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他人を認めるとはどういうことですか?
「他人から認められないという人は、その人自身が、他人を認めていないのです」 「相手が認めてくれたら、こちらも認めるではだめなのです」 「他人に認めて欲しいという気持ちをなくして、その前に、他人を認めることです。そうすれば、間違いなく、他人はあなたを認めてくれるようになるでしょう」 ある自己啓発的な本を読みましたが、この一説の意味が解りません。 この「認める」という言葉は「許す」という言葉にも変換できます。 (例:相手が許してくれたら、こちらも許す) 他人を認めるとはどういうことですか?その存在、その考えを肯定するということですか?何故、相手を認めなければ、自分は認められないのでしょうか?
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その文章 よく読んでみてください。 自己啓発本を書いている人の心理 読み取ってみてください。 1行目。 ガツンと言い切っていますよね。 2行目も自身ありげに言いきっています。 なのに3行目 どうしたのでしょう。 「間違いなく」といいながら「でしょう」とはこれいかに。 1行目 2行目の言い切りはどうしたのでしょう。 間違いなく といいながら、「です」ではなく「でしょう」とつい使ってしまったこの作者の心理は???? 実は、この人の他人には言えるが、自分はできていないことを知っている。 が、自分ができもしないことを、他人にあたかも言えるかのように書いて、自分を騙しているわけです。 悲しいことに、それを本人は気づいていない。 が、文書に書く時、その心が出てしまっている。 よく自己啓発本を書く人がいますが、実生活は一体どのような人でしょう。 本の内容と一致しているか? ある人はベストセラーに常になる自己啓発本を書いています。 しかし、その人の実態を知る人からすれば、ああ、、、、なのだそうです。 真実に彼を知る人からすれば、彼は詐欺師。 他人にこうすればいいと本に書いていることを、本人自信は少しもやっていない。 ばかりか向精神薬を飲むまで心が病んでいる。 薬で治療しながら、文書を書いているわけです。 ホテルかと思えるほどの豪邸に住んでいるので、人を魅了する啓発本を書く能力は優れているわけです。 それで稼ぎまくっているわけですが、自分ができもしない夢物語を書いて、読者を騙して、騙された人がまた彼の自己啓発本を買って、今度こそ 今度こそ 今度こそ と読むが実行できず、また次の本を買う。 「作者本人もできてませんよ 嘘八百本で、彼は詐欺師で詐欺で人を騙してメシくっているわけで、あなた 騙されつづけてお金を詐欺師に渡して、彼自身もできない自己改革をやろうとしているんですよ。 そろそろ気づいたらどうですか? 騙されているって!」って言いたいですが、騙されたい 甘い言葉によって迷妄の闇を彷徨いたいというのが、読者の願望なら、それはそれで騙されているとわかっていながら、騙されたいわけで、それが読者たちの個性。 ということで、目が覚めました? えっとですね。。。 他人を認めるというのは、イヤなことをする人であっても好きになれってことじゃないです。 嫌なことをするのがその人の個性なんだと知ることが、<認める>という言葉に代替で使われていると思うんですね。 つまり、どんな嫌な行為をする人であれ、それがその人らしさだと認めることです。 行為自体は嫌いなままでいい。 その人がそういう人なんだ、 そういうことを好む人なんだ とその人の個性を知る(認める)。 そうすることによって、自分らしさを認めることができるわけです。 え?他人の欠点を知るとどうして、自分を認めることになるのか? えっとですね、、、 自分を自己評価したとき、いやーーな部分もたくさんありますよね? 無いって完璧な人はいないはず。 一つや二つ イヤな自分を自分は知っている。 でも、それをひっくるめて、<私>であり<あなた>なんです。 唯一無二の私であり あなたなんです。 <自分に欠点があるから他人の欠点にも目をつぶらないと、自分を指摘されてしまう。>じゃあない。 どんなに他人の欠点に目をつぶったところで、全く言わないでいたところで、他人は自分の欠点をするどく突いてきます。 いいじゃないですか。 どんなに言われようと「はい それを私も欠点だと自覚しています。しかし それも唯一の私らしさを形成しているのです。つまり欠点も私の個性なんです」なわけです。 「あなたが欠点を含めてあなたらしさを形成しているのと同じです」なわけです。 ということで、<他人の欠点を指摘しない、言わない、目をつぶる → 自分が他人から認められるようになる> じゃあない。 他人の欠点を含めた個性を、その人らしさ だと認めることで、自分が自分にたいして卑下しなくなるってわけです。 他人の評価は移ろいやすいです。固定していません。 そんな昨日と明日で変わってしまう移ろいやすいものを追い求めたところで、一体それがなんだというのでしょう。 根を張っていれば、他人のうつろいやすい危ない評価を受けるたびに、グラグラ根元をゆさぶられ、やがて、強風 つまり 強い批判により 根っこが抜けて空とんじゃうことないじゃないですか。 相手を認めるってことは、正しい人だと認めるってことじゃない。 自分と同じ欠点を持った人で、その欠点を含めてその人らしさなんだと認めることです。 イヤはイヤなままでいいんです。 イヤだと思うのも、あなたらしさなわけですから。 一度キレると収集がつかなくなる人がいます。 で、他人はどうするか。 ぎゃーーぎゃーー 言わせておくわけです。 経験上 止めることはできないと知っているから。 で、10分間叫び続けさせたあと、「おわりましたか」とか「そのへんでやめておきましょう」と言うらしい。 発作がおさまればまた普通に戻るわけで、まわりの人はその欠点を認めている つまり 知っているので、発作がおさまるまで待って、終わったら、忘れたかのようにいつもの会話に戻るわけです。 これが認めるってことじゃないでしょうか。
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- bananasand
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>どんなに信頼がなくなった相手でも(例えば…不倫の果て、妻子を捨てた夫に対してでも)相手を認められない(許せない)と、自分がだめになってしまうと本にありました。 なるほど。 相手を信頼することが前提なんですね。そもそも、それがないと、相手からの信頼が得られないというよりも、相手の信頼を受容できる準備さえ出来ていないということで、それ準備以上の信頼感は自ら得られないということですね。 相手から認められたと認識するには、こちらが認められる準備つまり相手を認めることが出来ていないとその範囲でしか認められたという認識ができないということでしょう。 相手が認めてくれたら、こちらも認めるではだめなのは、基本的姿勢のことで、相手が認めなくなったらこちらも認めない、認めた側と認められた側の関係を引きずっていることではそもそもだめなんでしょうね。 相手から認められる限界は、自分が認めた範囲で認識されるに留まるということじゃないですかね。
お礼
ありがとうございます。 相手から認められる限界は、自分が認めた範囲で認識されるに留まるということじゃないですかね。 私の、他人に対してや自身をも認められない包容力のなさが、悩み苦しめている原因かもしれません。
- oshiete0107
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「他人を認める」って、こう考えると、本当に難しいですね。 参考になるかわかりませんが、先日読んだ、養老孟司さんの「死の壁」の中に、「死の人称」というのがありました。 自分の死は、亡くなったらもう意識できない。 三人称の死は、たいていの人にとっては、ただの数字に過ぎない。一般的に意味を持つのは、親族とか、親しい友人のような、自分と普段から関係のある二人称の人の死である。というようなことでした。 これを「認めるの人称」と変えたらどうでしょう。 i-noch-iさんに、子供さんがいたら、その子供さんを認めると思うのですが、そのような心境で、関わりのある人達に対処したら認めることにはならないでしょうか? 「存在を認める」というと、あなたは生きていてもいいですよ、ということですかね。 そんな風に、お互いを承認しあい、受け入れることで、人は、究極の孤独から一時的にでも救われて、生き続けていけるのではないでしょうか? 人は、周りの人に認められた自分を愛おしく思うもの。 そうでなければ、ナルシストになりますよね。
お礼
ありがとうございます。 理不尽な理由や身に覚えのない理由で、他人から自分の存在を認めてもらえないようなことがあり、辛い状況でした。 アドバイス頂いた本、探して読んでみます。
>「他人から認められないという人は、その人自身が、他人を認めていないのです」 こういうのは、(愛されたいならまず自分から愛しなさいとか)、書かれがちですけど、そもそも「認められた」事が無いなら「認める」ってどうやるの?ってなると思いますので(愛す、場合も同じく)どちらを先にすべきとか考えてもあまり意味がない様に思います。 3つをまとめて、「相手(の意見)を「違う」とはなっから否定する前に、一度自分の中に入れて、本当に違うのかよく考えてみましょう」ってところでどうでしょうか?
お礼
ありがとうございます。 こういうのは、(愛されたいならまず自分から愛しなさいとか)、書かれがちですけど、そもそも「認められた」事が無いなら「認める」ってどうやるの? そうです、このような疑問が湧くのです。 そして「相手が認めてくれたら自分も認める」…のが、何故、だめなのか解らないのです。
- bananasand
- ベストアンサー率21% (117/533)
どれがどんな場合にも当て嵌まるとは思えませんね。 信頼という言葉に替えて、初対面の人に対しては、 そうなる面があると思いますが、 既にある物事で信頼を失ってしまったら、 単に相手を信頼しただけでは到底取り戻すことは出来ません。 みたいなことがひっかかっているのではありませんか。
お礼
ありがとうございます。 どんなに信頼がなくなった相手でも(例えば…不倫の果て、妻子を捨てた夫に対してでも)相手を認められない(許せない)と、自分がだめになってしまうと本にありました。
- kedamaru
- ベストアンサー率21% (103/472)
認める⇒好く,に置き換えてみましょう。 「他人から好かれないは、その人自身が、他人を好いていないのです」 「相手が好いてくれたら、こちらも好きになってあげる,ではだめなのです」 「他人に好いて欲しいという気持ちをなくして、その前に、他人を好くことです。そうすれば、間違いなく、他人はあなたを好いてくれるようになるでしょう」 相手を好けば(認めれば),あなたの相手に対する対応も尊敬の念がこもったり,丁寧な対応になったりします。そうすれば相手も気分が良い訳で,あなたの良いところを見つけてくれます。 嫌いな人間は長所より短所が目に付きますが,好きな相手なら短所より長所が目に付きますよね。 同じ行動でも,親友の行動なら笑って済ませるが,嫌いな奴がやったら断固抗議,となりませんか。 「相手を認めることは,存在,考えを肯定すること」これは正解です。ただ,無条件に肯定するのではなく,「なぜ相手はそういう考えを持ったのか?」を考え,納得した上で肯定することが大切です。
お礼
ありがとうございます。「好き」という言葉に変換すると、解りやすいですね。 でも、どんなに相手が、はなから私を認めなくても(許さなくても)私が相手を認める(許す)ことによって、それが心理的に変わると思われますか?
お礼
ありがとうございます。気持ちが楽になりました。