《ひとり》は 西欧近代の《個人》を表わすか
山折哲雄の言説です。
▲ (山折哲雄:親鸞を読む 序章) ~~~~~~~~~~~~~~~
歴史をふり返ればただちにわかることだが わたしは・・・《個》に対応するわが国の伝統的な言葉のなかに《ひとり(一人)》があったと思う。・・・
なかでもよく知られている親鸞のつぎの言葉が その歴史のなかに屹立している。
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば ひとへに親鸞一人がためな
りけり。 (歎異抄)
親鸞は弟子一人ももたずさふらふ。
・・・〔また〕われわれは たとえば次のような《ひとり》に出会う・・・。
あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長ながし夜を
ひとりかも寝む (柿本人麻呂)
咳をしても一人 (尾崎放哉)
鴉啼いてわたしも一人 (種子田山頭火)
虚子一人銀河と共に西へ行く (高浜虚子)
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☆ 山折は 鎌倉時代のあたらしい仏教の興りが 決して西欧において近代人を登場させた一つの契機としての《宗教改革》のような内実を持っていなかったろうと論じるところで この《ひとり》説を出しています。
▲ (山折:同上) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
親鸞や道元の思想は ルターやカルヴァンの場合とは異なって 一握りの知識人たちの頭脳のなかでしか生きのびることができなかったからだ。それに代わって先祖崇拝にもとづく墓信仰と骨信仰が 近代西欧型のそれとはまったく別種の社会システムを生みだしたからだった。(p.14)
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☆ だが そこには 《大和言葉〈ひとり〉の探究》をつうじて 《鎌倉仏教=宗教改革論が虚妄の仮説》であるかどうかを検討する道が開かれているのではないか。――こう言っています。
(α) 親鸞の思想は 近代人の《個》の概念をめぐって何を語っているか?
(β) それにかかわって日本語《ひとり》の持つ意味の深みと広がりとは 何か。
山折との関連のある無しを問わず この二つの問いを問います。いかがでしょう?