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ソシュール: 「もの」が先か「言語」が先か?
ソシュールの入門書などを読むと、以下のように言っているように思えます。 << この世界は、言語によって切り取られるまでは、混沌とした一体であって、個々の「もの」は存在しない。>> もし、それが正しいとすると、「リンゴ」という言葉がないと、「リンゴ」という「もの」は存在しないということになりますが、それは、おかしいと思うのですが。もちろん、「リンゴ」という言葉を知らなければ、目の前にある「リンゴ」を「これはリンゴだ」とは言えないのは確かです。でも、だからと言って、「リンゴ」と名づけられるはずの「もの」そのものが存在しないということはならないと思います。 ソシュールはどういう意味で、上記のようなことを言ったのでしょうか?
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kobareroさん 了解しました。 なかなか充実した楽しい数週間でした。こちらからも 感謝申し上げます。 わたしの相変わらずのでしゃばり精神については ご海容のほどを 重ねてお願いしておきます。 またお会いしましょう。(そう言えば この言葉をすでに一度申し上げてしまっていましたね)。
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- arayata333
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すみません。 哲学書を読んだことのない(ソクラテス アリストテレス プラトン パスカルとかの名前とかその有名な言葉とかは学生時代に学校で習った程度は覚えていますが)者ですし、長い間ほとんど肉体労働で生きてきました者ですが、このQ&Aに参加を始めたことからこのような哲学と関連するのだろうQ&Aのカテゴリーもまだ少しですが見始めるようになりました。 そういう人間からの回答なのですが、たまには、新鮮ではあるかもしれません。 実は 哲学者という人たち(職業なのか啓蒙的は教育者なのかそういう地位をさすのかもよく解らないでいるので、「人たち」と書いています。)に対して、 そんなに物事を深く明晰に考えていると思われている方々ならなんで、現実に苦しんでる人たちがたった今の今もこの歴史から消えていないというのにそれをすこしでも助けられるようなコンセンサスをその哲学で創っていけないのか? なんでそのコンセンサスの見通しを我々(一般人)に示してくれないのか? もしかしたら難しい言葉で物事を定義することにオタクみたいに夢中になってしまって、むしろ頭がこんがらがってる人たちなのかもしれない。 深い体験や経験からの時にはその前にもがきのたうちまわるような思いで物事を考えてきた、そんな知恵から「ではどうすれば、すこしでも 人間がより幸せになれるのか」という切実な問題の見通しをさぐる頭脳明晰な専門家たちが哲学者なのではないのではないか? という疑いがありました。 もちろん知的興味自体の価値をなんら否定していませんし、現に上記の疑いを前提にしてですが、質問者様の明晰性に触れこれから知的分野への私なりの回答を書こうとしているわけです。 たぶんですが、というよりここでは推理で考えられる解釈のひとつというべきなのでしょうが、ソシュールっつう人は「神」の概念を問題にしたかったんじゃないですか? 物体があってきびしい生活があって サルの能力が(「自己や人間を見つめ反省し進歩できる存在」である人間という生物に どのような突然変異とかでそうなったのかは別の論議であるとして)言語を持つ生物になったのだとしても、 人間の五感をたよりとした認識(知る)能力は、音楽にしても大自然の美しさにしてもその心がどのように人と人の心を結びつけるかを知ることへの感動にしても、そこから「深いとしか言いようのない意味」の存在を、そして、そういう言葉を 事の端のいったんとして認識できるような可能性をもっています。 (こんなふうな書き方や言い方は普段しませんので、みなさんよりもかえって難しい言い方となってしまってるのかもしれませんね。 でも ともかく書きたい強い衝動のまま書いていってみます。) するとそこに「神」という概念がうまれ始まるというふうに私は そんなふうに「神」とう概念のはじまりを捕らえています。 最初は純粋無垢な心と頭脳から生まれたのがその概念だったはずだ というふうにです。 その「意味」という存在は 人間という頭脳生物がこのだだっぴろいなんてもんじない荒涼とした(?)しすぎるにほどがある宇宙に生まれるまでは存在しなかった。 「もの」の意味も存在しなかった。 したがって 意味にとって者は存在しないに等しかった。 という要はあたりまえの事を言いたかったのに、めちゃくちゃに複雑な定義群の中で西洋人として「だから神は存在する」という結論を表現したくて だからみずからこんなふうな解りにくい非論理的でさへある物事の説明となってしまったのでは という推理が こういう文に接するとその本とかを読む前に働いてしまうんです。 でもkobareroさん。 あなたは こういう中途半端のままとなってしまいがちな知性の論議を通して何かを啓蒙しようとされているようにも見えます。 命題ですか? ともかく大事な議論題材を「神」の問題も「存在」の問題もすぐには、明日の世界のための論議の場やそれによって世界をすこしでも良くしてゆくことに繋がらないにしても、これを理論明晰な形で表現したり考えあったり、よりわかりやすいその「命題」の表現をそこに求め続けたりする作業はとても大事なことと感じます。 この回答文をひねくれもののおもろい知性の参入と受け取ってお楽しみになるのもけっこうですが、わたしは真剣です。 それよりは楽しむならばせめてドンキホーテがここに出現したと思ってもらいたいです。 言いたいことは、「もしかしたらそちらはわざと「意味」という存在を抜きにした質問をなんらかの理由からでっちあげたというふうに思える」ということと「ソシュールについては、やはり「神」の概念をともかくもつたえたかったんじゃないかというふうに推理されてしかたがない」という文になるかと思いますが、 これ(言いたいこと)解っていただけますでしょうか? こめんなさい 長すぎましたね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >ソシュールっつう人は「神」の概念を問題にしたかったんじゃないですか? そうかも知れませんね。 「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。....万物は言によって成った。成ったもので、言によらず成ったものは何一つなかった。」と聖書に書いてありますから、まさに、言語で切り取る前は、混沌であったということになりますね。
kaitara1です。なかなかうまく説明しにくいのですがちょっと書いてみます。虫も猿もリンゴをリンゴと認識しているというのはそれでもよいとしても(私としてはそのように考えるとその先をうまく考えて行かれなくなると思っています)虫も猿もそのリンゴと一体化してしまって又バナナに対しても同じことが起こり同一の虫でも猿でもなくなってしまいます。自分が不変でなければ認識の主体にはなれません。つまり自分とリンゴやバナナを切り離せない虫や猿は(人間のようには)認識できないということです。人間も言葉を使わなければ自分に張り付いたリンゴやバナナから自由になれません。あまりうまく書けませんでした。ごまかすつもりはありませんからどうぞご自由に疑問の点をお示しください。
お礼
ご回答ありがとうございました。 >虫も猿もそのリンゴと一体化してしまって ここでおっしゃっている「一体化」の意味が、どうしてもわかりません。猿がリンゴを食べるとき、なぜ、猿がリンゴと一体化するのでしょうか?猿はリンゴを自分とは切り離された独立のものであることを当然知っているからリンゴを食べるのではないでしょうか? 多分、私の理解がkaitara1さんに全く追いついてないためと思いますが、正直なところ、全くチンプンカンプンです。
- ken-deleuz
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さらに、どうもです。 まずソシュールは言語学者です、ちょっと猿とは関係ないと思いますが、僕なりに書いてみます。 猿にまず言語がないとは、言い切れないのではないのでしょうか。これは推測ですけど。彼らはもちろん、僕らの言うリンゴと呼ばれる記号を持ち合わせてはいないでしょう。でもひょっとしたら”キッキー”がリンゴかもしれませんが。冗談はこのくらいにして、彼らがその赤い物が食べられるもだと認識するのは、経験からでしょうね。これは僕ら人間にしても同じことではないでしょうかね。ロック/ヒュームというイギリスの経験主義者達は人の知識は経験にあると述べています。それがなんであるのか、経験を通して認知していくわけです。でも僕は思うんですけど、経験は言語を通してやはり、知識をつくっていくのではないのでしょうか。例えばぶつかれば、痛い!っていいますし、猿だって痛たければわめくと思います。でも言語体系が猿より複雑/豊かな人間のほうがやはり理解力があり、推測したりする能力を保有しています。それはやはり言語を通して差異がよめるからではないのでしょうか。 経験に関しても、 甘い、酸っぱい、辛い、食べられる、食べられないなど差異は存在します。ただし猿が人間と同じ味覚を有しているかどうかは僕にはわかりませんし、彼らは、一度食べてまずければ、食べないだろうし、おいしければ、それを学習してまた同じ物を見た時に、食べる行為に繋がっていくのだと思います。でもそれが、形で彼らは見ているのか、匂いなのか、色なのか僕にはわかりません。僕は動物学を学んでいないので、このへんで勘弁して下さい。
お礼
ご回答ありがとうございました。 いや、別にサルでなくてもいいですよ。人間の赤ん坊でも同じことです。 人間の赤ん坊は生まれたときは、言語を習得してないと思います。でも、赤ん坊は、お母さんのお乳を飲んだり、お父さんの指を掴んだりします。すなわち、言語を知らない赤ん坊にとっても、世界は混沌ではなく、既に、いくつかの対象に区切られた差異を見出しているのだと思います。 私の当初の質問が混乱を招いているかもしれませんので、以下のように別の質問に置き換えさせていただきます。 <質問> 私は、以下のように考えます。 人は言語でこの世界を切り取る前に、既に、「心」でこの世界を切り取っている。言語はその「心」で切り取った部分を指し示す音声映像として生み出されたものである。 しかし、ソシュールは、言語が生まれる前に、「心」がこの世界を切り取っていることを否定しているのではないでしょうか? いや、そんなことはない、ソシュールの考えは、私の上述の考えと同じだというのなら、私の疑問はキャンセルします。
- hakobulu
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#10です。 >動物にとっては、「この世界」と言われても、それが何を意味するかはわからない :ご質問の内容はソシュールという人が考える「この世界」というものに対する視点の取り方の問題だと思うのです。 言語化されて切り取られることによって「この世界」が混沌から「(思考対象としての)個々のもの」の集合として認識できるようになる。 思考における言語の重要な役割を述べている箇所なのではないでしょうか。 おっしゃるとおり、思考のないところには「この世界」という認識自体が存在しないわけで、その場合、あえて「世界という言葉で表現されるもの」を想定する意味はないという考え方なのではないかと思ったわけです。
お礼
ご回答ありがとうございました。
- tenntennsevengoo
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>アメリカ人にとって、appleはあるけれど、リンゴはないというのと同じことになりますが、ソシュールは、わざわざ、そういうことを言いたかったのでしょうか。 ソシュール的に言えば混純という存在(シニフィエ)が先にあって その後リンゴというものが出来たと言いたいのだと思います。 リンゴその物を見ても動物からしてみたら「あリンゴだ」と思って 食べてるわけではないです。 感覚情報的にえさを食べている、もしくはそのほかの用途として存在 しているに過ぎずそのことをソシュールは混純とした一体としてと らえているのでそこで言葉(シニフィアン)である存在を表すことに よって「物」として表すことが出来ると言いたいのだと思います。 シニフィエがシニフィアン化される事によって「物」が発生すると いう表現方法です。(たぶん・・・・)
お礼
ご回答ありがとうございました。 全く、おっしゃるとおりですが、ソシュールはそのようには言っていないと思います。ソシュールは、シニフィアンとシニフィエは紙の表裏の関係であって、切り離せない結合体(シーニュ)であると言っていると思います。だから、シニフィエが先にあって、それに、名前を付けるがごとくにシニフィアンを結ぶ付けるというようなことを否定していると思います。 この点が、私が理解できないことであり、質問していることと密接に関連している点です。
- ken-deleuz
- ベストアンサー率23% (18/77)
どうもです、回答欄読ませていただきました。まず、前の書き込みに誤字、脱字があったことをお詫びします。 ちょっと、果物から離れて考えてみましょうか。そうですね、例えば男と女という言葉の存在。この内、女という記号を完全に消し去って、更に記号(女)を説明する必要な記号も消してしまいましょう。そうして記号(男)を説明できますか?おそらく無理でしょうね。記号(男/女)はその差異によって意味を増やし、また他の記号を借りて男/女を表象しています。そうして今度は、両方の記号を失ったとしましょう。たしかにかつて男と女と呼ばれた物体は、そこにはありますし、物体のつくりの違いから違う物体であることは、おそらく理解できるでしょうね。でも違いが分るということは、すでに何かと比べると言う動作を要求されます。じゃ、何がどう違うのか、これは記号の差異、それに伴う表象において物体の違いを理解するということなのでしょうね。つまり差異を示唆した時点で、言語の切り分けをすでに行っているということではないでしょうか(ちょっと乱暴な書き方ですけど)。 そうしてもう一つ大切なことは記号の中には、イメージを伴わない物もあるということです。(god, love, freedom) これらは、signifierだけで、signified (image conception)を欠いています。でも私たち、それがおおよそなんであるかは理解できると思います。それはやはり他の記号との差異によって、意味が生まれているからなんですよ。つまり、漠然と二つの物体があって、差異が分らなければ、やはり僕たちはそれがなんであるのか、理解できないんです。 また、物体という単語もまた他の記号に支えられた一つの記号にしか過ぎません。 ソシュールを読む上で大切なことは、彼がstructurelist/linguistであることを念頭にいれて読むことです。彼はphenomenologistではありません。 言語で世界を切り分けるとは、物体に差異を作り出し、カテゴライズすることにより、物体は言語によって表象されるということだと思います。 最後に、もしソシュールの細かい部分で分らないことがあれば、おつきあいします。僕も勉強になるので。 参考まででした。
お礼
ご回答ありがとうございました。 >でも違いが分るということは、すでに何かと比べると言う動作を要求されます。じゃ、何がどう違うのか、これは記号の差異、それに伴う表象において物体の違いを理解するということなのでしょうね。つまり差異を示唆した時点で、言語の切り分けをすでに行っているということではないでしょうか(ちょっと乱暴な書き方ですけど)。 「対象に差異を見出すこと」=「言語能力」と定義すれば、おっしゃるとおりだと思いますが、通常は、「言語能力」をそこまで拡大して考えないのではないでしょうか。 例えば、サルがリンゴを掴んで食べる行為を見ると、サルは「リンゴ」と「リンゴ以外のもの」の差異を感じ取っていることは確かだと思いますが、でも、だからと言って、サルは「言語能力」を持っているとは、通常、言わないと思います。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
ソシュールさんという方は知らないのであて推量で考えてみます。 自我に目覚める前の赤ん坊にとっての世界は「混沌とした一体」であるだけで十分、ということにもなるのでしょうか。 快をもたらすものか不快なものかだけで十分納得していると思います。 「言葉によって切り取る」という行為は「個々のもの」を認識する欲求に駆られるからで、また、それが言葉が必要とされる理由でもある。 りんごという言葉が無くてもりんごは存在するが、たとえば食べられるものかそうでないものか、だけの区別より必要とされない場合、言語としての「りんご」は不要である、といったような意味かと感じました。 >「リンゴ」と名づけられるはずの「もの」そのものが存在しないということにはならない :というより、その実がりんごと名づけられていなければ、バナナと名づけられるものもないはずで、さらに果物という言語もないでしょうし、「植物」もなく、「当初の位置を動かないもの」「食べられるもの」といったような感覚でしか捉えられないでしょう。 ですから動物にとっての「この世界」は無いということになるように思います。 人間が「この世界」という認識を持つのは、すでに言語による「個々のもの」の切り取り作業がある程度進んだからこそ、といったようなことになるのか、とも思いました。
お礼
ご回答ありがとうございました。 >ですから動物にとっての「この世界」は無いということになるように思います。 確かに動物にとっては、「この世界」と言われても、それが何を意味するかはわからないわけですから、我々が言っている「この世界」はないと言えないこともないですが、だからと言って、動物にとって、目の前の森や、自分を襲ってくる敵や、雷の音や、風や、川の水がないと言うことにはならないと思います。動物は、それらを総称して「この世界」と呼んだりはしないというだけのこではないでしょうか。
- kanpyou
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「実在」と「実存」 「実在」と「実像」 「実像」と「心像」 「姿」(figure)と「形」(shape) を考察した上で、 真理と虚偽の本性について B・ラッセル http://www.geocities.jp/mickindex/russell/rsl_oNTF_jp.html バートランド・ラッセル http://www.geocities.jp/mickindex/russell/idx_russell.html を読んでみてください。(1900年代に記したものなので、非常にまとまっていると思います。)
お礼
私の質問との関連からは、少し離れてしまっているように思いますが、参考にさせていただきたいと思います。ご回答ありがとうございました。
リンゴを食べる虫の事を考えると、この虫はわれわれから見ると確かにリンゴを認識しているように見えます。しかし虫はリンゴと一体となっていて時々刻々虫自体も変化していきます。つまりわれわれが虫に成り代わってリンゴを認識しているに過ぎません。つまり虫はりんごあっての虫であって主体的に存在しているのではないということです。人間は脳が発達した為にリンゴと一体化して時々刻々変わらない言語を作り出したということではないでしょうか。人間がリンゴをかじっても虫が食べるときと同じようにリンゴは時々刻々変わっていきます。体から考えると人間も虫と同じです。こういう状態を混沌といえると思います。言葉はこのような混沌という液体を保存する容器のようなものと考えると言葉のほうが後でよいのではないかと思います。
お礼
ご回答ありがとうございました。 済みません。虫とリンゴの関係についてのお考えは、何をおっしゃろうとしているのかよく理解できませんでした。多分、私にとって、虫の心は理解の範囲を超えているためだと思います。 もう少し身近な例で、例えば、サルの場合はどうでしょうか。 サルは、リンゴもバナナも食べます。ある種のサルは、芋を水で洗って食べます。これは、サルとって、リンゴ、バナナ、芋、水は、言葉で区別はできなくても、心で区別しているということではないかと思います。ということは、この世界を言葉で切り取るまでは、世界は混沌としているとは言えないと思うのですが。
- ken-deleuz
- ベストアンサー率23% (18/77)
参考までに 今、全ての文献を大学に返してしまったので、引用するのは少しむずかしいですが、大雑把にですが僕の説明できる範囲で説明したいと思います。(ソシュールのsemioticsの説明になるので、phenomenology, ontologyに関してはふれません)それと日本語の専門用語が僕は分らないので英単語が混ざりまがご勘弁を。 まず、西洋哲学の流れを少し書きますね。ソクラテス/プラトンの時代から、2項対立(binary opposition/dichotomy) の図式がありました。これはspeech/writingという2項対立の中で、speech有利という考えがあったんです。"Plato defines: thought (of which is supposed to be the pure expression) as kind of "writing inscribed in the soul" (Gutting, 2001, P.293). スピーチは常に現在(present)起こる現象で、文章はその見えない陰(absent)にあるもとして考えられてきました。 ソシュールはこの2項対立を差異として考えて行きます。差異とは互いが互いを必要とするということです。(しかしソシュールもこの2項対立の中でspeech(parole), signifier(sensory impression)有利の姿勢はくずしてはいません)。つまり一つの記号(言葉)は片方をを単に消したりするのではなく、-他の言葉との共存- 他を必要とするということを言っています。(ひょっとしたらこれはデリダよりの意見になってしまっているかもしれません) そこで質問者さんのリンゴを例に挙げます。リンゴという単語、それ一つの記号としてだけでは僕たちはそれがなんであるのか理解できません。バナナがあって、メロンがあって、そしてリンゴはバナナとは違うし、メロンとも違う、こうした違いによって僕らはリンゴがなんであるか理解します。もっと深く言えば、リンゴは赤色、球体、 バナナは黄色、長形状、メロンは緑色、球体 これら全ては記号の差異としてその関係をお互いに支え合っているのです。こうした違いの中、リンゴという単語が消えれば、かつてリンゴと呼ばれていた物体は言葉の差異から消え、差異の外へその存在を消えてしてしまうのです。 確かに、質問者さんの言う通りリンゴという単語が消えても物体は残ります。でもソシュールは物体の存在が実際に消えるだとか、そういうことを言っているのではありません。そしてここでいう”この世界は、言語によって切り取られるまでは、混沌とした一体であって、個々の「もの」は存在しない”は差異について述べているのだと思います。 僕は実際にソシュールの文献にふれたことはありませんが、特にラカンとデリダ、フーコーを通して今はソシュールを考察しています。また分らないことがあれば、質問にお答えします。でもきっと、僕よりももっと良い回答を貰えると思いますよ。 参考まででした
お礼
ていねいなご回答ありがとうございました。 今、リンゴ、バナナ、メロン、ナシという言葉の中から、リンゴという言葉が消えても、かって「リンゴと呼ばれていたもの」と「バナナ」と呼ばれているものの差異が消滅するということはないのではないでしょうか。すなわち、「リンゴ」と呼ばれる「もの1」と「バナナ」と呼ばれる「もの2」の間の差異は、「リンゴ」、「バナナ」という言葉があってもなくても、厳然と存在すると思うのですが。どう思われますか?
お礼
長らくお付き合いいただきありがとうございました。