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ソシュール: 「もの」が先か「言語」が先か?
ソシュールの入門書などを読むと、以下のように言っているように思えます。 << この世界は、言語によって切り取られるまでは、混沌とした一体であって、個々の「もの」は存在しない。>> もし、それが正しいとすると、「リンゴ」という言葉がないと、「リンゴ」という「もの」は存在しないということになりますが、それは、おかしいと思うのですが。もちろん、「リンゴ」という言葉を知らなければ、目の前にある「リンゴ」を「これはリンゴだ」とは言えないのは確かです。でも、だからと言って、「リンゴ」と名づけられるはずの「もの」そのものが存在しないということはならないと思います。 ソシュールはどういう意味で、上記のようなことを言ったのでしょうか?
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kobareroさん 了解しました。 なかなか充実した楽しい数週間でした。こちらからも 感謝申し上げます。 わたしの相変わらずのでしゃばり精神については ご海容のほどを 重ねてお願いしておきます。 またお会いしましょう。(そう言えば この言葉をすでに一度申し上げてしまっていましたね)。
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- otasuke009
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#1->#26->#32です。 どんどん理解を深めておられるようでよいことです。 わたしも勉強になります。 今回はウィトゲンシュタイン風の疑問が出て来ましたね。 多少荷が重いきがしますが、乗りかかった船で考えてみます。 >それは、例えば、大人が赤ん坊に言葉を教えるとき、赤ん坊の頭の中にシニフィアンとシニフィエをセットにして注入することが、本当にできるのかということです。 ソシュールがどう考えていたか私にはわかりません。(誰かわかる方がいらっしゃったらご教示ください。) 私自身は「セットにして注入」はとてもできそうもない感じがします。 しかしながら、日常言語の意味する概念は、かなりいい加減なもので、 さしあたり困ることがなければ、それはそれでなんとなく通用してしまうようなものだと思います。 赤くて丸い果物を指して「リンゴ」と教える。 しかし、子どもは「ナシ」を見て「リンゴ」と言ったりする。 「それはナシですよ。リンゴは赤いの。」と教える。 すると、子どもは「青リンゴ」を見て「ナシ」と言う。 「いや、それは青いけどリンゴ。青リンゴ。」と教える。 そういうわけですから、 >現実には出来ている(ように見える)わけですから、当然できるのだと思うのですが、その場合は条件が必要ではないかということです。どういう条件が必要かというと、赤ん坊自身の「心の中」に該当するシニフィエが既に存在するということです。 現実にはなかなかできないし、先験的に(という言葉は通じるでしょうか?)子どもの心の中に「リンゴ」の概念が存在するとは、私にはとても思えません。 「リンゴ」に限らず、われわれは言葉の意味する概念を経験によって更新し、発見しながら言葉を学び続けている途上にあるのではないでしょうか? 逆の見方をすれば、我々の「言語能力(ランガージュ)」は、 それが正しかろうが、間違っていようが、「感覚的映像(シニフィエ)」を「言語的映像(シニフィアン)」ととりあえず結びつけようとする性質を持っていると言う方がいいような気がします。 クジラが「魚」であったり(シニフィエの取り違え)、 「月極」が「ゲッキョク」であったり(シニフィアンの取り違え)、 さまざまな間違いを我々は起こしますが、 それはそれで実際上困らなければ(訂正されなければ)通用してしまうのです。 わたしはそんなふうに感じるものですから、 >何が言いたいかといいますと、心の中に概念(ものについての概念)が先ずあって、その上で、その概念に対応するシンフィアンを社会的に教え込むのではないかということです。従って、「もの」が先か「言語」が先かの話との関連で言うと、「もの」とは、既に、「実体としてのもの」ではなく、「心で捉えられたもの」、すなわち、「概念」と考えると、「概念」が先か「言語」が先かという問いに変わります。そして、私は、「概念」が先だと思うのですが、そう考えて良いのでしょうか? この考え方にはちょっと同意しにくいものがあると思います。 「(先験的)概念」など存在しないからこそ、「教える」ことの難しさがあるのです。 「理解」とは、あらゆる「誤解」のひとつのバリエーションに過ぎないという見方もできるのではないでしょうか。 それがたとえ「誤解」でも、現実に困った事態がひきおこされない限りは「誤解」が「理解」としてまかり通るのです。 おそらく、今回私が述べた内容は、ソシュールの立場の説明とはかけはなれていたかもしれません。 >「予定観念などというものはなく、言語が現れないうちは、なに一つ分明なものはない」(小林英雄/P155) 「予定観念などというものはなく、」という点は同意できますが、 「言語が現れればすべてが分明になる」などとはとても言えないのではないか、それが正直なわたしの感想です。 ちなみに小林訳の『一般言語学講義』については、批判もあるようです。 わたしは見ていませんが、 http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-ISBN=413080250X このような書物も出ているようですし、 20年ほど前は、他の回答者が援用しておられる 丸山圭三郎「ソシュールを読む」が優れたテキストとして推薦されていたと記憶しています。 ただし、質問者の引用部分について問題があるかどうかはわかりません。
補足
ご回答ありがとうございました。 「リンゴ」、「ナシ」という言葉を教えるプロセスは全くその通りだと思います。しかし、このプロセスが成り立つというそのことが、まさに、子どもが「リンゴ」や「ナシ」の概念(シニフィアンなきシニフィエ)を持っている証拠ではないでしょうか。 何故なら、”赤くて丸い果物を指して「リンゴ」と教える”とき、指さした先に何か丸いものがゲシュタルトとして子どもの心の中に浮かび上がっていることが前提になっている。また、”子どもは「ナシ」を見て「リンゴ」と言ったりする”とき、子どもの心の中には、「リンゴ」に似た丸いものがゲシュタルトとして浮かび上がっていることを示している。また、”「それはナシですよ。リンゴは赤いの。」と教える”とき、子どもの心の中に「色の差異」を感じ取る働きが既にあることを前提にしている。 このように見ていくと、子どもの心に欠けているのは、「リンゴ」や「ナシ」の概念ではなく、何を「リンゴ」と呼び、何を「ナシ」と呼ぶかということ、すなわち、シニフィアンだと思います。 >先験的に(という言葉は通じるでしょうか?)子どもの心の中に「リンゴ」の概念が存在するとは、私にはとても思えません。 それは、おそらく、「リンゴ」の知識の話ではないでしょうか。 例えば、リンゴはリンゴの木から生るとか、リンゴは寒い地方で育つとか、赤いリンゴだけではなく、青いリンゴもあるのだとか、そういう関連知識のことを言っておられるように思います。確かに、それもリンゴの概念の一部と言うことはできると思いますが。 >「リンゴ」に限らず、われわれは言葉の意味する概念を経験によって更新し、発見しながら言葉を学び続けている途上にあるのではないでしょうか? おっしゃるとおりだと思います。まさに、概念は経験によって発展するのだと思います。しかし、経験とは何でしょう? 自己経験と他己経験に分けられると思いますが、自己経験は自分が「直接体験」するものであり、他己経験は他人が「直接体験」したものを言葉を通して学ぶのではないかと思います。いずれの場合も、概念に何か新しい知識を付け加えるのは誰かの「直接体験」です。この誰かの「直接体験」は、結局のところ、心が感じ取るゲシュタルトではないでしょうか? すなわち、「心が直接差異を感じ取る」ことが概念形成の出発点であるように思います。 (とりあえず、感じた疑問をストレートに表現させていただきましたが、せっかく、色々貴重な示唆をいただいているのに、何かぶしつけな感じで申し訳ありません)
No.31を承けます。 お互い 水な門に――ひとつの寄港地としてのみなとに――たどり着いたようですね。 おっしゃるとおりだと存じます。 丸山は 概略として次のようにも言っています。 ・・・・・・・・・・・ 《冷たい風・寒い風》と言うが また《冷たい水》とも言うが 《寒い水》とは ふつうは 言わない。これは 語(つまり 冷たい・寒い・風・水)が 個別的なモノなのではなく 《可能態》としてあって 他の語との有意味な結びつきの力(《結合価 valence 》)を潜在的に持っている証拠だと。 (そこを あたかも革命を起こすかのごとく 新奇な遣い方をする詩人などがいるとも)。 ・・・・・・・・・・・・・ ゆえに 言語は 《記号の体系 systeme de signes 》ではなく 《規則の体系 systeme de regles 》でもあると。(《ソシュールを読む》p.172) さらにあるいは A・B・C・Dの論理空間として例示された場合に対応するかのように ・・・・・・・・・・・・ シニフィアン(聴覚記号)も他との差異によって成り立ち シニフィエ(観念・概念)も同じく他との差異関係の中に位置している。差異関係として位置づけられていることは 実定的(ポジティヴ)ではなく -(マイナス)なのだ。しかも シニフィアンとシニフィエともども マイナスどうしが結合しているので プラスとなって モノが存在するように意識される。 (あらまし 同上p.236) ・・・・・・・・・・・・ そこで 《ただ、これが、正しいとすると、ソシュールが言う「言語」を使う人類は、現実世界では、生きていけないなんてことになりそうですが。》 ――まさに 言分けなる革命を境にして その革命のもたらす言語と文化の構造において 人間は 自然を去って 非自然の上に存在していると言う説だと思われます。 わたしとしましては 自然も残っていると思っています。 丸山としては 例の《欲動》の問題を持ち出すと思います。それを扱うランガージュなる言語能力が 非自然のもたらす拘束(不自由)にも光を当て それなりに秩序を回復しようとする。そしてさらに 新たな非自然・拘束と続き 同じくそれをのり越えようとする欲動の働きがあるだろうと。〔《意味化の円環的運動》と。(《言葉と無意識》p.189)〕 この問題の行方はいかが あいなりますでしょうか。
補足
ご回答ありがとうございました。 >《冷たい風・寒い風》と言うが また《冷たい水》とも言うが 《寒い水》とは ふつうは 言わない。 この話を読むと、渺茫たる大海に、名づけられることもなく見捨てられている無限の差異のうめき声が聞こえて来るようです。有限個のシーニュで、この世界の無限の多様性が表現できるものでしょうか。ブリコラージュ(有り合せのもので間に合わせる)しなければならない詩人の苦労は如何なるものか。 >わたしとしましては 自然も残っていると思っています。 私もそう思います。だから、未だによくわからないのですが、論理空間の話ですよで本当に片付くのでしょうか。結局、今の時点で残る疑問は、「見分け」「言分け」という発想があるのに、何故、肝心の「心分け」という発想がないのかということです。ずっと考えていたのですが、ふと思いつくと、何のことはない、「心分け」というのは、実は、シニフィエのことではないのかと思い至りました。そうすると、引き続く疑問は、であるとすれば、「先ずシニフィエありき、然る後にシニフィアンあり」となるはずです。ところが、さにあらず、ソシュールは「シニフィエとシニフィアンは紙の表裏のごとく一体なるもの」と考えています。しかし、しかし、シニフィエが人の頭の中に無いときに、一体どうやって、「シニフィアンとシニフィエ」を同時に注入することができるのか? これが、今の最大の疑問です。 海を見て、人の心は、そこに無限に変化する表情を読み取っているのではないでしょうか。それを社会的に注入された「シニフィアンとシニフィエ」のセットで切り取ろうなんて、そんな無茶な....と思うのですが。それが可能なのは、唯一ロボットだけでしょう。それとも、世の中にはロボット人間が多いから、ソシュールは皮肉を込めてシーニュ・モデルを考えたのでしょうか。 >丸山としては 例の《欲動》の問題を持ち出すと思います。それを扱うランガージュなる言語能力が 非自然のもたらす拘束(不自由)にも光を当て それなりに秩序を回復しようとする。 これは、私には理解が難しいので、もう少し勉強してみます。
kaitara1です。(私の言う)主体というのは覚醒時の自我意識と置き換えても良いのではないでしょうか。赤ん坊は眠っていても母親の乳房から乳を摂取できます。おそらくこれらの言葉が示すものを区別あるいは分離して認識はしていないと思います。大人は覚醒しているとき自分というイメージを言葉を介して確認した上でことばによる認識が可能になるのだろうと思います。大人は赤ん坊と違って眠ったままでちゃんと食事が取れないのは言うまでもありませんが、意識がないときには混沌とすれば大人が何もできないことも分かるようにも思うのですが・・・(消化とか呼吸は可能ですが!)
お礼
たびたびのご回答ありがとうございました。私にとっては、やや難しいご回答でしたが、これから、また、少しずつ考えて行きたいと思います。
- ken-deleuz
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どうも、補足読ませていただきました。 >一番最初に「これはカエデだ」と言い出したのは、「神」か、それとも、「人」かということです。さて、そのときは、「もの」が先か「言語」が先か? 一番最初にこの物体が”カエデ”だと言ったのは間違いなく人間だと思いますが、ここで重要なのは、属が種を決めるということです(深くは書きません)。※ちなみにカエデはカエルの手に似ているからこの名前が付けられたそうですよ。さらに属の差異により”もの”はカテゴライズされて行くわけですが、このぶんだと話しが堂々巡りになるので、これは止めましょう。 何かモノには最初が絶対あるという考え方は間違ってはいないと思いますし、否定する必要もないと思います。ただし証明するのが非常に難しいとも思います。人間社会ができる前、言語能力も有さないと仮定してみます。そこにはいったい何があるんでしょうね。僕には想像できません。 質問者さんの言う通り、最初に心でものを区別すことができ、それが何であるか判断する。それはできるかもしれませんし、できないかもしれません。でもそれを使いどうやって、質問者さんの心での切り分けと言語と”もの”の関係を証明するか、またソシュールのセオリー(ソシュールにとどまらず、構造主義者、ポスト構造主義者なども含めて)を崩せるかが大事ですよね。しかしこれはもう僕の知識を超えています。 ただ僕が質問者さんに言えることは、長い歴史、時間を言語は含意していると思います。言葉は言葉によって受け継がれてきています。それは書物であったり、スピーチであったりです。これは当然と言えば当然ですけどね。言語が先か、”もの”が先か...難しいですね。僕ならやはり言語が先と言いますが、白黒はっきりさせず、灰色の部分で楽しむのもいいかもしれませんね。今回、質問者さんのような考え方もあるんだなぁ、と思いました。 もし興味があったらデリダのアーカイブ(Archive Fever: A Freudian Impression, trans. Eric Prenowitz (Chicago & London: University of Chicago Press, 1995).)を読んでみては(この本が翻訳されていると思うんですが...)...※一年前に一度目を通したんですけど、当時の僕には難しすぎて断念しました。それ以来まだ挑戦していません。 またはフーコーの言葉と物、知の考古学の中のアーカイブを読んでみるといいかもしれません。これも難しいですけど、読む価値はありますよ。 参考まででした
お礼
色々な視点から、たびたび、ご回答いただきありがとうございました。大変参考になりました。デリダとかフーコーも読んでみたいですね。でも、難しいそうだから、当分は無理かも知れませんが。
- otasuke009
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#1->#26です。 質問者がねばり強く考えておられることに敬意を表します。 >ソシュールの入門書などを読むと、「言語はものの名前ではない」とか「言語は名辞目録ではない」と書かれています。これは、例えば、ある「もの」の名前は、その「もの」が先にあって、それに名前を付けるという関係ではなく、言語の方で対象の「切り取り範囲」が決まっていて、その範囲によって「もの」が初めて確定すると言っているように思えるのですが、違うのでしょうか? その通りと言ってもいいのですが、質問者はすでに「言葉」とか「もの」というあいまいな概念を使って考える域を超えておられるようです。以下、ソシュールの考え方をふまえて私なりに説明します。 人間の脳内で「記号(シーニュ)」がどのように成立するかを考えてみましょう。 視覚的な対象を音声言語でとらえる場合、 「もの自体(質問者の言う個別具体的なもの)」を感覚器官(眼)でとらえたのが脳内の「視覚映像(シニフィエ)」です。これは「もの自体」とは異なる、いわばすでに「身分け」された写像ですね。「もの自体」とは別のもので、脳細胞のある種の興奮状態として存在しています。 この聴覚映像が、感覚器官(耳)でとらえた脳内の「聴覚映像(シニフィアン)」と結びつくとき「記号(シーニュ)」が成立します。(質問の趣旨とはあまり関係しませんが、「聴覚映像」も「音声自体」ではありません。「音声自体」の写像であって、脳細胞のある種の興奮状態です。) 言語記号の場合、どの「聴覚映像」がどの「視覚映像」と結びつくかは社会的に学習されます。すなわち、ひとりの人間にとって、ある言葉の意味する「もの」は、質問者の表現で言えば「言葉の方で切り取り範囲が決まっている」ということです。 そこで、次のような疑問が出てくる余地があります。 >言語を知った人間が目の前の個別具体的なものを個別具体的なものとして認識できなくなるとは思えないのですが。 われわれは日常、 「電車」とか「切符」とかいう言語による一般化された認識でものごとをとらえており、言葉で表現する以前の「なにものか(もの自体)」として認識することは非常に難しいことです。われわれの脳内で「視覚映像」と「聴覚映像」は、学習によりほとんど自動的に結びついてしまうからです。 そういう日常の経験から考えると質問者の見解(個別具体的なものを認識しうる)には同意できない感じがしてきますが、 しかし、人間の経験はそういう日常的な範囲にとどまるものではもちろんありません。質問者が考えておられるのに近い事態も存在し得ると考えられます。 ふだんならAという「聴覚映像」と自動的に結びつくはずのA’という「視覚映像」が、なぜかAという範囲に収まりきれない「経験したことのないなにか異様なもの」に感じられる。そういう経験は誰にでもあり得るものでしょう。 芸術家はときに見慣れているはずの「日常的なもの」を「なにか異様なもの」としてわれわれに感じさせるような作品を生み出します(異化作用)。そのような場合、芸術家の脳内では、その「日常的なもの」の「視覚映像」は、ふだんなら自動的に結びつくはずの「聴覚映像」の守備範囲からははみ出した、「なにか過剰なもの」と感じられているかもしれません(美的体験)。 そのような場合の「視覚映像」は、「聴覚映像」との結びつきが壊れてしまっており、もはや「言語記号」を構成し得なくなっています。 それはむしろ、一般化されない「個別具体的な」「もの自体」といいたくなるものでしょう。 ただし、やはりそれは「もの自体」ではありません。すでに眼という感覚器官によって「身分け」された脳内の写像にすぎないのです。 その一点だけの留保をつければ、 >言語を知った人間が目の前の個別具体的なものを個別具体的なものとして認識できなくなるとは思えないのですが。 という質問者の見解に賛成することもできます。 わかりにくい表現になってしまいすみません。 #26の回答とあわせてまとめれば、 1「個別具体的なもの(もの自体)」は、言語に先立って存在する。 2人間は日常的には「もの自体」ではなく、言語により一般化された形でしか認識していない(言分け)。 3ただし、「もの自体」を「身分け」た段階にとどまる言語化されない認識(たとえば「視覚映像そのもの」)もあり得る。それは、「言葉にならない」認識であり、なんと表現したらいいかわからない「なにものか(混沌)」として存在する。 以上ですが、最初の質問にあった表現 << この世界は、言語によって切り取られるまでは、混沌とした一体であって、個々の「もの」は存在しない。>> の、「個々の『もの』は存在しない。」という言い方は、 入門書としてはそれなりに意味のある表現ではあるものの、 ここまで論じてきてみれば、「もの」の概念があいまいすぎて役に立たない表現に過ぎません。 つまり、正確に解釈し直せば、 「言語以前には言語によって一般化されて認識された『もの』は存在しない。」 と言っているのと同じことで、論理的には無意味です。
補足
ご回答ありがとうございました。 大変わかりやすい説明で、色々と考えるヒントをいただきました。 シニフィアン/シニフィエについて、ひとつだけ、新しい疑問が出てきました。その疑問についてお話する前に、まず、「視覚映像(シニフィエ)」ですが、これは、あくまで、説明をわかりやすくするために、一例として挙げていただいたのであり、一般には「概念(シニフィエ)」と言われているものだと理解させていただきました。 そして、私の疑問は、シニフィアン(聴覚映像)とシニフィエ(概念)の結びつきは社会的に学習されるということに関してです。 確かにその通りだと思うのですが、そのプロセスを具体的に考えてみると、ひとつ疑問が沸いてきます。 それは、例えば、大人が赤ん坊に言葉を教えるとき、赤ん坊の頭の中にシニフィアンとシニフィエをセットにして注入することが、本当にできるのかということです。現実には出来ている(ように見える)わけですから、当然できるのだと思うのですが、その場合は条件が必要ではないかということです。どういう条件が必要かというと、赤ん坊自身の「心の中」に該当するシニフィエが既に存在するということです。シニフィアンについては、「リンゴ、リンゴ」と言って音声で伝えれば、赤ん坊の「心の中」に段々「リンゴ」のシニフィアンが育って来ると思いますが、シニフィエの方は、それを体験するなどして事前に「心の中」に「リンゴの概念」が用意さていないと、一体、何がリンゴなのかさっぱりわからないということになるのではないかと思うのです。 何が言いたいかといいますと、心の中に概念(ものについての概念)が先ずあって、その上で、その概念に対応するシンフィアンを社会的に教え込むのではないかということです。従って、「もの」が先か「言語」が先かの話との関連で言うと、「もの」とは、既に、「実体としてのもの」ではなく、「心で捉えられたもの」、すなわち、「概念」と考えると、「概念」が先か「言語」が先かという問いに変わります。そして、私は、「概念」が先だと思うのですが、そう考えて良いのでしょうか? これに関連して、ソシュールは「一般言語学講義」(とうとう、読むはめになりました)では、以下のように言っています。どうも答えはNOのようなのですが、では、どうやって、予定観念を赤ん坊の頭の中に注入するのでしょう。 「予定観念などというものはなく、言語が現れないうちは、なに一つ分明なものはない」(小林英雄/P155)
No.29からの続きです。 並行して――しかも ソシュール側の代理人になったかのように―― 学びつつ進んでいるのが 現状です。 引用によるほうがよいと考えました。 結論的に《〈言語〉が先》なる説と捉えられる言説:―― ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ソシュールが手稿9で述べているように 《人が事物間に樹立する絆が(つまりあるいは 差異の関係・体系なる状態としての言語が――引用者)事物に先立って存在し これらの事物を決定する働きをなす》 のであって 《いかなる事物も いかなる対象も 一瞬たりとも即時的(アン・ソワ)には与えられていない》(手稿9・断章番号3295a) からです。 (丸山圭三郎:ソシュールを読む 1983 p.238) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ たとえば 先回 《もの》の存在のあり方でのご質問で主張されていたように ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 普通一般には実体である水のH2Oも 関係でしかない言語の水(そのシニフィアン/シニフィエ)も 全く区別がつかない客体の如く受け取られているのです。(同上p.236) つまり〔差異の〕関係が実体として 非自然が自然として 恣意的価値が即自的価値として 一言でいえばコトが物として 私たちには意識されるのです。(p.238) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ つまり――言分け構造・文化が はっきりと《非自然》だと見ており―― 言語は 客体としてのモノではなく 純粋経験とも言うべきコトないし《規則》であると丸山は言っているようです。そして これが 先であるのだと。 個々のことば相互の差異の関係として また体系としてはその言語総体においてまとまって 恣意的に成り立っているということから帰結されるのだと言っているようです。 さらに関連する文章を。(箇条書きに抜き出すかたちで)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ラングがはじめから即自的に定義され限定される単位(ユニテ)をもっていないこと その単位というものが実は辞項(個々のことば)と辞項との間の差異の対立化という現象であること そしてその対立現象を樹立するのは語る主体の意識であること (同上箇所) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ この最後の一文は 最初の引用にあった《人が事物間に樹立する絆》というごとく 心(心分け)のことにも触れているかのようでもあります。(昔の本を引っぱり出してきて おおわらわです)。 いかが受け取られるでしょう。
補足
ご回答ありがとうございました。 ご回答を読ませていただいて、ふと、気が付いたことがあります。それは、「ソシュールは、現実空間の話をしているのではなく、論理空間の話しをしているのではないか」と言うことです。あたかも、数学の議論をするようにです。 例えば、事物A、B、C、Dを論理空間上の「実体」だと考えます。そして、これら4つの「実体」の間には、以下の関係があるとします。 (1)AはBの左側にある。 (2)CはDの左側にある。 (3)AはCの上側にある。 (4)BはDの上側にある。 このような実体A、B、C、Dを考えると、ソシュールの言うことは、大変もっともなように思います。 すなわち、Aは即自的には存在せず、常に、他の実体との関係性の中でのみ存在する。そして、実は、Aが「実体」なのではなく、「左側にある」や「上側にある」という「こと」こそが実体であり、Aは単にその「こと」を象徴した存在として「もの化」されて意識されているだけだということです。 このように考えれば、A、B、C、Dを含む論理空間は、まさに、我々の頭の中(すなわち、主体)で考え出された「非在」の「非自然」ということになります。また、「実体である水(H2O)」の話が出てきますが、これも、引用にあるように、「言語の水」と同等の客体として扱っているわけですから、実は、初めから概念化された「水」のことであり、現実界とは切断された論理空間上の存在ということになります。 これで一応説明が付くように思うのですが、どうでしょうか? ただ、これが、正しいとすると、ソシュールが言う「言語」を使う人類は、現実世界では、生きていけないなんてことになりそうですが。
kaitara1です。主体が確立しているというのは主体を主体の存在を知っているということと考えていますが、ここに大きな謎があります。主体は認識の対象にならないからこそ主体であり得ます。認識の対象になったとたん、それは主体としての自己ではなくなります。普通自分と思っているのは実は主体としての自分の代用物である名前あるいは名前の背後に存在すると想像されるイメージです。ここに言葉の効用が示されています。つまり主体としての自己は認識の対象にならないのですが名前によって代用できます。又名前によって代行される為に主体(自己)は主体としての資格を失わないで済みます。精神病者の中には自己(主体)を認識可能と考え探し回った結果絶望し、周囲の人が自分を動かしているというような表現をする場合があります。このようなひとは主体が十分育たなかったことから言葉による認識に整合性が欠けていることが多いと思われます。このことからも言葉による認識には主体が不可欠ということになると思います。俗には見る自分と見られる自分というような表現が行なわれますが、見る自分の正体は誰にも原理的に不可知なので、このことが人間の平等性の根拠ではないかと思います。対象にできるものに対する認識力には大きな差があることはいうまでもありませんが、どんなにいわゆる認識力が優れている人(たとえばアインシュタイン)でも自分の正体は知ることはなかったと思います。 話が前後しますが赤ん坊の認識は大人から見れば混沌であっても赤ん坊自身は混沌そのものとして整合性をもって存在していると考えたらどうでしょう。いわば赤ん坊肉体として存在しているほかの動物と同じく 栄養学を知らなくてもちゃんと適正な栄養をとっています。木村敏さんの本は私は勉強になりましたが、私が今考えていることの原点だと想像しますが直接のつながりについてはあまりはっきりしません。
お礼
ご回答ありがとうございます。 主体と言葉の関係について、大変興味深く読ませていただきました。 >普通自分と思っているのは実は主体としての自分の代用物である名前あるいは名前の背後に存在すると想像されるイメージです。ここに言葉の効用が示されています。 おっしゃる通りだと思います。ただ、言葉の効用という意味では、特に「主体」に限ったことではなく、あらゆる「もの」に対して、そもそも言語とはそのような効用を持ったものだと思うのですが。例えば、「リンゴは赤い」と言うときの「リンゴ」は実体としてのリンゴではなく、「リンゴ」の代用物ではないかと思います。また、もし、リンゴには代用物「リンゴ」以外に実体「リンゴ」があるではないかということであれば、「神」とか「幽霊」とかは、やはり、代用物はあっても、実体は無いように思います。 ということで、「言葉による認識には主体が不可欠です」という部分が、今ひとつ、よくわかりませんでした。 >赤ん坊の認識は大人から見れば混沌であっても赤ん坊自身は混沌そのものとして整合性をもって存在していると考えたらどうでしょう。 「混沌そのものとして整合性をもって存在している」の意味は、あまりよくわかりませんが、例えば、赤ん坊の眼から見ると、お母さんのおっぱいの輪郭が大人が見るように明瞭な形で見えなかったとしても、赤ん坊がそのおっぱいを自分から吸うのであれば、おっぱいを見分けていることは間違いないと思います。
No.27の補足です。 * わたくしの言説は 相手の主張内容があいまいな場合(どちらとも採れる場合) 批判すべき説に対しては 相手に有利に解釈して進めるのがよいかと思って 判断しています。 * 言分け構造の優位であるという仮説――身分けをも その文化に取り込んで 進みゆくすがたを捉えたこと―― ここには たしかに そもそも言語の成り立ちをどう捉えるか それについての見方が作用していると思われます。 すべて言葉が 互いとの差異によってのみ 総体として一挙に成り立ったという見解です。(単語の習得は 個体において 時間過程としておこなう)。 この一挙なる言分けを境にして 本能(自然)は壊れ 文化(錯乱せるヒト)が君臨するというのだと思いますが 一言でいって わたくしは 自然本性が基礎であり 文化に対しても 先行していると考えます。先行というのは 時間的にというよりは 考え方の上で・もしくは つねに潜在能力としてだと見ます。 提示されている《心》につきましては わたしの見方では 文化に対しても自然に対しても 自己〔なる心〕として対処していくものだと捉えます。自然本性というときは この心を当てます。 客観的な概念(ことば)あるいは客観的でなくとも社会心理的に象徴となる概念(ことば) そしてこれにもとづく広く文化一般 このような行為関係および社会現象に対して 心が 先行する位置にあり 有力でなくとも 有効であるという見方です。 欲求としての自然に対しても文化に対すると同じように 心はほとんど無力ですが 無力だと自覚し自認する存在だと見ます。無力だが有効である。つまりは この心を無視した考え方やおこないは すでに無効であると考えます。 もしソシュール=丸山理論が この心の問題をないがしろにしているとすれば 認めることは出来ません。これまでの回答の中に ソシュールは言語学者であったが現象学の徒ではなかったとあったと思います。要するに《主観》の問題を不問に付していると思われます。ですから 扱っていないけれど 含んでいると言えるかも知れない場合には 相手に有利に話しを進めていくのが肝要かと思います。
お礼
ご回答ありがとうございました。 >すべて言葉が 互いとの差異によってのみ 総体として一挙に成り立ったという見解です。(単語の習得は 個体において 時間過程としておこなう)。 確かに、おっしゃられているようなことは、ソシュールの入門書にも出てくるように思いますが、この文を以下のように3つに分解すると、さて、何がポイントなのか、ちょっとわからなくなってしまいます。そして、(3)を敢えて言う理由は何でしょうか? 実際には、日々、新しい単語が生み出されていると思うのですが。何か私には見えていない重要なメッセージが含まれているはずなんですが....。もし、おわかりでしたら、ご教授ください。 (1)全ての単語は互いに意味が違う(すなわち、異音同義語は存在しない)。 (2)総体とは、そのような単語の集合体のことである。 (3)この集合体に所属する単語は一挙に集合したものであり、順次、追加されるようなものではない。
- ken-deleuz
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どうもです もうずい1年半ぐらい前になりますか、大学のセミナーでビデオ『The Gods must be crazy/ミラクル・ワールド ブッシュマン 1982』を見させられました。これはtechnological determinism/(日本語はわかりません:おそらくテクノロジー/機械決定論)の勉強の一環でした。ある日、空から得体の知れない物体がブッシュマンの部落に落ちてきました。この物体はセスナから落とされた、コカコーラの空き瓶だったのですが、ブッシュマン達はそれがなんであるか分らず、おのおの違う使い道を模索します。子供達は遊び道具に、男達はかりの道具として、女達は料理用具など、その道具の使い道は人によって三種算用でした。しかし、やがて部族はこの道の物体をめぐってあらそいを起こします。-- うる覚えですがこんなような内容だったと思います。ここで僕は二つの解釈をしました。突然の新しテクノロジー(コカコーラのビンはブッシュマンにとってはハイ テクノロージー)は社会の因習/慣習を壊してしまう可能性がある。そしてもう一つは、物体/テクノロージーが人間の考え方を決めてしいまうということです(これが機械決定論の特徴の一つです)。この考え方は現象学に応用できるんではないのかと僕は思います。 ちょっと前に友達とフッサールについて話したことがあったんですけど、その時のことをここに書きますね。まずidealistsの考え方として、僕たちは、イデア界と呼ばれる場所?もの?をどこかに持っていて、物質界と分けて考えます。今そこに見えるてる物体は完璧なものではなく、完璧な物体のひな形がイデア界には存在しているということでした。僕らは正確な円を描くことはできませんが、その完璧な円のイメージは頭の中で描くことができるというのがその例の一つらしですね。そしてmaterealistsは逆に物質ありきで考えます。物質が物質界にあるから僕たちは認識できるんだと。どうやらフッサールはこの二つの考えの中間をとって考えたみたいです。それがブッシュマンの行動にででると思います。つまり人によって物質の考え方、見方が違うということです。テーブルの上に二つの物体があったとし、フッサールはその二つの物体があるとは言いません。その物体に見ている人数分だけそこの物体は存在しているのだと。おそらこの考え方は非常に質問者さんの考えに近いのではないのでしょうか。 僕の言う、言語の差異と理解とは人間社会に通じています。言語の世界に介入するということは、僕の視点から見て人間社会/資本社会、差異による言葉の表象世界に介入することだと思います。人間の子供は最初の制度(institution)家族の中で言葉(discourse)を通して社会を学んで行きます--つまり言語で切り分けられた世界に介入--- さらに言語の世界に介入することは、権力関係を強いられることでもあります。また言語の世界に介入することにより、言語による表象された世界の裏側が見えなくなり、僕らは自由を奪われているのかもしれませが、僕にそれはわかりません。 僕は書き込みで記号/言語の差異と理解について書いてきました。たしかに、物体と記号は直接くっついてはいません。そう考えると、質問者さんの考えに近くなるのかなと思います。差異による言語/記号で理解するということは、知識と物体の関係だと思うんです。つまり、僕らが物体を見る行為とは知識を見ている行為に他ならないんだと僕は思います。signified によるイメージは現実的な真実ではなく、単なる概念だと本で読んだことがあります。つまり机という音、文字を見た時、机と呼ばれイメージが頭に投影されますが、でもそれはとてもシンプルなイメージですし、人によってそのイメージも異なると思います。しかし僕たちはその記号を使い、コミュニケーションをはかり、社会そして知識を構築しています。物体と記号はくっついていないと言いましたが、それは例えばダイニングで使っているテーブルを自分の部屋に持っていって、その上に参考書、コンピュータを乗せれば、かつてテーブルと呼ばれていた物体はデスクと呼ばれる物体にその記号signifier をスライドさせます(僕の部屋の机はダイニングに置けばりっぱなテーブルになります)。つまり、机という記号を使って、呼んでいる物体は実は記号/テーブルと状況(他の記号の差異)により変換可能なのです。でもここで重要なのは、記号と物体の関係が知識にあるということです。僕たちが知識で物を見ている、つまり言語/記号の差異でを通して物を見ているということだと思います。この知識を(discursive knowledge/日本語でディスクール的な知識...ですかね)と言います。言語による知識は言語/記号の物体の関係を支えています。そして、この僕らが知っている言語社会は自由に慣習/習慣に従った知識を通してかってに差異を無視して物体に名前を与えたり、変えたりすることはできないと思います。例えばこの机をイチゴとか、猫と呼んだり。冗談で物に名前を与えることは可能でしょうけどね。 そこでまず質問者さんの”知らない言葉を聞いたとき、それが、何を意味するかが、はじめ、はっきりわからないのは、大人も子ども同じではないかと思います。だから、「もの」が先か「言葉」が先かを考えるとき、子どもを例に挙げるのではなく、大人を例に挙げても良いはずだと思うのですが。そして、大人の場合を考えれば、ある「もの」の名前を知らないからと言って、その「もの」の存在を他のものから明確に区別できないということはない。それは、明らかだと思います。”なんですが、例えばそこに未知の物体があって、記号を使って説明できないからといって、たしかにその物体の存在を否定することはできません。しかし僕たちの言語世界での知識はやはりそれがなんだか理解はできないと思います。そして理解するために、形容詞/記号を付加し理解しようとします”未知とかunknownとか”。質問者さんの使われた”区別”というのはカテゴライズだと僕は思うんですよ。どの程度まで、言語の差異、知識なくして物を区別できるか、不可能だとはここでは書きません、でも可能であればどうやって、という疑問を残します。 それから子供と母親の会話につてかきましたが(申し訳ありません、日本語で書くべきでした-- 猫を指差して、ママ!子犬だよ!子犬!)幼い子供では物体の差異がはっきりしてるわけでなく、おそらくぼんやりと漠然的に、今、彼らがしっている記号と知識の中で理解しようとしてるのかもしれませんが、これは決めつけるのは危険ですね。なにしろ僕は子供と言語に関して僕は全くの素人です、はっきりいって分らないと言ってしまったほうがいいでしょう。これは忘れて下さい。それと赤ん坊と母親の母乳については、僕には説明できません。勘弁くださいね。 参考まででした
補足
ていねいなご回答ありがとうございました。 >その物体に見ている人数分だけそこの物体は存在しているのだと。おそらこの考え方は非常に質問者さんの考えに近いのではないのでしょうか。 「もの」が先か「言語」が先かの視点から考えてみます。コカコーラの空き瓶を子供達は遊び道具に、男達ははかりの道具として、女達は料理用具として使うといった場合、確かに「用途」は三者三様です。しかし、もとになっている「コカコーラの空き瓶」そのものは、三者とも、同じものだと感じているのではないでしょうか? そして、そのまだ名前の付いていない「コカコーラの空き瓶」に対して、彼らは、必要であれば、名前を付けることができると思います(「もの」が先で「言語」が後)。何故なら、それは、3つの別物ではなく、同じ一つのものだと感じているからです。私が言いたいことは、ものの同一性は、「言語」がなくても、「心」が認知するのではないかということです。 >人間の子供は最初の制度(institution)家族の中で言葉(discourse)を通して社会を学んで行きます--つまり言語で切り分けられた世界に介入--- さらに言語の世界に介入することは、権力関係を強いられることでもあります。 おっしゃるとおりですね。これについても、「もの」が先か「言語」が先かの視点から考えてみました。社会や制度は「関係」で出来ています。親と自分の関係、先生と生徒の関係、警察官とスピード違反者の関係、政府と年金生活者の関係等等。ここで、「関係」などの五感で認知できない「もの」は、「もの」かどうかが問題になりますが、とりあえず、「もの」だということにして、以下のように考えました。 (1)五感で認知できる「もの」は、「もの」が先で「言語」が後。 (2)五感で認知できない「もの(?)」は、「言語」が先で「もの」が後。 (2)は一見正しそうですが、でも、やはり、その「もの(抽象概念)」についての何らかの認識が「心」の中に”事前”に全くなかったら、その言葉の意味は理解できないのではないかと思います。ということで、この場合も、やはり、「もの」が先で「言語」が後になりそうです。 >そして、この僕らが知っている言語社会は自由に慣習/習慣に従った知識を通してかってに差異を無視して物体に名前を与えたり、変えたりすることはできないと思います。 そうですね。だから、個人に対して外在する制度ということになりますね。でも、パロールで崩す人もいますけどね。 >どの程度まで、言語の差異、知識なくして物を区別できるか、不可能だとはここでは書きません、でも可能であればどうやって、という疑問を残します。 結局、言語の働きは、「注意」を促すことにあるのかも知れません。漠然と見ていた「木」一般も、これは、カエデだ、これは、松だ、これは、梅だと教わることによって、それ以後、それらの木を区別して見ることができるようになるということですね。こう書くと、「じゃ、結局、言語が先でものが後」ではないかと思うかも知れませんが、ここで、私が最も関心を持っている「出来事」があります。それは、一番最初に「これはカエデだ」と言い出したのは、「神」か、それとも、「人」かということです。さて、そのときは、「もの」が先か「言語」が先か?
No.22です。 一つには 言語を 民族ないし国家としての社会的な言語(ラング)と発話としての言語(パロル)のほかに シンボル化能力などを含めた普遍的な言語能力(ランガージュ)としても捉えていることが関係してくるのだと思われます。単純に見れば 《心分け》もランガージュに含まれると言われるかも知れません。(推測です)。 (わたくしは 実は ソシュール学説が嫌いです。このように弁明する側にまわるとは思ってもいませんでした)。 あとは 丸山圭三郎の言説を引用してみます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 人間だけが・・・本能図式(身分け構造)に加えて もう一つのゲシュタルトを過剰物として持ってしまったところに 人間の栄光と悲惨の原因があるのではないだろうか。これが第二の分節の結果生ずる《言分け構造》であり このおかげで人間特有の文化が登場した。この文化は 記号・用具・制度によって身を一定の環境から解放する一方 身の方もこれに組みこまれて支配される拘束という両義性を持っている。 それでは その《シンボルか能力》としての言葉によって生み出されたものが何故過剰なのか。 第一にそれは身の延長だからである。私たちは言葉によって《過去》と《未来》 《背後のあそこ》と《前方のあそこ》 つまりは来し方と行く末を差異化・差延化する。・・・ 第二に シンボル化能力の産物は そもそも生物体としての人間にとっては存在しなかった《意味》を文字通り身の延長である人工的道具によって拡大生産するからこそ 過剰である。望遠鏡や顕微鏡がなければ人間にとっての《意味》たり得ないほど遠方にある事物や微小なるものが 人間の生体的な閾を超えて現出する。ましてやレントゲンによってはじめて見ることが可能な透視像などは 動物としてのヒトにとっての第一次的な《意味》をもつものではあり得まい。 ・・・言分け構造の基底にあるもの〔は〕 《欲求》ではなく《欲望》・・・なのだ。 欲望は永久に充足することがない。・・・すべての欲望の根源には 言葉の産物である《自我》がある。パスカルもつとに指摘しているように 《三つの邪欲》すなわち官能欲 知識欲 支配欲は 《自我(エゴ)》の欲望なのであり 《自己(セルフ)》の生命維持活動とはまったく質の異なるものであろう。 ・・・ (丸山圭三郎:言葉と無意識 1987 p.168f.) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ このようにして 議論はつづいています。(そう言えば 《もの》の認識のことも触れていますね)。そのあと 《欲動(トリープないしリビドー)》の概念をも提示しています。 《欲動とは 文化の基底にある欲望でも 生物学的欲求でもない。欲動は 文化的欲望によって生理的欲求の図式が壊れた時にはじめて登場するのではあるまいか。》(p.184) 《本能残基としての〈身分け構造〉がベースとなって〈言分け構造〉が再編成されるのではなく 〈言分けられた身〉の網の目によっては掬いきれない生のエネルギーとしての〈欲動〉の力が身をさらに言分ける原動力となるのである。》(p.189) ここに《人間存在喚起機能》(p.185)であるランガージュが かかわっていると言われれば 相当広いもしくは深い領域を 言語は担っていると言っていると推し測られます。 《無意識》の問題も それを認識論などとして扱うことも わたくしは嫌いですし苦手です。 というわけで いまは紹介までとさせていただいてよろしいでしょうか。 ソシュール理論がきちんと批判される日を待ち望んでいます。
お礼
ご回答ありがとうございました。 《身分け》の段階に踏みとどまっていれば、「実在の現前」に対処するだけで、心安らかに生きていられたのに、何故か《言分け》の段階まで進化してしまったが故に、過剰なる「非在の現前」に日夜振り回され、将来の不安、過去の後悔、そして、妄想的欲望に捕らわれるようになってしまった。哀れよなぁ人間は。と言ったところでしょうか。
お礼
長らくお付き合いいただきありがとうございました。