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生まれた時から固定カメラと視覚野を直結したらどうなるか
人を生まれたときからある部屋に監禁するとして、 生まれたらすぐその人の視覚野にその部屋を映し出す無線式固定カメラを直結し、 その事実を知らせずに育てたらどうなるのでしょうか。 カメラの映像のみでもこの世を立体と感じるのでしょうか。 「奥に行く」という感覚が別のものに置き換わったりするのでしょうか。 また、まったく同じ条件下のたくさんの人々を何世代にもわたって実験したら、 その世界での哲学や科学が発展していつかはカメラというものに気がつくのでしょうか。 ふと考えたくだらない事ですが、実感として湧いてきません。 なにか考えるヒントになるものを頂けたら幸いです。
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こんにちは。 この場合カメラは一定方向に固定されており、そのひとが移動しても視界は全く動かないということで宜しいでしょうか。 でしたら、これは生まれながらにして目が見えないのと同じことであり、 それは、 「生涯に渡って真っ暗な映像が与えられるか」 「静止した映像だけが与えられるか」 この違いだけということになります。そして、そのひとは自分の目が不自由であることを教えられずに育つわけです。 >カメラの映像のみでもこの世を立体と感じるのでしょうか。 >「奥に行く」という感覚が別のものに置き換わったりするのでしょうか。 ですから、これは目が見えないことと同じですから、恐らくそういうことになると思います。 まず、我々が自分の目で見ている世界も実際には三次元映像ではなく、視覚野に入力されるのはカメラと同じ「二次元平面情報」です。視覚野ではこれをどのようにして三次元映像に作り変えているのかはまだ解明されていませんが、我々はこの世界の「立体」や「運動」を「空間認知」によって把握することができます。そして、この「空間認知の学習」は「体外環境」と「体内環境」の変化を比較することによって行なわれます。 体外環境の知覚といいますのは視覚だけではありません。 「視覚入力」 「聴覚入力」 「嗅覚入力」 「味覚入力」 「触覚入力」 触覚は「立体的変化」を知覚することができ、聴覚は「時間的変化」が得意です。 これに対しまして、体内環境といいますのは概ね以下のようなものです。 「内臓感覚」 「運動感覚(筋肉や関節の内臓感覚)」 「三半規管感覚(状態感覚)」 対象の認知といいますのは学習結果との比較によって行われるわけですから、生まれたばかりでは感覚入力があってもそれが何であるかは分かりません。このため、 「見たもの(視覚入力)」 「触ったもの(触覚入力)」など、 赤ちゃんは手を動かしたり物を口に入れたりして「複数の感覚入力」の比較を行ないます。これにより、我々は「自己」と「環境」との関係を構築するわけですが、ここでこの空間認知の最も初期的な学習を「感覚運動的知能」といい、五体満足であれば概ね生後二歳頃までに完了します。そして、これを過ぎますと我々はそこに発生する様々な対象を言語や概念として扱うことができるようなります。 我々の脳内の空間認知には「視覚連合野」が最も大きな役割を果たしています。ですが、物に触ったり歩いて移動したりすることができるということは、それは生まれ付き目の見えないひとの脳内にも空間認知はちゃんと成立しているということです。ですから、この場合は固定カメラの静止映像によって視覚情報の入力が完全に制限されているわけですが、同様に空間認知も運動知覚も十分に可能であり、そして質問者さんご指摘の通り、それは視覚以外の他の感覚入力によって適切に実現されます。従いまして、「触る」「聞く」「動く」などの「感覚及び運動機能」が働く限り、その静止映像が自分の世界の全てになってしまうということはまずないです。 但し、「視覚学習臨界年齢」まで静止映像ですと、色彩や図形認識、あるいは動体視覚や眼球運動などの神経系が正常に発達しない可能性はあります。学習臨界期は概ね三歳程度と思われますが、飽くまでこれはネコを使って行なわれた動物実験による予測です。 >また、まったく同じ条件下のたくさんの人々を何世代にもわたって実験したら、その世界での哲学や科学が発展していつかはカメラというものに気がつくのでしょうか。 この実験方法でしたら簡単に気付きますね。 まず、その部屋を歩き回れば自分の姿がカメラに映ってしまいます。触ればその形や位置が分かりますし、レンズを手で覆えば目の前が真っ暗になります。また、それに映ったのが自分の姿であると理解することを「鏡像認知」といい、これは人間では生後二歳程度から可能であり、鏡を見せればチンパンジーやイルカでもきます。 ですから、これにより我々の目が物を見るための器官であることを誰もが知っているように、そのカメラが「自分の視覚」即ち「心の窓」であることが自ずと判明してしまいます。そして、仮に全人類の視覚がそのような構造であったとしましても、他の動物と比べるならば解剖学的に見て人間だけは極めて特殊であることがバレバレです。 では、仮に全ての動物のそれがカメラであったとしましても、 「何故、動物の視覚は外部に固定されているのか?」 「何故、他の感覚器官と構造が異なるのか?」 「どうしてそれが自分の身体の一部なのか?」 「果たして、動物にとって目という臓器はいったい何のためにあるのか?」 何処から考えてもゴロゴロと矛盾だらけになってしまいます。ならば、それはこれまでに人類が行なってきた通り、このようにきちんと説明の付けられないものは必ずや科学や哲学の力によってひとつひとつ解明されてゆくことになります。
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- boke-chan
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回答とは違いますが、質問者はカメラの存在に気がついていますか? ・・・見られていますよ。 質問者の考えた実験は既に行われています。 そう、地球は監禁された部屋とも言えるでしょう。 (次元が違うだけでやってる事は質問の通りです) カメラに気がつく人が少数、気がつかない人が多数です。 人類の科学がもう少し発達すると、カメラの存在が証明されるかもしれません。 実験している存在、それは・・・
お礼
回答ありがとうございます。 気がついてしまった人は… 恐ろしい
- siyahqalam
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ご質問の内容からは離れてしまうのですが、 ふと思ったことを書かせていただきます。 生まれて目が開いた頃からずっと、 自分の見てきたものを外部の記憶装置に記録できるとしたら、 人間の思考や行動ってどう変わるでしょうか。 人間誰しも、普通は見たもののほんの一部しか記憶できませんよね。 覚えててもすぐに忘れてしまうし、思い出すのに苦労します。 そんな難点を一挙に解決するような技術があれば・・・ 回答にもヒントにもなってなくてすみません。 でも、人間の脳の仕組みって、考えたら謎だらけですよね。
お礼
回答ありがとうございます。 受験勉強が大変になりそうですね。 記憶ではない頭の良さが問われる事になりそうです。 ただ、外部記憶に全て記録できるのだとすれば、 脳みそがいりませんよね。その記録から引き出すという行為の選択に脳みそが必要なのかもしれませんが、 どれを選択して引き出すのかという事すら記憶というものに頼っているのなら、 もう全て外部に移して肉体はいらなくなってくるんじゃないでしょうか。 映画マトリックスの世界の目覚めぬ状態かもしれません。 形而上的な何かの記憶装置としてこの世界があったら怖いですね。
- harepanda
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>その世界での哲学や科学が発展していつかはカメラというものに気がつくのでしょうか。 気づくと思います。 人間は現在、相対性理論を使いこなした世界で生きています。GPSや原子力発電所は、相対性理論どおりに動いています。また、日常生活には関係ありませんが、水星の軌道も相対性理論がないと計算が出来ません。 物理学のもうひとつの柱である量子力学にしても、今後、100年も立たないうちに、日常生活に入り込んでくるでしょう。現在の光通信は、光の波動性を利用したものですが、NTTは既に、光の粒子性を利用する通信の基礎技術を持っています。
お礼
回答ありがとうございます。 たしかに使いこなす事は可能ですね。 内在する法則性を見つけ出し、そしてもっともスマートな、 「カメラがありそれを見ている」という結論に達するのかもしれません。
お礼
回答ありがとうございます。 体の構造のいたるところが3Dに対応しているのですね カメラという実験では視覚にこだわりすぎていたようです。