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歴史における「中立」とは
1.右側の人は戦後教育や自虐史観の克服というような事をいいますし、 左側の人なら市民の声、アジアの声、国際社会の声などと言います。 そして互いに相手の史観が偏向していると非難し、自分の側が真っ当 で正しいと主張します。 しかしどちらも結局は自己の思想に都合のいい見方をしている事は否めません。 かといって、では一切評価を交えず事実だけを列挙すれば偏りがないのかといえば、 その「事実」自体に論議が生じるわけですし、人の営みにかかわる「事実」は無数に 存在するわけで、その中からどれを抽出して歴史を編纂するかですでに思想が影響してきます。 いったいに歴史という学問において「中立」とはどこに求められるのでしょうか? 2.また時には歴史への評価がその人の思想の影響を受ける、という以上に、 国内での政治的対立や外国との交渉や紛争において優位を得るための理論武装に 歴史学が使われている事も見受けられます。 言い換えれば何かを主張するための手段に学説が生み出される、という状況でしょうか。 これもまた日本が、韓国が、アメリカがという問題ではなく、いずこの国でも、またどんな立場の人でも 往々にして行われていることだと思います。 政治、民族、国家、イデオロギー、個人の感情等と学問を分離するにはどうしたらいいのでしょうか?
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まず、クロォチェの「すべての真の歴史は、現在の歴史である」という言葉を紹介します。 以下は、よく私がこのサイトで歴史学について行う説明に少し手を加えたモノです。 歴史学というのは、基本的に誰かが書き残した文章記録から、「過去にあった出来事」を明らかにしようという学問なんです。 しかし、この「誰かが書き残した」というのがくせ者で、「誰かが書き残した=真実そのもの」とは限らないからです。 さらに、この「誰かが書き残した文章から、過去に○○という出来事があった」と解釈する人が居ます(これが主に歴史学者です) これを分かりやすく言うと 1・誰かが書いたのだから、その時点で書いた人の主観が入る。(一次史料) 2・そして、その情報を読んだ人(研究者)の主観が入る。(二次史料) 3・最後に、その研究者の論文を読んだ人の主観が入る。(私) 「真実(出来事)→一次史料→二次史料→私」、という風に情報が加工されていくことになるんです。 言い換えると、この順番でそれを書いた人・読んだ人の「主観」が入る。 私は真実を知りたい、と望みます。 そうすると、「私→二次史料→一次史料→真実」、と遡ることになる。 もちろん、「私→一次史料→真実」、とする事も出来ます。 しかし、「私→真実」、という風には出来ないんです。(それをするには、現在進行形=今、まさに起こってることしか無理) となると、どこまで一次史料や二次史料が真実を語っているかを見極める必要が出てくる。 その為には、第二、第三の一次史料・二次史料を参考に、それらの相違や正誤を精査していく事で、情報を真実に近づけていきます。 この過程で、考古学・古文書学・社会学・金石文学・民俗学etc,,,と歴史補助学と言われる学問の助けも借りて行われます。 こうして、出来るだけ「客観的」になるように努力がなされるのです。 はたして、これ(客観化すること)は可能なのか?という問いが何度も発せられ論争されています。 これは主に「歴史哲学」と言われる分野なのですが、悲しいかな日本ではあまりはやりません。 しかし、「歴史を見る目」を養うためには重要な学問であり、個人的にはまず「歴史の授業」をやる前に「歴史哲学の授業(あるいは歴史学の歴史)」をやるべきだと思っています。 ともあれ、歴史というのは「人間の主観」が入る余地が大きく、それ故に(「歴史教科書問題」に代表されるような)問題が多々起きる事になります。 「人間の主観が入る余地が大きい」というのは、同じ真実を語る場合でも、その人の「社会的・思想的・政治的な価値観」が(意識的であれ、無意識的であれ)入り、その結果余「歪曲・無視・捏造・偽造・誤謬etc,,,」が行われます。 なので、「社会的・思想的・政治的な価値観」に相違があるばあいに論争が起きることになります。 また、政治家や思想家、漫画家、作家、ジャーナリストなど、社会的影響力が大きいにも拘わらず、歴史学の訓練を受けたことのない人が発言した場合、それは「歴史の問題」ではなく「政治や思想の問題」にすり替わることが多いとも言えます。 この現状を現したのが、クロォチェの「すべての真の歴史とは、現在の歴史である」という言葉であるといえます。 また、M・ウェバーとグスタフ・フォン・シュモラーを中心に「価値判断論争」というのが争われたこともあります。 つまり、歴史学と「主観・客観」の問題は切っても切り離せない関係にあり、未だ答えを見ていません。 しかし、日本では「歴史は客観でなければならない!客観!!」と叫ばれるのに、この問題にはそっぽを向いていると言えます。 最後に、関連質問で私が以前回答したQ&Aを貼っておきます。 http://okwave.jp/qa3170977.html http://okwave.jp/qa3142213.html あと、歴史哲学の参考書 渡邊二郎『歴史の哲学 ー現代の思想的状況』(講談社学芸文庫)http://www.amazon.co.jp/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%AE%E5%93%B2%E5%AD%A6%E2%80%95%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E3%81%AE%E6%80%9D%E6%83%B3%E7%9A%84%E7%8A%B6%E6%B3%81-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E5%AD%A6%E8%A1%93%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%B8%A1%E8%BE%BA-%E4%BA%8C%E9%83%8E/dp/4061594060/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1200126193&sr=8-1 http://club.pep.ne.jp/~y.hosoya/booksreview/rekisitetsugaku.htm
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- a-koshino
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政治的な立場を補強するために持ち出される「歴史」が、中立になれるわけがありません。 歴史を学ぶ意味は、懐疑を育てることにあると考えております。 「(本当のことはわからないが)Aという考え方をすると、歴史上のBという現象を説明しやすい」というのが、中立的な立場になりましょうか。カッコの中が一番重要ですが、一番無視されやすい・・・。 教科書を代表とする書物などを疑い、幅広く調べ議論するという検証をせず、ただ丸暗記させる教育に、懐疑も中立性も皆無でしょう。 みずから疑い、考え、検証する習慣を持つ以外、ないかもしれません。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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この前、藪の中(芥川、説話)の質問がありました。黒澤だったか、三船を使ったのかな、映画もありました。 ご回答の通り歴史の真実は隠れてしまう。数珠を繋いでいる紐が数珠の玉(ぎょく)に隠されてしまうように。 事実と解釈が数珠の玉(ぎょく)といえそうです。 紐を見ようとするなら、人間界をでた意識で見るより仕方ない。 中立という語はこの件については、妥当なタームの任を維持できない。真ん中でも、足して二でわったのでもないし。 客観はことばはあるが、虚構でしかない。ハンブルに間主観がせいぜい(法哲学の碧海純一さんの主唱用語)。 数珠を紐だけにする、認識方法はもう歴史認識とはいえない、世界となる。ご質問者の念願は私も同様に持っているが、無意味な念願である。 人間は具体的、個別的でしかありえないので。
- imp-dsc
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事実は一つ。解釈は無数。 事実を時間軸に沿って並べる事でしか歴史は語れないが、奇妙な事に並べられた事実の列は既に虚構でしかない。 とだけ言っておきましょう。
- Roman0
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> 歴史という学問において「中立」とはどこに求められるので > しょうか? あるわけないでしょう。 そもそも歴史というものを発明したヘロドトスにしろ司馬遷にしろ、政治的正当性を示すものとして発明しているのですから。 > 政治、民族、国家、イデオロギー、個人の感情等と学問を分 > 離するにはどうしたらいいのでしょうか? 無理です。学問をするのは人間であり、人間から政治、民族、国家、イデオロギー、個人の感情等を分離することなどできません。 そういう実現不可能な無菌状態を望むのは、意味が無いですね。 人間の認識も知識も視野も有限であることを認識した上で、学問を活用したり学問を進めることが大切なのです。
- komes
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少なくとも歴史学で中立という立場を保つには時間の経過が必要です。 私達がローマの歴史に比較的に客観視を保てるのは遠い過去の出来事と知っているからです。 時間の経過していない場合、客観的に論ずる事はどうしても困難なものです。 さらに長い時代の間に直接的利害関係を無視出来る知識をはぐくむ事ができます。 日本と韓国との間の歴史認識の相違にしても、時間の経過と共に中立的な見方の萌芽が育ってきています。 勿論そのような思考を認めない向きもあるでしょう。
- wangwinf
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1.歴史において、「中立」なんて存在しない、ということだけ知っておけば十分では。 もし、「中立」なんてものを求めようとするのなら、正しい価値基準は一つだけ。 「勝ったものが正しい」 ジャイアニズムとかギャングの論法だとか言う人が出てきますが、これ以上公平で異論の余地が無い歴史の見方は存在しません。 2.政治、民族、国家、イデオロギー、個人の感情等と学問を分離するにはどうしたらいいのでしょうか? 大学に「学問の自由」を保証すれば十分なのでは?学問の使徒たる研究者に 政治が関与することが無ければ、一応歴史学を政治に利用することはあっても歴史学が政治によってゆがめられる事はありません。 学問の場はいろいろな立場の人がいますが、イデオロギーや民族がどうあろうとも論理的に矛盾がなくて歴史史料を改竄していなければ、どんな主張でも認められます。