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怠けてしまう心理
努力の反対は怠けることですよね。 努力をしたほうがいいに決まっているのに、どうして人は怠けてしまうんでしょうか。 また、怠け癖がある人や努力が継続ができない人は、「甘えている」と言われることが多いように感じますが、そうだとしたらなぜ甘えてしまうんでしょうか。 たとえば怠けてしまうことへの解決策を提案されて、それすらも怠けてしまったりやる気が出なかったりする人は、本人の精神に問題があると考えられるのでしょうか。 私自身が怠け者であるということもあるのですが、学習意欲の低下やNEETの存在など社会問題にもなっている(該当する人達が怠け者であると言っているわけではないのですが)ということから疑問に感じています。 ご意見をよろしくおねがいいたします。
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・本来のその人間の性質 ・生まれ育った環境 ・栄養不足 ・まだその時期ではないという運命論的解釈 すべてではないですが大きく分けて以上の4つくらいだと思います。 その4つも独立した性質ではなくその他の因子が複雑に絡み合っているものと思います。 本来怠け者である人、努力家である人、それは生きてきた環境に左右される部分(生まれ育った環境)も多いと思いますが、そんなものの影響を微塵もかんじさせない立派な人間はとても多い(本来生まれ持った性質)と感じています。 ただ、それは、特定の栄養素の不足によって集中力が欠けたり、うつ状態になったりというのは医学的にも認められているところであります(栄養不足)。 昔、どんなに努力しようという意思があるのにどうしても興味がわかず、結果としてなんの成果得られなかった、ということが、ある時期になって異常な集中力と理解力が沸き起こり、どんどん解決していく。 こういう運命論的な事象も確かに存在します。 私の解釈は以上です。 が、セザンヌさんはおそらくその解決策にも興味をもっているのではないかと推察します。 怠け癖への解決策は、完全に一人で人生を歩ませることだと思います。 ・・・なぜこうさせるかという理由は、今回は述べないでおきましょう。
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- chokmah
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「努力の必要性を感じているのに怠けてしまう」 「環境のせいではなく本人の中にある二つの思いが葛藤をおこしている」 この場合はもう内面の洞察ではなく、実際に行動に移すことを考えるべきだと思います。 セザンヌさんは高校生でしょうか。 努力するべき目標が明確なら、努力をすること。自分一人では挫折してしまうなら第3者がその努力の補助をすることでしょうか。 学生時代というのは私にとってもそれほど昔ではなく、私も勉強は嫌嫌やってました。 集中力がまったくでないんですよね。 そうこうしているうちに大学まで卒業してしまいましたが。 でも、その大学に入ることも、私自身の運命に自ら導かれるまま入ったのだと思います。 そこで出会った人達も、やはり出会うべくして出会ったのだと。 そこで学んだ人生の教訓は高校までの人生の何百倍にも相当するものであったことも(大げさではなく事実です)。 本当は○○大学に入りたかったし今でももっと勉強すればよかった、と後悔します。 でも、高校時代の集中力に無さは結局、この大学に入るための必然たる運命だったのかと感じています。 さて、第3者による努力の補助ですが、友人を巻き込んでやることも、自分に努力を強制させることができるかもしれません。 スクールなりに入って、強制的に自分に実行させる環境をつくるのも1つの方法だと思います。 例えばです。 もし、私があなたを大切に思う近しい存在であったとしたら、私が先に他人に教えられるくらいマスターして、そして、あなたといっしょに課題に取り組みます。 それがスポーツでも同じこと、私が先に体力をつけてからあなたといっしょに臨みます。 これは、私が人に教えることが好きというもともとの性質にもよりますが、あなたに努力を強いるのには一番確実に近いものだと考えられます。 考えることは良いことと思います。 理想を抱くのも同様に。しかし、その理想に向かって動き出さなければ、それが現実化されることはありません。 何ごとも実行されなければ何ら意味を成しません。 確実に実行せよ これは私自身への戒めでもあります。 ともにがんばりましょう。
お礼
お礼が遅くなってしまい申し訳ありませんでした。 >努力するべき目標が明確なら、努力をすること。自分一人では挫折してしまうなら第3者がその努力の補助をすることでしょうか。 私は現在大学生です。目標設定、というのは大事なのですね。大学まで来ると目標を見つけるのが難しいと個人的には感じています。第三者の補助は停止状態から実行へ向かわせるのによさそうですね。共に歩むもの、アドバイスをするものがいれば、実行することに張り合いを見出せると思います。 >私自身の運命に自ら導かれるまま入ったのだと思います。 最初の回答であげていただいた「運命論的解釈」ですね。こう考える方法は、実際私もスクールカウンセラーの方から教わりました。そう考えるととても気持ちが楽になります。 >何ごとも実行されなければ何ら意味を成しません。 確実に実行せよ そのとおりですね。動くべき方向があるならば、嫌々ながらでもその方向に向かって歩く決心をしなくてはいけないと思いました。とても勇気付けられます。本当にありがとうございました。 2つの回答にポイントをつけさせていただきましたが、どなたからの回答もとても参考になりました。本当は全ての方にポイントを差し上げたいところですが、そうもいきませんので、悩んだ末選ばせていただいた結果であることをご理解ください。
- ria-no
- ベストアンサー率25% (1/4)
私も怠けぐせがありました。義務教育なんて勉強など 全くと言っていいほどしなかったです。 義務教育の年齢で勉強に対して面白い!!って思ってしている人って そんなに多くないと思います。 他者より優位に立ちたいという気持ちが強い人が懸命にしていたと 記憶しています。 義務教育で勉強が出来る人って、一種のヒーローなんですよね。 自分の自尊心が満足することが一番のいいことですよね。 偏差値の高い高校へ入学することは、ステータスです。 皆からは、羨望の目で見られます。 私は義務教育の時に、やればできる子だと言われて 勉強をやってみたことがあります。 そうしたら90点とか、楽に取れたんです。 でも…何故かそんなに嬉しくなかったんです… よって、私は勉強をすることはしませんでした。 無気力と言われれば、そうなのかも知れませんが 学年でトップになることに価値を見出せなかったんです。 それが、私の不勉強であることへの理由になりました。 怠け癖がある人は、尊敬されることに無関心なんですね。 特に競争社会では、そんな人間は、使い物にならないので 社会からは不適応となりますね。 でも、人間として失格なわけではありません。 ただ、人は努力することで輝くのです。 それが人間として生まれた誇りなんです。美しさなんです。 だから、自分が人間としての尊厳を大切にしたいのなら 人として、必死に生きることが 人たらしめるのです。 怠けては、自分の人としての尊厳を自分でないがしろにしてしまいます。 だから、怠けることは、放棄なんです。 ニートは、放棄です。人間としての尊厳の放棄です。 あと、やる気がない人は、脳内の物質も関係していると思いました。 脳内の物質は、性格が関係していると思いますね。 明るくハキハキした性格でプラス思考なら 脳内も活性化するでしょう。性格の改善は訓練で変えられますよ。 やる気が沸いてくるには、モチベーションも大事であり、 大きな夢があるといい方向へ向かうように導いてくれるものと なるでしょう。
お礼
お礼が遅くなって申し訳ありませんでした。体験を交えてのご意見参考になりました。 >怠け癖がある人は、尊敬されることに無関心なんですね。 なるほど。尊敬されることに無関心だから怠ける、ということですね。 しかし、私はこれは怠けている状態ではないのでは、と思います。他人から見て怠けているように見える状態ではありますが。尊敬されることには価値がないからやらない、という意志の上で実行していることですよね。怠けるというのは、尊敬されるということの価値を認めつつそれに対する努力を実行しない、できないことではないかと思います。 >でも、人間として失格なわけではありません。ただ、人は努力することで輝くのです。 確かに、有益な努力によって人は輝き、自信に満ち溢れますね。 >怠けては、自分の人としての尊厳を自分でないがしろにしてしまいます。 厳しいお言葉に感じましたが、ご尤もなことです。人間は必死に生きてこそなのかもしれません。それでは、なぜ怠け心があるのでしょうか。万人にあるものと思って質問しましたが、ない人もいるのでしょうか。 努力は美、怠けはその放棄、そこにも納得は出来ます。だからこそ、じゃあなぜ人間としての誇りを放棄してしまうの?ということが不思議です。 >ニートは、放棄です。人間としての尊厳の放棄です。 状況はそういうことになりますね。しかし彼らはなぜ放棄を選ぶのか。そこを伺いたかったです。たとえば彼らがその道を自分の人生として納得し選んで歩んでいるなら、怠けだ不適応者だと他人にとやかく言われる筋合いはないわけです。でも現状に悩んでいるなら、原因を考える余地があるのではないでしょうか。 >やる気がない人は、脳内の物質も関係していると思いました。 脳内の物質、それもあるのかもしれませんね。そういう方向ですと、やはり生活習慣や環境も要因になってくるかと思います。性格は訓練で変えられるというのは知りませんでした。訓練をするのもいい方法ですね。 モチベーションを保ってやる気を持って生きるには、そのための大きな夢を持つには、社会は広く浅くなっているのかなと思います。 ご回答ありがとうございました。
- noname002
- ベストアンサー率36% (97/264)
これも挙げておこうと思っていて忘れました。追加します。 ↓ わたしは わたしの王女様である そして その民である ――大島弓子『8月に生まれる子ども』――
お礼
ありがとうございます。 はっとさせられる詩ですね。 自分の命令によってしか自分自身を動かすことはできないのですね。
- noname002
- ベストアンサー率36% (97/264)
御返事拝見しました。 なかなか掘り下げた問題意識を御持ちでいらっしゃるのですね。 実は私自身、障害をかかえていますし心身とも虚弱なほうですので、いやが上にも怠け者で、ひと様に「努力」の何たるかを説く資格などないようなものなんですが。。。お恥ずかしい。 ただ、他の御回答でも挙がっております「栄養素」の問題、「エネルギー」の問題、これは確かに見過ごせないところだと考えます。 最近、ウツ病の人や、御質問にも挙げておられますNEETの激増など、このあたりと関連する部分があるようにも見受けられます。 >>本当に問題なのは、好きなこと興味があることのはずなのに、怠ける、というか、やる気が起きない場合。 >私も、実はこれが一番問題だと感じています。そのような心理状態で、鬱以外にも考えられるものはありますか?もしくは打開策はどんなものがあるでしょうか。幼少期のトラウマからきているとすればやはりカウンセリングでしょうか。 >>まあ普通、自分が可愛ければ、ここまでになってしまう前に少しは動くし、努力もするわけです。 >他の質問を読んだりしていると、最近はここまでに至ってしまっている人が結構いるのではないかと思うのです。「わかっているのにできない」という状態の人が少なからずいるのではないかと思うのです。 私が子どもだった頃もうすでに親などが申しておりましたが、いまどきは野菜の味ひとつとっても昔と違って水っぽく、実際、栄養成分も落ちてきているらしいと聞いたことがあります。そこへもってきて農薬の問題、海洋等の公害汚染の問題、、、摂取するものからの栄養どころか害のほうがクローズアップされているくらいですから、もともとの身体条件には、とくに弱点がないとしても、なんとなくダルイ、やる気が起きないという訴えは児童から社会人まで増加傾向にあるようですね。 まして私のような胃腸等がじょうぶでない生まれつき虚弱体質の場合でしたら、それはもう、目に見えないところで深い影響をもたらしているであろうことは想像に難くありません。 私は以前、重度の貧血状態に陥ったことがありますが、まさに「やる気はあってもカラダがついて来ない」状態でした。そのため職場などでも不興を買いがちでしたし、自分では、もうこれ以上無理…というところまでガンバってるつもりなのですが、はたから見るとチンタラチンタラしてるように見えていたそうで、本人にしてみたら気絶しそうなほどシンドイわツライわ誰にも分かってもらえないわ、で精神状態まで悪くなり、仕事に加えて親の看病まで背負うなか最後とうとうウツになってしまいました。 ですからやはり栄養状態、健康管理というのは重要だと実感します。まして虚弱体質の場合は、親が、子どものうちから食事等じゅうぶんな注意をはらわねばなりません。 その点、健康的な習慣を身につけ、それを毎日、規則正しく実行させていくうえで、もともとマメで律儀な性格の子どもは有利だと思います。また、そういう気質に生まれついているということ自体、それだけの体力とエネルギーをもって生まれてきているということでもあると見受けます。 まぁ考えてみたら、もう、このあたりで人それぞれ人生に差が出てくるという現象の原因になってる面もありそうですね。 実際の打開策として私自身が多少思い当たるのは、厭なことメンドウなことほど後回しにしがちですが、後回しにすればするほど、そのこと自体が大ごとになってきて、かたづけるのに大変手間を費やしてしまう、だからメンドウはメンドウな気持ちを抱えたままでいいから、ひと手間で済むうちにチャチャッとやってくこと、そうやって一旦、習慣づいてしまえば、よく言われるようにカラダのほうが勝手にサッサと動いてくれるようになる、ということです。 逆に後回しにして溜め込む習慣がついてしまえば、それもカラダがおぼえるということになりますね。そうじとか便秘とか肥満とかとも関連ありそう。。。同時に気分も比例的に重苦し~くなりますでしょう? 先の投稿でも一例として挙げた夏休みの宿題、毎日のお天気の記録と絵日記。これ、毎日やってりゃ、そんな時間もかからないはずなんですが、夏休み終わりごろになって一気にまとめてやろうとしたらヒサンなことになりますでしょう?(笑) ですが最近の環境問題と共に、現代人というのは殊更、余計な用事を抱え込んではヒーヒー言ってるんですよね。仕事でも、そう感じることが、よくあるんですけど、いったい我々が抱え込んでることどもで、本当に必要なことって、どれほどあるのか、むしろ本当に必要なことほど、おざなりにしているんじゃないかと。 昔の人は、いまみたいな便利な生活じゃないですし、何かにつけて制約が大きい暮らしをしていたわけですから、何をやるかやらないか、やらなくていいかいけないか、優先順位とか区分けが厳しかったろうと思うんです。そのかわり或る面、余計なことはしないで済んだでしょうね。 たとえカウンセリングを受けたとしても最終的には自力で立ち上がらなければならないわけですから、やはり自分で精いっぱいできることといえば健康管理、とくに子どもを持つ親ともなれば、自分の代さえ良ければで済まない責任があります。場合によっては、自治体や国家に対して、世論に対して実際の行動を起こしていくことが必要な時代状況になっていますね。 考えてみたら、口に入れるものというのは、一番素朴なレベルの問題でありながら同時に世界中と繋がっている問題なんですよね。。。 NEET問題というのも、なかなか一括りに断じることはできないようですが、ウツなどと同様、世界的に増加の傾向が見受けられるとしたら、やはりそこには時代状況の流れが絡んでいる部分が大きいのだろうと思います。 まず、食生活を始めとする健康管理の問題。 大して重要でもないことにカリカリして、あれもこれもやらなくてはと意味もなく時間に追われ、文字通りの慌ただしさのなかで心が荒む。 そこへもってきて自分でなくても親とか誰かが代わりにやってくれたら… 若いうちほど、まだまだ時間はある、今でなくてもきょうでなくても、という甘え。 そのくせ、別に大事でもないことにかまけて時間のムダづかい。 行動を起こすため立ち上がるのに水を差すようなことが多いですねぇ現代は。 昔は自分個人の望みを持つことすら、なかなか許されないことが多く縛りが強い人生だったと聞きますが、いまの時代、基本的には何事も自分の希望が優先されるようでいて、その実、肝腎の自分自身が自分のとるべき行動に迷う。 昔の人の生活のようにシンプルではいられない迷い多き現代だからこそ、我々一人ひとりが自分でできることできないこと、本当にやるべきことそうでないことの取捨選択の眼力が問われているのだろうと思います。 私、十代の頃に 「こうしている間にも 死は じりじりと近づいてくる 親の死も 何もかもが じりじりと近づいてくる」 って書いたことがあります。このままの自分では恐ろしいことになるだろうと怖かったのです(笑) 年寄りになると気が短くなったりするそうですが、それは「死」が目前に迫っていることを肉体の衰えを通して実感するからでしょう。 兼好法師のような大昔の人ですら「命尽きるときに、あれやこれやが惜しいからと言って、いったい何を持って行けるというんだ、グズグズしないで大事なことを最優先しなさいよ」というふうなことを仰っているんですから。
お礼
お礼が遅くなり申し訳ありませんでした。 我々の口に入れるものの質が変ってきている、というのは興味深いです。食生活をはじめ生活習慣によって無気力というような気質が出来ているということも確かにあるのだろうなと思います。 >健康的な習慣を身につけ、それを毎日、規則正しく実行させていくうえで、もともとマメで律儀な性格の子どもは有利だと思います。 そうですね、その元々の性格がいつできるのかというのはまた別の話になってしまいそうですが、とにかく基本がある場合は楽だと思います。なので、怠け者が毎日2ページ問題集を解こうとするのと努力できる人がしようとするのとでは、やる気の出し具合が違うと思います。 >メンドウはメンドウな気持ちを抱えたままでいいから、ひと手間で済むうちにチャチャッとやってくこと これはそのとおりですね。自分自身の教訓にもしようと思います。 >いったい我々が抱え込んでることどもで、本当に必要なことって、どれほどあるのか、むしろ本当に必要なことほど、おざなりにしているんじゃないかと。 抱えすぎて、なにをしたらいいのかわからず立ち往生してしまい、やる気がなくなっている・・ということも考えられますね。 >我々一人ひとりが自分でできることできないこと、本当にやるべきことそうでないことの取捨選択の眼力が問われているのだろうと思います。 ごもっともだと思います。この情報過多の世の中では、人生を左右するであろう事柄も、聞き流しても特にも損にもならないような事柄も同じテーブルに同じような格好で並んでいる状態のように思えます。そこから取捨選択をすることはとても困難なことでしょう。現代には困難ながら自分の意思をつかみとろうともがく期間も必要なのかもしれないと思います。NEETのような人達、またそうでなくても悩んでいる人達(怠けていることに自分らしさを見出していない人々)がその期間を過ごしているのだと考えれば、「甘えている」「役立たず」と単に見捨てるようなことは間違いなのではないかと思います。 字数制限の関係で丁寧な回答の全てにお返事が出来ず申し訳ありません。ありがとうございました。
- chokmah
- ベストアンサー率30% (11/36)
No.4の者です。 セザンヌさんの他の方へのお礼を拝見して、人となりがなんとなくわかりました。 セザンヌさんは基本的に頭が良いのでしょう。それは学校の勉強ができるとかそういった類のものでなく(それは単なる暗記にすぎません)、叡智がある、という意味です。 タイトルは怠け者、、というものですが、この怠け者について深く考え、その思考過程もしっかりしたものとなっています。 私はあなたの思考過程に興味を持ちました。 普通に与えられた仕事や勉強を淡々とこなして良い成果や成績を得る、その人達は努力家だとかまじめだとか言われる、周囲の人間にとって何の問題もない人間でしょう。 しかしそういう人達は、それだけ、その程度、にすぎません。 その人達はその先にあるもの、物事の深淵なるもの、真実に気づくことができず、また疑問にすら思わないのです。 あなたが、「自分は怠け者だ、なんとかしてくれ」とそれだけで終わる人間でなかったからこそ言えます。 悩みは人を成長させます。しかし、ただ悩むだけではだめなのです。 その悩みについて深く考え、解決策について足掻くことで叡智を得るのです。 あなたが悩む「怠け者の状態」はもしかしたら必然なのかもしれません。 この、今の自己の心理状態をよく覚えておいてください。 あなたがいつかこの状態を抜け出し、他に過去の自分と同じような人間をみつけたとき、他の誰よりもあなたが一番その人を救うことができるのです。 No.6さんが一部で書かれているADHDについてですが、、、そもそも人間の性格を、どこからが異常でどこまでを正常とするのかは、私は疑問に思うところです。 すべてをひっくるめて、それはその人の個性だと捉えているからです。 私も自己の性質について悩み、いろいろな薬物についても詳しくなりました。 しかし最終的に、薬で変えられる人格ならば、私という「個」とはいったい何なのか、と再び新たな疑問にぶつかりました。 私がNo.4で示した栄養素、としたのは薬物にまで及ぶと多少なりとも危険であり、だからこそ、正常な食生活を推奨する意味でも「栄養不足」とだけ書いた次第です。 さて、怠け者に対する解決策ですが。 「完全に人生を一人で歩ませること」と私は述べました。 ニートがそれで存在可能な理由は親というバックボーンがいるからです。 就職活動をして、それが失敗しても実家に帰ることができる。金銭的な心配はいらない。 就職活動をしなくても養ってくれる親がいるから、別に働かなくてもいい。 ならば、「自分で働かなければ生きられない状態にする」、確かに私の挙げる具体的実行策はまさしくこれですね。 しかし、これは危険な賭けと捉えられることが多いでしょう。 子を思う親ならなおのこと。 もし、一歩ふみはずせば、社会的闇の世界に足を踏み入れてしまう人間もいるでしょうから。 「甘えを絶つ」というよりは、各々が自己の行動に責任を持つ、といったほうが良いでしょうか。 もう一つ「生まれ育った環境が努力をよしとする環境である場合、そこには強い葛藤が生まれると思います」についてですが。 やはり、違う環境へと旅立つことをお勧めします。 強い葛藤を抱えている、ということはあなたは努力することを正義、怠けることを悪、という観念に縛られてしまっています。 もし実家にお住まいであれば、完全に独り立ちする。また現在お勤めであって、そのような観念に縛られるのであれば転職をお勧めします。 この世は良くも悪くも多数決の世界であり、その多数決の結果を善悪にわけて受け入れてしまっている社会です。特に日本は。 あなたに葛藤を与え苦しめているものの正体は、周囲が怠け者を悪と決定したことに由来するのではないでしょうか。 違う世界へ出て、あなたの本来の能力を発揮できる場所へたどり着くことができれば、あなたはそういった観念から開放されるでしょう。 あなたの能力の一つは叡智、と先に述べたとおりです。 あなたには物事に対する洞察力があります。 これを生かせられる場へ行けば、何も矛盾を抱えず人生を懸命に生きることができると思います。
お礼
質問に答えていただきありがとうございます。 恐縮です。叡智があるといっていただけるほど大それた理由で質問したわけではないのです。ただ怠けることについて叱咤激励でもフォローでもないご意見を伺いたいと思ったのです。そのため心理学のカテゴリーで質問しました。 >そもそも人間の性格を、どこからが異常でどこまでを正常とするのかは、私は疑問に思うところです。 確かにそうですね。病名がついたからといって問題が解決しない場合もあります。(ADHDという障害を疑っているわけではありません。)個性であるとすれば、その個性と自分がどう向きあって行くかということが必要になりますね。個性が人を傷つけることもあります。だからこそ、自分の個性への理解が必要なのではないかと思います。経験からのご意見、ありがとうございます。 >己々が自己の行動に責任を持つ なるほど。逆に言えばNEETはこの点に弱いということですね。(全員に当てはまるわけではないと思いますが。)自分の行動に責任を持つことが面倒、怖い。これはNo.5の回答者様がおっしゃっている「自虐的な心理」ですね。それを解消するには自分ひとりだけで生きることが出来るという自信を得ることが重要になってきそうです。「完全に人生を一人で歩ませること」はいい方法かもしれません。ただそこに踏み出すには、周りの理解と協力が必要になりますね。失敗した場合はもっと大きな自虐を呼びます。 >違う環境へと旅立つことをお勧めします。 アドバイスありがとうございます。生まれ育った環境についての例は私のことではなく、社会のことを例えて書きました。環境を変える、または自分の性質を受け入れてくれる環境に属するという解決方法があるということですね。嫌な努力を強いられている場合は、確かにそうすることが一番いいように思います。 では、努力の必要性を感じているのに怠けてしまう、という場合はどうでしょうか。環境のせいではなく本人の中にある二つの思いが葛藤をおこしている場合です。今回とても丁寧な回答を頂き大変参考になりましたので、もしもう少しお付き合いいただけるなら・・と思いながら質問させていただきました。 背中を押してくださってありがとうございます。字数制限の関係でご意見の全てにお返事できないことをお許しください。
- snakesoul
- ベストアンサー率35% (36/101)
>努力をしたほうがいいに決まっているのに、どうして人は怠けてしまうんでしょうか。 まずこの前提が間違っています。「努力をしたほうがいい」とは決まっていません。努力しない方がいい場合もあるし、努力しないで幸せになれる人もいます。 『努力』というと「やりたいことをやる」というよりも、「やりたくないこと(おもしろくないこと)をがんばってやる」というようなような意味があると思います。自分の将来のためになると思い込んで今つらいことをする。しかしそれは思い込みであって、実際に将来のためになるかどうかはわかりません。 そもそも生物はできるだけエネルギーの消費を抑えて生活しようとするものです。無駄な労力を省くことで限られたエネルギーをより有効に使うことができます。基本的に生物は怠け者なのです。人間以外で努力をしている動物を見たことがありますか?そう考えると「努力」とは「思い込み」という事実を歪ませて認識することのできる人間特有の行動であると考えられます。 努力が苦手(嫌い)な人がいます。以下のような人たちが「怠け者」として非難されやすいのではないでしょうか。 1刹那的な考え方の人 「今がよければそれでいい」将来のことはあまり考えていない。お腹が減ったら狩りに出かけるみたいな、動物的な生活の人です。また、そんなよくわからない未来のために労力を費やすなんて嫌だ、今が大切、という思考の方です。 2思い込むのが下手な人 思い込むというのは一種自分を騙すようなことでもあるので、それが嫌いな人は努力もできなくなります。また、劣等感が強い人やマイナス思考の人は、「どうせダメに決まってる」という考え方をしてしまうため、努力が将来役に立つということを思い込むことが下手になります。だから努力もできなくなります。 3ADHD傾向の人 ADHDは生まれつきの障害です。簡単に言うと「やりたいことしかできない人」です。「意識」のコントロールが苦手で、目の前のことに翻弄されてしまいやすいです。やりたくないことをやることに非常に抵抗があり、苦痛を感じてしまいます。障害なので治りません。 4エネルギーの低い人 エネルギーが低い人は、わかっていても体がなかなか動きません。結果として怠け者のように見られてしまうことがあります。生まれつきエネルギーの低い人もいますが、ストレスや疲労などによって一時的にエネルギーが低下することもあれば、うつ病などの精神病で長期にわたってエネルギーが低下してしまう人もいます。 怠けていたり、甘えているように見えてもそれぞれにいろんな理由があるものです。それもわからず、「夢」だとか「努力」だとかいう言葉を振り回して、一概に怠け者のように見える人を非難することこそ人として下劣なことだと思います。 質問者様もそんな下劣な人たちに負けず「怠け者」を貫きますか!(笑)
お礼
ご意見ありがとうございます。たいへん興味深かったです。 「努力」とは「思い込み」による事実の認識であるということですね。ということは、怠け者という性質の者がいるのではなく、努力というフィルターを通してある性質の人を見たときにそう見える、ということでしょうか。 >そもそも生物はできるだけエネルギーの消費を抑えて生活しようとするものです。 必要最低限で生きているのですね。私は人間以外で怠けている動物も見たことがありません。猫が昼間からゴロゴロしていても怠けているとは思いません。やはり、「怠けている」という認識もまた人間特有のものなのかもしれません。 「怠け者」として非難されやすい人の例がとても的確で納得しました。その中で、2と4のような人がとりわけ怠け者であることについて悩むのではないかと思います。snakesoulさんのおっしゃるように、「努力したほうがいい」という前提が間違いだとしたら、努力が嫌いというのも個性ということになるのでしょうか。 >怠けていたり、甘えているように見えてもそれぞれにいろんな理由があるものです。 私もそう思います。けれどもそれは「努力せよ」と言う人にも言えることだと思います。たとえば戦時中など苦しい時代を経験した人なら「努力せよ」と考えても当然ではないかなと。それぞれに理由があるからこそ、「努力」する人が素晴らしくて「怠ける」人はダメ人間というのは一概には言えないのではないか、両者の間に優劣はないのではないかと思ったのです。 >質問者様もそんな下劣な人たちに負けず「怠け者」を貫きますか!(笑) どうしたいかと言われると、つらぬきたくはないですね・・。せめて自分の目標に対してくらいは頑張りたいです。ダイエットでそれなりの効果を得たければ現状を続けるわけには行かないですもん。何かしらやらないと(汗)
- noname002
- ベストアンサー率36% (97/264)
>努力をしたほうがいい というのは正確には、良い方向に行くように、という但し書きがつくでしょうけれど、それはともかく 質問者様は、いま夏休み中でいらっしゃいますか? もしそうでしたら、あるいは社会人でいらっしゃるなら学校時代の夏休みの宿題のことを思ってみてください。 世のなかには、とくに必要とまでいかなくとも、規則正しい習慣をつけて、その習慣に従って着々と進めていくこと自体に快感を感じる人もいるようですし、あえて困難なことに挑戦して自分の力を試してみることに快感を感じる人もいるようです。 でも、ほとんどの人は、きょうでなくていいや、あしたやろう、とか思いつつ気がついたら夏休みも終わりに近づき、あわてて取り掛かったりした記憶があるだろうと思います。私も思いっきり、そうでした。いまもです。。。ーー; よく聞かれる言いまわしですが「お尻に火がつくかつかないか」ということですね。要するに、せっぱ詰まっているかいないか、ということです。 先のばしにできるのは、先があると思っているからです。 あるいは、ナントカなるさ、と思っているからです。 もっと言えば、この自分でなくても、だれかがナントカしてくれるさ、と思っているからです。それが自分自身のことであっても。 ここまでは、まあフツーのこと、思い当たる人が多いだろうと思いますけれど、本当に問題なのは、好きなこと、興味があることのはずなのに、怠ける、というか、やる気が起きない場合。 あと、間違いなく「お尻に火がついて、せっぱ詰まってる」のに怠ける、というか、やる気が起きない場合。 これらの場合は、心理的に(たとえばウツなどの)問題が潜んでいるかもしれません。 あるいは、一種の自虐的な心理が潜んでいるかもしれません。 抵抗する力がない幼少時に何か暴力的な情況に置かれて、その潜在的な記憶が自分自身に対する信頼や自然な誇りを持つことをさまたげる場合があるようですが、そのために何歳になっても、適切で必要な行動がとれず、そのことによって、ますます自分で自分を追い込んでしまうこともあるようです。 これをやらないと自分自身にとって大変な不利を招くと分かっていて、どうにもできないというのは恐怖を伴う苦しみでしょう。こうした苦痛が日々積み重なっていくと、実際の問題としても困ったことになるでしょうが、それ以上に本人の内面的、精神的な傷が深まってしまって、最後には自力で立ち上がれなくなってしまう恐れが出てきます。自分で自分を守れるという信頼ができなくなるのですね。ですから本当の意味でのプライドも保てなくなります。 まあ普通、自分が可愛ければ、ここまでになってしまう前に少しは動くし、努力もするわけです。 吉田兼好『徒然草』のなかから、ちょっと関連がありそうな部分を抜き出してみます。 『大事を思ひ立たん人は、去り難く、心にかゝらん事の本意を遂げずして、さながら捨つべきなり。「しばし。この事果てて」、「同じくは、かの事沙汰し置きて」、「しかじかの事、人の嘲りやあらん。行末難なくしたゝめまうけて」、「年来もあればこそあれ、その事待たん、程あらじ。物騒がしからぬやうに」など思はんには、え去らぬことのみいとど重なりて、事の尽くる限りもなく、思ひ立つ日もあるべからず。おほやう、人を見るに、少し心あるきはは、皆、このあらましにてぞ一期は過ぐめる。近き火などに、逃ぐる人は、「しばし」とや言ふ。身を助けんとすれば、恥をも顧みず、財をも捨てて遁れ去るぞかし。命は人を待つものかは。無常の来るは、水火の攻むるよりも速やかに、遁れ難きものを、その時、老いたる親、いときなき子、君の恩、人の情、捨て難しとて捨てざらんや。』 (そうとうイイカゲンな現代語訳ですA^^;) 自分にとってホント大事なことを思い立ったら、やりかけてることが気になっても最後までやってなくても、そのまま、うっちゃるべき。 「もうちょっと、これ終わってから」 「どうせ同じことなら、あれを始末しておいてから」 「人から何言われるやら分かったもんじゃない、先々難儀しないよう準備しておいて、と」 「長年こうしてやってきたんだし、それが済むのを待ってからにしよ、そんな時間もかからないだろう。慌てない慌てない」 などと思ってるうちに、用事がますます積み重なって際限もなく、結局は思い切る日も来やしない。 だいたい、世間の人を観察してると、多少ものが分かってるくらいの人なら皆こんなこと言いながら一生終えてしまうみたいだね。 近くの火事なんかで逃げる人が、「ちょっ、ちょっとのあいだ待って」なんて言う? 助かりたいから、恥もガイブンもなく、財産も捨てて、一目散に逃げ出そうとするんだろうが。 命が人を待ってくれるか、っての。 世の無常つまり死がやって来るのは、水や火が襲いかかってくるより速くて逃れ難いものなのに、その時になって、老いた親やら幼い子どもやら社長の恩やら人さまの情けやらが捨てるに忍びないからといって、捨てずにいられるかってんだ。
お礼
ご意見ありがとうございます。 私は今夏休み中です。宿題のことは耳が痛いです。義務教育時代から現在に至るまで、ついに計画通りの夏休みを過ごすことはできませんでした・・。怠けてしまうのは「なんとかなる」という気持ちからくるというわけですね。自分を振り返ると、確かにそうだと思います。 >本当に問題なのは、好きなこと、興味があることのはずなのに、怠ける、というか、やる気が起きない場合。 私も、実はこれが一番問題だと感じています。そのような心理状態で、鬱以外にも考えられるものはありますか?もしくは打開策はどんなものがあるでしょうか。幼少期のトラウマからきているとすればやはりカウンセリングでしょうか。 >まあ普通、自分が可愛ければ、ここまでになってしまう前に少しは動くし、努力もするわけです。 他の質問を読んだりしていると、最近はここまでに至ってしまっている人が結構いるのではないかと思うのです。「わかっているのにできない」という状態の人が少なからずいるのではないかと思うのです。 『徒然草』紹介してくださってありがとうございます。現代語訳とてもわかりやすかったです。「自分にとって大事なことを優先させてやりなさい、そんなに命は長くないよ。」ということですね。吉田兼好、いいこと言いますね。だてにつれづれなるままに日暮していませんね。『徒然草』読んでみます。
たとえ話をさせてください。今ある山に登るという計画があったとします。あるひとはとにかく登ろうと歩き出します。ところが人によっては山登りはしたくないと言うかもしれません。別の人はに他の山に登りたいというかもしれません。こういう場合はじめに決めた山に登ることにしか意味や価値がない場合には計画に従って登り始めた人は努力していることになります。ところが他の山に登りたい人は努力しているとは見做されません。しかし本人は実際登っているのならばそれなりに努力しています。つまり怠けていると言われる人の中には社会の規範から外れているためにそう言われてしまう人もいるということです。学者などでも何もしていないように思われていたアインシュタインが実は誰も考えていなかった物理学を考えていたような例があります。おそらく社会的規範とは別に考えるべき問題なのかもしれません。
お礼
わかりやすいたとえ話をありがとうございました。 >ところが他の山に登りたい人は努力しているとは見做されません。 kaitara1さんもおっしゃっているとおり、こういう人も努力をしていると私も思います。そしてその努力は、目的を達成するという目標を持って登っている人よりも数倍苦しいものであるように思います。 怠けていると判断される人がいることには社会的規範が関わっているというご意見はとても興味深いと思いました。 ありがとうございました。 NEETなどの社会問題に対して前向きな捕らえ方や解決策がありましたら、またご意見よろしくおねがいいたします。
- otyoboguti
- ベストアンサー率23% (13/55)
努力したほうが良い、というは社会的、対人的、人生的等対象に対しての事を言っているからではないでしょうか。 つまり、「自分には良い」のでは無く、「自分には結果的に良い」と言う事です。 A1さんが言っているように、興味のある事に対しては怠けたりしませんよね? そもそも、怠けるの意味が、 1. なすべきことをしない。働かない。ずるける。 2. 元気がなくなる。力がなくなる。 なんです。 働かないのは何故?疲れるから。 元気がなくなるのは何故?。自分が好きな事ではないから。 興味のある事に対しては元気が出てきませんか?疲れが吹き飛びませんか? 勉強をしないのだって、社会に出て就きたい仕事、つまり好きな仕事がある人は、誰に言われるでもなく進んで勉強をするでしょう。 将来の夢も特に無く、尚且つ今遊ぶ事が好きな人は勉強する事を怠けるでしょう。 人が嫌いな物・事よりも、好きな物・事に惹かれるのは当然の事です。 将来生きるより、今を生きるのが好きな人は勉強をしない。 だから、NEETが増えてきているのは本能に忠実に生きてる人が増えてきているからなんです、たとえそれが非社会的であっても。悪く言えば我侭なんですね。 だから勉強する事、働く事が楽しいと思えるようになればそんな問題も早々に解決されるんでしょうけどね。 そんな、万人が都合よく楽しく暮らせる世の中かと言えば肯定できないですけど・・・。 そもそも、皆が皆、幸せに暮らせる世界なんて作れるのでしょうか・・・。私は一人一人の気の持ちようでしか解決できない気がしてます。 社会に出て働いてる人達は日々嫌な事に耐えて生きてるんです。 つまり、怠けている人は忍耐力の無い、根性の無い人と言い代えても成立するんじゃないでしょうか。
お礼
補足のほうに書き込んでしまいました。申し訳ありませんでした。 あらためましてありがとうございました。
補足
ご意見ありがとうございます。 なるほどなるほど。つまり、努力をよしとしているのは社会や対人関係や人生論の中でのことであるということですね。人間誰しも社会に属していますから、怠ける人が問題視されるのも当たり前ではありますね。 >本能に忠実に生きてる人が増えてきているから では、人間は放っておけば(社会という枠をはずしたら)怠けるものなのでしょうか? >怠けている人は忍耐力の無い、根性の無い人と言い代えても成立するんじゃないでしょうか 本人がそれを充分自覚している場合にはどういう解決策があると思いますか?嫌なことにどうしても耐えられない人は、耐えられる人以上の苦痛を味わっていると思います。「自分のせいで勝手に苦しんでる」といえばそのとおりなんですが、それでもなんとか解決する手立てはないでしょうか。 よろしければ再度ご意見いただけると嬉しいです。
- X4-LD
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人によると思いますが、自分の興味があるもの以外はやりたくないのです。遊ぶというのは、自分の欲を抑えられないのです。 怠けるのは、本当に必要と自分が理解していないからではないですか? 自分が本当に必要と感じているものは、怠けている場合ではないと思うはずです。 甘えというよりも、なんとかなるさぁと思っているのか、現実逃避しているかどちらかではないですか? 嫌なことをしたあとに自分ご褒美を決めてやると我慢できたりしますよ。
お礼
申し訳ありません。間違えて補足のほうに書き込んでしまいました。 あらためまして、ありがとうございました。
補足
ご意見ありがとうございます。どれもなるほどと頷けるものばかりでした。 では、それらの原因を自覚しており、問題視しているにもかかわらず、それでもなお怠けてしまう人はどうしたらよいと思いますか?あとは個人の問題、ということになってしまうのでしょうか? よろしければ、それについてもご意見いただけると嬉しいです。 それから、アドバイス参考にさせていただきます!ありがとうございます
お礼
ご意見ありがとうございます。興味深く拝見しました。 栄養不足と運命論敵解釈は、怠け癖の解決法として利用できるように思いました。 あとの2つですが、たとえば本来生まれもった性質が「怠けもの」であり、生まれ育った環境が努力をよしとする環境である場合、そこには強い葛藤が生まれると思います。この葛藤を解決(解消)するにはどのような方法が考えられるでしょうか。 お察しのとおり、最終的には解決策にたどり着きたいと考えています。そのために、怠けるということが本当に個人の問題なのか、他に問題があるのかを知りたいと思いました。 >怠け癖への解決策は、完全に一人で人生を歩ませることだと思います 。 自分で動かなければ生きられない状態にする、ということでしょうか。「甘え」を断つという方法のようにも思われます。 よろしければ、今回詳しく教えてください。お願いします。