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事なかれ主義はなぜはびこる
「事あれ」主義と言うものがあるならば(実際少ないのでこういう言い方もないのでしょう)なぜ、「事なかれ主義」に圧倒されるのでしょうか? よくある例では、自分にあまり好意的でない(様に思える)し、自分もあまり交換をもてないような人との人間関係について誰かに相談すると、よく「それは悪意じゃないんじゃないか」とか「お前の思い込みじゃないのか」とか、つまり「お前の考え方がおかしいし被害妄想だ」というようなことを言う人がよくおります。これは考えようによっては相談者にとって失礼なことです。またこの事なかれ主義で本当に相談者が「そうかたぶん自分の思いすごしだったな」などと納得することはめったになく、「なんだ、まじめに聞いてくれないのか」という不満不信感を抱くことも多いのではないでしょうか? もしそうならば、実効性も礼儀にも失するこのような「事なかれ主義」はどうして「事あれ主義」を圧倒するのでしょうか? ちなみに「事あれ主義」とは「そうか、あいつはとんでもないやつだから、お前の悪口をそこらじゅうでしているかもしれないぞ」とかいう類の、相談者の訴えを認めるだけでなくさらに追い討ちをかけるように拡大させる姿勢です。
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事あれ主義の基本は、他者が自身で切り拓いていくべき道に良くも悪くも干渉すること、と考えてよいと思います。 自身で切り拓いていくことができなくなった場合に他者へのメッセージが発せられるわけですが、そこでの事なかれ主義は結局、「(あなたの人生に)そこまで踏み込む余裕が私にはない」ということの表明になるでしょう。 そうでない場合は、少なくとも可能性として相手のメッセージを吟味しようとする態度が現われるはずです。 事あれ主義は自我または超自我の作用であるのに対し、事なかれ主義は快・不快、あるいは苦・楽を司る本能が源になっているのだと思われます。 自我も超自我も本能に押されがちなのは、現在の人類の進化程度を指し示していると言えるかもしれません。
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- shift-2007
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我々は”事なかれ”を心から望んでいるのです。これは人類の夢なんです。 無視、或いは見てみぬふりもその実現手段の一つと考えているんです。 2つの選択肢しかない場合、人は間違いなく自分の好むほうを選択します。結果的にそれが人の命にかかわろうともです。 選択するのは迷っている人間だけです。 迷っている人間はこうあってほしいというバイアスを無意識にかけます。 その一つが”事なかれ”というバイアスです。 我々の水晶玉はそれほど高性能ではないんじゃないでしょうか。
お礼
すごくよくわかります。 人間の限界のようなものをあらわしています。 理性より感情、大儀より命に重きを置く悲しき生物ですね。
- shift-2007
- ベストアンサー率14% (143/1013)
人は誰でも家内安全、安定した生活、平穏な生活を望むのではないでしょうか。 それが事なかれという事じゃないでしょうか。 >これは考えようによっては相談者にとって失礼なことです では、考えようによっては逆もまた然りじゃないでしょうか。自分を被害者と自称する人が同情を求めているだけとしたら、それに迎合することは必ずしもその人のためになるでしょうか。
お礼
もしそうでない場合はどうします? たとえば極端な例では、児童虐待など。事なかれを通していたら子供が殺されてしまったという自体もありえますよ。2つの可能性が考えられます。ひとつはおっしゃるように「被害者と自称する」人。もうひとつは、「ちょっとつらい」が「殺されかけている」というような「被害者を否定」する人。なぜ一方の可能性しか取らないんでしょうか?
- kazudesu
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事なかれ主義の本質は無関心です 無関心の逆は愛です 愛は人と人のかかわりを深め無関心ではいられなくする魔法をかけます 愛がかれてゆく社会を目撃することも、愛が育つ社会を目撃することも、複眼であれば、両方みえますよ
お礼
いえてますよね。「愛」なんとも心地よく重い。事なかれとは対極だというお考え、同感ですね。社会はそれらが交じり合っているのでしょう。
被相談者の立場になってみますと、「不穏」さがあるということを認めることがなかなかできないという、人間の弱さ卑怯さが垣間見れる事態なんじゃないでしょうか?僧良寛はその点徹底していましたね。
お礼
いえていると思います。動きたくないんですね。
- Us-Timoo
- ベストアンサー率25% (914/3620)
心理学のカテゴリーで出ておりますが、心理学はまったく勉強しておりませんので そのつもりでお読みくださいませ。 >「事なかれ主義」はなぜはびこる 一口で人間社会のことで言うならば、「社会の調和を”むやみに”乱さないようするため」です。 もちろん、それでも度が過ぎれば百害あって一利なしになってしまいますが。 人間というのはもともと、疑心暗鬼の心を持つ生き物です。 つまり、貴方が言うところの”「事あれ」主義”でもともとなっていると思った方がいいでしょう。 しかし、それでは理性をもって生きていかねばならないこの人間社会は成り立ちません。 また、相手や物事を疑ってばかりでは、疑惑の無冠地獄に陥り、答えなどでなくなります。 そこで「相手を信じる」という行為を行うのです。 どこかで疑惑のループを断ち切らなければ、物事が前に進まないからです。 また、人間は「うまくいかない」ことを予想するより、「うまくいくこと」を想像する方が容易ですから どうしても、その楽な方に行くのでしょう。 それが事なかれ主義と同一とは思いませんが、根底にそういう人間の行動があることは確かです。 >よく「それは悪意じゃないんじゃないか」とか「お前の思い込みじゃないのか」とか、 >つまり「お前の考え方がおかしいし被害妄想だ」というようなことを言う人がよくおります。 はて、なぜそのような極端な捉え方しかできないのでしょうか? もちろんそういう意味で言う方もあるでしょうがそればかりではないと思います。 「単に相手のことをよく知らなくて誤解しているのでは?」 「もっと、相手のことを理解してから考えてもいいのでは?」 というような意味の場合もありますよ >これは考えようによっては相談者にとって失礼なことです。 はて?どこが失礼なのでしょうか? 相談した相手に自分の思った答えがもらえないことが、失礼になるというのでしょうか? 相談した相手からもらった言葉をどう受け止め、理解するかは、確かに個人の自由です。 ですが、貴方のような考え方で受け答えをしていては、相談した相手が本当に言いたい気持ちを理解できないままですし、 それに相談した側が相談する際に相手に状況をすべて伝えたのか、伝たわったのか、 また、相談相手が状況を判断するのに必要な客観的情報をちゃんと伝えたのか? そもそも、相談する相手を間違えてはいないか? >「なんだ、まじめに聞いてくれないのか」という不満不信感を抱くことも多いのではないでしょうか? 真面目に聞いていても、その判断があなたと違うだけで、不平不満を抱くのですか? 私から見れば、自己分析(自己反省ではありません)すらしていない態度に見えます。
お礼
前半におっしゃっていることは、大変納得いたしました。 人間はほうっておいたらどうなるかわかりませんからね。原始時代に逆戻りすることもありえるでしょう。上に立って殺戮とかそういうものが発生しないことこそ、動物としての人間の最重要項目ですからね。 しかし、後半はどうも納得いきかねます。 被害妄想だと捕らえるのもひとつならば、逆の(なんという妄想かちょっとわかりませんが)「殺されかけているのにおとなしくしたがっている」ようなきけんな状態もありえます。 「相手のことを誤解している」「相手のことを理解してから」 は真実はもっと危険なこともありうるわけです。もっと危険な相手かもしれないわけです。 失礼なわけは、相談者よりも実情を知らない人間が、まず相談者の言っていることを信用していないですね。そういうスタンスはたとえば粗悪品のクレームを受けた人が「いやもっとよく調べてみて説明書読んでくださいよ」「あなたの言っていることはまだ私は信じられないなぁ」という態度ではないでしょうか?それではサービス業失格ですよね?もちろん相談はサービスではありませんが、サービスをプライベートに持ち込んでも何も不都合はないのではないでしょうか。 まず、相談者の言うことは真実かあるいは80か120かわからないが、信用してみる(ふりをする)という態度こそ誠実なのではないかと考えます。判断は跡でよいので、状況説明を信用することです。
お礼
すごく的確なご指摘ですね。無責任主義、無関心主義、そして、愛の不足ともいえなくはないということなんでしょうか。踏み込む余裕というか、踏み込みたくない、かかわりたくないという要素が大きいのではないでしょうか。