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「怒り」とは何か?
「怒り」という感情についてお聞きしたいと思います。 ひょっとするとこれは「哲学」のカテかとも考えました。 わたしは一応大学の哲学科卒ということになっていますが、 哲学のカテのQ&Aを散見しても正直歯が立ちません・・・ 「心理学」の回答者を一段低く見ているのではなく、 わかり易い言葉で説明できると思うのです。 さて質問文は簡潔に、『「怒り」とは何でしょう?』・・・だけでもいいのですが、 あまりに範囲が広くなってしまいます。 それでも構いませんと言いたいと思いました・・・ そもそも、怒りという感情に善悪は伴うのか? つまり「善き怒り」とか「悪しき怒り」というものがあるのか? 想いは「タクシードライバー」のトラビス(デ・ニーロ)から マルコムX、チェ・ゲバラまで広がります。 或いは「あの野郎いけすかネェ野郎じゃねえか!」という思いは否定されるべき感情なのか? 社会の不条理の中で人はどのように生きられるのか? 「怒り」についてお聞きしたいと思います。 哲学では難解すぎ、「アンケート」では物足りない気がして、 馴染みのこちらに投稿しました。 よろしくお願いします。
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#6です。 >異質の自我が存在する以上、摩擦熱のように必然的に生じるものということでしょうか? :現状としてはそういうことでもありますが、ここの骨子は「>自我と自我との【対立】によってもたらされる」ということです。 それ(自我における対立という属性)ゆえにバランスとして超自我性が思慮されるわけですが、これは必ずしも自我を引っ込めれば(あるいは抑圧すれば)済む、という問題ではない、という考えです。 自我も超自我も(無論、本能も)共存できる必要があります。 この3者のバランスによって精神性は成立していますから、たとえば自我の主張が弱すぎると他の2者の言い分が結果として幅を利かせることになるのは物理的(=心理的)に考えても当然のことと言えるでしょう。 逆に他の2者が強すぎると自我の肩幅が狭くなる、ということもまた真理と言えます。 >しかし不条理というのは単に自我の相克ということにとどまらず、 もっと巨大な存在のような気がするのですが・・・ :おっしゃるとおりと思います。 不条理とは本質的に存在そのものの属性であると言えるでしょう。 存在するために立ち現れるものは全て、いずれはその存在自体を停止するために存在することになりますから。 保存と安定は逆行するものであり、愛の背後には常に破壊が付き纏っている。 不条理の本質はこういったところではないかと思うのですが、しかし、存在(「生」も含め)とは、それら矛盾したエネルギーの拮抗状態の顕現であろうとも思われます。 集団社会における不条理ということに関しては、他者との「>自我の相克」によって網羅されると言って差し支えないでしょう。 >「わたしは動物である」という結論に達するのですが・・・ :怒りは感情ですし、感情は本能に基づくものでしょう。 本能は動物に最低限備わった機能ですから、怒っている人間=動物であって何の不思議もないのではないでしょうか。 このへんは私もいつも興味を持って拝見している#4さんのご回答に詳しいと思いますが、大脳辺縁系というのは本能を司るものと考えてよいのかもしれません。 「>次の風を待つ」というのはちょっと格好つけた言葉の綾ですから深くお考えにならないでください。 ただ、こういったことが無ければ疲れるから、というだけのことです。 いわゆる処世術にすぎませんが、実際には、見境無く突き進み忸怩たる思いに捉われることしばしばの未熟者です。
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- miyanowaki
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うちは、猫を飼っていますが、「悲」の感情は よくみますが、さすがに (「怒」「哀」)あるいは (「喜」「楽」) の感情はみたことがありません^^。 > これは明らかに当方のミスです。 動物本能的には 「悲」と「怒」が、やはり混在しているのでしょう。 よくよく考えてみるに、「赤ちゃんが泣く」という行為も 単なる「悲」そのものではなく、 (表現方法が分からないばっかりに)「怒」の要素も 多分に含まれている可能性も大いに考えられる ような気がしてきました。 従って、当方が最初で述べた「怒」が「悲」が 「自尊心」という介在物を通じ、進化したというのは 根本的に間違っているのかもしれません。 ただ、「喜」「楽」は原始的な感情とまでは、 動物行動学的に考えても、いえないのかもしれません。 そして、「怒」と「悲」も、本来的には原始的類の もので、表裏一体の関係・・・そう思えるように なってきました。 感情を「怒」と「悲」等 類型化するあたりに そもそも無理があるんでしょうね、きっと。 以上、あくまで当方の独断的な意見です。
お礼
お礼が遅くなりまして申し訳ありません。 わたし自身、正しい答えも知らなければ、発達心理学や行動心理学等の学問の世界でどのように言われているのかの知識も皆無で、ただ、皆さん個々人のご意見をお聞きしたかっただけですので、独断で構わないのです。 どうもありがとうございました。 PS トリュフォーの「野生の少年」今度機会があれば観てみたいと思います。 これも情報ありがとうございました。
- miyanowaki
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訂正 原始的な「非」 →原始的な「悲」
- miyanowaki
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追記 トリュフォー監督の「野生の少年」の実話にも あるように、原始的な「非」と後天的な「怒」に いわゆる狼少年の内面は支配され、「喜」「楽」の 感情を少年に後天的に作り上げるのは、(少年を 育てた博士は)並々ならぬ苦労をしたようです。
- miyanowaki
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最初の者です。 最初で述べたことは、(専門家でなく、またその種の文献 を読んだわけでもなく)全て、独断的な表現です。 『タクシードライバー』の主人公のタクシー運転手にせよ、 ゲバラにせよ、マルコムXにせよ、 もともとは赤ちゃんだったのであり、誰かにミルクを あたえてもらったり、食べ物をもらったりして 幼児期&少年期を過ごしてきたわけですよね? つまり、たとえ偉人とはいえ、生まれた当初は 「おぎゃーおぎゃー」といわゆる「悲」(*意味を認識してからの「哀」ではない事に注意)の感情しか有していないことは 当然の事ですよ。 いわゆる「悲」は、生命の生存に直結した、原始的な 自己防衛本能から生じる感情ですから、 感情の起源が「悲」しか考えられないのは当然です。 生まれたばかりの赤ちゃんが、 (「怒」「哀」)あるいは (「喜」「楽」) を有していますか?? 「おんぎゃー」という「悲」しか 有していないはずです。 その後、個々人によって、育つ社会環境が違うのですが、 三歳あたりから芽生え始める「自尊心」が 運命的な生活&社会環境によって、プラスにねじまげられるか、 マイナスにねじまけげられるか、によって 大局的に「自尊心を満足させるか否か」がほぼ決まるのも ある意味 真理です。もちろん、その後の本人の 努力&運によっては、そのベクトルも修正させる可能性も あるかもしれませんが、 大方は、幼児期&少年期 等の初期の生活&社会環境によって 性格が基礎付けられるものです。 幼児期&少年期 等の初期の生活&社会環境において、 何らかの不遇な障害に偶発的に遭遇した方は 「自尊心」が主としてマイナスベクトルにねじまげられ、 主として(「怒」「哀」)感情に満ちているケースが 多いですが、この(生活&社会環境に対する)感情を 建設的なベクトルに有効活用できた人は「偉人」へ、 破壊的なベクトルに用いた人は「犯罪者」へ なるわけです。 理屈うんぬんではなく、普通に考えれば当然だと 思いますよ。 ですので、「怒」という感情のパーツだけを 抜き出して小難しく考えるのは、 (表現が悪くて恐縮ですが)思考オナニーと一緒だと 思います。 人間が便宜的な「言葉」の範疇で、何か絶対的な「真理」 を知ろうとすることは、自己満足にすぎません。 思うに、「言葉」という道具ができたおかげで、 人類は発展をとげてきましたが、細かく見れば 「言葉」によって(「悲」以外の)「各種感情」を 擬似的に作り上げてきたわけです。 ですので、(「悲」以外の)「各種感情」というのは 言葉の派生観念にすぎません。 うちは、猫を飼っていますが、「悲」の感情は よくみますが、さすがに (「怒」「哀」)あるいは (「喜」「楽」) の感情はみたことがありません^^。 (まぁ、もっとも「にゃー」という発する音声も 喜びに解釈できないこともありませんが、人間の主観を 介しての解釈に過ぎないと思いますから) 進化論を前提に考えれば、猫も人間も所詮同じ 生命体ですので、やはり原始的な感情は「悲」しか ないのでしょう。 宗教的&神秘的思考方法を交えればいくらでも 想像的世界を思考の中だけで構築できますが、 まずは、(視覚的にみえる)生の現実を思考素材に 取り入れるのが懸命だと思いますよ。 以上は、あくまで、当方の独断的解釈。 失礼な表現はお許しください。 この世の中に本来的に絶対的な観念などないわけで、 それにも拘わらず絶対的な回答を求めるのは ほんと、自己満足の世界にすぎないと思いますよ。 (科学以外の)哲学的&宗教的&道徳的の領域においては 「これぞ真理!」という回答は永久に出せないでしょう。 多数決原理で運用されている「法の世界」ですら、 「国民」という擬似的「多数派」思考で運営され、 法的には「法律」というのが絶対観念なのでしょうが、 これすらも人間が作り出した擬似的な世界に過ぎませんから。 要は、人間というのは、「言葉の世界」に翻弄されている わけです。
お礼
再度のご意見ありがとうございます。 ちょっと反論めいた発言をお許し下さい・・・ > いわゆる「悲」は、生命の生存に直結した、原始的な 自己防衛本能から生じる感情ですから、 感情の起源が「悲」しか考えられないのは当然です。 生まれたばかりの赤ちゃんが、 (「怒」「哀」)あるいは (「喜」「楽」)を有していますか?? 「おんぎゃー」という「悲」しか有していないはずです。 ・・・このご意見には賛成しかねます。 わたしはむしろ、逆のような気がするのです。 (哀しみ、或いは悲しみという概念についても異論はありますが) いずれにしても、人間存在の悲哀というものを認識するには、ある程度の外界との接触があって後という気がします。 つまり外界=自分を取り巻く世界、自己或いは人間存在の無常というものの感覚、否、知的理解を通して得られる後天的な感情であると思います。 つまり世界認識、自己認識の上に成り立つ感情が悲哀というものだとわたしは考えます。 また「悲」と「哀」ですが、わたしは前者は特定の対象によって喚起された感情。後者は存在そのものに根差すものと考えています、 しかし存在そのものに根差すといってもやはりそれを認識するためには 自己及び世界への知的眼差しを介してという前提があると思います。 つまり自分を含めた人間存在のはかなさと言うものを客観視することによって「自己の悲哀」をはじめて認識し得ると・・・ >この世の中に本来的に絶対的な観念などないわけで、 それにも拘わらず絶対的な回答を求めるのは ほんと、自己満足の世界にすぎないと思いますよ。 人はパンのみにて生きるに非ず・・・ 言葉がなければ思考することもできないわけですし、思考停止は即ち人間性の放棄と直結します。 哲学の起源は「ロゴス」といっても良いでしょう。 ソクラテスの「問答」による「産婆術」も言葉遊びと捕らえることも出来るでしょう。 >人間が便宜的な「言葉」の範疇で、何か絶対的な「真理」 を知ろうとすることは、自己満足にすぎません。 わたしはこれあればこその人間だと思っています。
- hakobulu
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>「善き怒り」とか「悪しき怒り」というものがあるのか? :「怒り」というのは他者への感情ですから、他者のどういう状態に対しての怒りなのかによって、(主観的にせよ客観的にせよ)善悪の評価を付けようとすれば付けられるでしょう。 ただ、善悪を判断する絶対的基準をどこに求めるのか(または存在するのか)という点で、「あるかないか」という疑問に即答することは難しいように思います。 (善悪とは何か、といったことに遡らざるを得ないでしょうから) >「あの野郎いけすかネェ野郎じゃねえか!」という思いは否定されるべき感情なのか? :これも「いけすかねえ」と判断した内容によるでしょう。 また、そう思ってからどう行動しようとするのか、という点でも違ってくるでしょう。 以上は「社会的」側面からの話。 個人の内部処理においてはこの感情は否定されるべきではない、と思われます。 無理やり押さえつけようとしても、抑圧されたエネルギーとして無意識に格納されるだけで、後日、別の箇所から噴出することになるのは明らかだからです。 この噴火は全く無関係の他者を巻き込むことになるのがほぼ確実で、本人自体も制御不能になるという点がおぞましいと言えばおぞましい点と言えるでしょう。 つまり、怒りを感じてしまったなら、その怒りを与えた相手に対して反撃の一矢を報いておくことが重要になります。 無論、怒りを感じないようにできれば一番良いのですが。 とりあえず、一矢の射方は種々ありますが「適度」な力で射ないと、自分自身が反動で傷を負ってしまう場合もしばしばあるようです。 >社会の不条理の中で人はどのように生きられるのか? :不条理とは、突き詰めれば結局、自我と自我との対立によってもたらされるものであって、ある個人にとっての自我と他者の自我とが共存するためには、超自我性が必須アイテムとなることでしょう。 アイデンティティとしての自我を無にすることが不可能であればこそ、「我を超える」という意味での超自我性を求める属性を人は持つのだろうと思われます。 これは言ってみれば非常に矛盾を含んだ精神性と捉えることもできます。 その矛盾を統括して(何らかの意味での)前進をしようとするならば、その原動力は平衡感覚ではないか、という気がします。 完全に諦念に達している奴隷にとって自我は無いに等しいと言っていいように思うので、不条理という認識自体は自我の一通りの健全性を示していると思われます。 ここに他者の自我が接触してくることによって不条理性を認識することになってしまうわけですが、しかし、その不条理は「自らの自我」を基準として判断した不条理に他なりません。 そういうわけで、この世が不条理ではない、と思っている人間はごく一握りの人間ではないでしょうか。 自我を主張しつつ自ら受けた理不尽な圧力については堂々と対峙する。 無論、相手からの同様の主張も受け止める。 受け止めることが不可能な場合はすぐに白黒をつけようとしないで焦らず次の風を待つ。 風を待っている人は多いでしょうし、そのために今何ができるのか、ということの延長が人生なのか、という気がすることもあります。
お礼
相変わらず硬質かつ明晰な分析恐れ入ります・・・ 再読しても、わたしがここで口を差し挟む余地など殆どないのですが、お決まりの無駄口として・・・ 不条理とは自我というものが存在する以上、 そして複数の人間が存在し、 複数の異質の自我が存在する以上、 摩擦熱のように必然的に生じるものということでしょうか? 「人がいる=不条理がアル」ということであるなら、 「在って当たり前の不条理」という、なんだか妙な定義に聞こえるのですが・・・(無論そこに異質の他者の軋轢、齟齬、確執を調停する役としての 超自我が存在するのでしょうけれど・・・) しかし不条理というのは単に自我の相克ということにとどまらず、 もっと巨大な存在のような気がするのですが・・・ >すぐに白黒をつけようとしないで焦らず次の風を待つ。 考えると、わたしには、上の方が生理的情動反応としての怒りを解説されたように、動物としてのその場その場の情動反応しかないように思うのです。 動物に時間という観念、感覚がなければ、 過去も、未来もなく、現在の情動しか存在しないわけですが、 お二人の回答を総合すると、「わたしは動物である」という結論に達するのですが・・・ 何故なら、 >焦らず次の風を待つ。ということの延長が人生なのか、という気がすることもあります。 という部分の感覚が全く欠如しているからです・・・ 動物の脳で書いたコメントです、お笑いください・・・
- hamakkotarou
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怒り(感情)はツール(道具)です。 何のためのツールかと言うと自分を含めた人を支配(コントロール) するために使うのです。 もちろん完全なツールでないので完全に人を支配することは出来ません。
お礼
ご意見ありがとうございます。 ツールというからには、 >自分を含めた人を支配(コントロール)する 以前にそのツール自体をコントロールできることが前提になりますが、 逆にわたしは感情に支配されてしまいます。 皮肉でなく、そのように感情を道具に出来る能力が羨ましいです・・・
- ruehas
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こんにちは。 「怒り」といいますのは欲求が阻止されることによって発生し、我々動物に「問題解決のための能動的回避行動」を選択させるための情動反応です。 通常、「攻撃行動」や「逃避行動」といいますのはほとんどの動物で本能行動に組み込まれていますが、このような選択が大脳辺縁系の学習結果に基づいて行なわれるものを「情動行動」といいます。 大脳辺縁系は環境からの入力に対して「利益・不利益の判定」を下し、情動反応を発生させます。これにより、我々高等動物は行動選択に過去の学習結果を反映させ、自分の身の回りに発生する様々な環境の変化に対応します。 「怒り」といいますのは環境からの入力によって発生した欲求、あるいは内在的な欲求が阻止される、このような状況判断に対して発生する情動です。これが「不利益」と判定されますと、大脳辺縁系には「不快情動」が発生します。不利益という判定の場合、この結果は「青斑核A6・NA(ノルアドレナリン)含有核」「中脳・中心灰白質」「視床下部」など、主に「ストレス対処反応」を司る組織に出力され、我々の身体に様々な反応を発生させます。この過程でもうひとつの状況判断が加わり、問題解決の方法が見付からない場合は「悲しみ」や「諦め」といった「受動的回避行動」が選択され、そうでない場合は攻撃行動など、「問題解決のための能動的な回避行動」が選択されます。この結果、大脳辺縁系に発生した情動反応は「怒りという感情」として分類することができるようになります。 >社会の不条理の中で人はどのように生きられるのか?「怒り」についてお聞きしたいと思います。 我々はしばしば世の中に発生する矛盾に憤りを感じます。これは、自分の生まれ育った社会で培われた価値観が大脳辺縁系に学習されており、正しくありたいという二次的欲求が阻止されるからです。ですが、「情動行動」といいますのはその場の判定に従って直ちに選択されてしまう「無意識行動」でありますから、その結果が実際に正しかったかどうかはあとになってみなければ分かりません。 これに対しまして、「理性行動」といいますのは情動反応に従うものではなく、より価値の高い未来の結果を予測した「計画行動」であります。ですから、「怒り」といいますのは情動行動なのですから、少なくともそれは理性的な行動ではありません。では、理性行動が道徳行動であるかといいますならば決してそうではなく、それは飽くまで最終的な利益を獲得するための計画行動です。 我々人間の社会行動では、この理性行動の比率が極めて高くなります。ですが、基本的には我々動物の行動選択といいますのは、その全てが「生物学的利益に基づく価値判断」に従って行なわれるものです。そして、これは生物として定められたことですから、ここに「善悪の規準」を当てはめることには何の意味もありません。では、果たしてもし判定が下されるとしますならば、それは進化か絶滅かのどちらかの結果として現れることになります。
お礼
ご回答ありがとうございます。 主に生理学的な見方からの「怒り」の解釈だと受け取りました。 怒りというエモーションが、どのように発生するのかのメカニズムがとても 分かり易く解説されていて、参考になりました。
- altered
- ベストアンサー率17% (64/371)
面白いご質問ですねぇ。 専門家でも何でもないですが一緒に考えさせて下さい。 まず、最初に思いつくのが「攻撃」の前段階ですね。 自分のテリトリーに侵入して来るやつに「う~」って唸ってる動物の 状態ですね。 人間の場合だと、自分の思い通りに行かなかったり、バカにされたり モラルを守らなかったりですか。(私、道にツバを吐いたり、 車の窓からタバコの吸い殻捨てたりするやつにムチャムチャ腹が立ちます) ただ、心理学者の岸田秀が言ってたように 「人間は、自分がしたいのに我慢している事をやっているやつに 腹が立つ」ってのもありますが。 後、確か、アリストテレスだったと思いますが 「怒るべき時に怒る人間は尊敬される」ってのもありました。 確かに、ひどい上司に切れた部下が賞賛を浴びた事がありました。 (飛ばされる可能性もありますがw) でですね、私は、「悪い怒り」と「良い怒り」は勿論あって、 前者は「自己チューな怒り」。後者は「皆の役に立つ怒り」と思ってます。
お礼
>専門家でも何でもないですが一緒に考えさせて下さい。 ・・・こちらこそ一緒に考えましょう・・・などと言ってるとまたぞろ「削除」されるかな(苦笑) 「モラルを無視する者への怒り」というのはどういうものなのでしょうね? >道にツバを吐いたり、 車の窓からタバコの吸い殻捨てたりするやつにムチャムチャ腹が立ちます 実はわたしもそうですが、考えると、これって、わたしやあなたに実害はないですよね。 ここで何故怒ってしまうのでしょう? >前者は後者は「皆の役に立つ怒り」と思ってます。 ここも難しいですね。 「自己チューな怒り」にも、当人には怒るだけの理由があるのでしょうし、 「他を利する」怒りというのも、使いようによっては非常に危険なものになりかねないとも思うのです。 わたし個人的には敢えてどちらかといえば前者の「自己チューな怒り」を買います。自分が怒った結果、他にもいい影響が現れたというのはいいのです。 それ以外に「皆の役に立つ怒り」ってあるのでしょうか・・・ 政治屋はそういうのを謳い文句にしますけれど・・・ ご意見ありがとうございました。 反論の反論、お待ちしています。
- miyanowaki
- ベストアンサー率45% (338/737)
訂正***下のほう 「悔」→「怒」が「悲」が進化して加わる。 →「悔」→「怒」が「悲」から進化して加わる。
- miyanowaki
- ベストアンサー率45% (338/737)
手元にある国語辞典で調べてみると 「おこること。また、おこった気持ち。」 とありますが、これでは回答になっていませんね。 人間の感情には(四季を「春夏秋冬」に四分するように) 「喜怒哀楽」に大まかに四分できると思いますが、 「喜び」「怒り」「悲しみ」「楽しみ」 これら感情の根底にあるのが「自尊心(プライド)」なのですが、 社会的階級、年齢 等によっても、この「自尊心(プライド)」 のレベルは人ぞれぞれだと思うのですが、 この「自尊心」から派生して「喜怒哀楽」の感情が 生じるわけです。あくまで「派生」しているので あって、厳密に言えば「喜怒哀楽」というように感情は 四分できるわけではありません。単なる便宜上の類型化 にすぎないと思います。 むしろ、「喜怒哀楽」という四分方法より 「自尊心を満足させるか否か」という二者択一的思考方法 が分かりやすいでしょう。 「自尊心を満足させる」or「自尊心を満足させない」 (「喜」「楽」) (「怒」「哀」) (「喜」「楽」)が「自尊心を満足させる」同じベクトル (「怒」「哀」)が「自尊心を満足させない」同じベクトル 従って、「怒」「哀」も見かけが違うだけで 本質は同じと考えてよいようです。 「怒」「哀」の他に「悔しい(嫉妬心)という気持ち」も 「自尊心を満足させない」同じベクトルに含めてよいと思います。 ランクでみれば 「悲」→「悔」→「怒」→「哀」→究極的には「絶望感」 ***「悲」と「哀」は趣旨&次元が異なる。 「哀」は「自尊心」と密接に結びついたものなので、 原始的な感情の「悲」とは意味合いが異なる。 ところで、「赤ちゃん」や「痴呆症の方」の場合は どうでしょうか? 「赤ちゃん」→表面的には「悲」(→徐々に「喜」「楽」が加わる) しかないように思いますが、 本来的に考える力がないので、 「悲」(→徐々に「喜」「楽」が加わる)といっても 意味を理解し始める「約3歳~」とは質的に異なるのかも しれません。また「約3歳~」あたりから、自尊心が 芽生え始め、それに伴い「嫉妬」→「怒り」の感情が 生じてきます。 でも、先ほど述べたとおり「悲」の進化したものが 「悔」→「怒」ですので、「自尊心の負なるベクトル」 という意味では「悲」と同一類型なのでしょう。 「痴呆症の方」の場合はどうでしょうか? 考える機能がなくなってきたとはいえ、 「悲」と「怒」は残存しており、「喜」「楽」の感情も ちらほら見え隠れするようです。但し、正常な思考能力 を持つ人の感情とは異なり、「枯渇化した感情」 といった方が正確かもしれません。 以上、全体を考察するに、 人間の根底ある原始的感情は「悲」であって それに「自尊心」が芽生え、加わることによって 「悔」→「怒」が「悲」が進化して加わる。 ですので、「怒りとは何か?」といえば、 「人間の感情の起源ともいうべき「悲」が 後天的に備わった「自尊心」によって、進化&変形した もの」と個人的には定義づけられると思います。 図式化すれば 「自尊心」プラスベクトル →(「喜」「楽」) 「悲」+「自尊心」 (*感情の起源) 「「自尊心」マイナスベクトル →「悲」→「悔」→「怒」→「哀」 →究極的には「絶望感」
お礼
早速のお答え、ありがとうございました。 丁度わたしも、「怒り」と「哀しみ」OR「悲しみ」との関係について考えていました。 自尊心、或いは自我にとっての負のベクトルというのはとてもわかり易いご説明です。 けれども、人間の最も原初的感情が「悲しみ」であるという説・・・ とても文学的で、詩的で、ペシミスティックなわたしには非常に共感するところ大きいのですが、これは一般的に正しいとされている解釈なのでしょうか? いえ、そんなことはどちらでもいいのです、 わたしは個人的意見をお聞きしたいので・・・ 『タクシードライバー』では孤独が怒りを生み、 ゲバラは民衆の苦しみを見て怒り、 マルコムXは自分も含めた黒人への差別に怒った・・・ どれも人の哀しみから発した怒りと言えるのではないかと思います。 怒りと哀しみの相関関係・・・とても興味深いお答えです。 気が向かれましたらまたご意見お聞かせください。 ありがとうございました。
お礼
いや、なんだか重箱の隅をつついたようなコメントに対して、 相変わらずの懐の深いお返事、頭の下がる思いです。 不条理というものはやはり「人間存在そものもの不条理」と言えるのでしょうね。 だからこその文学であり、哲学であるのでしょう・・・ このあたり舌足らずのわたしの言わんとしてるところを汲み取って頂いて幸いです。 >怒っている人間=動物であって何の不思議もないのではないでしょうか。 ええ、それはわたしも、hakobuluさんも、人間誰しも「人間」であるという枠の外の大枠として「動物である」のですが、 「動物である」ということよりも、人間としての脳の働きが欠損しているのでは?という意味で申し上げました。 動物+α(大脳?新皮質?)=人間だとすればその条件を満たしていなさそうだという意味です・・・ >実際には、見境無く突き進み忸怩たる思いに捉われることしばしばの未熟者です。 無論hakobuluさんとて完璧ではありませんが、 このような謙遜が嫌味に聞こえない、或いはわたしのように卑屈に映らないというのもやはりお人柄ですね。 正に忸怩たる思いです。 ご回答感謝します。