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日本人性(和の精神?)は徳川300年からか?
廃刀令、戦乱の皆無(に近い)、仏教的な肉食の禁止、農耕中心主義(農民の割合の多さ)などから、現在の日本人性が生じた流れはありますか?もし、ヨーロッパのように地続きで戦乱が絶えず、かつ肉食が一般的で庶民も銃で狩をしたりするのが一般的であれば、もっと、西欧的民族になったものでしょうか?
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>日本人性(和の精神?)は徳川300年からか? 同感です。 聖徳太子の言葉の影響は、大昔過ぎると思います。そして下々までその思想が伝わっていたのか疑問が残ります。その後現在まで戦乱などいろいろとありましたので、聖徳太子の言葉とされるものが文書で残っている、という程度だと思います。 「和の精神」といえば恰好がつきますが、むしろ「長いものに巻かれろ」の方が当たっているんじゃないでしょうか。 江戸時代の300年の泰平の中で「A.長いものに巻かれろ」と「B.義理人情」の考え方が生まれてきました。 「B.義理人情」は忠臣蔵やいろいろな読み物、芝居で流行りました。みんなこの手のものは好きです。他人が義理人情で命を落とすのには喝采を送りますが、いざ自分のこととなると、100人中99人が「A.長いものに巻かれろ」を採用します。 徳川幕府、諸藩の長い支配体制の中で、どのようにして生き延びていくことが、自分にとって一番得かということを武士も百姓も学びました。その結果が「A.長いものに巻かれろ」です。 幕末に薩長が力を持って、武力でも幕府を圧倒するようになりました。そうすると、諸藩は雪崩をうって官軍側につきました。義理で幕府側についたのは僅かです。 先の敗戦でも、あれだけ鬼畜米英といっていたのが、敗戦を境に進駐軍にぺこぺこしだしました。ゲリラやレジスタンスなどは起こりませんでした。ヨーロッパやアラブとはエライ違いです。 なんだかんだと、みんな偉そうに理屈をこねていますが、結局「長いものに巻かれろ」の精神!に従って、サラリーマン人生を送っているんじゃないでしょうか。 狩とか肉食の関係はわかりません。
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- bougainvillea
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裁判の記録などを見ると鎌倉時代の日本人はけっこう合理的で西洋的な物の見方をしてたようです。これが時代が下って南北朝になると中央政権による明解な問題解決など期待できなくなり、各自の村々の寄り合いで問題を解決しなければならなくなりました。さらに戦国時代でこの傾向は強まりました。村の寄り合いでは理不尽でも多数決にしたがうなあなあが(よく言えば和の精神)が尊重され、合理性は軽視されました。ここらへんが日本人ぽさの源流だと思います。徳川の支配によりこの傾向が固定化されて、今でもその解毒に手間取ってるというところだと思います。
お礼
中央集権で、民意あるいは意識というものは衰退するのかもしれない。「個」は埋没してしまうあるいは進んで消失するのかもしれません。昨今の情勢も参考になるでしょうね。
- tyr134
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日本人性というのを、どう考えるかによって変ると思います。 例えば、「日本」という「国」が意識され始めたのはいつ頃からなのかという問いです。 これは、7~8世紀頃と考えられているようです。 ただし、この時の「日本」は「中国の従属国」として意識されていました。 しかし、それ以前にも「倭国」として中国と関係は持っていたようですし、「従属関係(日本→中国へ朝貢)」というのはあまり変化無いようにも思います。 これは、「日本という国号が唐によって承認されたことによる」と考えられていることからも、中国が上の立場(日本が保護を求めた)であったとも考えられます。 しかし、この対中国観は豊臣から徳川へと政権が移る中で変遷していったと考えられています。 というのも、カトリック国との関係で「日本は神国」という考えが台頭してきます。 「神国」なので、もはや中国と主従関係ではなく対等かこちらが上の立場だと考えるようになります。 こうした「対中国観」「独立国家観」は、徳川政権より発すると考えられなくもありません。 宗教のお家制度(檀家制度)も秀吉が始め家康が発展させた結果といえます。 それまでは、結構自由奔放だったようです。 しかし、戦国では一向宗との激しい権力争いがあり、宗教が権力に楯突いたときの危険性を認識した秀吉や家康は、民衆に神社・寺に登録するように求めました。(当然、政府が禁止する宗教への帰属は許されません) その結果、檀家制度と共にお家制度が農民にまで広がったと考えられます。 そして、この政策が現在の日本人の「無宗教性」に繋がっていると指摘する学者も居ます。 一方で、海外から入ってきた文化や技術を受け入れ、それを日本風にアレンジしてしまう点などは、古代よりあったと言えます。 例えば、漢字で読み書きして意思疎通を図る技術は中国から入ってきたと考えられています。それを「ひらがな」や「カタカナ」にアレンジして現在に至ります。 この「ひらがな」は7~8世紀頃に成立したと考えられており、その頃にはそうした「器用さ」は持っていたと言えます。 >もし、ヨーロッパのように地続きで戦乱が絶えず、かつ肉食が一般的で庶民も銃で狩をしたりするのが一般的であれば、もっと、西欧的民族になったものでしょうか? こうした「if」に答えるのは中々難しいと思います。 文化・文明の形成には、たしかに「地理的条件が必要」とする考えもあります。 もし、文化・文明が「地理的条件」のみを原因として発生するのであれば、「日本はヨーロッパ大陸と同じ条件の下にあったと仮定すると、西洋型の文化を育んできただろう」という「仮説」も成り立つでしょう。 しかし、文化・文明の発生・発展のしかたが「地理的条件のみを原因とする」という根拠はまだまだ浅いと思います。(影響は与えていますが) 文化・文明の発生というのは、まだまだ研究余地のある分野であろうかと思います。
お礼
政治機構が全国的であって安定したものであると、当然に平穏無事ということを筆頭に上げるようになる。そうすると、民族性からいっても当然長いものに巻かれる体制が出来上がる。民族性と、徳川幕府という長期間安定政権(それも島国という条件が大きいだろう)の相乗効果で、このようになったということらしいですね。
- googahaku
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決定的なところは、矢張り徳川時代にあったと思います。 当時の施政者(幕府・各藩大名)は、相当有能であったと思われます。 農村における「村社会」の形成、都市部における「町名主的構成」を土台に諸外国には例を見ない統制は強かったが、比較的に民主的で、庶民にも受け容れられた体制を作りあげたことにあるのではないでしょうか。 また、当時(江戸時代)では、諸外国と較べて農民・庶民の生活も豊かだったことも大きな要因のひとつになっているようです。 神道や日本人にあった構造変化を遂げた仏教も、前記の要因の相乗効果を加速する効果をもたらし、協調性や奥ゆかしさといった高度な文化・風俗を育て上げたものと思われます。 なんだかんだといっても、その流れは現代にも受け継がれているはずです。
お礼
仏教は「個」ではないですからね。特に日本の政治機構的な宗教は、結局民意を反映して、あるいは幕藩体制の統治機構を反映して「個」を抑えるということなのでしょう。
- miginejike
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下の方々が仰っている通り、和が明文化されたのは、聖徳太子の時代ですから、当然その前から「和」の価値観はありました。 ご存知かと思いますが、縄文人と呼ばれる原日本人は、シベリアや東南アジア、ポリネシアなどからきた人々の混血です。極東という地勢的な条件もあったのでしょうが、他の地域に比べても人種の坩堝だった可能性があります。ちなみに現在の日本人には、16グループに分類できます。 天皇家が各地を統一するまでは、蝦夷や熊襲、隼人などたくさんの部族がありました。 そのような状況のため、他の地域よりも、「協調性」というものが必要であった可能性は充分あります。 ですから、原始的な価値観として、既に「和」の精神が生まれたという説があります。 ちなみに、仏教は、中国や、韓国の例を見てもわかりますが、すごく幅があって勝手に解釈できるものなので、あまり影響を受けていません。むしろ、日本人の価値観に合わせた、有効に利用したという程度で考えていただいても間違いないと思います。
お礼
原始的にも決して荒くはなかったんでしょうね。やはり島国ということは大きいのでしょう。混血が盛んだった地域だとは知りませんでした。協調性は警戒よりもよりポピュラーだったんでしょうかね。
- hazu01_01
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#7の人の「長いものに巻かれろ」の精神、鋭いところをついているなと思いました。 江戸時代の300年間、外部(外国、他藩など)との接触をたたれて、移動の禁止や五人組などという連帯責任制が幅を利かせているとそうなるでしょうね。 日本の場合、十分に農業ができ、武士の給与も米の価値が基になるので農耕中心主義は当然ですね。こういう人がいないと江戸、大坂の町民も生活ができなくなるでしょうね。 肉食の禁止はどうでしょう。実際のところ、江戸時代の人も肉食はしていたと思いますよ。精進料理の発展、地方のいろいろな肉の名物料理などを考えると明治以降に発展したとは思えません。 実際に猟師、漁師という職業はありました。 そう考えると、刀狩、五人組、移動の禁止、宗教選択の制限、宗教を利用した庶民管理などはその後の日本人に大きな影響を与えているのでしょうね。(日本人の宗教観のなさを含めてです)
お礼
宗教のあり方かもしれませんね。講など土着的なつながりというものが「個」というものを尊重しないということにもなりえます。 考えてみると、やはり、江戸時代の基本的な生活様式統治機構が大きいと思います。
- nemosan
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>現在の日本人性が生じた流れはありますか? これは戦後の平和憲法の影響が一番強いのでは? 江戸と現在の間に、大日本帝国という西欧を手本にした好戦的な時代がありましたよねぇ?
- jayoosan
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一般人として個人的に感じていたのは、聖徳太子の発した和の精神がどの時代に実際の日本人の生活における精神になったのか、に関心がありました。 つまり競い戦う中でもどこかで協調し、打開策・解決策を見つけ、必要であれば人を立て・推すなどして、よい結果を導き出すという精神や考え方ですが、私は北条時宗時代の元が攻めてきたおりには、すでにあったのではと考えていました。 この時代はそれ以前の平氏の時代から守護などを各地に置き、鎌倉時代には幕府という形ができ、日本全土にネットワークができていった時代だと思います。 元寇においては、鎌倉からはるか離れた九州の地での、人々は2度目の襲来に備えて沿岸の防備に取り組んだり、武将(御家人)たちも所領・恩賞狙いというのはあったと思いますが、実際の戦いでも、個々の御家人が連携して動いた印象があります。 これは中国にありがちな、上からの命令でやった、みたいなイメージと異なり、この時代からすでに個々の人がアイデアを出し協調する姿勢はあったと感じていました。 しかし昨年末に見たNHKの「そのとき歴史が動いた」で、継体天皇の話題がテーマになったとき、もっと古い時代にも和の精神があったのでは?と、見方が変わりました。 彼の時代(6世紀初頭、聖徳太子より前)、ヤマト政権は皇位継承など豪族たちの争いで混乱していました。そのとき後の継体天皇となる人は、国政や人の動きがある中心地ではなく、福井県あたりにすんでいました(NHKでは、国の中心からわざと離れる形で、そこに住んでいたという描き方だったと思います)。ヤマトの豪族たちは、中心になる人物が見つからず、わざわざ福井まで人を送って、継体天皇に王となることを依頼します。すると彼は「あなたたちだけではなく、他の豪族たちも私がその地位につくことに同意させるなら」やりましょう、と今でいう事前の「根回し的」なものと、あとでノーとはいわせない「確約をとる」やり方を見せていました。そしてその後、25年の治世を行いました。 この当時この地域とのネットワークがあったことも驚きでしたが、その後の政治においても、国家統一のための大陸の知識を導入するなど、その後の大陸に日本が向かう基盤のようなものを、この時代に感じます。 http://www.nhk.or.jp/sonotoki/2007_11.html#03
お礼
伝統的な土着的な「民族性」というものなのかもしれませんね。しかし元寇でそれが現れているというお考え、なるほどという感じです。これほど辺境の出来事でありながら、日本全国ネットワーク化されているがごときの動きといっていいかもしれません。
- eroero1919
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中国やインドも植民地にされたんですから、あまり変わらなかったんじゃないかなあ。
- Roman0
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「和」が重要なコンセプトであることが文書で確認できるのは、十七条憲法からです。 しかも、それが別に聖徳太子の発明であるわけではなく、既存の倫理観を文書化したと考えられますから、更に以前からほぼ確立していたと言えるでしょう。 また、戦乱が耐えなかったのは、実のところ平安中期からです。その後は、一時期、鎌倉幕府などの強力な軍事力を持ったトップが実力も備えていた時期は、比較的平和なこともありましたが、家康が国内を固めるまで、基本的に中央政府による秩序維持なんてものは期待できるものではありませんでした。 また、江戸時代でも肉食が一般的でなかったわけではありません。鶏は普通に食べられていましたし、猪・馬・兎・鯨なども、特に珍しいものでもありませんでした。肉食禁止は僧侶の戒律であってそれ以外を縛るものではありません。しかも、僧侶でもこの戒律をまじめに守った僧侶は明恵くらいの少数派で、特に親鸞以後の真宗では、肉食妻帯は公然です。 更に、庶民が武器を持たなくなったのは、明治の廃刀令からではなく秀吉の刀狩以後です。 基本的に、あなたの想定は、それぞれ別の話過ぎて、不確定要素の大きすぎる IF です。IF を思考実験として考えるにしても、実験条件を揃えましょう。 結論として、「~流れはありますか?」に対しては、「そう考えるのは無理がありすぎるし、事実に反している点も多々ある」です。
お礼
鎌倉が滅びてしまうと、中央政権もなくなり、政治的にもモラル的にもずいぶんと荒れたあるいは自由闊達な雰囲気が流れたようです。いろいろと複雑に絡んでいるのでしょうね。
- sakurasoso
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こんにちは 日本人の和の精神は「和をもって尊しとなす」との聖徳太子から始まったと、どこかで誰かが言っていましたよ。 私はこれに納得しました。国際社会に通用しにくい日本人の始まりはここにあったのかと思いました。「話せば分かる」が日本人のDNAに刷り込まれているのです。現総理も「日本人の一つ覚え」に言っていますよね、「話せば分かる」と。これが外国に通用するなら戦争は起こりませんね。 和の精神は大事であると思いますが、島国の中の話ですね。残念ながら。 日本が大陸と陸続きであったとしても西欧的な民族にはならないと思いますね。私が思うだけですが、日本人性の成り立ちは環境すなわち四季の存在によるところが大きいと思います。辛い冬の寒さも三月辛抱すれば春がやって来る。春が来ればまた食べ物も作られる。もう少しがまんすれば夜が明けることが分かっているから希望を繋げたのだと。一冬分を蓄えれば生き延びることができると分かっていたから勤勉さが備わったのだと。蓄えの残り分は繰り越し利益として年々溜めていきここまで豊かになったのだと。 もう一つはやはり外からの侵略を受けることがなかったことが大きいのではないでしょうかね。
お礼
確かに4季とうものは人の精神に深く影響します。しかし、同じ四季がある国でもやはりずいぶんと人間性は違う。共通のものもあるのかもしれないが、もっと大きな要素にとかしこまれてしまっているようでうす。やはり島国、アジアの辺境等いろいろ絡み合ったようですね。
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お礼
たいへん納得できました。 今形に残っているものは、やはり割と新しい時代様式が大きいに違いないです。江戸時代の地域政治、戦乱の皆無、文書社会それらが多分に影響しているでしょうね。