- ベストアンサー
「汚れ」とは?
先日ある人の会話を聞いて思ったのですが、 嫌いな相手から干渉されたり、自分のテリトリー(部屋)に踏み込む ことを許した(合意のうえだそうです)相手に対して 「汚された」と言っていました。 この世に汚れなど全くない場所や人などないとは思いますが(それが カオス?)、世間はそのような場所としているはずの大人がそのよ うに言う心理とは、また「汚れ」とは本来どのようなものなのかと 考えました。 哲学のカテゴリですが多角面からのご回答をくだされば幸いです。
- みんなの回答 (9)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
- ベストアンサー
ヨゴレではなくケガレなのですね、 はやとちりではなく、 狙ってなく本当に「ヨゴレキャラ」と思って(笑) もっと奥が深い言葉のようです。 白色はまだ何も染まっていない、 まっさら無垢なのではなく 全てを満たした豊潤な色、 高貴な色。 触れるのをためらわせるが 触れれば奪いやすく 何かを失って色がついた。 汚れて色が欠けてしまったから。 これはある人の詩の引用解説でした。 「拘りのあるむさ苦しさは、下らない小奇麗よりいい」 これはマイケル・J・フォックスさんのお気に入りの言葉。 マイケル・ジャクソンさんと対極のキャラしてて。 私は健全さ(清潔感)を感じるのは難病があるけれど それでも「僕はラッキーだ、こんなに深く豊かな気持ちになれた」 って底抜けに明るいフォックスさんですね。 潔良い、誰も自分さえも暗くしない。 本当に素敵な大人だと思う。 ずっと以前から好き。 >ケガレの対極は何と称したらよいのでしょう? ケガレが汚点とするなら美点。 “美”とは何か?ってなりそう。 漢字の成立ちに意味(作った人の思想)があるので 見てみますと、“美”は「大きな羊」ってなります。 羊は弱虫、でも一匹で沢山の者たちの糧になる。 “善”も羊が使われている。 羊さんこそ!ケガレの対極です? まだ途中ですが、事情により(思考が止まった) 自分でも何が言いたいかわからないのですが。 ケガレ・・・ケガレ・・・ケガニとは関係ないか。
その他の回答 (8)
- ojizou-sam
- ベストアンサー率30% (12/39)
再度の6です。 私は直接的に「汚れ」を論じるのではなく、もっと核心から考えてみてるんです。 だってこの世には真理というやつがあるんです。 その真理からは、何者も逸脱することはできないんです。 ただ、みんなが無明の闇に覆われて、真理が見えていないので、あれやこれや、空理空論、戯論が横行しているにすぎないんです。 だから、これ以上、自分の世界を複雑にしてしまわないためにも、核心から考えてみたいんです。 以前、私の信頼する回答者さんがいらしゃいました。(今も居ますが) その方も、多分、長い間、答えを求めて、一人で戦ってこられたと想うのですが、答えが見つからずに思想やら、哲学やらの空理空論、戯論の世界の住人になってしまっていたんです。 その方も「自分はちょっとずれている」と自覚しておられましたが、確かにずれていたんです。 そのせいか?、その方が投稿すると、なぜか、バッシングを受けるのでした。 その方も真理を知ってしまえば、必ず、楽になれるハズなんです。 でも、私の力不足で、その方を導くことは出来ませんでした。 だから、私は、ずっと後悔していたんです。 なんで、もっと早く気づけなかったんだ・・という無念の想いがあったんです。 この世が二律背反で出来ている理由は「生まれる」ということがおきるためなんです。 当然、「生まれる」がおきるんですから、「滅する」もおきますが・・・。 目には見えない意思の力も、目に見える物理的な面も含めて、あらゆる生死がおきるため、この世は二律背反で出来ているのです。 思い通りにならない苦界、抵抗だらけのエネルギー界なんです。 ここで生ずるすべてが、なんらかの抵抗にあう運命にあるんです。 つまり、汚される運命にあるんです。 つまり、ここは汚泥の世界なんです。 でも、美しい白蓮が、汚泥の中からしか咲くことが出来ないように、この煩悩の世界からしか仏陀も誕生できないんです。 どうやって咲くか?というと、心の中の汚泥に打つ克つことで咲くことが出来るのです。 飛行機が空気抵抗に打ち克って、初めて、自由自在に飛ぶように、煩悩に打ち克つことで咲けるんです。 心の中に煩悩の鉄アレイが出来ますので、その重さに抵抗して打ち克って、初めて、咲けるんです。 この世が二律背反で出来ているからこそ、意思がその効力を発揮でき、進化、成長を遂げることができるんです。 街をみれば、全てが心から生まれていることがわかります。 道も、壁も、建物も、自動車も・・・全てが誰かの心の中にあったイメージから生まれてきているんです。 此処は、意思が、その効力を発揮できる不思議な世界なんです。 ・・・と、おそらく、これは空理空論でも戯論でもない、結論です(だと思います) 質問の直接の答えにはなっていない投稿かも知れませんが、聡明な貴女なら、きっと理解してくださると思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >街をみれば、全てが心から生まれていることがわかります。 確かにそうですね!!人は想像したものをすべて実現できると言われています。表象の世界が具体化される。イメージの世界は深遠ですね! でもその具体像の中で私達は様々に翻弄されている。皮肉だと思います。 人の意思の力こそ、唯一残された希望だと思います。その世界を泳ぐための。 >美しい白蓮が、汚泥の中からしか咲くことが出来ないように 皆「泥まみれ」なんですよね。そこから花を咲かすかどうか、その意思に関わってきていると思います。 煩悩ばかりのわたくしですが、その煩悩ゆえ、いろいろと質問するかもしれません。そのときもまた導いてください。
- modoki666
- ベストアンサー率27% (29/106)
私は「け」と「はれ」というものの間に、いわゆる階層性を求めだしたのは、キリスト教や儒教などの、外来思想の影響と思っています。 本来的に階層性などあるわけがないにもかかわらず、いわゆる階層性を持たすことで、それを思想的な進歩と考えて、自分を進歩の中に置きながら、そういった階層性を持たない人々を下のものに見るという、『神聖』とか「穢れ」とかいう思想で、自分を正当化する考え方だと思います。 いわば、対等な形の付き合いではなかったという風な意味合いを込めて、表現したにもかかわらず、本質はそうでなかったことを、自分で宣伝して、墓穴を掘っているわけです。 私は『下半身は別人格です』と自ら宣伝しているのでしょう。 参考になれば
お礼
>『神聖』とか「穢れ」とかいう思想で、自分を正当化する考え方だと思います。 人は比較級の幸福論を語ることで優越感を得ますが、宗教でさえ、しかも教えを諭す者さえがその手段にさえ用いるなんてちょっと寒気がしますね。 事実聖書などは教会の都合のために書き換えらてきたといわれていますよね。「真実」は紙の上にはあらず。 >・・・自分で宣伝して、墓穴を掘っているわけです。 あまり普段は言わないですよね。その人の口にする「ケガレ」に含蓄があると思ったのは、正々堂々とそれを主張できる者の自信というかケガレのなさ(?)にふと興味を感じたからかもしれません。まぁまだ青二才、いや、まだまだ若い証拠でしょう(笑)。 参考になりました。ありがとうございました。
#4です、補足拝見しました、これは大変。 >ある女性と頻繁に利用していた店 >共有した思い出を穢されたと感じるでしょう。 付き合っていた女性(男性)との思い出を、大切にしまっておく事です。 他人や店とは関わり無く、自身の意識の中で大切にする事です。 >犬が電柱におしっこカケルのと同じ 個人的なことは判りません。 >部屋に誘いながら(能動的)、穢された(受動的)の解説になるでしょうか? >ということは男女共互いにイーブンということなのでしょうか? これは私には意味がわかりません。 >でも男のほうはケガレたとしてあくまでも自分の神聖さを強調しています。 個人的なことは判りません。 >個人の主観の問題に、聖なるものが薄められ、結局、売買春の等価交換にて、聖性は消滅することでしょう。 では彼が「この女を買っていた」としたらどうでしょうか? 個人的かつ仮定の話は益々判りません。 >(母)性・(女)性には、神聖さが備わっていたようです 土俵の件は、最近まで、船舶関係、トンネル工事等に、女性は排除されていましたね。 これは、聖性の分裂か裏返しなのか微妙ですが「タブー」「回避」といった人知の現象とでも言いますか、そのほうが不安が無くなる、と言ったおまじないのような物ではないでしょうか、私の考えは「穢れ」本質的なことではなく、派生的なもので、最初から「汚れている」事の意味が判りません。 >つまり女性は男性(相対的)なものがあって神聖な存在となり、男はそれ自体が絶対的な神聖である、ということなのですよね。あーだからこの「潔癖男」も自分とそのテリトリーを絶対視しているわけですね。 個人的なことは、やはり、私には判りません。 >そのくせ人をすぐに信じて騙されやすい。所有物は渡せないけれど心はいともたやすく譲渡してしまう(笑)。 騙すより、騙されていたほうが気が楽ですよ、どんどん騙されましょう(笑。 これ以上は、私の手には負えません、白旗を揚げて撤退いたします、失礼しました。
お礼
ご回答ありがとうございました!
- ojizou-sam
- ベストアンサー率30% (12/39)
伝えたいことが山ほどあるのですが、私の頭の中にある概念が、私の処理能力を超えているみたいで、上手に説明できないのですがお付き合いください。結論から言いますと「汚れ」とは「抵抗」を意味するものだと思います。 仏教では、この世は苦界だといいます。 ご存知かも知れませんが、「苦」というのはあくまでも漢訳で、原意は「思い通りにならない」ってことなんですが、これは、つまり、早い話が「抵抗」ってことなんです。つまり苦界とは、「この世は抵抗だらけのエネルギー界だ」ってことなんです。 エネルギーはプラスとマイナス、同次元の性質違いのもので成り立っていますよね。 二律背反です。陰と陽です。 たとえば熱力学では、まったく抵抗の無い空間で、お風呂をかき回せば、そのまま沸騰してしまうと言われています。無抵抗、汚されることの無い世界では、全てが思い通りになってしまうんです。 ・・・と、ここで勘違いしてはいけないのですが! たとえば、飛行機は、空気抵抗があるから自由自在に空を飛べるんです。 もし、空気抵抗がなければ、それはただ単に、なんとなく浮いている、飛ばされているにすぎないんです。空気抵抗に打ち克って、初めて、自分の意思で、自由自在に空を飛んでいるんです。 水泳だってそうです。 水の抵抗があるからこそ、それに打ち克って、自由自在に泳ぐことができるんです。 無抵抗の世界を飛んだって、泳いだって、それは、ただ単に、飛ばされている、流されている・・・受動的なものにすぎないんです。「飛んでいる」と、「飛ばされている」は、全然、違うものなんです。 抵抗に打ち克って、障害を乗り越えて、初めて、自由自在に動くことができるんです。 ・・・こんな説明で通じますか? 私も最近、ようやっと気がついたのですが、この世が二律背反でできている理由はコレです。 意思の力を生むため、強化するため、修行のため、つまり進化、成長のためなんです。 二律背反は仏教では「縁起」に相当するものだと思います。 これがあるとき、かれがある。これが生ずるとき、かれが生ずる。 これがないとき、かれがない。これが滅するとき、かれが滅する。です。 光があるとき影がある。 なぜならば、影があるからこそ、光が光として認識されるのです。 だって、真っ白な世界に、いくら光を放ったって、それは光として認識されませんよね? 陰陽です。 光があるとき、影があるんです。 そしてそれは”同時”に現われるんです(ここも重要なポイントです、”同時”です) ・・と、話がまとまらなくなってきましたが、意思の力、心を磨くために、我々は、生まれてきたんです。 我々の人生に起こる全てのことは、その過程(プロセス)にすぎません。 ですから、汚れも、単なる抵抗であって、それを乗り越える、己に打つ克つこと、克己修身こそが大切なのだと思います。 もう、強制的に退会処分となってしまいましたが、こちらの方が素晴らしい回答をしていますので、是非、一読してみてください。 http://okwave.jp/user.php3?u=167803 もし、腕の筋肉を鍛えようと想ったら、鉄アレイを持ち上げますよね? あれは鉄アレイの「重さ」に抵抗、反発しているんです。 だから、腕力が鍛え上げられるんです。 だって、もし、逆に「重さ」を受け入れてしまったら・・・。 腕の筋肉は衰弱、退化して、未成長のまま終わるんです。 抵抗、反発すると進化、成長し、果ては自由自在に生きられるようになるんです。 己に打ち克つこと。 煩悩に打ち克つこと。 これが、進化、成長への唯一の道なんです。 だから、仏教では、坐禅瞑想をやったり、禁欲を説くんです。 そして、これには生理学的な裏づけもあったりします。 でも、私も含め、大多数の人間が、このことに気がついていません。 自分の心の中にできた鉄アレイに負けてばかりいます。 仏教では、このことも含め、真理に気がついていない状態を「無明」と言います。 >>世間はそのような場所としているはずの大人がそのように言う心理とは これも単なる無明なんだと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 なるほど。二律背反の間にあるのは「抵抗」ということでしょうか。 形にすれば表裏一体というイメージですが、互いに到達するまでは抵抗という力を要求されるのでしょうか。 >「無明」 この「無明」というのと「無知」は明らかに違うのでしょうね。「知識」と「知性」が違うように。 「無明」を知る術は「闇」を知ることにあるのでしょうか?それにはやはり経験?でも同じ経験して何かを知る人と無知のままでいる人はなぜそのように宿命づけられているのでしょうか? これは違う疑問になるのでまた新たな質問を立てたいと思いますが・・・。 >鉄アレイ 鉄アレイがもてる力は各々違ってくるでしょう。でも掛かる負荷、それがカルマだと思うのですが・・・。でも筋肉は鍛えれば鍛える程力になりますよね。筋肉繊維は傷ついて強くなる。骨折しても同じです。ココロも同じでしょう、きっと。そう信じています。 蛇足ですが・・・。 ご紹介いただいた回答者の方って、回答者さんとしてすでに知っている方です。 というのは、事情があって私がこのサイトを利用するのは1年ぶりなのですが、かつての「スピリット系カテゴリ」の常連さんでお気に入りの回答者さんのひとりだったんです。よくひとつのトピックに相席したり、私が立てたものに回答なさってくださってました。 このカテゴリに久々に戻ってきて私は今「浦島太郎」の気分です。というのはかつての常連さんたちがすでに利用していない(泣)。 かつては熱いカテゴリでした。たくさんの質問に対する複数回答や「お礼」や「補足」のレスポンスの濃さ、長さに顕れていました。ときにヒートしすぎて削除になったトピもありましたが、それはそれで非常に意義がある論議でした(議論ではなく)。あの頃はよかった・・・なんて。 最近ここはお礼が少ないですね。マナーという問題ではなく少し寂しいですね。 でも・・・ojizou-samさん、このご回答者さんに似てますよね(笑)。
マイケルの潔さで気が付いたこと 「汚れ」とは「潔くない」ことなのだと思い始めています。 潔さの代表は武士です。 武士道:“君に忠、親に孝、自らを節すること厳しく、下位の者に仁慈を以てし、敵には憐みをかけ、私欲を忌み、公正を尊び、富貴よりも名誉を以て貴しとなす”という態度であるとされることが多い。さらにこれに、常在戦場を以て心構えとした武士の意識を重視して、日本特有の「死の美学」を付けくわえることもある。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%A3%AB%E9%81%93 武士道では自分に何の罪がなくても 農民一揆で発案者の庶民は罰せず 武士が代表で 腹切りをして責任を取ったのではなかったか? 戦時中日本人捕虜になった戦士は 処刑される前に 異国で大切な人へ感謝の手紙を書き、 遺体の処理をする人(敵人)が 不快にならぬよう香りを付けて、 残される日本人を楽しませるために笑い 最期まで命乞いはしなかったという。 その立派さに外人びっくりだったそう。 マイケルも「武士道」を読んでいるのかも。 殆どの宗教で自殺はいけないことになっているけれど 日本独自の「恥の分化」は自虐だったのではなく、 死を視ること帰するが如しな自己犠牲の美学なんですね。 何だかありがたく、誇りにしたい・・・。 今日この頃です(武士さんありがとう)。 大陸の「恨の分化」何かご利益があるのか。 あっても恨まれる側になったら どうしようもないようだけどな。 その白い人に武士道の本を読ませましょう。
お礼
たとえば欧米の貴族が主に仕えるのは「契約」においてでした。アメリカのガチガチの契約社会は血として受け継がれていますよね。 武士の仕事は「死の覚悟」でもあったのでしょうね。いつ敵と刃向かうことになるかわからないし、武士道に背いたときなど外発的、内発的にも「死」は隣り合わせでしたが、果たしてそれが潔さなのかな?という気もします。生きて償うことのほうが苦しいからです。 >死の美学 死んで償えばそれが「美」として余韻を残す。それがまた次の武士道を継承してゆくのではないでしょうか。 騎士道は個が確立されていますから、割り切りの世界。だからいくら忠誠を誓ってもなんとなく虚飾的な匂いがする。でも生きて償うことにより「罪と救済」は個人のもとして淘汰される。それが個を確立する血に受け継がれていく。 思想的にも、武士道は儒教が背景にありますが、キリスト教(騎士道)の場合は自殺を禁じていますし。 武士道のその自己犠牲は他人の罪も背負うという凄さにあると思いますが、同時に他人の罪=恥の意識さえ自らの墓の下に埋めてあげる。こうゆうところは恐れ入ります。お上は恥を感じてなかった?今の政治にも通じるところがありますよね(笑)。 もうひとつ。欧米人の母親のしつけや教育の仕方は「自立」を教え、日本人の母親の場合「恥」を教えるそうですが、現代の日本人は自己犠牲というよりは衣食住においてのみ欧米化され、利己主義的な「個」ばかり自生されているように感じます。 とても参考になりました。ご回答ありがとうございました。
お礼拝見しました。聖性には気づきましたが、性的部分は全く失念していました。 部屋に入ることが、性的な意図と直結する心理は、驚きと新鮮。 前回は簡単に要点だけ書き飛ばしましたので、もう少し詳細に整理してみます、結論は同じですが。 1)聖性の拡大と穢れ 「聖なるもの」これは、太陽の浪費、見返りの無い贈与、自身の聖なるものへの贈与(人身御供)、ポトラッチゃクラ、日本の厄払いや祭り、等々色々な表れかたがあります。これらは結局二つの起源を持つと考えられます。 一つは、太陽に象徴される、自然を起源としたもの、もう一つが、各人の心のなかにある、自尊心、自愛心を起源とするものでしょう、これらは、恐らく独自の存在で、他に頼ることなく、それ自体が輝く恒星のような物でしょう。(検めて読むと、この部分の後半は間違っている可能性が大きいですが、テーマが違いますのでそのままとします) アステカの祝祭は自身の贈与が行われます、これは、見返りの無い贈与です、これに対して、ポトラッチ以下は、自身の贈与の身代わりに財の贈与又は浪費です、これには、尊敬や感謝の見返りがあります、その分、聖なる部分は薄くなることでしょう。聖なる部分は等価交換において消滅します。 「穢れ」はそれに対する「不足や欠如」の派生的状態でしょうか。 先にも書きました、聖性の拡大は、この自尊心を中心として、自己を外部に向けて拡大していきます。つまり、着飾ったり、豪華な車を所有したり、他人に貸しを作ることです。こうして精神は、自分の外部に、譲渡不可能な印を刻み付けます。 具体的な例でお話します。 例えば、お気に入りの器や、グラスを使用せずに、飾っておきます、特別の物語か刻印されているわけです、何かの拍子で、そのグラスを使用してしまう、洗っても、ほんの少しの穢れは落とせないでしょう。 男と女に関しても、例えば、ある女性と頻繁に利用していた店を、その女性と別れた後、次の新しい女性とその店を利用するのは、前の女性に対して失礼ですね。普通はしません、もし見つかれば、共有した思い出を穢されたと感じるでしょう。 つまり、私たちの精神は、私生活、職場、社会、各々のレベルのなかで、自分の刻印をそこかしこに貼り付けるわけです、ちょうど、犬が電柱におしっこカケルのと同じ、なぜって、未来の安心の為です。 この様に、自尊心の「聖なる譲渡不可能性」は「譲渡可能」な他の物で薄められ、印を残して放射状に広がるわけです、そして最後に人は言います「見るのも汚らわしいと」。 2)聖性の性的痕跡 性的行為の聖性の由来は男の理屈としてご理解ください、私は専門家ではありませんので。 男の子は、多分、女の子は「おしっこしたり、屁をこいたりなさらない」と信じていた時期があるのではないでしょうか、私は有ります、私が特別なのかもしれませんが、それ程、(母)性・(女)性には、神聖さが備わっていたようです、この辺りの、何とかコンプレックスは専門家に任せて、女性の神聖さと性的行為の神聖さは、水素と酸素のように、簡単にくっつきます、男性にとっては、性的行為自体が、神聖にして不可侵、と言った所です。 1)で述べた様に、この性的神聖も各方面に分裂して、放射状に刻印を撒き散らします、足が好きとかうなじが好きとか色々(私は専門家ではありませんので以下割愛)それこそ個人の主観の問題に、聖なるものが薄められ、結局、売買春の等価交換にて、聖性は消滅することでしょう。 さて、酔っ払った男女が、譲渡不可能な刻印を散りばめられた部屋の中で、一度も地雷を踏まずに、朝まで過ごす為には、相手に対する敬意・尊敬が少なくとも必要です、酔っ払っていますから、多分、地雷を踏み潰したのでしょう。ドカ~ン これで、部屋に誘いながら(能動的)、穢された(受動的)の解説になるでしょうか? 3)自由の問題 以下はおまけです。 雄と雌は、進化の過程での生殖の分離・分裂です、そもそも、一つの要因を分裂させれば、その反作用として、雄と雌は互いに引き付け合う事に成るでしょう、林檎が地面に落ちたからと言って、どちらが引っ張った等という事はできません、男と女も同様です、部屋に誘ったか、部屋に誘わせる様リードしたか、一つの状態のなかで選択するとは、次の可能な表象が複数与えられる必要があります、酔っ払った男と女が一つの部屋で哲学的な議論をするのは病気ですね、男にも女にも選択の余地など無かったでしょう、状況から状況の移動の中に、理性も何もありません。 結果として、美しい共感は得られなかったようですが、悪い結果の原因は他人に良い結果の功績は自分のものにしたがる人間は、何処にでもいます。 久々に長々書いてしまいました、自分でも整理してみたかったのですが、不明な点があれば、できる範囲で応答いたします。検めて読むと、2)は部分的に時代遅れの感がしますが、一つの考えとしてお聞き流しください。 秘すれば花なり 世阿弥
補足
む、むずかしい・・・。何度も読み返しました。 >ある女性と頻繁に利用していた店 すごい、リンクしていますね。 実はその「清楚」な男性というのはその「ケガレ」の女性とある飲み屋で知り合ったそうなんです。つまりゆきずりですね。俺の部屋がケガサレタと共に「店もケガサレタ」そうなんです。というのは昔付き合っていた女性と通い続けた店なんだそうで。 でも「店」という公的なはまさにケガレの場所でありますよね。スナックなんかでは入り口に盛り塩をして不浄を追い出しています。 >共有した思い出を穢されたと感じるでしょう。 ある一人の人と関係している無関係な二人(つまりAという男にBという過去の女性とCという現在の女性がいたとしても女性二人は関係がない)についての問題で、この問題の清潔好きな男にはケガレている問題の女は、店に出入りするその他大勢の一人のはずです。 >犬が電柱におしっこカケルのと同じ なのでテリトリー意識かもしれません(特に男に多い)。自分の神聖な部屋に容易にその日初めて会った人間をたやすく入れるという境界が曖昧なのに、シラフのときには強烈なテリトリー意識が生じるのでしょうか。 >部屋に誘いながら(能動的)、穢された(受動的)の解説になるでしょうか? ということは男女共互いにイーブンということなのでしょうか? でも男のほうはケガレたとしてあくまでも自分の神聖さを強調しています。 >個人の主観の問題に、聖なるものが薄められ、結局、売買春の等価交換にて、聖性は消滅することでしょう。 では彼が「この女を買っていた」としたらどうでしょうか? 彼はいかにも「さわやか青年」という感じですが、もしかしたらこの男も悪しき日本男児の嗜好の特徴「処女こそ清純」であるという価値観を持っているひとりなのではないか?と余計な想像を働かせてしまいます。処女をして相手に「人身御供」させれば自分の聖域が保てるとでも思っているのではないでしょうか。でもキリストが聖地としたエルサレムを巡って争いが絶えないように、聖地なんて侵されるものなんですよね。 >(母)性・(女)性には、神聖さが備わっていたようです たとえば相撲の土俵なんて女はあがったらケガレる、女の月のものはそれ自体ケガレである云々・・・。それがあるからそう勝手に決めた男もこの世にあるんだろーと思っていますが(笑)。 >女性の神聖さと性的行為の神聖さは、水素と酸素のように、簡単にくっつきます、男性にとっては、性的行為自体が、神聖にして不可侵 つまり女性は男性(相対的)なものがあって神聖な存在となり、男はそれ自体が絶対的な神聖である、ということなのですよね。あーだからこの「潔癖男」も自分とそのテリトリーを絶対視しているわけですね。 さて、 ケガレは「ケハレ」と正確に称するようですが ケ=日常 ハレ=祝祭日 だそうです。面白いことに女性の方はこの一件を「祭りのあと」と呼んでいたそうです(彼女がこれを知っているのか不明ですが)。 つまりこれが「アステカの祝祭」なのでしょうか!? >太陽の浪費 「元始女性は太陽であつた」と平塚らいてうは申しました。なぜ太陽なのかな?って思いましたが、なるほど、見返りを求めずに生命を育むエネルギーとなるからでしょう。 >お気に入りの器や、グラスを使用せずに、飾っておきます ところで私自身も人のことは言えない・・・(汗)。というのは人に本やCDやら自分が大切にしているものは貸せないという性分があります。そのくせ人をすぐに信じて騙されやすい。所有物は渡せないけれど心はいともたやすく譲渡してしまう(笑)。 「・・・事物にはすべて神聖さが具わっているのに、われわれの指が触れるから、それは汚濁になってしまう。われわれ人間はふしぎな存在ですね。指で触れるかぎりのものを穢し、しかも自分のなかには、神聖なものになりうる素質をもっているんですから」~三島由紀夫「春の雪 豊饒の海」
お邪魔します、回答が無いので頑張ったのですが、付きましたね。 感じ方が違うようで、面白いから、投稿しておきます。 けがれ・と・よごれ似てますね。 部屋の散らかりを熱力学の第二法則に還元するのも気が進みませんね。 汚れ(よごれ)ではなく、汚れ(けがれ)での回答です。 ご質問の文章から違和感は有りますが、個別のことは置いておきます。 私たちはそもそも、個別化といいますか、我一人が特別ですよね。 自尊心や人に正当(過不当?)に評価されたいと思うのは、根源的なことでは、 その為、身を飾り、物を持ち、テリトリーを広げ、自分の能力・聖性を拡大するような気がします。 人間は動物と違って、身を守る、体毛も硬い皮膚も有りませんから、身を守る最前線は 身体から離れた、仮面や甲冑、自分の城砦での攻防でしょうか。 これらの攻防は、すでに本質的な部分から離れた、代理戦争かもしれません。 ご質問の事例は、何か本質的な琴線に触れたのかもしれません。 他人には判りませんね。
お礼
>汚れ(よごれ)ではなく、汚れ(けがれ)での回答です。 そのとおりです。「汚れ」に補足するの忘れてました。「ヨゴレ」ではなく「ケガレ」です。 >自分の能力・聖性を拡大するような気がします。 #1の方へのお礼でも書いたように、酔った勢いで見知らぬ相手に自分の部屋のテリトリーを許したのは自分もケガレている証?でもあるのに、シラフになってそう言うのは責任転嫁をし、他者との境界線を器用貧乏に引く現代人の特徴、他人の時間を侵さないケータイよりも、互いの領域に関してはイーブンであるというメール世代の若者の特徴であると感じました。 >身を守る最前線は身体から離れた、仮面や甲冑、自分の城砦での攻防でしょうか。 女性を連れ込むということは肉体関係をもつ予定調和があるわけです。つまり「理性」の境界、その女性との一線、そして部屋、自己という「聖域」の境界、また上で述べた「一線」を飛び越えてもいいという了解があるわけですよね。この場合戦争でも攻防でもないですよね。 >人間は動物と違って、身を守る、体毛も硬い皮膚も有りませんから つまり人は男と女になると「動物」に戻るわけですよね(笑)。体毛どころか被服すら自ら捨てる。 なのにそれでもケガサレタと感じる男性心理が不思議ですね。 ここに現代人の「清潔」への強迫観念を感じます。でもあまりにも清潔にしすぎると逆に細菌への免疫がなくなります。 >ご質問の事例は、何か本質的な琴線に触れたのかもしれません。 これはケガサレタと言っている本人が何かに触れたということでしょうか?だとしたら相手の女性がそれを反映させたのでしょうか?
多角というか飛躍してしまうかもしれませんが、 >自分のテリトリー(部屋)に踏み込むことを許した (合意のうえだそうです) 相手に対して「汚された」と言っていました。 これも捉え方ですね、 「汚れ」は「いじられキャラ」という役を授かり ありがたい、美味しい役なのですよ。 ウケ狙いであるなら…。 狙ってないのにテリトリーに入られると不安になりますよね、 不幸より辛いのが不安に耐えることですね。 さて、私が思う清潔な人とは「健康な人」です。 快眠、快食、快便が出来て愉快な人です。 テリトリーも曖昧であるか、 意識に上らないほど自分を押し出す人かもしれない。 不健康が「汚れ」の世界の住人に思うのですが、 綺麗な水を飲んでも 何か余分を抱えて体調の悪い人が大部分で どんな人にも人間味は感じますが、 清潔な人は稀にしか逢えないのかと残念に思います。 ホームレスさんとか 実質衛生的な暮しをされていなくても 健康な人はいるかもしれません。 毎日こまめにシャワーしたり洗濯したり掃除したり 人が良い、責任感が強い、真面目である人が不養生だったり。 汚れは白いほど目立つ。
補足
(長くなりますので「補足欄」にお礼をさせていただきます) 私「汚れ」に補足するの忘れてました。「ヨゴレ」ではなく「ケガレ」です。 衛生面のことではないんですね。でもご回答には衛生面のことも触れてあるのでそれを読んで象徴的なことと対応できると思いました。 先日ドキュメンタリーで放送してたんですが、アメリカの少女売春のことです。皆普通のコで性的虐待の、暗黒社会の犠牲者なんですね。でも更正したあとで「けがれ」が注がれて、心の傷から他人を思いやる気持ち、誇りが残されていたんです。 作家立松和平が「千人の男と寝た女は天使になる」といっていましたが、私はものごとには二面性がありますのが、ケガレの対極は何と称したらよいのでしょう? >汚れは白いほど目立つ ケガレ=清潔という意味ではなく、まっさらな状態、「原点」などという意味に捉えています。物質的にも、象徴的にも。 またこの作家の言葉はその一例でしょう。 >人が良い、責任感が強い、真面目である人が不養生だったり。 職場でもお風呂に入らない人がいてすごく匂います。女性陣からは敬遠されてて私くらいしか普通に接する人はいないんですよね。そのためか好意をもたれているようですが、でもその人はマジメでいい人なんです。逆に表面上はキレイに取り繕ってても中身はキタナイ人間なんてたくさんいます。 >「いじられキャラ」 私が人の中でコレの役割を背負っているので(つまり道化ですね)、同志として彼の気持ちがわかります。 >ありがたい、美味しい役なのですよ。 嬉しいですね。でも「ウケ狙い」はしてません(笑)。 「けがれ」で検索したらこのカテゴリでみつけました。 ↓ 「けがれとみそぎ」http://okwave.jp/kotaeru.php3?q=1013822 ここの回答で >「ケガレ=気枯れ」説は「ハレ(祝祭日)とケ(日常)」とワンセットのものです。図式的に言えば世界は「ケ」(日常)→「ケガレ」(気の消失)→「ハレ」(祝祭。気の復活)というサイクルをなし、象徴的な「死と再生」の神話構造に包含・・・ とあります。質問の「ケガサレタ」と言った人は実は酔った勢いでゆきずりの女性を部屋に連れてきたようなんです。本人だってそれを許しているわけなのに(笑)。 私が思うに 「ハレ」=酔った状態のお祭り騒ぎと気分、 「ケ」=見知らぬ女性を部屋に入れてふたりで大騒ぎして、酔いが覚めたときの「祭りのあと」の自己嫌悪。 と思うのですが、本人からすれば自分でした過失?を認めたくはないから「けがされた」と言っているのではないかと思いました。 そう言っている本人こそが常日頃「キレイゴト」ばかりいう人なんですけれどね(笑)。 ここの回答でも他に仏教では「ケガレタ」と思う心こそ「ケガレ」そのものであるとあるのをみて成る程なと思いました。 ケガレなき者って赤ん坊か、ケガレを極めた者が見る浄土のようなものだと思います。 何かしろ人は罪を背負っているんですから・・・。 とても参考になりました。ご回答ありがとうございました。
お礼
2度もご回答ありがとうございます。 紹介いただいた詩、素敵ですね。てっきりmiko-desiさんが作ったのだと思って読みました。 マイケル・J・フォックスは私も好きです。健康体でいたときよりももっと好きです。 >「拘りのあるむさ苦しさは、下らない小奇麗よりいい」 格言っていつもそこに在るのだけれど、人と場合に応じてそれが必要になる、生かされる。それまで死んでいた言葉が蘇る。同時に自分もその言葉によって生かされる。 ただのキレイなだけのスターならたくさんいるけれど、本当の生きる「美」を病というケガレによって知ったのでしょうね。ガンバレ、マイケル! >漢字の成立ちに意味(作った人の思想)があるので 素晴らしい「読み」ですよね。ホント、漢字ってディープな世界ですよね。 羊の宿命って可愛そう。肉や毛全部使われる。自己犠牲だから美しいんですよね(私はあえて「自己犠牲」と言いたい!!)。 それに毛は真っ白でしょう?まさに象徴的ですよね。 自分を「シロ」と称しているかの男性に「ケガレとは何か」を教えてあげたいですね。