- ベストアンサー
歴史には、自然科学における「普遍的法則」のようなものは存在するのでしょうか?
橋本惠氏の『イワクロ.COM~岩畔豪雄(いわくろひでお)と日米諒解案~』(↓) http://www.iwakuro.com/index.html は偶然見つけたサイト(オンライン書籍)でしたが、史実を丹念に調べ上げている力作だと思われます。が、今回の質問の趣旨は内容そのものから外れますので、詳細はサイトをご覧頂くものとして、私がこのサイトを読み、凄いと思った点は、著者が医師であり、自然科学に携わる方ならではの科学的な視点で歴史を捉えている点でした。 それは、著者の言葉を借りれば、25年程前に日本で起こった「エイズ薬害禍であるが、日米交渉の挫折と以下の諸点で相似形を呈している。 (1) 正規の手続きを踏んでなされた国家的規模の過ちであるという点。 (2) 施策が間違った方向へと進路をとるにあたって特異なキャラクターのキーマンが介在しているという点。 (3) キーマンの倣慢さが政府機関の意志決定を制度的にも心理的にも席巻しているという点。 (4) 過ちが明らかになるに従って徹底的な隠蔽工作がなされたという点。」 ということです。(あとがき―私がこの本を書いた真の理由―より) エイズ薬害禍と日米交渉の挫折――。一見何ら関連性のなさそうな2つの歴史的事実の間には実に驚くべき「相似形」が存在しているという著者の鋭い洞察力こそ、まさに自然科学で言う所の、事実を観察し、異なる事象間に存在する共通項を括り出し、そこから帰納的に規則性、法則性を導き出したことにあるように思われます。 ところで、史観(=歴史哲学?)というと、私には、唯物史観(史的唯物論?マルクス主義史観?)や皇国史観、あるいは終末思想や末法思想といった宗教的史観(?)くらいしか思い浮かばないのですが、いずれも特定のイデオロギーや宗教が色濃く反映されていて、到底、科学的なものとは思えません。 安政の大獄で刑死した福井藩士・橋本左内は、死の少し前、西郷隆盛や川路聖謨に対し、「日本がロシアと結べば必ずイギリスと戦争になる。イギリスと結べば必ずロシアと一戦交えなくてはならなくなる」と言ったそうです。その40数年後の1902年、日本はイギリスと日英同盟を結び、これを梃子に日露戦争を始めました。当時20歳を少し上回っただけの青年・橋本左内にどうして40数年後の未来が見えたのか――。 これはあくまでも推測ですが、おそらく彼は国内外の情勢だけでなく歴史にも通暁していたのではないか、そしてそこからある種の普遍的法則を彼独自の視点で帰納的に導き出していたからこそ未来が予測できたのではないかと思われます。 上述の橋本氏にしろ橋本左内にしろ、特定の史観とは全く無縁です(橋本左内は開国派であったため皇国史観からは自由でした)。再び橋本氏の言葉を借りれば、「歴史というものがしばしば言われる『歴史観』というような言葉で代表される、固定的な観念や概念でとらえられるようなものではなく、常にあらゆる可能性、流動性をはらんで進行してきたものであり、今現在も進行しつつあるものだ」と同氏が述べておられることからも明らかです(HOME―サイト立ち上げにあたり―より)。 考古学そのものを否定するつもりは毛頭ありませんが、歴史を学ぶことは、過去の膨大な情報量の中から、あたかも遺跡や土器を発掘するかのごとく細かい事実を穿り返すことではないように思われます。歴史を学ぶ意義は、まさに橋本氏や橋本左内のように、過去の事実から自然科学的探究によってある種の普遍的法則を見出し、それによって混沌とした現在を解析し、そして未来をも予測可能なものにすることにあるのではないかと思われます。 ところで、歴史には、史観(=歴史哲学?)以外に、自然科学における「普遍的法則」といったようなものは存在するのでしょうか?また、もし存在するとしたら、それはどのような歴史的事実を伴って表出したのでしょうか?それを通じて現在、そして未来をどのように解析することが可能なのでしょうか?また、そういったことを専門的に研究している方はいらっしゃいますでしょうか?あるいはこういったことに関する文献をご紹介頂いても結構です。よろしくお願いします。
- みんなの回答 (15)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
ANo.11、14です。 塩野氏の該当の記事はまだ拝読していませんが、彼女の書籍は『ローマ人の物語シリーズ』を始め、数冊読んだ事があります。 私も、この場では深入りしませんが、概ね近い「歴史観」を持っていて、好感を持ってますね。 イタリアに移り住んで、海外から日本を眺める彼女の視点は非常に参考になりますしね。 さて、本題ですが >私が申し上げたかったのは、例えば同じ文系の学問である経済学や法律学などには必ず「○○理論」とか「○○の法則」といった、自然科学における法則とか定理と同様のものが必ず存在するのに対し、歴史学においては、例えば「歴史的事実繰り返しの法則」(?)といった理論や法則のようなものがこれまで全くと言っていいほど見受けられなかったため、そうした理論や法則を歴史に求めるのはナンセンスなのでは そうでしたか。 こちらこそ、誤解と憶測で書いてしまいすいませんでした。 確かに、「歴史的事実」としての「法則性」というのは、未だに発見されたのはない気はします。 ただ、「歴史は繰り返す」というように「全く同じではないが、似たような現象」というのはありますので、そういった視点から「歴史を分析し」「未来予測する」という方法は存在します。(歴史学そのものというより、他の社会学分野の援用ですが) まぁ、社会学は「近々の歴史を扱う学問」だと私は考えていますが。 また、一般に「歴史は直線である」と言われますが、個人的には「歴史は螺旋である」と思ってます。 >もっとも塩野氏によれば、18世紀の歴史家は皆、主観を交えて歴史を書いていたのに対し、現在のアカデミズムでは「実証主義」がうるさく言われているため主観を排除している、これに対し同氏の書く歴史小説は、史料を「眼光紙背に徹する」まで読み込み、ローマやヴェネティアの指導者と同じになるまで頭で考える、という趣旨のことを言われていましたので、それは回答者様のご回答でいえばランケのいう歴史学に該当するのではないか、 そうですね。 18世紀頃までの歴史は、ほぼすべて著者の「主観」が先行して書かれた物が多いです。 その後、科学革命の影響で「歴史にも(自然科学分野のような)客観性が必要だ」という事が考えられるようになりました。 そして出てきたのが、レオポルト・フォン・ランケです。 彼は「史料をして語らしめよ」という言葉を残しています。 つまり、「史料批判」を徹底的に行い、その批判に耐えられた「史料」だけが真実を語っていると考えました。 そして、この立場が「実証主義」として現在の日本でも主流の立場となっています。 結果として、「主観の排除」に繋がり「歴史」がただの「好事家の蒐集」に成り下がってると言えます。 >「歴史を見る目」を養った後に読むに値する歴史書などございましたら、ご紹介頂けますと幸いです 私なりの主観ですが、幾つかお薦めを紹介してみます。 『ヴェネツィア―東西ヨーロッパのかなめ,1081-1797』 (岩波書店) W.H.マクニール (著), 清水 廣一郎 (翻訳) 中世から近世にかけて、東地中海貿易で隆盛を極めたヴェネツィア共和国が東西ヨーロッパをつなぐ役割を担ったという視点から書かれた本です。 文化と文化は相互に影響を及ぼしあっており、その点をヴェネツィアという都市国家に光を当てて浮き彫りにした書です。 『中世イタリア商人の世界―ルネサンス前夜の年代記』(平凡社 ) 清水廣一郎(著) 上記の本を翻訳した、清水廣一郎氏による中世イタリア商人の生活を記した本です。 史料を丁寧に検討し、歴史著述をされているのが分かります。 『中世シチリア王国 』(講談社現代新書) 高山 博 (著) 中世に存在した両シチリア王国という国の通史です。 新書で手軽に読めるように纏められています。 この王国は、キリスト教国家でありながらイスラム教徒と共存共栄していました。 その「異文化共存」がどのようになったかを浮き彫りにしています。 そして、「異文化共存」はグローバル化が進む現在、重要な課題であると言えます。 著者である高山氏も、そうした「問題意識」を持ちながら研究されているようです。 他の書は、まだ拝読していませんが、注目している方なので参考URLも載せておきます。 http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~tkymh/1Kenkyu.html 『チチェローネ イタリアの美術品鑑賞の手引き Der Cicerone』1855年(古代編が筑摩書房、建築編が中央公論美術出版、主流な芸術家に絞って編集したのが青土社) ヤーコプ・ブルクハルト(著) ランケの弟子であり、ルネサンス研究の大家であるブルクハルトの書の一つ。偉大な大先生が、ルネサンス美術の見方を教えてくれます。 『モンゴル帝国の興亡』(筑摩書房) 岡田 英弘 (著) 独特の歴史観を持つ著者が、モンゴル史を書いた書物です。 中国とヨーロッパが接触したモンゴル帝国がに、「世界史」を求めていたり、「漢文は中国語(話し言葉)とは無関係」と言い切ったり、独特な視点を持ってる方です。 また、積極的に政治的な発言もされており、ややナショナリズム的な言動も目立ちますので、その辺りは気を付ける必要があります。 『日本よ国家たれ―核の選択』(文芸春秋) 清水幾太郎(著) 安保闘争のおり反米運動の指導者的立場で活動し運動の挫折を経験した著者が、その経験を元に、日本人に向けて危機管理意識を説いた本。 「国際政治の戦国時代を生き延びるためには、如何に辛くても、核の問題をリアリストの眼で見なければいけない、アイディアリズムやセンチメンタリズムは、どんなに悲壮でも、現実の役には立たない」との著者の言には唸らされる。 ただ、「短絡的なナショナリズム」に陥らないように注意して読む必要もある。 ついでに、こちらの質問でも回答していますので、参考にしてください。 http://okwave.jp/qa3666956.html 思わぬ長文になってしまい、失礼しました。 参考になれば、幸いです。
その他の回答 (14)
- tyr134
- ベストアンサー率51% (851/1656)
ANo.11です。 丁寧に回答を読んでいただいたようで、光栄です。 少し補足しておきますね。 >そして、「歴史」に主観が入り込むことは止むを得ないけれども、そうするともし百人の歴史家なり歴史著述者がいれば百通りの「歴史」が書かれてしまうことになるわけで、それでは非常に不都合なので「客観に近付ける」ことが行われている、それが「歴史」というものである、と理解しましたが、いかがでしょうか そうですね、概ね私の認識と同じです。 百通りの「歴史」があるので、「歴史論争」が行われ、結果として「客観に近づく」という事になります。 ただ、それにも限界があって、「永遠に埋まらない空白部分」というのが存在していて、その点はいつまで経っても「論争」が続くことになります。 その空白に政治的・思想的な「主観」が入り、「(国家や社会的影響力のある人による)扇動」に利用される危険が常にあります。 その事を認識して気を付ける必要が、全ての人にあると言えます。(本来なら、義務教育課程でこの「歴史を見る目」を養う必要がある気がするのですが、日本の「歴史科目」は「暗記物」になってしまってますね。。。) >まず、歴史(学)においては自然科学的アプローチ、つまり一定の法則なり理論なりを探すことは無意味ということなのですね。 「無意味」と言ってしまうと、少し語弊がある気がします。 それを説明するのに、まず「歴史」というのを3つの段階に分けてみます。 1・「問題意識を持ち、歴史を見ること」 この段階は、所謂「研究テーマを決める」ことです。 例えば、『イワクロ.COM』のテーマや問題意識は「日米開戦回避の可能性」と「今後の日米関係」である思います。 このテーマや問題意識は研究者の「主観」であると同時に、日本という国やこれからの日米関係が重要であるという、社会や時代の要請に基づいていると言えます。 この段階の内容は、「研究方法云々」という以前に、人の欲求・社会の欲求は常にあるので、あまり議論にはなりませんね。 あるとすれば、個々人がどう「問題意識」を持って「テーマ」を設定できるかということでしょうか。(この点は、「歴史」に拘わらず必要な点だと思います) 2・「事実の追求」 こちらは、歴史的事実をどう追求していくか、という段階です。 この段階については、様々な試みがなされています。 そして、この段階での「一定の法則なり理論なりを探すこと」は重要で、それこそ「(自然)科学的アプローチ」が必要となります。 「歴史学」の基本は、「文字史料」を読み解くことからはじまりますが、書かれている内容が「事実かどうか」を判定するのに、「科学的アプローチ」というのは非常に有用です。 例えば、「660年に私(A)がこれを書いた」という本があったとします。 この時、本当にAが660年に書いた物かを判定するには、「660年にAは本を書いた」というBが書いた史料があれば、事実に近いと言えます。(C,やDがあればあるほど、事実である可能性が高くなる) しかし、他に史料がなかったら判定しようがありません。 そこで、「炭素14年代測定法」という「自然科学的技法」を使います。 これは、簡単に言うと「炭素の量を量って時代を特定しよう」という事です。 これを使って、その書物に使われている紙が「600年には存在した」と分かれば、事実である可能性が高くなります。 逆に「紙がつくられたのは1300年頃」という結果が出た場合、少なくともその本自体は「660年には無かった」事になります。 そうすると、「事実は無かった」か「事実はあったが書物自体は写本など、現物ではない」ということになります。 こうした、「事実判定」に関してはどう「客観的に事実を見つけるのか」という方法論なり技法が必要で、そのための追求は必要といえます。 3・「歴史記述」 最後は、研究して見つけた「事実」に基づいて、論文なり書物なりに纏める段階となります。 この段階では、また「主観」の問題が大きくなってきます。 例えば、「明智光秀が織田信長を暗殺した」という事実があります。 しかし、これを「光秀が信長を殺したから、天下統一が遅れたんだ」とするか、「光秀が信長をころしたから、秀吉によって天下が統一されたんだ」とするかでは、大きく意味合いが違ってくることになります。 つまり、記述者の「主観」で「歴史的意味や価値」が変ってしまうのです。 この部分では、なかなか「客観性」を求めるのは難しいと言えます。 クローチェやカーの言う「過去と現在の対話」や「生きた歴史」というのは、1と3において重要な視点となります。 逆に2の段階については「科学的であること」が重要となります。 ここが「客観的」でないと(歴史記述などの)拠って立つべき「土台」が築けない事になります。 ただ、この段階ではやはり「限界」があり最終的には「受けて(主観)」に委ねられることになると言えます。 参考になりましたら幸いです。
お礼
再度のご回答ありがとうございました。 回答者様のご回答は、推測ですが、現在の歴史学のアカデミズムの最先端を初心者にも分かり易くご解説頂いたものと推察致します。その意味で、大変貴重なコメントをお寄せ頂きましたことに対し、厚くお礼申し上げます。 歴史に自然科学的アプローチが不要と私が書きましたのは、私が言葉を省略してしまったために、舌足らずなものとなってしまいました。私が申し上げたかったのは、例えば同じ文系の学問である経済学や法律学などには必ず「○○理論」とか「○○の法則」といった、自然科学における法則とか定理と同様のものが必ず存在するのに対し、歴史学においては、例えば「歴史的事実繰り返しの法則」(?)といった理論や法則のようなものがこれまで全くと言っていいほど見受けられなかったため、そうした理論や法則を歴史に求めるのはナンセンスなのでは、という趣旨のことを書きたかったのですが、うまくお伝えできずに申し訳ありませんでした。
補足
ところで、本質問後、偶然、文藝春秋2008年3月号(↓)を読む機会があり、 http://www.bunshun.co.jp/mag/bungeishunju/index.htm そこに、「特別対談 インテリジェンスなき国家は滅ぶ 歴史を抹殺する日本外交の罪」というタイトルの記事で、「ローマ人の物語」シリーズ等で有名な歴史小説家の塩野七生氏が、期せずして回答者様と似ている発言をされていたのには、正直驚きました。もっとも塩野氏によれば、18世紀の歴史家は皆、主観を交えて歴史を書いていたのに対し、現在のアカデミズムでは「実証主義」がうるさく言われているため主観を排除している、これに対し同氏の書く歴史小説は、史料を「眼光紙背に徹する」まで読み込み、ローマやヴェネティアの指導者と同じになるまで頭で考える、という趣旨のことを言われていましたので、それは回答者様のご回答でいえばランケのいう歴史学に該当するのではないか、回答者様の言葉をお借りすれば歴史といっても問題意識や主観が入り込む余地は大いにあるということになると思いました。もっともここは塩野史観(?)を討論する場ではありませんのでこれ以上深入りすることは止めておきますが、少なくとも、歴史とは現代との対話である、とか、現代的問題意識が必要、という回答者様のご回答に対しては、私も全く賛成であり、その意味においてはそうした歴史書こそ真に価値のある、読むに値する書物であると思われます。 そこで回答者様に質問させて頂きたいのですが、ご紹介頂いた渡辺二郎氏の書籍を読み、「歴史を見る目」を養った後に読むに値する歴史書などございましたら、ご紹介頂けますと幸いです。一応高校までの日本史、世界史は学んでおりますし、最近、趣味で『中公バックス 世界の歴史』(中央公論社)シリーズを、13巻(帝国主義の時代)から16巻の現代(といっても内容は1960年頃で止まってしまったままですが)まで読みました。岩畔豪雄の名も実はこのシリーズの15巻(ファシズムと第二次大戦)で初めて知った次第です。 よろしくお願い致します。
- jayoosan
- ベストアンサー率28% (929/3259)
#12です。ちなみに20,000件というのは、どこかの民法のアナウンサーが言った数字です。 ちまたでは、もっと多いという声があります。また暴動と言い切っているものがもあります。 http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%80%80%E5%B9%B4%E9%96%93%E3%80%80%E6%9A%B4%E5%8B%95&lr= 数はおいておいても、実際には、貧しい農村の反乱、水を使わせろ運動(全土的に水が足りないので、都市部に周囲の省から水を提供させている。地方は水を自分の意思で使えない)、国に土地を開発で取られた人と地域政府の衝突(それも少ない保証もしくは強制で)、東トルキスタン(新疆ウィグルのこと)の独立、チベットの民間で組織した兵の暴動・衝突などが毎年起こっているのは、本当です。 こういった情報が日本で表立って民法であまりとりあげられないのは、中国取材への影響を考えているからかもしれません。 「日中記者交換協定」を調べてみてください。
お礼
三度のご回答ありがとうございました。
- jayoosan
- ベストアンサー率28% (929/3259)
>BBCのそのドラマも観てみたいのですが そのドラマはNHKが日本語吹き替えをつけて30分ドラマとして放映しました。オリジナルも30分だったかどうかは、わかりません。 この番組が始まる直前にビデオを撮ったのですが、時代もDVDの時代になったので嵩張るので引越しのときに処分してしまいました(内容は書いたように覚えていたので)。 NHKなので、埼玉かどこかにあるNHKアーカイブスにあるかもしれませんが、タイトルは思い出せません。放映年は1993か1994年です。 ところでそのドラマで、中国の沿岸部は香港周辺、上海周辺、東北部に色分けされ、これらの大きくみた3つくらいの沿岸部は豊かであり、それ以外は(内陸部は)、中国は混乱におちいってる可能性を指摘していました。 実際現時点で、深せん、上海、大連が豊かになっているのは驚きです。 ただドラマでは、国連軍もしくは西欧諸国の軍が軍事的に中国に介入しているようなイメージも匂わせており、中国を北から南へ、上・中・下と3つの勢力圏に分けて、影響をもっているような感じでした。 これは19世紀末の西欧諸国がアジアに進出したときのイメージのままのようでもあり、そのとおりにはならないかもしれませんが、現在中国内陸部で年間20,000件の地域衝突や農民反乱デモが起きていることをみると、今後どうなるかとても関心があります。
お礼
再度のご回答ありがとうございました。また、回答者様は現代中国の抱える問題にも精通されていらっしゃるようで、年間20,000件の地域衝突や農民反乱デモが起きている事実は、日本の新聞で報道されていなかったか、あるいは私が読み飛ばしていたのかもしれませんが、初めて知りました。 ただ、随分前でしたが、確か週刊文春に、豊かな華南地方は北京の中央政府に対して不満を抱いており、経済的にはこちらの方が上であるのに政治的実権は北京など華北に握られているため、政治的実権を取り戻すためいずれクーデターを起して独立する、というような記事を読んだことがあります。もちろんこれが本当かどうか分かりませんが、例えば清朝滅亡後、軍閥が割拠していた時代とか、宋が分裂して北宋と南宋ができたとか、中国史上においては統一王朝(政府)の崩壊ということは現実に起きていますので、もし「歴史は繰り返す」のであれば、回答者様のおっしゃる通りのことが今後起こらないとは決して断定はできないのではないかと思われます。
- tyr134
- ベストアンサー率51% (851/1656)
歴史に自然科学のような「普遍的な法則があるのか?」という問いは、歴史学が確立された18世紀以来続いている問いです。 特に、盛んになったのは、19世紀後半から20世紀前半です。 まず、ドイツにおいてレオポルト・フォン・ランケと言う人が、歴史とは「史料」を徹底的に批判してその批判に耐えられた物だけを使うべきだという、所謂「実証主義」を唱えました。 これは、今でも「歴史学の基礎」となっています。 しかし、その後に「本当に、批判に耐えられる史料なんてあるのか?」という問いが提示されます。 というのも、「史料」というのは「誰かが書いた物」であり、その時点で「書いた人の主観」が入るために、「主観的でしかない」という事です。 また、「史料を読む」行為も「読む人の主観」が入るので、これも「主観的」でしかありません。 また、ただ事実をコレクションするだけの「歴史」は無意味である、「本当に意味ある歴史」は「現在の問題意識と結びついた歴史である」という指摘が生まれてきます。 これを、鋭く指摘したのがイタリアの歴史家であり哲学者であるベネデット・クローチェです。 彼は「全ての真の歴史は、現代の歴史である」という言葉を残しています。 その後、同じような内容をカーやコリンウッドが唱えています。 つまり、「歴史」というのは「真実そのもの」や「普遍的な法則」ではなく、「過去と現在の対話」あるいは「生きた歴史」となるために、「現代的な問題意識」という視点が重要ということです。 ただ、そうすると「主観」が全面に出てくることとなります。 この「主観」が全面にでると、「歴史」が「都合良く歪められる」ことになります。 そうならないためには、ある程度「制約」が必要になってきます。 (少しうろ覚えなのですが)確か上原専録史だったかが、「社会や学会など」から「制約」がかかるし、歴史家自身が「事実をありのままに知ろう」とする姿勢が重要だということを言っていた気がします。 ともあれ、「歴史」というのは自然科学のような「普遍的法則」は見つからないというのが、多くの人の認識のようです。 17~18世紀には「(キリスト教的な)普遍史」を想定して、それを底辺として「歴史研究」が行われていました。(例えばヘーゲルの「歴史哲学」なんかは良い例) それが、ランケ以降は「実証主義」が基本となり、クローチェやカー以降は「現在の問題意識」と「歴史」を結ぶことも視野に入れながら、歴史研究が行われていると言えます。 >エイズ薬害禍と日米交渉の挫折――。一見何ら関連性のなさそうな2つの歴史的事実の間には実に驚くべき「相似形」が存在しているという著者の鋭い洞察力こそ、まさに自然科学で言う所の、事実を観察し、異なる事象間に存在する共通項を括り出し、そこから帰納的に規則性、法則性を導き出したことにあるように思われます。 これこそ、まさに「著者の主観的な思いこみ」とも取れる内容ですね。 それが、「歴史」なのです。 >歴史を学ぶ意義は、まさに橋本氏や橋本左内のように、過去の事実から自然科学的探究によってある種の普遍的法則を見出し、それによって混沌とした現在を解析し、そして未来をも予測可能なものにすることにあるのではないかと思われます。 これこそ、まさに「現在の問題意識(主観)」と「過去」の結びつきと言えます。(カー風に言えば「過去と現在との対話」) つまり、「歴史」には自然科学のような「客観性」は求められません。 出来うるとすれば、複数の人々(社会や学会)による、相互監視や緊張関係における「主観の連鎖」によって「客観に近付ける」事くらいです。 (つまり、「歴史は主観(フィクション)でしかない」からといって、「事実誤認」や「捏造」は赦されない) 最後に、参考Q&Aを挙げておきます。 こちらのANO2の私の回答も参考にしていただければと思います http://okwave.jp/qa3672975.html 参考になりましたら、幸いです。
お礼
ご回答ありがとうございました。また、併せて過去のご回答も拝読させて頂きました。 非常に興味深い内容で、まさに眼から鱗が落ちる思いが致しました。回答者様のおっしゃる「歴史学の歴史」は非常に面白いですね。 回答者様のおっしゃることは、まず、歴史(学)においては自然科学的アプローチ、つまり一定の法則なり理論なりを探すことは無意味ということなのですね。 従って、質問文に例として挙げたサイトの内容にも、著者自身の主観が大いに入っている、ただ、それも歴史の中の「ワン・オブ・ゼム」であって、決してそれが唯一の「歴史」ではない、ということですね。 そして、「歴史」に主観が入り込むことは止むを得ないけれども、そうするともし百人の歴史家なり歴史著述者がいれば百通りの「歴史」が書かれてしまうことになるわけで、それでは非常に不都合なので「客観に近付ける」ことが行われている、それが「歴史」というものである、と理解しましたが、いかがでしょうか。
- sudacyu
- ベストアンサー率35% (687/1961)
過去に『歴史は繰り返す?? よく、「歴史は繰り返す」という言葉を耳にするのですが、実際歴史が繰り返されているなぁと感じるような出来事はありますか? 』と言う質問がありました。 そのときの回答です。参考までに。 「歴史は進歩する」という考え方があります。 なぜなら、科学技術が進歩する以上、同じ状況は起こりえません。 逆に「歴史は繰り返す」という考え方があります。 科学技術が進歩しても、人間の心は実体験で鍛えられるもので、人の老化・死によってその実体験は失われていきます。 人は文学や映画など、欲や愛情・勇気・恐れなどさまざまな体験を伝えようと努力していますが、限界があります。 人が人である以上、その心の動きは似たような状況では似たようなものとなり、似たような行動を取ります。ですから、似たような歴史的状況があれば、似たような歴史が繰り返されることになります。 歴史を学び、過去にマイナスと思われる歴史があれば、注意して自分の心をコントロールして、安易な心の動きを抑える必要があります。それが歴史から学ぶということです。 例1.森林伐採と強国の移動 石炭が利用されるようになるまで、木が人間の利用する唯一のエネルギー源でした。 地中海に面したヨーロッパでは、雨量が少なく森林の回復に時間が掛かります。そのため、先進国・強国が樹木伐採によって森林がなくなると、衰退しその隣接地で森林の残っているところが次の先進国・強国となりました。 フェニキア(今のイスラエル・レバノン地域) ↓ ギリシャ ↓ ローマ・イタリア ↓ スペイン ↓ フランス・イギリス ここで石炭が使われるようになり、産業革命が起こりました。 例2. 国家の統一(歴史は繰り返される・歴史は進歩するが同時に見られる例) 中世、領主が治める小国の集まりであったフランス・イタリア・ドイツ・イギリスなどが交通・経済の広域化で一国にまとまった。 更なる交通・経済の発達で、ヨーロッパ諸国が一国にまとまろうとしている。 例3.ロシアの南下政策 北の厳しい冬の人々にとって、南の温かい土地と言うのは憧れにも似た魅力があるのでしょうね。 北の大陸国ロシアには、元は港がなかった。→戦争をして国土を広げ港を手に入れた。→北の国なので港が冬になると凍結して使えなくなる。→南の国と戦争して南の港を手に入れようとする。→手に入れた港(大洋に面していない)を有効活用しようと更に南の国と戦う。西で戦って負けてそこの進出が止まると、東の海を目指す。東で負けると再度西で進出しようとする。 歴史年表と歴史地図帳を並べて、帝政ロシアの歴史を見てみてください。一目瞭然です。 例4.大国が小国を甘く見てちょっかいを出して泥沼にはまり、政権のあり方や国策を変えざるを得なくなる。 1970年代アメリカ。ベトナム戦争をやった結果、国家財政が破綻寸前となり、第二次世界大戦後の一強の地位を失う。 1980年代ソ連。アフガニスタンで10年戦い続け、経済が崩壊。ソ連解体に至る。 2000年代アメリカ。イラクで泥沼。クリントン政権で黒字化していた国家予算が2004年度は50兆円以上の赤字。 ブッシュさんは歴史から学んでいないのは歴然。 ほかにもいろ例がありますよ。
お礼
ご回答ありがとうございました。 なるほど、確かにおっしゃる通りですね。回答者様が以前回答された際の質問者氏のコメントに似たコメントになってしまいますが、いくら科学技術が進歩し、ハード面つまり物質のみならずコンピュータやインターネットなどソフト面も発達しようと、肝心のそれを使いこなす側の人間の行動パターンは、100年経とうが1,000年経とうが変化しないものだ、それが歴史における真理である、という結論に辿りついたのですが、いかがでしょうか。
- harepanda
- ベストアンサー率30% (760/2474)
ANo7 harepandaです。 > 社会科学でも歴史の「法則」そのものが進化してもよさそうなものではないか、などとふと思ったのですが、いかがでしょうか。 歴史の法則が進化するかと言われれば、歴史は何世代にもわたってゆっくり続いていくものものであり、進化は存在しても、後になってみないと、その意味が分からなかった、というケースのほうが多いと思います。過去から学び近い未来を予想することは可能ですが、遠い未来のことを予測するのは非常に困難でしょう。社会の潮流を読み解くための前提が、どのように変化するか予想もつかないからです。たとえば、化石燃料が完全に枯渇する前に、人類が核融合発電を実用化しているか否かによって、社会のありかたは大きく変わるでしょう。核融合は高度な技術につき、開発に成功した国や企業がその能力を独占して特許登録してしまったら、現在以上に、電力輸出という現象が発達するでしょう(現在でも、電力の輸出・輸入をやっている国は、多数、あるのです)。 より広く社会科学全般を考えてみると、昨今のサブプライムローン問題を見ていて、よく感じることがあります。果たして、古典的な景気循環論は、今でも有効なのだろうか?と。 景気循環論自体が複雑な進歩を遂げており、その全体像を、マクロ経済学の専攻ではない私が理解しているわけでもないのですが、どうも、やはり、現実社会に合わなくなっているような気がします。景気循環論は基本的に製造業的な発想からスタートしているからです。すなわち「好景気→生産力増大→市場での商品の飽和→在庫の発生→不景気→生産能力の削減→在庫の消化→また、好景気→また生産力増大…」というのが、景気循環論の基本です。 さて、この景気循環論以前の経済学者の以前には、マルサスのように根暗な人がいて、経済は必然的に悪くなっていく一方だという発想をしていました。しかし、彼の考え方は当たりませんでした。景気循環という現象が、その後、発見されたからです。 そして、古典的な景気循環論は今でも有効なのか、考えて見ましょう。産業界の構造は大きく変わり、製造業が今でもある程度の重要性を持っている事実にはかわりはありません。しかし、新しい現象として、サービス業という、在庫調整の概念がないビジネスセクターが成長してきました。さらには、サブプライムローン問題に見るような、信用力が現実の返済能力を超えて高く設定された金融商品が世界を引っかき回す時代がやってきています。この状況でも、本当に古典的な景気循環論は有効なのだろうか?と、日々、TVの株式市況ニュースを見るたびに思うのです。昨今、「目の前の株価は下落しているが、ファンダメンタルはしっかりしているから大丈夫だ」という立場のアナリストがTVに出るたびに、「でも、そのファンダメンタルっている思想自体が、製造業的な時代遅れの発想なのに、信用力の暴走状態から生じたサブプライムローン問題を前に、ファンダメンタルを語る意味があるのかね?」、と。
お礼
再度のご回答ありがとうございました。 私も経済学を専門的に学んだことはありませんので、素人の発想でしかコメントできず、大変恐縮なのですが、回答者様が提示された命題、「古典的な景気循環論は今でも有効なのか」に関してははっきりしたことは分かりません。 ただ、アダム・スミスなどの古典派経済学の理論に基づいて「夜警国家論」という政策が採られていたのが、やがて大恐慌後、これではいかんということでケインズ経済学を生み、それがアメリカでルーズヴェルトのニューデール政策として現実のものとなって、その後、ブレトン・ウッズ体制ができて閉鎖的なブロック経済はやめましょう、という、まあ、いうなれば国際版ニューデール政策(?)の下、IMFや世銀なんかができていく。ところが音頭を取ってたアメリカ自身がニクソン政権時代に金・ドル交換制を止めてしまうというスミソニアン合意があって、この国際版ニューデール体制(?)が崩壊してしまう、さらに80年代にはもう国家財政が大赤字になったので「大きな政府」は止めようということで、これに理論的根拠を与えたのは新古典派経済学なのですが、政策としてはサッチャリズムとかレーガノミクスなんかの「小さな政府」を指向するようになる。日本でも小泉政権下で行われた構造改革とか規制緩和なんてのもこの類というわけでして、まあ、ざっと経済の理論と政策の歴史の流れを見てきたわけですが、経済の世界ではまず明確な理論があって、その理論に基づいて政策が実施されているわけですが、歴史の場合、理論というか法則というのが私には見えてこないものですから、今回、質問させて頂いた次第です。
- kgu-2
- ベストアンサー率49% (787/1592)
高校の世界史の馬渕先生、亡くなられたと訊いているので、哀悼を捧げる意味で、書き込みます。 世界史は、本の装丁の話から始まりました。表紙、裏表紙、奥付など。さらに改訂や重版。和とじと洋綴じの相違など。こんな話が3回ほどあり、『世界史はいつから始まるのか』と感じ始めたころ、ようやく始まりました。それが強烈。歴史の話をしながら教室を歩き回られるのですが、教科書はとりあえず片手で持たれて広げているだけ。歴史の授業ではなく、物語を聞いている感じで、必死にノートを走り書き。家に帰って清書をすると、大学ノート8冊になりました。 ノートは、始まりから重要人物、文化も建築物、美術品、科学的なものと、整然していました。そして、喜劇でもあるが(裏切り者などどうしようもない人物がいる)、悲劇の滅びの過程。黒板はほとんど使われず、この繰り返しでした。 >それが具体的にどういう形で繰り返されるのか、あるいは繰り返されてしまうのか、ということを教えて頂けませんでしょうか?よろしくお願いします。 その中で、何度もおっしゃった言葉が「歴史は繰り返す」。ヘロドトスの言葉だそうですが、授業を受けているときは「そんなことはない」と反発していました。しかし、今では自分流には解釈できます。 授業では、各国の興亡を話されていました。その国がどのようにして始まり、どのような文化があり、そして何故滅んだのか。すなわち、歴史が始まってから、このパターンでない国はありません。平家物語の栄枯盛衰、これを伝えたかったのでは、と思っています。 日本で言えば、藤原氏、鎌倉氏、足利氏、徳川氏の幕府は、同様のパターンで滅んでいます。300年は続いていません。中国の王朝も、エジプト、イスラム文化も、現在の世界を代表しているとは言えません。長期間続くと、中興の祖なんぞが出てきても、矛盾を取り繕えなくなるからです。 日本も、アメリカの土地を買い漁り、地球を跋扈していましたが、もう四苦八苦しています。団塊の世代が表舞台から去っていますので、日本の力を延ばせる原動力が見当たりません。 アメリカも、一人勝ちしているように見えますが、いつまでワガママを言えるかどうか。原水爆で世界を脅しているだけです。 ちなみに、中国全体が日本並の暮らしをできることはありません。エネルギーから計算すると、現在の日本の100倍のエネルギーを必要とします。石炭が300年ぶん埋蔵されているそうですが、日本並の生活をすると3年で使い切ります。地球温暖化で、アウトでしょう。まったく新しいエネルギーが開発されれば別ですが。 日本や中国の歴史を見ると、一つの国家、あるいは王朝が栄えるのは、300年が限界、と結論しています。ただ、これからは変るかもしれません。というのは、第二次大戦までは、武力に物を言わせて滅ぼせました。が民主主義が共通認識になると、征服することができないからです。腐ったままの国家がどうなるのか、興味があるところですが。 >そして未来をどのように解析することが可能なのでしょうか? 予言が当たるのではなく、当たった予言が残るのです。外れた予言は、消えていきます。当たる占い、ではなく、当たったものが歴史に残るのです。中国の歴史書には、「この戦いは不利」と占ったのに出陣して負けた、占い師が「この国の母になる」と占って、周囲は笑ったが皇帝の母になった、なんぞが残っていますが、これは当たったから残ったということです(阿刀田高氏の受け売り)。 この子は、将来横綱になれる、なんぞを予言する人は多くのひとが言いますが、まあ横綱になれるのはほんの一握り。ほとんどの人はハズレです。そうでなければ、プロ野球の評論家がシーズン前に順位予想して、ほとんどハズレルにならないと・・・。阪神ファンの私が、「優勝は阪神」と予想しておけば、阪神が優勝すれば、世間は「よく当たる」と持ち上げてくれます。
お礼
ご回答ありがとうございました。 回答者様の恩師の馬渕先生、いいことをおっしゃいますね。私の高校時代の世界史の教師など、ただ教科書を棒読みするだけ。面白くも何ともありませんでした。貴重な体験をされた回答者様が羨ましいです。 「歴史は繰り返す」は、ギリシアの歴史の父・ヘロドトスの言葉でしたか。そして馬渕先生はそのことを実証されるために世界史の授業をされた、というわけですね。私もふと、ある方から伺った、「一度世界史の表舞台に上がった国や文明が滅ぶと、同じ国(文明)は二度と表舞台には登場しない」という法則(?)の話を思い出しました。ちょうどバブルの頃で、もう日本は世界から学ぶものは何もない、と言われていた時代でしたから、その後の凋落ぶりは改めて説明を要しないと思われます。 たった一つだけ、国家300年限界説の例外があるとすれば、それはローマ帝国でしょうか。もっとも、ローマ帝国時代の紋章か何かを、旗のマークだったか何か忘れましたが、それに使ったムッソリーニのファシスト政権が300年どころかその1桁少ない数字さえもたなかったのは、悲劇というより喜劇にさえ思えますが…。 回答者様の現代社会の分析も鋭い洞察力に満ちたものだと感服致しました。また、当たった予言が残り外れた予言が消えるなら、過去に予言されたことは全て当ったことになりますね。やはり洞察力の鋭い方(阿刀田高氏)の物の見方は私のような凡人とは視点が違うなと感心しました。 いずれにせよ、大変貴重なお話を伺えましたことに改めてお礼申し上げます。
- harepanda
- ベストアンサー率30% (760/2474)
文系です。 この分野で著名なのは、カーという人が書いた「歴史とは何か」というそのものずばりの本で、岩波新書で手に入ります。これがまず、勉強のスタート地点としては、優れているでしょう。彼の理論によると、歴史とは現在と過去の対話であり、過去の事象は現代人の意識の枠組み内部でしか理解ができず、時代や状況に応じて、過去の事象の評価は変わってくるということになります。マルクスの場合は、同じ現象を、「意識が存在を規定するのではなく、存在が意識を規定する」という言い方をします。ようは生れ落ちた環境によって、人間の思考様式は大きな影響をうけてしまうというわけです。 歴史を貫く法則があるかと言われたら、強引に「ある」と言い切ったのはヘーゲルという哲学者です。歴史とは、人類社会がどんどんと自由なものになっていくプロセスだというわけです。これを単純化し、アメリカのネオコン思想に適合させ、すでに世界はアメリカ同様の自由社会になっているのだから、歴史は既に終わっているという意見を表明したのが、フランシス・フクヤマという人です。 過去の歴史から経験則を学ぶと、確かに、現代社会の現象も理解し易くなります。このあたりがアメリカ人に欠けている能力で、彼らは高々200年程度の歴史しかもたないため、過去の歴史に学ぶという態度に欠けているのです。第二次世界大戦後の日本の戦後処理において、江戸時代から残存していた地主・小作人関係を一掃し、多数の自営小作農民を作り出すという農地解放をやっています。しかし、GHQはこの時、フランス革命の前例があったことに気がついていなかったのだと思います。すなわち、土地をもらった農民は必ず保守化し、それ以上の民主化を望まなくなり、ナポレオン独裁の支持者となってフランス革命を止めてしまったということに。日本の場合、かつては共産党支持だった農民が、一斉に自民党支持に切り替わり、自民党的な地域密着型・利益誘導型政治を生み出したという、悪い副作用を発生させてしまったのです。 理科系の世界でも、法則とは言っても実は不十分なものであり、後に、それを含んだより高度な法則が提案されるということはありますよね。ニュートン力学から相対性理論への進化は、まさにそのようなものです。理科系学問においても、法則というのは絶対のものとは言えません。このレベルのものであっても理科系の人たちは法則は存在すると主張するわけですから、だったら歴史にも同じ程度のレベルの法則は存在すると、文系からは主張することが出来ます。そして、私がベースとしているヘーゲルという哲学者の場合、次のような理論があります。「現実的なものと、理性的なものは必ず一致する。理論と現実は違うなどといっている人は、単に偏見にとらわれているだけだ。偏見にとらわれない意識と同様、あらゆる哲学は現実的なものと理性的なものは一致するという確信からスタートするのである」。そう、明確に、社会科学の分野においても、法則は存在するとしている立場の人なのです。これは「法の哲学」という本の序文で明確に表明されているもので、のちにマルクス主義者が誤解し、「ヘーゲルは現実に存在する間違った社会体制を、理性的なものであるとして肯定する保守反動だ」という説をばらまいてしまったのです。
お礼
ご回答ありがとうございました。 大変興味深い内容のご回答で、眼から鱗が落ちる思いが致しました。 まず、E.H.カーはその名は知っていても内容まで踏み込んだことはありませんでしたので、今回のご説明で大変よく分かりました。 しかし、今回の回答者様のご回答の中で最も興味をそそられたのは、ヘーゲルに関するとても分かり易いご説明でした。私の以前の知識では、まず弁証法の産みの親である、ということと、ヘーゲル哲学は神の存在と密接だということから、キリスト教色の強いものだという偏見がありました。ですから、今回の回答者様のご説明により、ヘーゲル哲学に対する認識が全く変わりました。 アメリカの対日占領政策についても、歴史から学ばないとどうなるかという実証例を詳細かつ平易にご説明頂き、誠にありがとうございました。 自然科学の分野でも、おっしゃる通りニュートンの古典力学からアインシュタインの相対性理論へと「法則」そのものが進化しているのですから、絶対不変な法則なるものはあり得ないと思われます。であれば、社会科学でも歴史の「法則」そのものが進化してもよさそうなものではないか、などとふと思ったのですが、いかがでしょうか。
- jk7
- ベストアンサー率18% (46/247)
地域によってはありますね。 例えば中国王朝史は、成立・統一→中央集権化を目指す政策推進→宦官らの台頭による政治腐敗の進行→農民反乱→滅亡の繰り返しです。 イスラーム世界の拡大期には、各地域で様々な王朝が興亡を繰り広げましたが、その興亡はある程度同じ期間で繰り返されいていました。 遊牧世界では、有力騎馬民族がオアシス都市を占領支配して定住化すると、その後また他の有力騎馬民族がそのオアシス都市を占領支配するという繰り返しでした。 また同じく遊牧世界では、カリスマ的リーダーが出現すればそのもとに軍事力が一気に集結し、大帝国を築き上げるが、そのリーダー不在となるとその大帝国もあっという間に消滅するという歴史もあります。
お礼
ご回答ありがとうございました。 大変興味深い事実をご紹介頂き、厚くお礼申し上げます。
補足
質問門ですが、回答者様は「歴史の反復性」は地域性があると指摘されておられますが、逆の言い方をすれば、地域によってはこうした「歴史の反復性」がない、ということになるのでしょうか?
- jayoosan
- ベストアンサー率28% (929/3259)
人間に性格があり、企業に企業体質があり、県や町や村に特色があるのなら、それらが構成した国家にも性格のようなものがあると思います。 また、そういった性格や体質が、似たようなことを繰り返す傾向があるなら、国も繰り返す歴史があったり、あるいはその国の歴史や政治には、ある傾向性をみることはできると思います。 また中国は、漢民族の王朝のときは、歴史上で似たような場面で、似たような暴動や陰謀がおきたりしているところもあれば、他民族(元や金・清)が中国を支配する時代では、統治や問題点への対応も異なるので、国の性格とは地理的な国というよりも、誰がその地を支配しているかでもかわると思います。ちょうど問題を起こしてばかり企業も、経営陣が外からはいり総入れ替えすると、企業体質と経営体質ががらっとかわるように。 またアメリカのように、移民を毎年一定量受け入れ、移民が足りないと抽選会も行っているような国では、国民のタイプもさまざまなので、今後どのような歴史をつくり繰り返していくかは見ていくに値します。 たとえば、多くの大陸(中国大陸や欧州大陸)では、長い年月の中で政治的にも民族的にも地域統合と分裂がくりかえされて来ましたが、アメリカも19世紀の南北戦争で国内の分裂と統合が終わり今後まったく分裂が起きない、とは現時点では言えないと思います。 ところで中国人が書いた、下記の本はおもしろかったです。 著者によると、日本の歴史をみると、中国大陸の王朝(政府)と親睦を深めていない時代や国交がない時代のほうが、日本は安定し文化的なものが国内でたくさんうまれている法則性があるというものです。 日本は中国とかかわらないほうがいいともいわんばかりの内容です。 「日中友好」は日本を滅ぼす! 歴史が教える「脱・中国」の法則 石平著 講談社 (2005/7/21) ISBN-13: 978-4062723275 ところでEUが統合の動きを開始した1993年に、イギリスが研究者を集めて20年後のEUの姿がどのようになっているか、要因を分析しながら研究をまとめました。それをBBCがドラマ化して放映しました。 そこでは、90年代の金融市場崩壊を指摘し(欧州の市場としていたが、実際は英国政府と米ヘッジファンドの英国ポンド通貨の売買バトルをきっかけに、タイ、韓国など1997年のアジア通貨危機になった)、21世紀の前半には世界の原油の取り合いを指摘し(現在のオイル高)、2013年にはアメリカは少数民族の数が増えすぎ、有色人種の大統領出現している可能性を指摘していました。オバマが勝てば、これも現実化します。 なお、欧州とアメリカは、今後オイルの権利でこじれて、欧と米のどちらかが爆撃をし衝突(戦争をするとまでは述べていない)、日本は軍を持っており(防衛省)中国の混乱に乗じて中国の沿岸部の経済的に豊かな地域に進出しているだろう、と指摘していました。
お礼
ご回答ありがとうございました。 大変興味深い事実をご紹介頂き、とても勉強になりました。 まず中国史に関してですが、確かにおっしゃることは中学・高校で勉強した際強く感じました。その時思ったのは、清朝滅亡後に新たにできたのは共産主義を旗印に掲げる毛沢東という名の皇帝を頂く漢民族の王朝が誕生したに過ぎないのではないか、ということでした。それはロシアにおいても同様で、スターリンという名の新しいツァーがロマノフ王朝のツァーに代わって登場したに過ぎないのではないか、ということでした。 次に日中史に関しては、面白そうなことが書かれていると思いました。ご紹介頂いた本は探してみます。 BBCのそのドラマも観てみたいのですが、番組名は何でしょうか?それが分かれば、もしDVDになっていれば探せるかもしれませんので。
- 1
- 2
お礼
三度に渡る詳細かつ分かり易いご説明を行って頂きましたことに対しまして、心よりお礼申し上げます。 回答者様のおっしゃる通り、歴史は何も「好事家の蒐集」でもなければ、ましてや受験で人間をふるいにかける「暗記科目」でもなく、現在を、そして未来を考え、生きる上で有効な、大いなる力を秘めた「宝物」だと改めて思いました。 しかし、宝物を見極める鑑定眼を持ち合わせていなければ、それこそ「宝の持ち腐れ」で終ってしまうでしょうし、ましてや受験勉強での苦い経験でその後の付き合いを止めてしまうというのも、「宝物」の本当の価値を知らずに一生を終えてしまうようなものですので、これもまた大変もったいない話です。 ただ、そうとは言え、歴史に関しては専門的な勉強を行ったことのない私としては、一体この「宝物」に接するにはどうすればよいのかが分かりませんでした。そして以前から抱いてきた疑問と共に、今回少々得たばかりの僅かな知識に基づいて質問させて頂いた次第でしたが、回答者様の一連の素晴らしいご回答に邂逅したことは、私の今後の人生において大変有意義であろうと思われます。 些少ですが、ポイントを贈呈させて頂きましたので、ご査収下さいます様お願い申し上げます。また、今後、もし何か分からないことがあった場合には質問させて頂きたいと存じますので、その節は何卒よろしくお願い申し上げます。