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金ぴかの大仏様や豪華な祭壇に祈るのはなぜですか
- 金ぴかの大仏様や豪華な祭壇に祈る理由について知りたいです。そのような宗教施設は多額のお金や労力がかかるため、なぜ造るのでしょうか。信心を集めるためなのか、教義に反しないのか気になります。
- 信心の対象であるイエス様やお釈迦様は貧しい状況で生まれ育ったと聞いています。しかし、なぜ彼らを讃えるために贅沢な宗教施設が造られるのでしょうか。食べることや着ることに困っている人々がいる現実を考えると、それらの施設は空虚に思えます。
- 素朴な疑問ですが、金ぴかの大仏様や豪華な祭壇に祈る理由を教えてください。そのような豪華な宗教施設が信心の対象であるイエス様やお釈迦様とどのように関係しているのか、また教義に反することではないのか気になります。
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「こちらは精神医学の分野ですので言及はお控え頂ければありがたいです」とありますが、ご質問の内容が社会心理といいますか心理の問題です。 ご質問の趣旨を整理させて頂くと ○なぜ寺院や教会は巨大で一見贅沢と思えるほど数多くの装飾がされているのか ○礼拝する施設にこのような構築物を設けるのは始祖の意に反するのではないのか の二点かと思いますが如何でしょうか。 下記のサイトのタイトルと内容をご覧願います。 荘厳な佇まいに心が安らぐ…長崎巡礼をするなら外せない田平天主堂 ... find-travel.jp/article/6532 ここで投稿者の方が「荘厳な佇まいに心が安らぐ」と記載させておられますが、この点についてどのようにお考えになられますでしょうか。 洋の東西を問わず、結婚式をはじめとして、数多くの儀式や儀礼がありますが、その際にどのような服装でどのような場所に参列して行われていますでしょうか。 日本人の場合にはハレ(霽れ)とケ(褻)とよばれる習慣が現在でも残っています。 日常と非日常の区分です。 これをどのようにお考えになられますか。 富貴を尊び卑賤を卑下しませんでしょうか。 「貧乏は恥ではない貧乏を恥じることが恥じである」ということは理性では理解してはいても、より豊かな生活を望まれませんでしょうか。 寺院や教会は非日常の世界を体験する空間を提供する構築物です。 寺院や教会の構築物を荘厳に作り装飾することによってより多くの人々が集まります。 敢えて非日常的な行為である礼拝に訪れた人々も非日常的な空間に納得するのではありませんでしょうか 日常生活をおくられている空間よりも貧相なダンボールハウスのような所へわざわざ出かけていかれますか。 普段着よりも貧相な服装で結婚式などの儀式に参列されますか。 寺院の場合には、仏国土を再現して体験するいう目的のために構築されました 典型的なのが宇治の平等院です。 信仰の一つの手法として観想念仏というものがあります。 仏像を凝視し続けることで、仏教の教えを会得する手法です。 これには仏像が欠かせません。 仏壇はこの寺院のミニチア版です。 この仏像に感情を移入して、その周辺を清浄でより豊かな環境にしようとすることをどのようにお考えになられますか。 不自然な考えと思われますか。 仏教の宗派によってはこれ等の行為を全て排除した考え方を持つ宗派もあります。 いわゆる禅宗です。 結果として、禅は宗教か哲学かという議論がされています 始祖の思想とは関係なく、より多くの人々に始祖の思想を広めるために行われている行為とお考えください。 信徒が自分達が大切にする施設を装飾して荘厳に仕上げようとするのは極自然な発想ではありませんでしょうか 偶像を排除するイスラム教でも、礼拝の場所であるモスクは荘厳に作られています。 集まって来る人々が望まなければ、どこの教会も寺院も過剰な装飾など施すことなかったでしょう。 伊勢神宮の本宮は簡素な白木造りです。 歴史的には巨大な寺院や教会を造ることが為政者の権威の象徴となっていました。 支配する領民が大切に感じるものを、より荘厳に作ることが権威の象徴としては不可欠でした。 徳川家光は自身の権威を高めるために日光東照宮を大改造しました この心理は、社長が勤務する本社を立派なものとするという形で現在も受け継がれています。 以上大雑把に説明しましたが、構築物を所有する寺院や教会側の問題ではなくそこに集まる人々全体の心の動きがもたらしているものだとお考えください。 直接の回答にはなりませんでした。何かあれば補足で追加質問をお願いします。
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- 177019
- ベストアンサー率30% (1039/3444)
「多額のお金を失った経験から」、とありますが、私はこちらの方に興味があります。私は仏教徒ですが、新興宗教では無く、昔からある宗門です。私達の宗派は「倹約、質素」の考え方が基本です。どの宗派にも信仰する対象物、拝む対象物がありますが、私達の宗門には5千人収容の施設がありますが、奥の仏壇は金箔が貼ってありますが、施設の中は普通に壁紙が貼ってあるだけで、ですから破門された信徒団体からは「蔵のようだ」と言われたくらい質素です。僧侶の袈裟、衣もどんな高僧でも他宗派のように金ぴかの金襴緞子は絶対着ることはありません。これは800年の昔からの決められています。また戒名や他宗派でお布施と呼ばれるものも一切の金額の規定はありません。これは信徒一人一人の収入の形態が違うわけですから、他宗派のように戒名に何百万円と言われても、生活困窮者や生活弱者は葬式が出来ない事になります。この事について私達の宗派の教えでは「御供養取次ぎの心」つまり僧侶個人が受け取るのでは無く、仏様に取り次いでいく、という心を忘れてはならないと、例え僅か半銭のお金であろうとあるいは百貫、千貫の大金であろうと、多少に拘らずそれぞれの立場で信心の真心を表したのがご供養であるから、信心の志には変わりは無い。また末寺の修繕などにしても信徒は心ばかりの金員を供養するだけで、後は本山から修繕箇所を検査に来て本山の費用で修繕と言う事になります。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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集団で共同作業の結果、金ピカと言う形で結実することが大切なのだ。 自分自身だけが、神と結ばれることじゃなくて、誰もが一緒に神と結ばれる理想だ。 だからこそ信仰じゃなく宗教だよ。 財産を持ち寄ることに意義があるのだ。
- ways
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大仏様は、祈る人々を病気から救ってくださったり、苦しむ人々を明るい世界にいざなってくださったりする、と言われています。 人々に信じられ、敬われているんですよ。好きな人を大切にするのと一緒です。 お辛い想いをされたんですね。だけど、それはもう終わったことなので、頭を切り替えていきましょうよ。また、稼げばいいんだし。
- eroero4649
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はい、そういう金ぴかの仏像などを拝むことを「偶像崇拝」といいまして、実はブッダもイエスもムハンマドも「偶像崇拝はダメ。ゼッタイ」と厳しく戒めてらっしゃるのですね。 もっというと、一神教の神様であるユダヤ教のヤハウェ、キリスト教のゴッド、イスラム教のアッラーはみな同じ方を指しているのですが、その神様が「偶像崇拝は決してイカン」とおっしゃっているのです。 だから初期仏教も初期キリスト教も偶像は使いませんでした。しかし、人間というのは情報の80%を視覚に頼る生き物です。教祖様が昇天して何百年も経つとなかなかそうもいってられなくなります。最初は記号のようなもので教祖様を象徴していましたが、やっぱり人間の姿をしていた方がこっちもイメージしやすいので、やがて私たちが知ることになる仏像やキリスト像(絵画も含む)のお姿になったのです。 イスラム教だけは、今でも偶像崇拝を厳しく禁じていて、西洋人がムハンマドをイメージする人物を描くとテロを起こすくらい激怒します。しかしその割に、宗教指導者の写真を掲げるのはOKみたいなので線引きがよく分かりません。 「像はあくまで形に過ぎず、それを拝むのは信仰の本質からずれている」という考えは、比較的宗教観が熟成されてから出てきた哲学だと思います。「歴史」としての記録を紐解くと、偶像崇拝を明確に禁止するのは一神教の神様が現れた頃からなのですが、この一神教の神様のルーツになったといわれるのが、エジプトの太陽神であるアテンです。 エジプトの神様というのはどこかで見たことがあると思いますが、頭が動物になっていたり擬人化されて描かれています。だけど、アテンは子供が描く太陽みたいに擬人化されてないんですね。この辺りが宗教学的に非常に興味深いところでしょうが、私はそこまで宗教学に詳しくないので分析することはできません。 エジプトの神様もそうだし、メソポタミアの神様もそうだったように、元々神様はなんか「お姿」をしていたのですね。人間はそういう自然現象などを象徴する偶像を拝んでいたのが原初だったのです。 だから、私たち人間には立派な仏像や建築物を見ると「これは偉大だ」「ありがたや」と思う習性があるということだと思います。世の中には少なからず「立派な建物を建てる教えだから信じる」とか、「奇跡を起こすような人だから信じる」とか「神様から与えられた権威がある人だから信じる」というような人がいるということですね。 イエスなんかは、自分の弟子に対しても、「お前たちは徴(しるし・奇跡のこと)を見ないと信じない。奇跡が起きなくても信じるのが本当の信仰なのに」と嘆いているんですね。 だけど実際にやってみると分かるのですが、そういう偶像的なものを一切排除してやるって、結構難しいです。何もないところに拝むのはね。 きらびやかなのが性に合わないということでしたら、キリスト教ならプロテスタントですし、仏教なら禅宗ということになるでしょうね。禅宗の一派である曹洞宗は仏像を置かないで、代わりに絵画を描いたり、美しい庭を作っていますね。「それも偶像といえば、偶像だ」といわれてしまうとそれまでですが。ただ、神社なんかでも古木や山を「ご神体」として神様の象徴にしているのですから、やっぱり人間は「何か」を拝みたい性分があるのだと思います。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 贅沢か貧困かは 程度問題です。程度問題は その人の主観の問題です。 量の違いが質の違いになるではないかと言っても 主観の違いで ならないと言う場合があります。 清貧というから 清贅ならいいのか? といった問題でもないでしょう。 清濁も 程度問題だからです。 というふうに シュウキョウのオシエはおしえているのではありませんか? あとは ムレル(群れる)という問題です。 ムレなければ 自己表現ができないのか? という問いです。 ムレの中に入ったなら 権限の上下関係としてのヒエラルキアにもとづき ほかの人に信仰のこととして指図することが ほんとうに出来るのか? それが 人間性なのか? という問題です。 ムレの中には 個人にとってのわが固有の時としての信仰は ない。という問いです。
- titelist1
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伊勢神宮や出雲大社を贅沢過ぎるとは思いません。長い歴史の中であの規模になったのです。近くの神社でも同じです。敢えて管理の悪い神社にお参りする気にはなれません。自宅には神棚があり、年頭には神社で祈願をしてもらいます。 家の仏教宗派は法華経が対象ですので仏像はありません。お経も読みますが、現代語訳の経典も読書のように読んでいます。仏壇には両親の位牌があります。宗派の末寺である近くのお寺との付き合いは親の命日とお盆の時だけです。お誘いがあるがお寺には行きません。 信仰にさほどお金はかかりません。多額のお金を必要とする信仰には違和感があります。死ぬ時に財産を差し出すかのごとき宗教は詐欺の一種だと思っています。新興宗教に興味はありません。長い歴史の中で残ってきたものには価値があります。両親がくれた信仰心を大事にしています。 世の中に貧富の差があるのは当たり前のことだと思っています。寺や神社が栄えていても違和感はありません。むしろ、お金が無くて衰退してほしくはないので寸志を差し上げています。
- mpascal
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No.5です。 参考Url忘れていました。 http://www.heian-bussho.com/style2.html
- mpascal
- ベストアンサー率21% (1136/5195)
仏の三十二相というのがあるようです。その中に「黄金相」というのがあり、仏増を金色(金箔を貼る)にすることに繋がっています。 日本の仏像は、現代の寺院では金箔の禿げたものはそのままにしているケースが多いようですが。タイとかでは、お参りに行った人が仏像に金箔を貼っているのをテレビで見ますね。
- hekiyu
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"なぜあれほどに豪華な像や建造物、品物を造り崇めるのですか? より多くの信心を集める為ですか?" ↑ 御指摘の通りです。 商売です。 祈るとき、何か具体的なモノがないとやりにくい。 そこで具象崇拝が出て来たわけですが、それが金儲け の手段となって金ぴか豪華な像になったりしているのです。 そもそもなんで信心するのか、といえば、現世の利益を 求めて、というのが現実には大部分でしょう。 だからそれに合わせて金ぴかになるのです。 この儲けるため、というのを侮ってはいけません。 キリスト教は儲けるために「免罪符」を発行し、 それに反発したルターが宗教改革を起こしました。 信者を奪われ、儲けが少なくなったカトリックは、 儲けを取り戻そうと、海外雄飛するようになりました。 だから、欧米以外の国のキリスト教はカトリックが 多いのです。 戦国時代に来日したイエズス会もカトリックです。 いくらきれい事を言っても、現実の世は儲け第一 なのです。 そうだからこそ、人類はここまで繁栄できたのです。 キリスト教にせよ、仏教にせよ、全員が言うとおりに していたら、人類など滅んでいたかもしれません。 ”過ぎる贅沢は教義に反しはしませんか?” ↑ 金儲けは、人間の本質です。 だからそれをセーブする必要があります。 セーブしなければ、剥き出しの闘争世界になるだけです。 セーブするぐらいで、ちょうど良いのです。 だからキリスト教も、富者が天国に行くのは、ラクダが 針の穴を通るより難しい、として諫めたのです。
- a_hona
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金色に仏像や教会を飾っても、あまり意味はないと思います。それらはただの芸術品です。 しかし、芸術品どころか、巨木や大岩などまでも拝む対象になるということは、人々にとって何か未知のものを畏れ敬う心理があるのかと思いました。キリストもブッダも、普通の人から見れば未知の存在に近いのかなと。 ところで、維摩経という大乗経典には、維摩詰という長者の姿をした仏が登場します。維摩詰は名だたる菩薩の衆を悉く論破していくわけですが、彼は徳も高く、福徳も尋常になく持った仏として描かれています。お金持ちで智慧もあるというわけです。諸々の出家者が最低限の食べ物で満足している中、維摩は在家でありながらその出家者たちよりもはるかに偉大な智慧を発揮するのです。 そういう話もある、というぐらいに受け止めていただければ良いかと思いますが、ここでも結論は、大金持ちの在家の姿をとるのもまた仏の方便であるということなのです。お金にコンプレックスのある人には、効くのかもしれません。 お金はあっても邪魔にならない、しかし、器の小さな人は大金を得るとかえって破滅するかもしれない。そんなお金と言うものを使いこなすのも、また徳のあることなのかなと思いました。
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お礼
みなさん、この度はたくさんのご回答をお寄せくださり、ありがとうございました。 このように罰当たりな質問に対し13ものお答え、心遣いを頂き大変恐縮です。 一つ一つの回答に納得したり感心しながら読むうちに、 どうお礼を伝え、ベストアンサーをどうするか本当に迷いました。 一つしか選べなくても私にとってはどの方も大切な回答です。 多くのご親切に対してうまく言葉を返せない不義理をどうかお許しください。 仏教、キリスト教、イスラム教、それぞれの宗教においても宗派によって 様々な価値観を許容される度量があると知れたことは大きな収穫でした。 ありがとうございます。 当方の元々の中途半端な聞きかじり知識のせいで混乱している気があるので もう少し個人的に勉強させて頂き、宗派を含めて自分にあった生き方を模索しようと思います。 また皆様からは当たり前なお考えかもしれませんが ”やっぱり人間は「何か」を拝みたい性分があるのだと思います” ”金儲けは、人間の本質です。だからそれをセーブする必要があります。” ”集団で共同作業の結果、金ピカと言う形で結実することが大切” ”そんなお金と言うものを使いこなすのも、また徳のあること” ”幸福が金銭そのものとはとても言えませんが、それを絶対に無視することもできません。” ”人々に信じられ、敬われているんですよ。好きな人を大切にするのと一緒” "世の中に貧富の差があるのは当たり前のことだと思っています。 寺や神社が栄えていても違和感はありません。 むしろ、お金が無くて衰退してほしくはないので寸志を差し上げています。" というのは私にとってはエポックメイキングな発言でした。 身銭をあまり持たない自分は、思想から閉め出された気がしていたのかも知れません。 今回ichikawaseiji様をベストアンサーにさせて頂いたのは、 それぞれの宗教を挙げてお金に対する考え方を明確に示してくださったこと、 また複雑な質問にも関わらず、分かりやすく言葉を尽くしてくださったことが理由です。 >富貴を尊び卑賤を卑下しませんでしょうか。 生活が変わる以前は(具体的な名称は申し上げませんが)輝かしいと思えたものが 胸焼けしたりケバケバしいというふうに感じたのです。 そもそもの前提に不備があり申し訳ないのですが、私がお金を失ったのではなく、 私の親族がお金を知らぬ間に使い果たしていたという事態でして、 ある程度の水準の暮らしをしていたことが夢であり、どれだけ今はお金を持っていても 諸行無常感というか、お金と言う物の信用は幻のように実体がないと感じるのですよね。 他にも言及してくださった方もおいでですが、当方の価値観は少数派と理解した上で、 あくまで質問に必要な前提としてご説明したまでですので 何を美しいと思うかが180度変わってしまったというのは、 多分生きていく上で必要だからそうなったのだと思いますし、治せるものかもわかりません。 >敢えて非日常的な行為である礼拝に訪れた人々も非日常的な空間に納得するのではありませんでしょうか 日常生活をおくられている空間よりも貧相なダンボールハウスのような所へわざわざ出かけていかれますか。 普段着よりも貧相な服装で結婚式などの儀式に参列されますか。 はっとさせられました。 >以上大雑把に説明しましたが、構築物を所有する寺院や教会側の問題ではなくそこに集まる人々全体の心の動きがもたらしているものだとお考えください。 心に留めておきます。