

このQ&Aのポイント
  • 新約聖書が継承するのはパウロの人間への憎悪と滅亡の予言。
  • イエスの実在性については疑念があり、彼は社会的な神学的共感を持ち王の頂にまで上り詰めた。
  • パウロの愚か者への傾倒が人類滅亡という呪いを広げている。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.1

 そうですね。  ★ しかしパウロはイエスがユダヤの王と認めきっていたからこそ、王の正統と共に神の正統を殺害した、人間理性とその法律に人の神への裏切りを見出した。  ☆ ここが わたしの理解するところとは違うと考えます。  1. イエスは みづからが神の子であると実質的に言っている。特にヨハネ福音に顕著。  2. それはそれとして 民衆からは――いわゆる奇蹟の癒しなどをおこなったと見なされて――確かに《ユダヤの王(つまり マッシーアハ=メシア=クリストス)》と認められていた。  3. ということを パウロも イエスの死後にあって捉えていた。  4. ただし それだけである。と思いますよ。  5. 《王の正統》ということは 特に――すでに預言者の時代ではなくなりつつあったので――問題にならないと思うのですが。  6. 《神の正統》というのは それを明らかにしたり証明したりするのは 無理です。  7. イエスの場合は 十字架じょうのハリツケによる死のあと 弟子や人びとから あらためてそうではないか(つまり神の子であったのではないか)と見直されたということだと思います。  8. ★ 王の正統と共に神の正統を殺害した、人間理性  ☆ というふうに読んでよいとすれば 特にそういう見方をする必要はないように思います。  9. 《王の正統も 神の正統をも 殺害する》という感覚がよく分かりません。  10. ★ 王の正統と共に神の正統を殺害した 法律  ☆ たぶん 高等法院の聖職者や議員らは イエスが《みづから神の子であると名乗った》ことを神への冒涜だとして 死刑を宣告しローマ総督のピラトにそのように計らうようたのんだ。このことにおいて 〔たぶん〕《律法が 神の正統を殺害した》と見ているのではないかと思います。  11. でも その名を呼んでもいけないヤハヱ―神よりほかに神はないと書かれているからには その律法によってイエスを裁いたというのは それはそれで筋がとおっています。よ。  12. ★ 神の正統を殺害した、人間理性とその法律に人の神への裏切りを見出した。  ☆ 律法の条文どおりに裁きをおこなった・そのことが のちのち神の子であったと見なされたそのイエスないし神に対して裏切りであった。――とパウロは 見た。  ・・・という意味でしょうか?  13. イエスを裏切ったのは ペテロを初めとする弟子たち全員でした。ハリツケの刑を受けることになったあと イエスのことを知らないと言いました。  14. 人びとは――例外なくすべての人びとは―― イエスが十字架じょうに去って行ったあとでないと イエスが何であったかは分からなかった。裏切りも 言わばふつうにおこなった。のだと見ます。  15. ★ パウロの〔イエスという〕愚か者への傾倒が、人類滅亡と云う呪いを世界に蔓延させた。  ☆ 確かにパウロは もう今にも世界の終わりが来ると思っていたようです。《ふるき人を脱ぎ あたらしき人を着る》という転換としても見ていたと思うのですが・そして《呪い》でなくとも おそろしい《時》がやってくると思っていたようです。  16. でも それが 間違いであった。そのような《時》の推定については 間違いであった。  17. と分かったあとでは その《恐れ》も何なら《呪い》も 消えました。  18. 千年王国の思想が出回ったこともあったかも知れませんが 世の終末という考えは 特に取り上げることもないと成りました。  19. 信仰の問題ですし 信仰のみの問題ですし その信仰でさえ神からの恩恵によると捉えられています。つまりは 人間の推測や予期するような問題ではないと受け取られたはずです。  20. 要すると イエスは 民族神としてのヤハヱ―を外に開き 普遍神を指し示した。これをパウロが伝えた。――ただ これだけのことだと考えます。信仰には 元気になるといったおまけがついて来ますが。

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 研究を助ける補足を兼ねていて良い回答だよ。 イエス処刑の後、彼は呪いの道具にされた。 こういう見解を私は持っているよ。 それからね、今回質問を思い立ったのはね。 日本人キリスト教徒の信仰の精神には、 讃美歌を作詞作曲できるような発想は持ちえない。 何か作詞作曲するとしたら葬式向けの湿っぽい歌だ。 こういう見解が基礎だ。 私は美術関係に独自の見解があるが、日本人が作品発表するキリスト教関係や、日本で紹介され評価される作品群の好みから見出された結論だ。 この日本人の好みは日本人にしか通用しない。 美術鑑賞の論理を日本人のキリスト観と絡めて西洋人に説明するとすると、その論理自体がキリストへの冒涜だと怒りかねない。 つまりだ、日本人キリスト教徒はカトリックなどの祭礼を模倣していても精神的に異端なんだ。 行き場のない、滅び去ったキリシタンそのものだ。 そこでね、アニキな熱いツンデレをぶちかなしてイカせてやろうかと云う趣旨だ。 いじめてるんじゃないよ。かわいがってるんだ。

Flareon
質問者

補足

質問趣旨の補足です。 歴史的見解だけ認識すれば、 イエスは法に背き処刑された愚か者。 これを基礎に発達した西洋の精神性に関して検証することが目的ですが、むしろ西洋ではもう免疫が出来ていて、パウロの呪いを卒業できているようなので、田舎者の日本人のイエスに関する認識について考察しています。

その他の回答 (2)

  • stmim
  • ベストアンサー率24% (57/236)
回答No.3

今までFlareonさんの前ふりは特に意味ない言葉だとスルーしていましたが、やっと気づきました。 つまり「これから書くことはプリキュアごっこなんですよ! マジにとらないでくださいね」ということなんですね。生真面目なFlareonさんはちゃんと「ごっこ遊び宣言」をしていたのに私はスルーしていました。不覚です。私はネタにマジレスというかっこ悪いことをしてました。 Flareonさんは常識ある人だから、「学説」を表明するなら論文の形式にして学会誌に投稿するべきであるということも知っているわけですものね。

Flareon
質問者

お礼

僕だけの子リスちゃん。 僕は君の前ではいつも正直に打ち明けてきたよ。 そんな風に憶病にならないでくれ。 おびえてこごえる君に、僕はどこまでも残酷になれる。

Flareon
質問者

補足

質問主文から発展した新たなる考察の備忘録だよ。 パウロは憎悪ではなかったかもしれない。 イエスが死に自分が生きている事に涙を流し、イエスの人生の物語が語る人のあわれに、すべての人に等しく慰めを与えようとした。 このような流れだと、愛を語る神学であるキリスト教は、お互いの傷をなめ合ういたわりから、残されたものの哀悼を示す神学だろう。 より古き慈悲心との一致項がある。 実態は愛の神学ではなく悲しみの神学だ。 さあ、子リスちゃんたち、君達の悲しみの涙を、父たる私が喜びの涙に昇華させよう。 子リスちゃんたちの生きる喜びは私の愛露を君の中心に受け入れる事にある。 人類よ、良い子を産め。 私は全人類の偉大なる父だ。

  • sunabo
  • ベストアンサー率35% (24/67)
回答No.2

イエスは人類が滅亡することを予言している救世主の姿を示した。 ユダヤ社会は立法に基づきイエスと云う愚か者を処刑した。 パウロは人間理性とその法律に人の神への裏切りを見出した。 パウロの憎悪は新約聖書の語る最後の審判と云う滅亡である。 イエスが示したから、ではない。 ユダヤ社会がイエスを処刑したから、ではない。 パウロの憎悪のため、人類滅亡と云う呪いが世界に蔓延しているという主張。 人類滅亡と云う呪いが世界に蔓延していないっぽいことを支持する事柄を探してみました。 ニーチェはパウロと同じ見解ですか? http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51881122.html 池田信夫はニーチェはパウロを批判したと言っています。 西洋の神学はお祭り騒ぎをしていますか? 新約聖書と関係がないかもしれませんが、進化論を信じる人がいます。 http://blog.livedoor.jp/drazuli/archives/7588699.html フランスでは8割くらいの人に進化論が一般的に受け入れられてるようです。 私は核戦争が起きてほしくないなーと思っています。

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 真剣に考察してくれているね。 そう、最後の審判に西洋人は免疫がおおむねできている。 お祭りはしているだろう。 問題なのは、そうした神学におびえる小動物的なかわいい子リスちゃん。 日本人キリスト教徒だ。 それを日本人の西洋神学と哲学に対する理解力と係わって注目している。 それからね、 イエスは愚か者。 この史実と係わって理解することが原点だと考えているよ。

Flareon
質問者

補足

一つ補足しておこう。 私はイエスを道標とするキリストと云う信教に悪い印象は持っていない。 彼らは彼らなりに、死を乗り越えて生きようとする事の取り組んでいるからだ。 良い学びが彼らにはあるだろう。 西洋に対して私は人類全体に対する貢献に異論はない。 私が批判的に挑戦しているのは、異端者キリシタンだ。 無の悟りも死を学ぶことであり、キリストもイエスの死を学ぶことである。 日本の宗教の目標とするところはこのように死に取り組むことであり、西洋哲学をちゃんと咀嚼できているかを確かめて行きたい。 死が宗教の大きなテーマであるのは、もしかして日本だけかもしれないという考え方も成り立つが、それも様子を見て検討していこう。