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なぜ哲学は神を捨てたのか?
哲学と神の関係について古代から中世までは、哲学と神は切っても切れないほど密接な関係を持っていました。しかし近代以降、哲学は神のことを語らなくなってしまったように思います。 それはどうしてなのでしょうか? もはや神の存在を人々が信じられなくなったからとは聞きます。 でもこのことは語られない基準としてあいまいな気がします。 どのくらいの人が神を信じられないと神を語ることはできなくなるのか? 欧米では現在でも人口の50%以上はクリスチャンですよね。 たしかに無神論の人はいるでしょうが、どちらかと言うと変わり者と考えられています。 現在でもかなりの人が神の存在を信じていると思うのです。 哲学者の中にもかなりの数のクリスチャンがいるはずです。 彼らは神を信じているなら神の哲学をしないのでしょうか? 私は物理学者でクリスチャンの人の話を聞いたことがあります。 彼は神のことを心から信じていました。しかし物理学の研究では直接神が登場する機会はありません。ですが哲学者で神を信じているなら神の哲学を語ってもいい気もします。 デカルトの神の存在証明をカントは否定しました。 しかしそのことも神の存在が否定されたことにはなりません。 現在でも誰も神の存在を証明することも、存在を否定することもどちらもできないはずです。 自然科学で神が語られないのは明快な理由があります。 それは神は観察できないし、実験できないので議論するための根拠を示せないからです。 ですからもし根拠さえ示せれば神を語ることもあると思います。 哲学が神を語らない明快な理由がありましたらお教えください。 それから私が調べたところではベルクゾンという哲学者は神について語っていたと聞きます。 それは後半の神秘主義に傾倒してからの話です。 ベルクゾンについてはあっちの世界(神秘主義)に行っちゃった人が神を語ったという評価なのでしょうか?それとも哲学として神を語ったという評価なのでしょうか? このことについてもご存じでしたらお教えください。
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- kurinal
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stmim様、こんばんは。 >「神様がいるというのは「上意下達」であるという意味でしょうか。」 私は、「宇宙の外側タマネギ」理論を考えているので、 「神」はいるのかどうだかは、知り得ないと思っています。 (よしんば、いる!としてですよ?「上意下達」になりますか? 創価学会のようなことに、なりませんか??)
- kurinal
- ベストアンサー率10% (128/1195)
stmim様、こんばんは。 「上意下達」というのは、後進性を表しているのです。
お礼
回答ありがとうございます。 神様がいるというのは「上意下達」であるという意味でしょうか。
- oyatsuya
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哲学は、人間の思考範囲内に呪縛されているから、 その外に居る神を正確に語るのは不可能。 その呪縛から逃れられないでいるし逃れる気もないので、 不可能体験を重ねて諦め、投げ出した。
お礼
回答ありがとうございます。 確かに哲学は思考の範囲で考えますよね。 そうすると中世以前はなんで神のことを語っていたのか・・・ 正確には語っていなかったのでしょうが、哲学で神をとりあつかっていたのはどうしてなのか? 現代ではもうあきらめたということなのですね。
- からあげ ミームン(@marc2bolanti)
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神は復権してますね、特に近代以降の数学と、其れに準拠する宇宙物理学で。暗黒物質など中世以前のグノーシス主義やネオプラトン、チベット密教、イスラーム神秘主義の復活としか思えない。 パスカル、カントール、ゲーデル と云った数学者は揃って熱烈なクリスチャンで、現代哲学に多大の影響あります。集合論に於いて、無限の濃淡”と云う問題に立ち会うと、実無限”と云うのが立ち現れる、此れが神 なんですね、彼等にとって。~其れで狂気に陥るか、沈黙する他なくなる。宗教には常人には理解不能な力能が有るです。 「キリスト教の神は信じないけど、スピノザの神なら信じます。」アインシュタインの言葉。現代哲学の状況は此れが端的に示してると思いますよ。 同時期のベルグソンがアインシュタインの時間論を批判してますが、此れは上記の数学者や、ベルンハルト・リーマン幾何学の達成を受けての事です。記憶と持続=Duree,と云う概念を説明するのに、円錐モデルを使って。 ●道徳と宗教のニ源泉』は少し読んで忘れましたが、エランVital, 創造的進化”の人ですから、神的実在は直感によって持続として顕れるのだと大展開されてますよ。 其の神秘主義は、心霊主義だと表面的に批判もされますが、あれはイマージュimage論と云うモノ。精神現象,心象ではなく物質実体でもない、何だか判らないが確かに在るだろうと云う、、あの世とか幽霊も其の一種なのでしょう。古来よりの伝統的語りでもある。 仏陀やキリストも、否定も肯定もしなかったかな。孔子も「怪力乱神を語らず.」と言って、今なら心理学と神学は放って置こうと云う事で、昔から変わってないよう。 ●近代の始まり、デカルトの方法序説ですが、カントに否定されるまでもなく、神の存在証明とは言えない。我思う故に..ではなく、我疑う故に,ですが、〈故に〉は証明されてない。証明の問題ではなく「我、懐疑しつつ在る..」他ない、と云う存在論ですね。 其れを受けつつ改変した⚫︎スピノザは、神ではなく存在を前提として、神は絶対無限の実体substantia.と定義します(エチカ冒頭定義6)。唯一の自己原因なので他に依っては産出されない、つまり其の本性は存在する事である(定理7)。超越的な創造物ではなく、この世あの世も含めた全世界=無限実体=神、とした訳です。其処が、神に酔える無神論と言われる由縁で、アイン様も惹かれたのでしょう。 此れをカントもヘーゲルもニーチェも捉え損なったと見られます。理性の極限を吟味Kriticしたカントは神を〈物自体〉として棚上げする他無かった。でも信仰は捨ててない。Transcendent=超越的,を否定しながら、Transcendental=超越論的,な領野 を発見した。 ●神は死んだ」とは、ニーチェで、〈語り得ぬ物には黙りましょ〉と云う倫理観はヴィトゲンシュタインでしょうか。其の傾向が主流でしたが、其のデリケートな領域を語り出したのが、ハイデッカーを受けたフランス哲学でしょう。 スピノザ、ニーチェ、ヒューム、カントに関する著作があるジル・ドゥルーズ、最後の短い論文が、内在論; 超越論的領野についてでした。超越論的な内在を直接意識で経験するのは不可能なのですが〈一つの生=Une Vie〉を其れが貫いてる、無意識的な非人称の意識として現れると云う。此処にエチカ最終定理の至福、信仰を超えた全き祝福されたモノが回帰して来る。宗教の神より美しい、ギリシャ哲学的な神の概念かも知れない。ニーチェの永劫回帰もそうなんだと思います。「アンチ・クリスト」は教会を攻撃して、キリスト自身を救い出す試みとも取れますし。 ドゥルーズ哲学の、映画に於ける併走者とも言える、”90年代,JLゴダールの『訣別』。此れもカトリック回帰。反動的とも言える程、こんなに美しくて良いのか⁈と云う,imageに溢れてる。一度観られると良いです。引用の字幕が多いけど綺麗な映像。 ヌーベルバーグの盟友;エリックロメールもフランス革命否定して王権神授に回帰かな。欧州の前衛は斯様に違った形で神に回帰です。でも若者の帰依率は減少だ。一般には神学哲学取っ付き難いですから。其れで俗流イスラムに流れたりする。信仰求めては居ますね。 ●他者と無限』のレヴィナス、は嘱目すべき倫理の人ですが、ユダヤ教に則ってるのは明らかです。神学は形を変えて脈々と続いてます。
お礼
回答ありがとうございます。お礼が遅くなりましてすみませんでした。 ベルグゾンはじめいろいろな哲学的な解説をありがとうございます。 神は復権しているというのは意外でした。
- kohichiro
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>代以降、哲学は神のことを語らなくなってしまったように思います。 にーちぇが言った「神は死んだ」という言葉が強烈だったからでしょう。確かに科学万能の社会では哲学者も神を持ち出す必要はないと考えても不思議ではないと思います。でも神は哲学から消えたわけではありません。少なくとも先賢が考え抜いた知恵のかたまりであるキリスト教、仏教などについての学問、宗教哲学、道徳の問題は今も盛んとはいえないまでも、なくなったわけではなく連綿と研究が続けられています。フランス現代の哲学者の中には、原キリスト教、更に言えばその基になったユダヤ教の神との関連で思索を深めている学者の一群もあります。ご安心ください。なくならない理由をかかねばならないでしょうか? >しかしそのことも神の存在が否定されたことにはなりません。 現在でも誰も神の存在を証明することも、存在を否定することもどちらもできないはずです。 そういうことです。科学が神を否定しても困らなかったように、哲学が神を否定すれば困ることがいくつもあったのだと思われます。ある意味、神という絶対者を仲立ちにして思考を進めねばならない状況は、こと形而上学においてはいくつもありうるのではないかと思われます。例として自己と他者との関係である倫理学、この問題に関して神が関わったとされる男女の創造、そこから社会倫理の始まりを考える思考があります。倫理学のゆきつくところ戦争の始原への思考があります。これはすぐれて平和のもんだいでもあるのです。
お礼
回答ありがとうございます。お礼が遅くなりましてすみませんでした。 哲学において神はまだ死んでいないのですね。 特に形而上学に関しては神が必要だということですね。
- Mokuzo100nenn
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哲学は疑うことを尊重し、(仏教を除く)宗教は信じることを尊重するからでしょう。
お礼
回答ありがとうございます。 そうすると最初は神様ありで哲学は存在したのですから、疑う主義の哲学でも神様を疑えなかったということなのですね。
- hekiyu
- ベストアンサー率32% (7193/21843)
哲学と神の関係について古代から中世までは、哲学と神は切っても切れないほど 密接な関係を持っていました。しかし近代以降、哲学は神のことを語らなく なってしまったように思います。 ↑ ハイ、そうした傾向はありますね。 キリスト教の神との関係が強かった時代は、存在論が中心の 哲学でした。 何故存在するのか、存在とはなにか、という具合です。 これは、キリスト教の神が創造神だからです。 その後は、神との関係が薄れ、認識論が盛んになりました。 それはどうしてなのでしょうか? ↑ 1,科学技術が発達したからだ、という人がいますが そうではないと思います。 科学が発達すればするほど神の偉大さが認識出来る のが現実だからです。 2,神の教え通りに生活しても、神が教えた見返りが 無いことが解ってきたからだと思います。 神はいるかもしれないが、願い事を叶えてくれるような 形而下的な存在ではない、ということが理解されてきた のだと思います。 3,人間が賢くなった、というのもあります。 他人との生活により、他人の思惑などを考えるように なり、脳が発達した、という社会脳仮説があります。 また、言語などが発展し、人間の脳で抽象的思考が 出来るようになり、生物学的に進歩した、という 説もあります。 抽象的、複雑な思考は言語が発達していないと 不可能です。 人間が賢くなった結果、神を持ち出す必要性が 減少しました。 月食や日食は神を持ち出さなくても説明できるように なりました。 もはや神の存在を人々が信じられなくなったからとは聞きます。 ↑ 信じない、というのではなく、神の威力が薄れた 神とは見返りを求めるような存在ではない、という ことに人間が気がついたのだと思います。
お礼
回答ありがとうございます。お礼が遅くなりましてすみませんでした。 そうすると神が出てこなくなったのは、神を信じても見返りがないというかなり現金な理由なのですね。
今ちょうど 「存在と時間」 「形而上学」 「純粋理性批判」←いまここ を読んできたので、まだまだ初学者で勝手な印象なんですが 神については神学という形で研究されているのではないですか?
お礼
回答ありがとうございます。 確かに神学での研究はあると思いますが、神学だと哲学というより宗教の中の存在だと思います。(哲学がやっている)世界の真実を求めるというより、最初から宗教的な答えを正解としていかにその正解にたどり着くかその理論を追求する学問と思っています。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
科学が発達して、宗教が持っていた「世界はどのように 誕生したか」や「人間はどうして生まれたか」といった 世界観と矛盾してきたから。 (=神の存在を科学的に証明できないから)
お礼
回答ありがとうございます。お礼が遅くなりましてすみませんでした。 やはり科学と神は相性が悪いということなんですね。 哲学は科学でないからいいかなという気もするのですが、やはり現代は科学の時代だから影響を受けるのですね。
- koosaka
- ベストアンサー率43% (78/179)
神の存在証明には、長い歴史があり、もし、それを知りたかったら、ディーター・ヘンリッヒの「神の存在論的証明」(法政大学出版)をお読みすることをお勧めします。 従来、神の存在証明には、以下のものがあります、 (1)自然神学的証明(一名・目的論的証明)・・・・・・・これは、生物の仕組みがひじょうに巧妙にできていることから、このような巧妙な存在は神がいて、設計図を引いて、作ったに違いない、というもの。 (2)宇宙論的証明・・・・・・トマス・アリストテレスの証明と言われるもので、この世に動いているものがあれば、それを動かしているものがあるはずである。そして動かしているものがあれば、それを動かしているものの、動かしているものがあるはずである、かくて世界の原因は無限にさかのぼってゆく、しかし、人間は無限にさかのぼれないからどこかで第一原因とか、初動者に突き当たるはずである、それが神と言われるものである、という。 (3)存在論的証明(一名、本体論的証明)・・・・・・ただ概念のみからする証明と言われるもので、聖アンセルムスとトマスとデカルトの証明。 神は完全無欠の・全知全能の存在者である、その神は存在も含む、もし存在を含まなかったら、神の全知全能・完全無欠という定義に反する、よって神は存在する、というもの。 この神の存在証明をカントが「純粋理性批判」の「神の存在証明の批判」で、徹底的に論破し、以後、哲学で神の存在証明を試みるのに終止符を打ったと言われます。 だから、カントが「実践理性批判」でやったように、神は道徳を論じるときに、要請されることはあっても、哲学では、もうお呼びではなくなりました。
お礼
回答ありがとうございます。お礼が遅くなりましてすみませんでした。 神の存在証明という言葉はよく聞くのですが具体的内容はよく知りませんでした。かなり理屈からの証明の試みなのですね。 神の存在証明を否定するとはカントはすごいですね。
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お礼
回答ありがとうございます。 そうすると回答の上意下達はどういう意味なのでしょうか? 私は理解できませんでした。