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テキヤがヤクザの一形態となった歴史的経緯
ヤクザが副業でテキヤをやることもまま有るとはいえ、現在では露天商として、典型的ヤクザ・暴力団組織とは同一視できないものとなったテキヤですが、なぜかつては「ヤクザ」の一形態という扱いを受けていたのでしょうか。 私の推測したのは以下の2点です。 1.かつての商売は、行商や棒振り、引き屋台から始まり、やがては小さな店舗を構え、最終的に表店になって初めて一人前の商売人として、税金納付の対象になった。 したがって店舗を持たない露天商は、士農工商ヒエラルキーの一端を占めるまともな商人としての立場ではなかったので「ヤクザ商売」と扱われた。 2.江戸時代には町民階級は宗門人別帳などにより、各地域に属して生活の基盤とするのが建前で、放浪者や乞食、そしてさらには巡礼者や仇討ちの仇を探して廻る元藩士の家族でさえ、それは一種の無宿者としてヤクザの一形態とされていた。 (実際落語「花見の仇討ち」では仇討ち巡礼の者を武士が「ヤクザ者」と呼ぶ場面がありますね) したがって収入の源の実態は商売・商いであっても、各地を渡り歩いて商売する輩は、しょせん宿無しの無宿者=ヤクザという扱いになった。 以上が私の推測した、テキヤがかつてヤクザとされていた理由なのですが、これは間違っているでしょうか。 訂正、ご教示、その他関連の知識をお教え頂けたり、もしくは関連のサイトなどお教えいただければ幸いです
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- tono-todo
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最初の認識が間違っているように思う。 ヤクザの一形態がテキヤであると同様にテキヤの一形態がヤクザであり、昔も今も変わらない。 ヤクザ要素の少ないテキヤであっても、内部は擬似親族関係 親が居て、子がいて、兄貴もいるし、叔父貴もいる 外見上は、両者は変わらない。 #1の指摘は重要です。 ヤクザはいやだがテキヤは可、などど言わないで下さい。 親がヤクザでも子供にとっては優しい親、だからと言って、排除の対象からは外せない。
暴力団、ヤクザ、テキヤ、ヤシ、侠客、博徒など、暴力関係の商売の種類や言葉はいろいろあって、その定義もいろいろです。 ま、下のURLが常識的なところを言っていると思います。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%B4%E5%8A%9B%E5%9B%A3 さて、貴説は大筋では当たっていると思いますが、下記のところで終わっているのにはチョッと引っかかります。 >したがって収入の源の実態は商売・商いであっても、各地を渡り歩いて商売する輩は、しょせん宿無しの無宿者=ヤクザという扱いになった。 これでは、テキヤの範囲が広すぎるように思います。ここから、もう少し論を進めて、祭りなどの露天で怪しげな商売をする者たちの相互扶助組織までもっていったほうが、よろしいのではないかと思います。 テキヤ=暴力性あり・・・ここの説明が必要かと。 で、小生はそこのところを説明する作文能力も根気もありません。すみません。ま、相互扶助組織にならざるを得なかった、という理由を考えてゆけば、説明できるのではないでしょうか。
お礼
怪しげな商売=客からのクレーム対応の必要性を含めた相互扶助組織形成としての一家・組の組織 参考になりました ありがとうございます
- PENPENMAKKY
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日本最大のテキヤ組織をご存知ですか?極東会と言います。 1993年に指定暴力団になっていますが? 会長は曹 圭化(在日朝鮮人)で、この数年は不穏な行動を起こしております。 昨年、町田市で発生した銃撃事件は極東会の構成員ですし、極東会絡みで国際問題になった事件としては『不審船銃撃事件』があります。 引き上げられた不審船から回収された携帯電話の最後の交信相手が極東会でした。
お礼
回答ありがとうございます しかし、質問はテキヤ団体の現状ではなく歴史的経緯です
補足
回答はありがたいですが、質問の内容と関連ない回答はご遠慮ください。 現代の「ヤクザ」「暴力団」「テキヤ」の定義や、その形態については質問していません。 またそれを現代社会で排除すべきかとか、許容される存在であるかも質問していません。 テキヤが「ヤクザ稼業」という社会的認識となった経緯を質問しているのです。 なおここに「ヤクザ」とは暴力団とイコールではありません。 例えば入れ墨(刺青ではない)の入った凶状持ちはもちろん、巡礼者や仇討ち巡礼も「ヤクザ」に入るのです。 このような意味での「ヤクザ」の一分類としてテキヤが含まれるようになった経緯を知りたいのです。