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歴史には、自然科学における「普遍的法則」のようなものは存在するのでしょうか?
橋本惠氏の『イワクロ.COM~岩畔豪雄(いわくろひでお)と日米諒解案~』(↓) http://www.iwakuro.com/index.html は偶然見つけたサイト(オンライン書籍)でしたが、史実を丹念に調べ上げている力作だと思われます。が、今回の質問の趣旨は内容そのものから外れますので、詳細はサイトをご覧頂くものとして、私がこのサイトを読み、凄いと思った点は、著者が医師であり、自然科学に携わる方ならではの科学的な視点で歴史を捉えている点でした。 それは、著者の言葉を借りれば、25年程前に日本で起こった「エイズ薬害禍であるが、日米交渉の挫折と以下の諸点で相似形を呈している。 (1) 正規の手続きを踏んでなされた国家的規模の過ちであるという点。 (2) 施策が間違った方向へと進路をとるにあたって特異なキャラクターのキーマンが介在しているという点。 (3) キーマンの倣慢さが政府機関の意志決定を制度的にも心理的にも席巻しているという点。 (4) 過ちが明らかになるに従って徹底的な隠蔽工作がなされたという点。」 ということです。(あとがき―私がこの本を書いた真の理由―より) エイズ薬害禍と日米交渉の挫折――。一見何ら関連性のなさそうな2つの歴史的事実の間には実に驚くべき「相似形」が存在しているという著者の鋭い洞察力こそ、まさに自然科学で言う所の、事実を観察し、異なる事象間に存在する共通項を括り出し、そこから帰納的に規則性、法則性を導き出したことにあるように思われます。 ところで、史観(=歴史哲学?)というと、私には、唯物史観(史的唯物論?マルクス主義史観?)や皇国史観、あるいは終末思想や末法思想といった宗教的史観(?)くらいしか思い浮かばないのですが、いずれも特定のイデオロギーや宗教が色濃く反映されていて、到底、科学的なものとは思えません。 安政の大獄で刑死した福井藩士・橋本左内は、死の少し前、西郷隆盛や川路聖謨に対し、「日本がロシアと結べば必ずイギリスと戦争になる。イギリスと結べば必ずロシアと一戦交えなくてはならなくなる」と言ったそうです。その40数年後の1902年、日本はイギリスと日英同盟を結び、これを梃子に日露戦争を始めました。当時20歳を少し上回っただけの青年・橋本左内にどうして40数年後の未来が見えたのか――。 これはあくまでも推測ですが、おそらく彼は国内外の情勢だけでなく歴史にも通暁していたのではないか、そしてそこからある種の普遍的法則を彼独自の視点で帰納的に導き出していたからこそ未来が予測できたのではないかと思われます。 上述の橋本氏にしろ橋本左内にしろ、特定の史観とは全く無縁です(橋本左内は開国派であったため皇国史観からは自由でした)。再び橋本氏の言葉を借りれば、「歴史というものがしばしば言われる『歴史観』というような言葉で代表される、固定的な観念や概念でとらえられるようなものではなく、常にあらゆる可能性、流動性をはらんで進行してきたものであり、今現在も進行しつつあるものだ」と同氏が述べておられることからも明らかです(HOME―サイト立ち上げにあたり―より)。 考古学そのものを否定するつもりは毛頭ありませんが、歴史を学ぶことは、過去の膨大な情報量の中から、あたかも遺跡や土器を発掘するかのごとく細かい事実を穿り返すことではないように思われます。歴史を学ぶ意義は、まさに橋本氏や橋本左内のように、過去の事実から自然科学的探究によってある種の普遍的法則を見出し、それによって混沌とした現在を解析し、そして未来をも予測可能なものにすることにあるのではないかと思われます。 ところで、歴史には、史観(=歴史哲学?)以外に、自然科学における「普遍的法則」といったようなものは存在するのでしょうか?また、もし存在するとしたら、それはどのような歴史的事実を伴って表出したのでしょうか?それを通じて現在、そして未来をどのように解析することが可能なのでしょうか?また、そういったことを専門的に研究している方はいらっしゃいますでしょうか?あるいはこういったことに関する文献をご紹介頂いても結構です。よろしくお願いします。
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ANo.11、14です。 塩野氏の該当の記事はまだ拝読していませんが、彼女の書籍は『ローマ人の物語シリーズ』を始め、数冊読んだ事があります。 私も、この場では深入りしませんが、概ね近い「歴史観」を持っていて、好感を持ってますね。 イタリアに移り住んで、海外から日本を眺める彼女の視点は非常に参考になりますしね。 さて、本題ですが >私が申し上げたかったのは、例えば同じ文系の学問である経済学や法律学などには必ず「○○理論」とか「○○の法則」といった、自然科学における法則とか定理と同様のものが必ず存在するのに対し、歴史学においては、例えば「歴史的事実繰り返しの法則」(?)といった理論や法則のようなものがこれまで全くと言っていいほど見受けられなかったため、そうした理論や法則を歴史に求めるのはナンセンスなのでは そうでしたか。 こちらこそ、誤解と憶測で書いてしまいすいませんでした。 確かに、「歴史的事実」としての「法則性」というのは、未だに発見されたのはない気はします。 ただ、「歴史は繰り返す」というように「全く同じではないが、似たような現象」というのはありますので、そういった視点から「歴史を分析し」「未来予測する」という方法は存在します。(歴史学そのものというより、他の社会学分野の援用ですが) まぁ、社会学は「近々の歴史を扱う学問」だと私は考えていますが。 また、一般に「歴史は直線である」と言われますが、個人的には「歴史は螺旋である」と思ってます。 >もっとも塩野氏によれば、18世紀の歴史家は皆、主観を交えて歴史を書いていたのに対し、現在のアカデミズムでは「実証主義」がうるさく言われているため主観を排除している、これに対し同氏の書く歴史小説は、史料を「眼光紙背に徹する」まで読み込み、ローマやヴェネティアの指導者と同じになるまで頭で考える、という趣旨のことを言われていましたので、それは回答者様のご回答でいえばランケのいう歴史学に該当するのではないか、 そうですね。 18世紀頃までの歴史は、ほぼすべて著者の「主観」が先行して書かれた物が多いです。 その後、科学革命の影響で「歴史にも(自然科学分野のような)客観性が必要だ」という事が考えられるようになりました。 そして出てきたのが、レオポルト・フォン・ランケです。 彼は「史料をして語らしめよ」という言葉を残しています。 つまり、「史料批判」を徹底的に行い、その批判に耐えられた「史料」だけが真実を語っていると考えました。 そして、この立場が「実証主義」として現在の日本でも主流の立場となっています。 結果として、「主観の排除」に繋がり「歴史」がただの「好事家の蒐集」に成り下がってると言えます。 >「歴史を見る目」を養った後に読むに値する歴史書などございましたら、ご紹介頂けますと幸いです 私なりの主観ですが、幾つかお薦めを紹介してみます。 『ヴェネツィア―東西ヨーロッパのかなめ,1081-1797』 (岩波書店) W.H.マクニール (著), 清水 廣一郎 (翻訳) 中世から近世にかけて、東地中海貿易で隆盛を極めたヴェネツィア共和国が東西ヨーロッパをつなぐ役割を担ったという視点から書かれた本です。 文化と文化は相互に影響を及ぼしあっており、その点をヴェネツィアという都市国家に光を当てて浮き彫りにした書です。 『中世イタリア商人の世界―ルネサンス前夜の年代記』(平凡社 ) 清水廣一郎(著) 上記の本を翻訳した、清水廣一郎氏による中世イタリア商人の生活を記した本です。 史料を丁寧に検討し、歴史著述をされているのが分かります。 『中世シチリア王国 』(講談社現代新書) 高山 博 (著) 中世に存在した両シチリア王国という国の通史です。 新書で手軽に読めるように纏められています。 この王国は、キリスト教国家でありながらイスラム教徒と共存共栄していました。 その「異文化共存」がどのようになったかを浮き彫りにしています。 そして、「異文化共存」はグローバル化が進む現在、重要な課題であると言えます。 著者である高山氏も、そうした「問題意識」を持ちながら研究されているようです。 他の書は、まだ拝読していませんが、注目している方なので参考URLも載せておきます。 http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~tkymh/1Kenkyu.html 『チチェローネ イタリアの美術品鑑賞の手引き Der Cicerone』1855年(古代編が筑摩書房、建築編が中央公論美術出版、主流な芸術家に絞って編集したのが青土社) ヤーコプ・ブルクハルト(著) ランケの弟子であり、ルネサンス研究の大家であるブルクハルトの書の一つ。偉大な大先生が、ルネサンス美術の見方を教えてくれます。 『モンゴル帝国の興亡』(筑摩書房) 岡田 英弘 (著) 独特の歴史観を持つ著者が、モンゴル史を書いた書物です。 中国とヨーロッパが接触したモンゴル帝国がに、「世界史」を求めていたり、「漢文は中国語(話し言葉)とは無関係」と言い切ったり、独特な視点を持ってる方です。 また、積極的に政治的な発言もされており、ややナショナリズム的な言動も目立ちますので、その辺りは気を付ける必要があります。 『日本よ国家たれ―核の選択』(文芸春秋) 清水幾太郎(著) 安保闘争のおり反米運動の指導者的立場で活動し運動の挫折を経験した著者が、その経験を元に、日本人に向けて危機管理意識を説いた本。 「国際政治の戦国時代を生き延びるためには、如何に辛くても、核の問題をリアリストの眼で見なければいけない、アイディアリズムやセンチメンタリズムは、どんなに悲壮でも、現実の役には立たない」との著者の言には唸らされる。 ただ、「短絡的なナショナリズム」に陥らないように注意して読む必要もある。 ついでに、こちらの質問でも回答していますので、参考にしてください。 http://okwave.jp/qa3666956.html 思わぬ長文になってしまい、失礼しました。 参考になれば、幸いです。
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- eroero1919
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>過去の事実から自然科学的探究によってある種の普遍的法則を見出し、それによって混沌とした現在を解析し、そして未来をも予測可能なものにすることにあるのではないかと思われます。 確かにお説ごもっともでありますが、おっしゃられていることを実践しているのが経済学であり、天気予報であり、株価予想であると思います。これらの学問はまさに過去の事実を積み重ねて未来を予想しますが、ま、お天気なんかある程度は正確に予想できますがそれだってせいぜい数日先のことで、一週間や一ヶ月先なんてぜーんぜん当たらないわけです。なぜかっていうと「未来の予想には不確定要素が多すぎる」からです。歴史というのは多くの人間が、それぞれの利害と思惑と野望により紡がれ、神様の振る気まぐれなサイコロによって方向が歪められるものです。 ご指摘の諸氏もあくまで「過去の出来事がこれとこれが該当した」と意地悪な言い方をすれば後知恵で繋げているといえなくもないわけです。では諸氏も「これからの日本はどうなると思いますか」については全く予測することは不可能だと思います。 野球の試合なんかで「7回のバント失敗がターニングポイントだった」なんてよく解説されますよね。でもあれは試合が終わった後だから「あの7回のバント失敗が・・・」といえるわけです。その試合中に7回にバント失敗しても「だから試合は負ける」と決まったわけではないですよね。ひょっとしたら誰かが逆転のホームランを打つかもしれないし、相手のリリーフ投手が思わぬ大乱調で試合がひっくり返ることだってあります。そうなると「あのホームランで流れが変わった」とか「リリーフ投手の乱調が思わぬ伏兵となった」となるわけですよ。 あくまで個人的見解ですが、史学はあくまで「過去を分析するもの」であって「未来を予想するもの」ではないと思います。未来が予想できるなら、占いも自然科学の学問になりえると思いますがどうでしょうか。
お礼
ご回答ありがとうございました。 そういうお考えもまた然りだと思われます。例として挙げられた経済学、天気予報、株価予想でふと思い出したのですが、金融工学の分野でブラック=ショールズモデルを理論的に完成させ画期的な業績を上げたとして98年にノーベル経済学賞を受賞したマイロン・ショールズとロバート・マートンの2人が経営に参画したLTCMがロシアのデフォルト(債務不履行)宣言とそれに伴うルーブル暴落により破綻したことはまだ記憶に新しいところです。 ブラック=ショールズモデルは、難しいことを抜きにして誤解を恐れずに簡単に言えば、確率度数分布によって未来を予測しようという大胆な試みでしたが、ノーベル経済学賞を受賞する頭脳をもってしてもロシアのルーブル暴落までは予測できなかったという意味では、確かにおっしゃる通り「未来の予想には不確定要素が多すぎ」るというご意見はもっともだとも思われます。従って、史学はあくまで「過去を分析するもの」であって「未来を予想するもの」ではないという回答者様のご意見は正しいと思われます。
- tanuki4u
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歴史の再現性というか必然性に関しては 歴史の方程式―科学は大事件を予知できるか (単行本) という書籍ではいかがでしょうか? 橋本左内の場合、中国の史書からの類推です。 中国戦国時代で言えば、東西の強国である、秦と組めば斉と戦うことになり、斉と組めば秦と戦うことになるという、中原国家の歴史的な事実からの推測でしょう。歴史学というよりも地政学かな
お礼
再度のご回答ありがとうございました。 ご紹介頂いた本は面白そうですね。探してみます。 また、橋本左内の予測の源泉が中国の史書からの類推というのは大変興味深い事実でした。私はてっきり、彼はヨーロッパの歴史も勉強していたのではないかと推測していました。大変勉強になりました。
- tanuki4u
- ベストアンサー率33% (2764/8360)
橋本氏の論は 「人間って、こんなもんだよな」 程度と思います。 自然科学であるとすると、反証可能性を持たなければなりません。 歴史は単一生成されるので、やり直しができないとう理由で「反証可能性がない」と思います。 ちなみに 「一度目は悲劇で二度目は喜劇」はご指摘のようにマルクスで、ナポレオン一世とナポレオン三世の事を示します。おかげで、ナポレオン三世は暗愚の皇帝と評価されちゃいました。
お礼
ご回答ありがとうございました。 確かに、おっしゃる通り、自然科学であるとすると、反証可能性が必要条件となりますね。そして歴史は単一生成されるので、やり直しができませんから、「反証可能性がない」歴史は自然科学とは言えず、従ってそこにはいかなる法則も存在し得ない、という結論が導き出されるのではないか、と思われます。
- mi-dog
- ベストアンサー率6% (92/1479)
ある程度は繰り替えされます。 まんねりすれば飽きるように、腐敗、変革が繰り返すと思います。 また、ローマ、チンギスハーン、ゲルマン民族大移動など、ポイントはあるでしょう。 今は、惰性で止めれないのかもわかりません。
お礼
ご回答ありがとうございました。
補足
ちょっと不確かな知識で申し訳ありませんが、たしかカール・マルクスだったと思うのですが、「歴史は繰り返される、一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」と言ったような気がします。悲喜劇の部分は私には本当かどうかよく分かりませんが、確かにおっしゃる通りある程度は繰り替えされているとは思います。それが具体的にどういう形で繰り返されるのか、あるいは繰り返されてしまうのか、ということを教えて頂けませんでしょうか?よろしくお願いします。
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お礼
三度に渡る詳細かつ分かり易いご説明を行って頂きましたことに対しまして、心よりお礼申し上げます。 回答者様のおっしゃる通り、歴史は何も「好事家の蒐集」でもなければ、ましてや受験で人間をふるいにかける「暗記科目」でもなく、現在を、そして未来を考え、生きる上で有効な、大いなる力を秘めた「宝物」だと改めて思いました。 しかし、宝物を見極める鑑定眼を持ち合わせていなければ、それこそ「宝の持ち腐れ」で終ってしまうでしょうし、ましてや受験勉強での苦い経験でその後の付き合いを止めてしまうというのも、「宝物」の本当の価値を知らずに一生を終えてしまうようなものですので、これもまた大変もったいない話です。 ただ、そうとは言え、歴史に関しては専門的な勉強を行ったことのない私としては、一体この「宝物」に接するにはどうすればよいのかが分かりませんでした。そして以前から抱いてきた疑問と共に、今回少々得たばかりの僅かな知識に基づいて質問させて頂いた次第でしたが、回答者様の一連の素晴らしいご回答に邂逅したことは、私の今後の人生において大変有意義であろうと思われます。 些少ですが、ポイントを贈呈させて頂きましたので、ご査収下さいます様お願い申し上げます。また、今後、もし何か分からないことがあった場合には質問させて頂きたいと存じますので、その節は何卒よろしくお願い申し上げます。