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道元を批判するには?

道元を批判するとしたらどのような批判がありますか?

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回答No.3

曹洞宗系の大学・駒澤大学の袴谷憲昭の「本覚思想批判」という本によれば、道元は「正法眼蔵」の75巻で、天台本覚論を継承して人間には生まれつき「仏性」を有すると考えていたけど、晩年に(もっとも晩年と言っても、50歳で死んだから、必ずしも晩年と言えないかもしれないけど)、その75巻本「正法眼蔵」を破棄して、新たに「正法眼蔵」を書き直して、人間はもともと「仏性」を有していないことを主張しようとしましたが、12巻を書いたところで途絶してしまったと言っています。 天台本覚論は天台宗の最澄が唱えたもので、人間は本来「仏性」を持っているという説です。 それを天台本覚論と言いますが、最澄の死後、その後継者、安然・珍然によって大成されたと言われます。 以来、日本仏教では、人間は本来「仏性」を有するという考えが代々継承されてきて、今でも、人間は死ねば誰でも、「仏」になると言われています。 当時、最澄と法相宗の徳一の間で有名な「三乗・一乗論争」が戦われており、徳一は始覚・縁覚・本覚と三段階を経て仏性を獲得すると、三乗思想を唱えましたが、それに対して最澄は始覚・縁覚・本覚を合わせて一乗思想を唱えました。 当時、比叡山は仏教の総合大学とみなされており、源信も法然も親鸞も日蓮も、そして道元も、鎌倉仏教の祖師はみんな比叡山で学んでおり、したがって最澄の人間は本来「仏性」を有している、という考えを継承したのも無理はありませんでした。 ところが道元は、晩年にそれを間違いだと気が付いたのです。 もし、人間が生まれついての「仏性」を有していたら、僧侶が苦しい修行をしてブッダになることを目指す、その理由が無くなります。 なぜならば、生まれついて「仏性」を有しているのなら、わざわざ修行する必要なんかないからです。 もともと本覚論は大乗仏教の根幹にある考えでしたが、それを集大成した「大乗起信論」では本覚とは言わず、代わりに「如来蔵」と言っています。 つまり、人間はもともと「如来」という「仏」を「蔵している」ということです。 内蔵しているのだから、それを外に求める必要はない、それを内に蔵していることを自覚すればよい、というわけです。 しかし、道元は大乗仏教の根幹にある「本覚論」「如来蔵」思想を晩年に否定して、本来のブッダに帰ろうとしました。 ブッダは長い修行の果てに、「仏性」を悟ったのであり、最初から「仏性」を有していたわけではない、修行の結果、それを見出したのだ、と考えたのです。 道元が、なぜそのように考えるに至ったかには時代の背景があります。 当時は臨済宗の「公案禅」が盛んで、誰もが禅の修行をすれば「悟り」が得られると信じて、盛んに「公案」が用いられました。 道元はその風潮に苦々しい思いをもって見ていて、「悟り」を求めるのは間違いだと思っていました。 禅にとって、「悟り」は諸刃の剣で、それが目的になってしまうと、本来の仏教から逸脱することになってしまいます。 そのため、道元は人間が本来「仏性」を持っているという天台本覚論を否定し、「只管打坐」の禅を唱えることとなりました。 つまり、座っている姿が、そのまま仏だということです。 「悟り」を求めてはならない、なぜならば「悟り」というのは存在しないからだ、という。 「悟り」とは、道元に言わせれば、目が横に、鼻がタテについていることを知ることにあり、日常生活がそのまま「悟り」なので、それを求めるべきではない、と考えました。 私は道元を批判するとしたら、天台本覚論に基づいて書かれた75巻本「正法眼蔵」であり、晩年の12巻本「正法眼蔵」ではないと思います。 道元はみずから、間違いを知り、12巻本「正法眼蔵」で、それを修正しています。

noname#207067
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >しかし、道元は大乗仏教の根幹にある「本覚論」「如来蔵」思想を晩年に否定して、本来のブッダに帰ろうとしました。 >ブッダは長い修行の果てに、「仏性」を悟ったのであり、最初から「仏性」を有していたわけではない、修行の結果、それを見出したのだ、と考えたのです。 新しく質問すればいいかもしれませんが、気になったこととして、 本来のブッダに帰ろうとした、とのことですが道元はどこからそれを 本来の仏教だと思ったのでしょうか。問題が「仏性」だとすると、やはり参照したのは大乗仏教の経典とかでしょうか。

noname#207067
質問者

補足

誤:本来の仏教 正:本来のブッダ

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その他の回答 (6)

  • kanto-i
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回答No.7

入院経歴が無いと過程しての前提で話しますが 批判相手、つまり悪人探しをやり続けると いつか確実に入院に至るようになります。 身近な人、つまり顔を合わせて話せる相手を探した方がいいですよ。 風見鶏さんは、善意のある人です。 壊れていくのを見て行くのは、気乗りがしないので申しあげましたが 気に障ったのでしたら謝ります。 では、失礼します。

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  • kanto-i
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回答No.6

No.1です。 お礼、ありがとうございます。 >「批判合理主義」とか「反証可能性」とか「開かれた社会」とか >そういう観点から、道元さえ批判する必要があるでしょう。 哲学カテなので、哲学的批判なら理解できますが 単なる批判は個人が堕落するだけで無く 大勢がやるようになれば、その社会は衰退していく。 開かれた社会が、個人攻撃に向かうのであれば 本当にそれは開かれた社会の姿なのであろうか? 個人攻撃は、相手への尊重と尊厳を守る姿なのだろうか? それをやる私は、果たして私として尊重され尊厳は守られるのであろうか? すべてはやったことがかえってくると言われるが 私には、私だけは例外で個人批判がかえってこなのだろうか? kazamidori365さんの理由は、納得いく形だと思えないので 今回は、ご質問から抜けます。

noname#207067
質問者

お礼

何年も曹洞宗の学者に粘着されて攻撃されました。 そんな学者を作り出した道元が諸悪の根源です。

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  • titelist1
  • ベストアンサー率25% (712/2750)
回答No.5

道元は比叡山天台宗に入るのですが経典学問にあきたらず、そこを離れて臨済禅の栄西のもとで修行するが、栄西の死後に中国に渡り曹洞禅を日本に伝えます。道元は『禅は仏教ではない』と言っています。ひたすら座禅をすれば悟りが開けると言うのです。彼が目指すものは仏教ではないのです。だから禅宗には経典がないのです。それを後世の門人達は曹洞禅を仏教にしたのです。それは鎌倉武士が貴族の奈良・平安仏教に支配されない鎌倉仏教を欲したからです。

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回答No.4

こんにちは。 ☆座ってるだけじゃ駄目じゃあんめいか? ◇ですな~。 山に籠もって、ひたすら《野狐禅》をしていると、キツネやタヌキになってしまう。 うまくいけば、サイ(の角)くらいにはなれるかも知れないけれど、そんなものは、ヒトの姿形をしていても、もはや人間ではない。 縁覚(独覚)にだってなれやしない。 あんなものは、外道のヨーガではあるかもしれないけれど、仏教・大乗のヨーガではない。 利他が抜けているんでさぁ~。 道元の慈悲は偏頗なんでさぁ~。 ~~~~~~ へん‐ぱ【偏×頗】 [名・形動]《「へんば」とも》かたよっていて不公平なこと。また、そのさま。 https://kotobank.jp/word/%E5%81%8F%E9%A0%97-626561 ~~~~~~

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回答No.2

座ってるだけじゃ駄目じゃあんめいか? 悟りを開くためには先達の教えから学ぶなど、調べものも必要じゃあんめいか?

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  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.1

道元を批判する根拠を教えてください。 他者を批判すると自身が堕落するので、適切だと思える根拠が無ければ 思考する意味が見出せません。

noname#207067
質問者

お礼

「批判合理主義」とか「反証可能性」とか「開かれた社会」とか そういう観点から、道元さえ批判する必要があるでしょう。 道元が批判されているイメージがあまりないのですが、 今回質問しても、責められるのは私ばかりで、道元への批判がないんですよね。 もしかするとゴータマ・ブッダよりも批判がないかもしれない。 あと、他の回答者さんの「悟りを求めるのが間違いだ」とかそれが「本来の仏教」とか、「本来のブッダ」とかいうのは かなり中村元に似ているような気がしました。 ~~~~~~~~~~~~~~~ まず第一に仏教そのものは特定の教義というものが無い。ゴータマ自身は自分のさとりの内容を定式化して説くことを欲せず、機縁に応じ、相手に応じて異なった説き方をした。だからかれのさとりの内容を推しはかる人びとが、いろいろ異なって伝えるに至ったのである。 『ゴータマ・ブッダ』中村元 417~418ページ ~~~~~~~~~~~~~~~

noname#207067
質問者

補足

誤:批判合理主義 正:批判的合理主義 今日は誤字が多いので休みます。

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