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道元は何故、出家者だけ受け入れるようになったのでしょう?

曹洞宗の道元についての質問です。 道元の晩年のこと、当初は在家出家関係なく誰にでも学びの場を提供していたのが、 出家者に限るとした理由について教えて下さい。 本では、一般の人に教える為に正法を歪めるよりも、 釈迦の正法を伝える為と書いてあったのですが、 宋から日本に帰ってきたのは、宋で得た学びによって、 日本の人々を救う為ということでしたら、出家在家問わずに 学びを伝えることが本当のようにも思うのですが、 それよりも、正法を伝えることに、 重きをおいたのにはどのような思いがあったのでしょうか。 不躾な質問で恐縮ですが、よろしくお願い致します。

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  • sgm
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回答No.3

曹洞宗の僧侶です。 道元禅師晩年の出家主義については、まだ定まった評価がないようです。「在家」「出家」の差別化が、実際にどの程度すすめられたのかもよくわかっていません。 道元禅師の「正伝の仏法」は、単に学び知識や学識として持っているだけでは何にもならず、それを実践するところに眼目があります。ですから、「正伝の仏法」への接近を究めていけば、自ずから「出家」に至るという考えが前提としてあります。「在家」への布教、教化はその「種をまく」作業ではあっても、それが主目的ではないという気持ちが道元禅師にはあったのではないでしょうか。 道元禅師は53歳で亡くなっています。また、「正伝の仏法」の道場として永平寺を開いたのは44歳の時です。 他の宗派の祖師と比べると、道元禅師は少し早死にのようにも思えますが、聖マリアンナ医科大学の研究では鎌倉時代の平均寿命は24歳くらいだったとも言われていますので、当時は40歳を過ぎれば自然と自分の死期を意識せざるをえなかったのではないでしょうか。 永平寺を開いたといっても、地を定めて最低限必要な建物ができたというだけのことで、永平寺の整備は道元禅師の死後も続きました。また当時の教団は、いわゆる道元禅生え抜きの一派と日本達磨宗から集団転派した一派が、かならずしも円満和合とはいえない状態で同居していました。永平寺の整備を進めながら、これらの調整もし、自分の「死」に向かって、なんとか「正伝の仏法」を正しく根付かせていこうと考えた時に、自分に残された時間はあまりにも少ないと道元禅師は考えられたのではないでしょうか。 道元禅師にすれば、日本に「正伝の仏法」を伝えたのは自分だけなのですから、やはり焦燥感はあったはずで「とても在家の面倒までみている余裕はない」という気持ちになられたのではないかと思います。 ただし、道元禅師の出家主義が、かならずしもストレートに「在家仏教」を否定するものではないということは、後継者にゴリゴリの道元原理主義者ではなく、布教経験の蓄積がある日本達磨宗系の孤雲懐奘を指名したことにうかがえるように思えます。

forest2005
質問者

お礼

専門家の方からのご意見、恐縮です。 ありがとうございます。 歴史的な背景もふまえた上でのご回答、 とても参考になりました。 年齢と寿命の問題、人材・環境的な問題などを ふまえて考えると、限られた時間の中で出来ることも 限られてきますね。 俗世間に生きる自分としては、 実践をつきつめると出家しないと難しいというのは 少し残念な気持もありますが、 そうして、道元さんの教えが受け継がれてきたからこそ、 800年弱、後の世でもこうして道元さんの教えを学ぶことが できると思うと、とても有難いことだと思いました。 大変、参考になるご意見ありがとうございました。

その他の回答 (2)

  • les-min
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回答No.2

#1です。  ご丁寧なお礼ありがとうございました。  問答を続けるサイトではないので・・・(←要するに、もうネタ切れですということでして。)十分にお応えすることは無理だろうと思いますが。  道元禅師の晩年に関しては、学者さん方にはいろいろと物議があるようですが、自分にはこの人物はブレのない方だと思っています。  おっしゃるように、「生き方の追究と実践」という捉え方で良いのかなとは思いますが、「生き方」というより、人そのものの「あり方」を求めた方かな、と思っています。道元禅師にとっては、人のあり方=仏としてのあり方なのだと思いますし。  道元禅師の求道は、本覚思想への疑義として、それならなぜわざわざ修行しないといけないのか?というところから始まったと認識しているのですが、その探求の中で「悟りは修行を標準装備(?)している」という思いに至ったのが「修証一如」ということかと。  道元禅師は、「これしかない」と言えるぐらいに、最後までこの点を重視し続けたのだと感じます。  大乗的な利他行を採用しておらず、他の何ものにも依らない「座禅による一点突破」を貫いたことから、座禅が各個の生き方の探求としての実践という印象を持つのは確かにもっともだと思います。(そういう捉え方は実際あるだろうと思います。)  ただ、道元禅師は「仏法修行は、尚自身の為にせず」中略「ただ、仏法の為に仏法をを修す、すなわちこれ道なり」と説いています。  悉有仏性を前提とし、自も他もない釈迦仏そのものと成る(即心是仏と感じ入る)ことを目指す道元の禅は、「生き方」というよりは、自身の仏としてのあり様・あり方を観る(見出す)という感じかな、と思いますし、それはもう、自身のとか自己のとかいうものではないだろう(身心脱落)と感じています。  このあたりは、それこそ言葉で表現できることではないでしょうし・・・(自分もこんがらがってきました。)自分もさらに勉強したいと思います。良い機会をありがとうございました。      

forest2005
質問者

お礼

ありがとうございます。 何度もご丁寧なお答えを頂きまして、恐縮です。 道元さんがおっしゃっていたのは、 人には、 仏性がある、 そしてその仏性を顕現するために修行を重ねる、 ということだとお答えを拝見し感じました。 それには自己の努力ではなく、それを超えて、 自身の仏性に従うことが大切ということかと感じています。 まだまだ私自身浅はかな理解ではありますが、 お陰様で、自分の中でもより考えを深めることができたように思います。 ありがとうございました。

  • les-min
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回答No.1

こんにちは。  語る程の学識もない者ですが、お邪魔します。ある種、個人的な心証を述べるだけになると思いますので、無用であれば飛ばしてください。  道元禅師が座禅を強調したのは、よくよく知られることではありますが、これは強調してし過ぎることがない程で、禅師の宗教者人生のすべてであると考えて良いかと思います。  結局のところ、かなり単純に在家者は十分に座ることができないから、というのも一因ではないかという印象を持っています。  というのも、道元禅師は、あまり「救済」というものを考えていなかったのではないかという心証を持っているからです。少なくとも座禅よりも上には何もおいていない。  日常の所作すべてが仏道に通じるという考えは、一般にも受け入れやすいものですが、やはり座禅が一番で、座禅し、継続・反復することが最も重要と考えていたというのは、明らかだと思います。  一般の在家者にそれができるか?というと実際問題としてできないわけで、正法を歪める歪めないという話しではなく、できるかできないかの話しかな、と。  どうやっても出家主義に傾くのは必然だったのかなと思います。  また、道元禅師は自分の「正法」は小乗(上座部)仏教も大乗仏教も越えたものだと考えていたようで、道元禅師も自ら得たものを伝えて「大乗的」な他者救済を考えていた、という構図にはならないです。  もちろん、拙い自分の思考ですから、本当のところはわかりませんが、出家主義傾向になっていったのは、座禅に特化した実践法を守ろうとしたためだと思います。(修行することと悟ることを同一と考えた道元禅師にとって、座れないことは悟れないことを意味します。)  道元禅師は著作が多く、弟子への法話も相当な回数行っていますが、書物や話しで人を導けるとは考えておらず、また、「一般向け」というような書き方や配慮があまり感じられないので、やはりどうもこう、全体的な印象として一般向けではないな、という感じがします。  まとまりなく失礼しました。  

forest2005
質問者

お礼

ありがとうございます。 私自身まったくと言っていいほど浅い知識での質問で本当に恐縮です。 それに詳しくお答え頂きありがとうございます。 やはり、座禅の実践というところに重きを置いていたところからくる というご意見、なるほどと思いました。 これまた浅はかな質問で恐縮ですが、 >また、道元禅師は自分の「正法」は小乗(上座部)仏教も大乗仏教も >越えたものだと考えていたようで、道元禅師も自ら得たものを伝えて >「大乗的」な他者救済を考えていた、という構図にはならないです。 という部分ですが、 道元さんの考え方として、 まったくの所感ですが、 人間や、個人としての生き方を追及された部分が大きいのではという 印象をもっているのですが、 その生き方の追求と実践という意味での正法というような 捉え方をしたのですが、 その点はいかがお考えでしょうか。 微細な質問で恐縮ですが、 もしよろしければご意見お教え頂けますとうれしいです。 よろしくお願いいたします。

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