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ジョンダンの詩/「死にのぞんでの祈り」

 標題の詩の中には、「誰も孤島ではなく、誰もひとりで全てではない。人は皆、大陸の土。大地のひとかけら。……(中略)……私もまた誰かの一部。……故に、『誰がために鐘は鳴る』と問うことなかれ。その鐘は、汝のために鳴るものなれば」というフレーズがあります。  疑問なのは、この詩のいわんとするところなのですが……、  私は、この詩を初めて読んだとき、上のフレーズがあることから、「人類、皆同胞(というとちょっと大げさですが)」「君は決して孤独ではない。誰かが君を見守っている」などというような、ポジティブなメッセージが込められているのかな?? と感じたのですが、この解釈でよろしいのでしょうか?  「鐘」というのが「弔鐘」であるというのもちょっと引っ掛かっていて……。  どなたか、文学には縁遠い私に、「この詩には、こういうメッセージが込められている」ということをご講釈願えませんでしょうか?

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回答No.1

 こんにちは、kawarivさん。お元気そうですね。(^。^)  さて、回答が寄せられていないようですので、「正解」ではなく「私個人の解釈」を持ってやって参りました(笑)。文学作品に限らず、すべての作品は「作者の意図を離れて独立する」宿命にありますから、私はどのような解釈をしても構わないという立場をとっています。勿論作者の意図は尊重されるべきですが、作品は常に作者の思いもしなかった側面を見せ始めることがあるものです。従って、私はkawarivさんのような解釈もまた充分成り立つだろうと思います。  ・・・という前書き(言い訳?^-^;)をした上で、私個人の解釈を書きますので、そのつもりでお読み頂ければ幸いです。「正解」はこの詩やジョン・ダンに詳しい専門家のご登場を待つことに致しましょう(笑)。  「命というものをダイナミックに捉え、個々の命を全体の大きな生命のうねりの中で感じ取っている」というのが私のこの詩に対する第一印象ですね。「個の命」が滅ぶ時、「全体の命」も滅び、「全体の命」が滅ぶ時、「個の命」もまた滅ぶ(前者に限って言えば、現実にはあり得ないことですが・・・)。命とは何か? 死とは何か? 己とは何か? 他者とは何か? 《全体》と《個》とが不可分に溶け合っている「生命」という現実・・・  《他人》はあなたの思うほど《他人》ではなく、《自己》はあなたの思うほど《自己》ではない(少々シュールでごめんなさい^_^;)・・・だから祈れ、《他者の死》のために。それは《あなた自身の死》でもあるのだから、あなた自身をも慰め、そしてまた祝福している鐘なのだ・・・ 《他人事》として受け取るな。あなた自らのこととしてあの鐘の音を聴け。「命」は、また「死」は、そして「あなた」と「他人」は、大いなるひとつの生命の中で、不可分のものとして流転しているのだ・・・こんなメッセージを私はこの詩の中から受け取ります。お粗末さまでした。^-^;・・・m(_ _)m  今から30年近くも前になるでしょうか。ヘミングウェイの名作「誰がために鐘は鳴る」という映画をテレビで見た記憶があります。心揺り動かされる作品でした。詳しい内容についてはもう忘れました(ぉぃ)。いつか時間のあるときにでもまた見てみたいものです。それではまたどこかで。(^o^)/~~

noname#4746
質問者

お礼

 これはこれは masatoshi-m さん、ご無沙汰しております。と申しますより、ほんの数回ご一緒しただけなのに、私ごときを覚えて下さっていたとは驚きでした(^^)。 >《他人》はあなたの思うほど《他人》ではなく、《自己》はあなたの思うほど《自己》ではない……(スミマセン、勝手乍ら中略)……《他人事》として受け取るな。あなた自らのこととしてあの鐘の音を聴け。「命」は、また「死」は、そして「あなた」と「他人」は、大いなるひとつの生命の中で、不可分のものとして流転しているのだ  素敵なご解釈をありがとうございます。このご解釈と同じような印象を感覚的に抱いてはいたのですが、理系人間である私には、これを言葉として表現することは極めて困難でした。masatoshi-m さんが私の気持ちを代弁して下さったわけではないことは百も承知ですが、心の内を具体的に表して頂けたこと、また、「自分の解釈には自信を持ってよい」とのご教示を賜りましたことに感謝致します。ありがとうございました。  映画は、イングリッド・バーグマンが出演していたものですね。この映画は、私も観ました。  が……、  いかんせん、理系人間のこの私。しかも、観たのは年齢的にも精神的にもかなり若輩者の頃(10代だったか、20代前半だったか…)。恥ずかしながら、何をもって「誰がために鐘は鳴る」なのか全っ然分かりませんでした(爆!)。今では、最後に、ゲーリークーパがイングリッドバーグマンを逃がすために、自分が犠牲になるシーンがあったと思いますが、「貴方が生き残るということは、自分が生き残るということ」という点で繋がりを持たせているのかなあ??? と勝手に解釈しているのですが。。。。 余談ですが、 >従って、私はkawarivさんのような解釈もまた充分成り立つだろうと思います。  フォロー、ありがとうございます(笑)。  えーとですね、実は、ちょっと自信を失いかけて、孤独感に苛まされている知人にエールを送りたかったんです。で、この詩を引用しようかなあと思いはしたものの、自分が都合よく解釈しているだけなので、実は意味合いが全く異なるものだったとしたらシャレにならないな、と(笑)。ましてや、「弔いの鐘」がなっているので(笑)。  まあ、下手に格好つけてないで、自分の言葉で伝えればよいだけの話なのですけれども(笑)。  お忙しい中、ご回答ありがとうございました。参考にさせて頂きます。 ※他の方へ  お礼が遅くなって申し訳ございませんが、今しばらくお待ち下さい。

その他の回答 (2)

  • aoneko
  • ベストアンサー率52% (65/125)
回答No.3

私もmasatoshi-mさんのおっしゃることに同意で、 どんな解釈をしてもok!と思っています。 masatoshi-mさんをはじめ、回答者のおふたりのご解釈を拝見してうっとりいたしました。 (「詩学は詩の屍体解剖」と言ったのはバルザックだったか誰だったか…覚えていなくてごめんなさい) 詩は生きたまま味わうのがオイシイですよね。 けれど解釈の深みには皆さんにはとても及ばない私。 ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、稚拙ながらも「読解の手引き」を添えさせていただきますね。 「今、誰かのために高らかに鳴っているこの鐘は、汝も死ぬのだ、と私に語りかける」 のフレーズで始まる、いわゆるこの「死にのぞんでの祈り」と呼ばれているものは、 『緊急の信心』(1624年)に収められています。 中に【三つの鐘】についての記述があり、その中の【臨終の鐘】(瞑想17) にあたります。 (【葬儀の鐘】瞑想16、【死を告げる鐘】瞑想18) 『緊急の信心』は全体を通して、個としての死と他人の死を重ね、自分の個を他者の共同体と合体させるという意識の往復が見られます。 『緊急の信心』は、世界の終末(キリストの再臨)が訪れるという不安が英国中を包んだちょうどその時に、ダンが重い熱病にかかり、そして回復したその経緯の覚書として書かれました。 ダンも絶えず不死鳥になぞらえつつ意識してきた「死」というものを、病を機に切迫的に描くこととなりました。 病の床につくことは死の練習であり、病床とは墓であり、死とは「解体・分解」であり、回復とは死からの復活であると述べられています。 人類はひとりの著者であるとともに、1冊の書物の一部であり、 一塊の土であるとともに、大陸や海の一部であって、 1人の死は人類全体につながっていることを繰り返し言っています。 突然あらわれた彗星(落下・臨終のイメージ)から人が目を離せないように、 死への関心はぬぐえるものじゃない。 鐘がなって、誰が死んだか気になるのも同じこと。 しかし誰のために鐘が鳴っているのかを知ろうとしてはいけない。 なぜならその鐘はあなたの死のためにも鳴っているのだから。 kawarivさんが引っかかってらっしゃる「弔鐘」のイメージですが、 『緊急の信心』は全体を通して、生と死は断絶したものではなく、継続したものです。 カトリック・プロテスタント・英国国教会を批判しながらも、 生涯を英国国教会の牧師として終えたダンは「パラドックスの詩人」といわれ、 生と死、病と健康、恐れと希望など、あらゆる事象をパラドックスの中で互いに肯定しています。 ですので、死というものはネガティブなイメージばかりなのではなく、「復活」のニュアンスも込められています。 ですからポジティブなメッセージとして受けとめてもよろしいのだと思います。 私も、「死への恐怖」を払拭させるためにこれが書かれたのだと感じました。

参考URL:
http://www.geocities.com/Yosemite/Trails/2237/lit/Meditation17.html
noname#4746
質問者

お礼

 aoneko さん、初めまして。  詩が生まれた背景について具体的にご説明下さり、ありがとうございます。私が「死にのぞんでの祈り」を読んだのは偶然でしたし、信仰心などまるっきりない人間なので、ご説明頂いたような背景があるということなど、露ほども想像できませんでした(恥)。そもそも、ジョン・ダンがシェイクスピアより年上だったというのを知ったのも、つい先日…。  「病の床につくことは死の練習であり、病床とは墓であり、死とは「解体・分解」であり、回復とは死からの復活である」という点、文学的素養のない私には、「そういう捉え方もあるんだ。視点を変え、物事を多角的に考察することで、これまでとはまた異なる立場で現象を受け止めることができるんだ」と、新鮮な感動でした。  だからこそ、「死」は「復活」であり、「死に恐怖することはない」ということになるのですね。なるほどです(^^)。 >kawarivさんが引っかかってらっしゃる「弔鐘」のイメージですが、  これは、masatoshi-m さんへのお礼欄(No.1)に書いたように、自分の解釈が正しいのなら、知人へのエールに使おうと思ってたんです。「人は皆、本土のひとかけら。波が土地をさらうということは、汝の土地が失われていくことと同じ」というような点を引用すれば、「君が悲しいときには、誰かもまた君のために涙している」なんていうカッコいいメッセージが一丁できますし(^^)。  でも、「エールを送る」と言いながら、弔鐘まで一緒に送っちゃったら一層落ち込ませることになるので、「さて、どうしたものかいな??」と(笑)。  まあ、下手に格好つけないで、自分の言葉で伝えればよいだけの話なのですけれど(笑)。  はっ、せっかくのご教示に茶々を入れてしまったようで申し訳ございません。感謝の念に偽りはございませんので、何卒ご寛恕下さいますよう。  ご回答、ありがとうございました。

noname#4746
質問者

補足

 皆様、ご回答ありがとうございました。何しろ、文学作品について思いを巡らすことがほとんどないこの私。皆様のご説明で、「作者のいわんとすること」を考察する際にポイントとなる点がおぼろげながら分かってきたのではないか、と思います(本当かなあ???)。  ポイントについては、正直なところかなり悩みましたが、「詩の主題の解釈」という質問の性質上、詩の中身をご解釈下さった方々に発行しております。決して「詩が生まれた背景が役に立たなかった」ということではありませんので、何卒ご了承下さい。  こちらの勝手な事情から、お礼が遅くなりましたこと、深く深くお詫び申し上げます。  どこかのスレッドでまたご一緒する日を楽しみにしております。 

  • aster
  • ベストアンサー率70% (374/533)
回答No.2

  詳細なことは、まったく分かりませんが、引用されている部分からの印象です。 >ジョン・ダン >「死にのぞんでの祈り」 >「誰も孤島ではなく、誰もひとりで全てではない。人は皆、大陸の土。大地のひとかけら。…………私もまた誰かの一部。……故に、『誰がために鐘は鳴る』と問うことなかれ。その鐘は、汝のために鳴るものなれば」 ダンは記憶違いかも知れませんが、エリザベス朝時代の詩人で、確か、無神論的傾向があったはずです(またニヒリズム的な傾向もあったように記憶していますが、間違っているかも知れません)。少なくとも、敬虔なキリスト教徒詩人ではなかったと思います。 上の詩は、「死にのぞんでの祈り」です。実際にダンは死の床にあって詩をよんだのか、または、自己の死を想定してよんだのか、どちらにしても、「自己の死」というものを見据え、「自己の死の意味」について思いをめぐらした詩であることは間違いありません。 「私もまた誰かの一部」とあります。これはどういう意味なのか、が問題になります。少々独断的な勝手な解釈ですが、これは「記憶のなかでの生」というものだと思えます。 「私という存在は、誰かの記憶のなかに生きている。そのわたしも、この私の一部なのだ」という認識あるいは生死の捉え方です。キリスト教の救済論や生死の考えをダンは歌っているのではないでしょうから、では何か、というと、このような解釈が出てきます。 汎神論的な生死の捉え方は、インド思想などではよくありますし、キリスト教神秘主義でも、「神」を媒介に、そのようなヴィジョンはあります。しかし、上のダンの詩は、短いので確かには分かりませんが、そのような神秘主義ではなく、汎神論でもなく、もっと冷たい、現実を見据えた、リアリストの視点のように思えます。 リアリストの視点で、しかし、「記憶のなかの永遠」というようなことを考えているのではないかとも思えるのです(陶酔し、自己溶融する神秘主義ではなく、現実主義の冷ややかな・冷徹な神秘主義とでもいうものかも知れません)。 人は、孤独でなく、互いを知り合った存在でもある。理解してくれる人のなかで、その人の意識、記憶のなかで、人は、その人の肉体の内部の「生」以外の「生」を持っている。このことから、人は「決して孤島ではない」となるのだと思います。 「人は皆、大陸の土。大地のひとかけら」という表現からは、何か「大地」が偉大な生命の源泉で、人は、その生命の一部に与っているというようなイメージが出てきます。レフ・トルストイの生死の考え方には、こういうイメージが確かありました。 しかし、トルストイにとっては、その「生命の大いなる源泉」がつまり「神」なのです。ダンの場合は、この「大陸・大地」は、そういうものなのだろうか、という疑問があります。 ここでは、リアリストであって、悲観主義でもあった、オマル・カイヤームの「ルバイヤート」の主題が連想されるのです。カイヤームも、似たような表現をします。その場合、カイヤームは、「私は土で作られており、それは滅び朽ち、大地に帰る」という認識をします。 大地や土は、むかしの人の肉体でもあったのです。ただ、ダンの考えが、カイヤームと同じかと言えば、違うと思います。カイヤームは懐疑主義で、肉体は大地に朽ちる、では精神は? という問いに対し、答えません。 精神もむなしく消えて行く、とカイヤームはうたっていたように記憶します。カイヤームは明言していませんが、精神の救いや、何かの意味の「不滅・永続」をカイヤームはうたわないからです。 ダンの場合は、虚無主義や懐疑主義だと思えるのですが、「死にのぞんでの祈り」というタイトルそのものが、カイヤームとは違う思想を示しています。カイヤームのリアリズムだと、「死にのぞんで祈って何になるか。ただ空しい」となるからです。 ダンにとっては、「祈り」には意味があったと思えます。それはキリスト教文化を背景にしていることも一つの理由でしょうが、ダンは、非常に曖昧で微妙な形で、「個人の魂、個性の不滅性」の可能性をうたっているように感じられるのです(懐疑的な冷ややかな神秘主義とも言いました)。 -------------------------------------- 「わたしが死ぬとき、わたしは孤独で死んで行くのではない。わたしは人々の記憶や思いのなかで、痕跡にせよ、永続する。永遠に? それはわからない」 「わたしは孤島であり、孤独であり、すべての人もまたそぅである。が、そのようにも思える他方、人は、互いの記憶によってか、または時間や空間のなにかの痕跡においてか、どこか深いところで、互いに互いを共有し合っている」 「だから、人は孤島ではない。この記憶か、意識か、幽冥のつながりにおいて、人は決して孤独ではないのだ。永遠の天国の命があるとは思えないし分からない」 「人は、他者との関係のなかで、その人ではなかったのか。わたしは孤島として、わたし一人で完成し完了しているのではない。わたしの死は、人々の深き心の奥底で、何かの意味を持ち、わたしは、そこで永遠だとも言える」 「人々は、また同じように、わたしの心のなかで、記憶やそれより更に深い何かで、永遠なのかも知れない。わたしの死は、わたしのすべての終わりでは、恐らくないのであろう」 「わたしと人々は、魂の深きどこかにおいて、つながっており、わたしの死は、孤独な死ではなく、人々と共に生きるということの次元への移行かも知れない。無論、それはわたしのまさに死であるが」 「だから、誰かの死を告げる鐘の音は、関係のない他人のことではないのだといえる。人は、互いに、その死を支え合っているのであれば、他者の死の鐘の音は、まさに、わたし自身の死の鐘の音でもあるだろう」 「わたしは、自分の死の鐘の音を聞くことはないだろう。しかし、過去に聞いた、死を悼む鐘の音は、すでにわたし自身の死の鐘の音だったとも言える。死と生と、定かに分からないとしても、わたしは孤島でなく、その死は、孤独ではない」 「誰を悼んで鳴らす鐘の音かではなく、それは、わたしや貴方の死を悼んで鳴っている鐘の音なのだ。わたしたちは、「死の神秘」において、わたしたちが、死にあって孤独として虚無に落下するのではないことを知るからだ」 -------------------------------------- ダンは形而上的詩人と言われていたと思います。以上に記したことは、わたしの妄想かも知れません。 翻訳された断片の詩句を元に、その言葉の背景にある「思い」を、わたしなりに再現しようとすると、以上のような、意味曖昧な言葉の列となってしまうのです。  

noname#4746
質問者

お礼

 aster さん、懇切丁寧なご説明、ありがとうございます。  詩を含めた文学全般、その作品が生み出された背景思想に関して(ご活躍のカテゴリが多岐に亘ることを考えれば、これらに限ったことではありませんが)、かなり精通されていらっしゃるようで、迂闊なお礼はできないなというプレッシャーを感じております(^^)。 >以上のような、意味曖昧な言葉の列となってしまうのです。  そうなのですか? 私は、無知な私にも理解できるように「詩の言葉をできる限り中実に使って」比喩の中に込められた真意をご説明下さった aster さんのお心遣いにただただ感謝するばかりなのですが。正に、圧巻でしたよ。「わたしは孤島でなく、その死は、孤独ではない」という行には、感動しましたし。  ただ、情けないことに、語彙が少ない私からは、「ご教示頂いた内容に、いたく感銘を覚えました」以外、お返しする言葉がございません(恥)。自分の胸の内をもっと上手に伝達できるほど語彙が豊富ならば、他に表現のしようがあるのですが…。  遅くなった上、「何だ、これだけかい!」というお粗末なお礼で申し訳ありません。  ご説示頂いた内容を熟読して、自分なりに消化するよう努力します。線で囲んで下さった部分はほぼ把握できたのですが、思想・背景等に関してはまだまだ分かっていないもので。(^^ゞ  ご回答、ありがとうございました。

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