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祈りとは何か
悟った日の思い。 祈りとは何か。 祈りは何に向け捧げるものなのか。 祈りは神に捧げるものなのか、仏に捧げるものなのか。 もし祈りを神や仏に捧げるのであれば、我々は神や仏を知らねばならない。 しかしこの世の誰も神や仏を知る者はいないのである。 すると祈りは何に向け捧げるのであろーか。 それは我々がよく知るものに向けて捧げるのではないのか。 それは我々がよく知る親や死んだ先祖達に向け捧げるのではないのか。 また祈るために何が要るのか。 祈るために某かの本尊やら曼荼羅やら掛軸の類が要るのか。 祈るために某かの経典やらお経の類が要るのか。 祈るためにそのよーなものは一切必要あるまい。 祈りとはそのよーなもの、最も原始的なものではないのか。 何ものも必要とせず行える祈りが真の祈りではあるまいか。 結局最後はみな原始に帰るのである。
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- michael-m
- ベストアンサー率50% (2724/5433)
なにを悟ったのか ぜんぜんだね。 人を理解していないし 経文に何が書かれているのかも理解していない。 なぜ人が本尊を求めているのかも理解していない。 なぜ神や先祖に祈りを捧げているのかも理解していない。 なぜ原始から今日まで祈りの形態が変化してきたのかも理解していない。 そもそも祈りが何かも追究していない。
- ys_captain
- ベストアンサー率29% (242/821)
「お願い」ですね。 お願いする対象によって 名前や方法が変わるのでしょう。 生きていようが死んでいようが存在してなかろうが 知った事ではない、何でも良いから状況を 変えてくれればそれで良い。 などと思います。
- jbeam
- ベストアンサー率41% (85/204)
>祈るためにそのよーなものは一切必要あるまい。 その通りでしょう。 祈は何の行動もしないのだから、当然何の成果も望めないでしょ。 相手にお願いするだけだから。 祈った相手に任せて願いがかなう? まあ、僥倖・勘違い・自己欺瞞位でしょう。 祈る暇があれば、誓いなさいな。 明確な目標の達成を誓った相手に約束するのですよ。 ずっと建設的です。 たとえ相手が神・仏・祖先・自分を含めて誰であろうと守れない約束をしなければね
- toshi3186
- ベストアンサー率24% (18/74)
祈りとは自身の心の平安のためのものです。神様やご先祖様に何かを求めるものではないです。 経典(写経、読経)や曼荼羅は制作過程が祈りなのです。一心に作業することで心の安寧が得られるのだと思います。
誰でも祈ることはできます。 真心で祈ることもできます。 でも変わらぬ真心で祈ることは困難です。 なぜかといえば、人の真心には欲がつきまとうからです。 紙一重で欲に染まりやすいからです。 大、と付く慈悲心が、なぜ大なのかは、そこにあります。 その事を分からぬまま、曼荼羅云々・・・とは過ぎているのではないでしょうか。
- hekiyu
- ベストアンサー率32% (7193/21843)
人間は、地上最強の動物です。 だから、どうかすると傲慢になります。 傲慢になると努力を怠り、他の動植物を バカにし、よって立つ地球でさえ自分の 都合の良いように改造し、ついには 破壊しかねません。 だから、人間の脳には、人間を超える超越者の 存在がビルトインされているのです。 祈りは、そのビルトインされた超越者に 対して、己が謙虚になる為になされる 儀式です。
- ks5518
- ベストアンサー率27% (469/1678)
>しかしこの世の誰も神や仏を知る者はいないのである。 ■実際に直接会った事があるという人はいないでしょう。 しかしながら、“神”の定義や“仏”の定義は存在し、 それを信じて信奉するのが信仰である。 要は信じることが出来るかどうかである。 その“信”を深めるためにあるのが、教典であり、 釈書である。 また、それらの定義に合う人は現実に存在すると 思います。 >すると祈りは何に向け捧げるのであろーか。 >それは我々がよく知る親や死んだ先祖達に向け捧げるのではないのか。 >祈るために某かの本尊やら曼荼羅やら掛軸の類が要るのか。 >結局最後はみな原始に帰るのである。 ■人間が簡単に理解できるものや、祖先に対して 祈る事は間違いである。 ただ祖先に対して、回向の意味で祈る事はあります。 質問者様は、“祈り”、“祈り”の意味と言うものが断定 できますか?どう言った概念の上で“祈り”と言うものを 述べるかにもよると思います。 本尊や曼荼羅や掛け軸と言うが、曼荼羅や掛け軸と 言うのは“本尊”の事です。また、宗派によっては仏像 などを本尊とする場合もあるでしょう。 また、神道においては、そこに神が常住するのではなく 儀において神を迎えるのではないでしょうか。 さらに、仏教で言うところの“神”というものと、神道で言う ところの“神”の概念は違います。 それと、世界にはそういった確たる本尊を持たない宗教 も存在するとは思いますよ。 ※西洋宗教については、あまり詳しくないので。 先ず、祈り云々と言う前に、『何のために祈るのか』と言った 祈りの目的というか、意義を質問者様個人的に良く把握し ないと、祈りを悟れるはずはないのです。
イエスキリストは次のようにいっています。 ********************************************** 《まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海に入れ。』と言っても、そのとおりになります。あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。》 (新約聖書) ********************************************** つまり、『誰でも奇跡は起こせますよ。』といっているのです。 ただし、『信じて疑わなければ』という条件があります。 『人間は科学の法則を信じて疑わないため、科学的な法則に縛られ、法則以上のことはできないのです。』 だから、このイエスキリストの業を見て、『科学を信じるのではなく、神の法則を信じなさい。』つまり、神の法則を信じる者は何でも与えられ、救われるのです。という意味です。 そういうわけで、科学の法則は、『限定された無意識の祈り』なのです。 人間の世界には、『病気事故災害戦争飢餓など』多くの苦しみがあります。これらも、無意識の祈りとなって生じたものです。 『殺す・姦淫する・盗む・嘘をつく・親不孝をする・隣人を憎む』これらの行為が無意識の祈りとなって『病気事故災害戦争飢餓など』を造っているのです。 だから、イエスキリストは ************************************** 『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証し てはならない。父と母を敬え。あなたの隣人を自分と同じように愛せよ。』 (新約聖書) ************************************** と神の戒めを守れと言っているのです。 【祈りはすべて叶う。これが真の法則です。】
お礼
>祈りは、そのビルトインされた超越者に 対して、己が謙虚になる為になされる 儀式です。 果たして人は自らの奢りを感じたときに祈るのであろーか。 手を合わせて祈っている彼らは皆奢っているのであろーか。