ご回答をありがとうございます。
★ 問題はその〔《音素すなわち意義素》なる〕関係が自然で論理的か、ということですね。
☆ 調音の仕方による。という自然の在り方を 要素としています。そこからその仕方の特徴を論理的に意義素の内容としています。
/ n / は 舌先が歯茎に接する度合いが たとえば / t / にくらべて 大きい。ゆえに 前者が 同定相で 後者は 不定指示相・隔定相・放出相だという想定です。
/ h / は 息の音そのものなので 順出相;順定相なる意義素を帯び この息の音をのどの奥で切り裂くように力点をおいて発声する / k / は 言わば反逆児であって 反出相;反定相:思考相・疑問相・過程相であるという推論です。
《自然で 論理的なきづな》です。
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残念ながら、証明不可能な前提が多すぎて、説得力が感じられないのです。
*h > *F > p > F > h 〔> w/φ/b〕
などのことです。
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☆ 説明不可能とは こりゃまた どういう風の吹き回しでしょうか。
be 動詞の同根の語のかたちは 次のようです。
▲ (OnlineEtymologyDictionary: be ) ~~~~~~~~~
http://www.etymonline.com/index.php?term=be&allowed_in_frame=0
be (v.)
Old English beon, beom, bion "be, exist, come to be, become, happen,"
from Proto-Germanic *biju- "I am, I will be."
This "b-root" is from PIE root *bheue- "to be, exist, grow, come into being," and in addition to the words in English it yielded
・ German present first and second person singular (bin, bist, from Old High German bim "I am," bist "thou art"),
・ Latin perfective tenses of esse (fui "I was," etc.),
・ Old Church Slavonic byti "be,"
・ Greek phu- "become,"
・ Old Irish bi'u "I am,"
・ Lithuanian bu'ti "to be,"
・ Russian byt' "to be," etc.
It also is behind Sanskrit bhavah "becoming," bhavati "becomes, happens," bhumih "earth, world."
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☆ すなわちここから言えることは / h, f, p, b /を互いに仲間としてよいということです。そこでは / h / だけは 蚊帳の外ではありますが 日本語では 史実として 成り立っています。
再構形: *bheue- "to be, exist, grow, come into being,"
ラテン: fui "I was,"
ギリシャ: phu- "become,"
★ 日本語には撥音はさまざまに実現します。
☆ すべては 一つひとつの音素=意義素 つまり 子音 から出ていて 変化をしている場合である。というだけのことです。何を問題にしているのかが分かりません。
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でも手話の研究が進むにつれ、手話は自然言語の一つであることが証明されました。
要するに、シニフィエは音声でなくてもよい、手などの動きでもいいのだということがはっきりしました。
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☆ これは知りませんでしたが いまにわかに考えてみるかぎりでは ふたつの扱い方があると言わねばならないのではないかと考えます。
ひとつは いま現在に・片寄ったものであったとしてもジョウシキとなっている扱い方です。それは あくまで音声言語〔および それにもとづく文字言語〕を基礎として成り立つのが 手話言語だというものです。
つまりは 手話言語は すべて音声=文字の言語に翻訳されて意味があたえられ その意味の体系によって意志疎通がおこなえると見るものです。
もうひとつは そうではなくもしすでに《自然言語》であったとしたなら その手話言語は いま見たような音声=文字の言語を基礎とする必要がなく 言わば独立して機能するというものです。
だとしたら 自然言語としての手話言語であったなら それは 音声=文字の言語における言葉とは 別のシルシによって 意志疎通をおこなっている。こう考えられます。《言わば独立して機能する》場合には そうなります。
だったら いまの《言語記号の恣意性》説の検証には ほとんどかかわらない。こう帰結されましょう。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ・・・つまり、「第一の恣意性」と矛盾する現象は僅かにあるけれども、それは「言語構造論にとっては周辺的なこと」であるとして、深入りしなかっただけなのです。ということは、有縁性の例をいくら集めてみせても、それだけで「言語記号の恣意性」を否定することはできないでしょう。 ☆ これは 次の主題とその探究で済んでいるという立ち場にすでに立っています。 ☆☆(No.12お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~ ★(回答No.12) ⇒《音素(子音)が そのままで意義素をおびており そのことが 語の生成にもつながりを持ったかたちで影響している》場合があることは、確かにそのとおりだと思います。 ☆ すなわち この反証によって 《第一の恣意性》は 中身が事実に反すると明らかになったと考えています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ すなわち ☆☆(同上) ~~~~~~~~~~~~~~~ これまでにおいて ・ / nVk(g)V / なる語例 ・ / h /=順出相;順定相と/ k /=反出相;反定相との対照 ・ 完了相の助動詞で ツ(/ t(d) /)とヌ(/ n /)との対照 の三つについて説明し得たと考えるものです。どうでしょう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この説明に じっさい確かに次の《シニフィアン(子音なる音素)とそれがおびるシニフィエ(意義素)とのあいだに 自然的かつ論理的なきづながある》という説明を添えれば済む。こう考えます。 ☆☆(No.1お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~ (い) なぜ / n / が同定相であるか? この子音は 舌先を上の歯茎のところにおいたあと放すという調音の仕方としては / t / に似ています。ところが / t / は舌先を素早く突き放すのに対して / n / はいささかねちっこくくっつけたあとで放します。ここが子音という音素そのものが 同定相という意義素を帯びるという自然で論理的なきづなが見られるところです。 / t / は 不定指示相もしくは隔定相・放出相というべき意義素を帯びるようです。ta/da 誰; tu つ(完了相)。 (う) / k / ないし / g / は 反出相;反定相です。 息の音の / h / が順出相;順定相です。その息の音の流れを のどの奥に緊張点をもってさえぎるのが / k / でありこれが 反出相;反定相をになうようです。 ha は(中心主題格) ka か(疑問法); ga が(関係主題格) ha-ka 果敢〔‐る(測る・図る)・‐無し・‐取る・‐が行く〕(主題内容の変化・移行・過程の相) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ * ★ ということで、[ʃj~?]というシニフィアンと、「犬」というシニフィエとの対応関係は、一重に、フランス語における「恣意的な約束」である…と、こういうことになりますよね。 ☆ けれども その初源の語の生成については まだ分からないという断わり書きをも添えねばならないでしょうね。 分かっているかぎりでは この chien の語源〔だけですが〕は 次のようです。《尖った歯》という意味の語として成り立ったと言っています。それだけでも ★ [ʃj~?]というシニフィアンと、「犬」というシニフィエとの対応関係は、一重に、フランス語における「恣意的な約束」である ☆ だけだとは限らない。こう見なければウソです。 ▲(OnlineEtymologyDictionary:canine ) ~~~~ http://www.etymonline.com/index.php?term=canine&allowed_in_frame=0 canine (n.) "pointed tooth," late 14c., from Latin caninus "of the dog," genitive of canis "dog" (source of Italian cane, French chien), from PIE root *kwon- "dog" (cf. Greek kyon, Old English hund, Old High German hunt, Old Irish cu, Welsh ci, Sanskrit svan-, Avestan spa, Russian sobaka (apparently from an Iranian source, e.g. Median spaka), Armenian shun, Lithuanian šuo). The noun meaning "dog" is first recorded 1869. ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ いまでは漢語は 走狗の《狗 gou / こおーお / 》が犬を表わしますが その昔 われわれは 犬 / ケン / という漢語を受け容れています。現代では 犬 quan / チュエーン / といった発音で残っています。 これなら / k - n - /というシニフィアンとして ラテンの canis と相似形を成しているぢゃないですか。――というのは 愛嬌の話に過ぎませんが。 《恣意性に基礎を置く人間の側の言語をめぐるウゴキ これを伴ないつつ出来上がった社会的な約束ごと》であるだけにとどまると言うのは 話が早すぎます。 * ★ ・・・ですから、今回のbragelonne様の議論は、実態的には「通時語彙論に見る恣意性の原理の破れ」くらいの論題に過ぎないと思います。もし、この内容を「ソシュールの《言語記号の恣意性》は神話である」という論題で、例えば「日本言語学会」で発表するようなことがあれば、失礼ながら、一笑に付されることでしょう。 ☆ 《「通時語彙論に見る恣意性の原理の破れ」》について 《 / n, t, h, k,・・・/ なる子音としての音素が その調音の仕方という自然の事象において一定の意味内容を帯び その内容をそのまま論理的にみちびいたかたちで 意義素となっている》ことをも示しました。 息の音 / h / は 順出・順定の相を意義素として持つ。息をするのは 自然でごくふつうなのだから 順出・順定の相を帯びる です。その息の音をさえぎる / k / は 反出;反定相・思考相・疑問相・変化移行過程相などだと言っています。 《一笑に付される》と見通されるその前に もういちど この事実をよく見てみてください。日本語というひとつの言語で成り立ったなら これを例外とするわけには行かないでしょう。 ▲ (丸山圭三郎:言語記号の恣意性) ~~~~~~~~~ 第一の恣意性は 記号(シーニュ)内部のシニフィアンとシニフィエの関係において見い出されるものである。つまりシーニュの担っている概念 x とそれを表現する聴覚映像 y との間にはいささかも自然的かつ論理的絆がないという事実の指摘であって・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち 《シーニュの担っている概念 x とそれを表現する聴覚映像 y との間にはいささかも自然的かつ論理的絆がないという事実》は 真実ではありません。《原理の破れ》を例証しました。
補足
★ 有縁性 ☆ とは 派生語の問題だと理解しています。 確認していませんが もしそうだとすれば なかい702さんの側に誤解があります。 派生語の問題で 音素と意義素の基礎理論の部分を例証しているわけではないからです。 それは まさに《音素=意義素》なる原義をめぐる基礎理論を示したのち そこから《派生する現象》についての語例です。原義を例証し得ます。 スワヒリ語の話なども この派生語の次元での問題です。それは 言語ごとに それこそ社会的な暗黙の取り決めとして出来上がり成り立って来る現象として そうとすれば恣意性のもとに 起こっているはずです。 言語記号の恣意性を打ち消す理論とは 別の問題です。《第二の恣意性》のことなのでしょうが 問題はそのとき 初源の段階で 《音素=意義素》を理論として前提しているかどうかで 話が違って来ます。