※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ソシュールの《言語記号の恣意性》は 神話である。)
ソシュールの言語記号の恣意性とは?
このQ&Aのポイント
ソシュールの「言語記号の恣意性」については、まだ定説が残っています。
一つの例証として、/ nVgV / という形態素を取り上げます。
この / nVgV / の語において、異なる子音や母音が同じ意味を表すという例が存在します。
ソシュールの《言語記号の恣意性》説については まだ或る程度の《定説性》が残っています。これが ただの神話であることを次のように証明します。当否・成否を問います。
まづ先にその例証となる言語現象をかかげます。
/ nVgV /という形態素を取り上げます。( V は母音のことです。アイウエオなどが入ります)。これは 子音の / n / や / g / が同じというようにシニフィアン(≒音素)が同じ語であるなら その意味すなわちシニフィエ(≒意味)も同じだという語例になります。
すなわち この / nVgV /という語の形態においては いづれの場合も《障害や邪魔の除去》という意味を帯びて 共通であるという例です。
(1) / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ
すなわち
《 nagi=薙ぎ》は 伐り払うべきものが障害・邪魔と見なされている。
《 nagi=凪ぎ》は 波風が同じくそう見なされている。
《 nagi=和ぎ》は 心の動揺などがそう見なされている。
そうして その障害ないし邪魔と見做されたものを 除去する。またはそれらが除去される・消滅する というシニフィエとなっている。
ちなみにここで例証の中身を示すならば ソシュール・といより丸山圭三郎の仮説では ここで言えば子音の / n / や / g / は それとしての意味はまったく無く 恣意的に / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎといった語として成ったと言っています。
/ nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ といった語例において 子音の n や g といったシニフィアンと 語義の《薙ぎ・凪ぎ・和ぎ》とのあいだに 何ら自然でかつ論理的なきづなは無いという説です。
(2) 《投げる nage-ru 》と《流す naga-su ・流れる naga-reru 》と《長い naga-i 》の三語は すでに互いに同じ語根から発生していると説かれています。
けれども ここでも / nVgV / というシニフィアンには いづれの語でも同じシニフィエ(≒意味)が見られます。《障害の除去・邪魔の消滅》というシニフィエが共通です。ソシュール≒丸山の説では そんなことはあり得ないというものです。
nage-ru 投げる (障害なく 延びて行かせる)
naga-su 流す (障害を避けて 延びて行かせる)
naga-reru 流れる (障害を避けて 延びて行く)
naga-i 長い (障害なく延びた状態にある)
さらに語例を伸ばします。
(3) 《和ぎ nagi 》関連で 母音の交替をも加えて この / nVgV / なる音素には 共通の意義素が潜んでいるという語例です。
nago-ya-ka 和やか (障害が消滅した状態)
nago-mu 和む (障害が消滅していく)
nagu-sa-mu 慰む (障害を除去させる)
negi 祈ぎ・労ぎ・禰宜 (障害の消滅を希求)
nega-u 願う (障害の消滅を希求)
*
どうでしょう。言語記号の恣意性なる仮説によれば こんな現象はあり得ないことになります。
ちなみにその仮説によれば 例外なる事態は 次のようだと言います。
オノマトペつまり擬音語や擬態語では 音素(シニフィアン)と意義素(シニフィエ)とのあいだにつながり(きづな)があると言います。
郭公は その / k / の音素を鳴き声に合わせてどの言語でもというほどに同じ音素から成る語として持たれているようです。
日本語で 光がピカッとかがやくという様態に合わせて ひかり・光るという語が得られています。
あるいは例外としては いわゆる派生語の場合が挙げられます。これは 同じひとつの語根から派生するのであるからには 当然だと考えられます。
つまり
nagi 和ぎ
nago-ya-ka 和やか
nago-mu 和む
これらは じつは派生語として / nVgV / なるシニフィアンに同じ共通のシニフィエがあっても 恣意性の説の反証にはなりません。という考察は すでに成されています。
(ナグサメ=慰めも 派生語であるかも知れませんね)。
例外を別とすれば じんるいが言語を獲得したのは その語彙の全体を――その時点で―― 一気に得たのだと言います。個々の語は互いにその語としての差異によってのみ 関係しあいつつ 使い分けされているというものです。(語としてというのは 《シニフィアン(音韻)∽シニフィエ(意義)》とが一体となったそれぞれの語としてです)。
あとで造語される語を別として 或る時点で語彙の全体を ひとつの体系として 得ることになったのだと説いています。
そうであるにせよ無いにせよ 《シニフィアン(音韻)∽シニフィエ(意義)》として成る語には その関係性(つまり ∽ として示したそのつながり方)が 自然で論理的なきづなを持つと例証によれば考えられます。
さらにくわしい議論をおぎなわなければならないのですが こういった問題が ソシュール≒丸山圭三郎の理論にはあると言ってよいと考えます。
* おぎなうべき議論の一端として:
音素・・・・=・・・・意義素
_______________
/ n / = 同定相・否定相
/ g / = 反出相;反定相・疑問相・変化相
といった仮説を前提としています。
いま
/ n /=否定相 + / g / =変化相(変化ゆえ 過程相・移行相)
といった複合によって
/ nVgV /なる音韻(シニフィアン)
=《障害の除去・邪魔の消滅》なる意義(シニフィエ)
といったじっさいの語例が作られているという見方を 例証(反証)として提出しました。
ただしここで 否定相の子音 / n / が 薙ぎにおいてはなぜ《伐採すべき草や木》を内容とする《障害・邪魔》として認定したか? それは 分かりません。それは 恣意的に決められたとしか言いようがありません。
つまり 凪ぎや和ぎにおいてはそれぞれ《波風》や《心の不安》を 何故ほかにも数ある障害や邪魔の中からえらんだのか? それは 分かりません。
* すでに問うたことがあります。けれども ジョウシキが間違っているなら 何度でも問うべきかと考えます。
お礼
ご回答をありがとうございます。 まづ ★ 《言語記号の恣意性》の最も有力な反証例は、ブーバ/キキ効果と考えます。 ☆ こちらのほうからですが: ▲ (ヰキぺ:ブーバ/キキ効果) ~~~~~ ・ 98%ほどの大多数の人は「曲線図形がブーバで、ギザギザ図形がキキだ」と答える。 ・ ブーバ/キキの対比は一般には、「円唇母音または唇音/非円唇母音または非唇音」と捉えられる。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ギザギザ図形が ブーバとの二者択一で キキが選ばれる。同じく丸いかっこうの曲線図形が ブーバである。という。 ギザギザ図形が 《もみじ》とつなげられたら どうなりますか? 円唇母音( o )かつ唇音( m )ですが。 それともう一点。語例が出ていないということを 弱点として挙げたいと考えます。 図形のイメージは 《自然のもの》だと考えられますが そこからどのように語例との関係で実際に《論理的なきづな》を認定するのか? これがあきらかではありません。これも 大きな問題だと考えられます。 ★ 日本語だけの 一例で解釈の余地があり、反証としては弱いと思います。 ☆ 《日本語だけの例示》を取り上げて《弱い》というのは 意味がないと考えます。 ひとつの言語においてシニフィアンとシニフィエとのあいだに――いまの例では 音素と意義素とのあいだにですが―― 《自然で論理的なきづながある》と証明できたら それでじゅうぶんだと考えます。 ほかの言語という言語ではみな この日本語における反証例が見られないとたとえしても では 日本語だけは 例外なのか? と問うならば そうはならない。そうは出来ない。そう出来たら 言語の問題ではなくなります。よほどの例外をもたらした事情や理由が説明されなければならないでしょう。 回答者さんは あまりにも安易に回答を寄せておられませんか?
補足
なあんだ 後輩ぢゃないか。 もっとしっかりとしたツッコミをたのみたい。