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キリスト教学
エリーウィゼルは「(神を裁判にかけた)が、神の起訴状にある人々の破壊を軽視することなく、子供や婦人や男性たちのために神を弾劾しながらも、神の力を認め続けることが出来る。」とあるがこれは矛盾していないのですか!?検証してください!
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- 1000827313
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emarosa様 エリ・ヴィーゼルはご存知のようにユダヤ教徒ですので、「キリスト教学」の範疇には入らないのではないですか?「ユダヤ教学」が正確では? その上でのお返事になります。 >(神を裁判にかけた) その通りと思います。 先ずは“夜”のなかでの会話。「神はどこにおられる?」との質問に、絞首刑になったやせ細った子供が死に切れずにゆれている前を行進しながら他のものが返事をします。「・・・ここに、この絞首台に吊るされておられる。」と返事しています。 彼は二回神の前に行った事になっていますが、二度とも質問を発する事が出来ませんでしたね。二回目は“昼”の中ですが、「いまこそ・・・~苦悩の意味はどこにあるのか、と。」問い質す機会でした。でも一言も声を立てることが出来なかった。「サラの子エリエゼル」とも。 エリ・ヴィーゼルは復活したのではなく、死者のままです。鏡の中に写る自分の顔は六百万人の死者の顔であると彼は認識しています。 彼は敬虔なユダヤ教徒です。タルムードやゾハルを学んでいて、学校で習った通り、神の前で。「サラの子エリエゼル」と名乗らなければならないと信じています。 ユダヤ教は論理学からは遠く離れています。論理学では名前を付ければそのものの本質を表すとしていますが、ユダヤ教ではそうは考えません。「その本当の意味は、本質は何か?」と言う事から論議が始まります。ですから、アリストテレスの三段論法は彼らには通用しません。 emarosa様が矛盾と思われるのも無理はありませんが、彼らにとっては何も矛盾していませんし、私にとってはユダヤ教そのものと思われます。また、何故この弾劾文が成り立つのかは彼の著作集をご覧になればお分かりになるかと思いますが・・“夜、夜明け、昼”、“エルサレムの乞食”等々、ありますが如何でしょうか。ノーベル文学賞ではなく、ノーベル平和賞になったのも頷けると思いますが。余計な一言でした。
- kigurumi
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直接の回答じゃないですが、、、 <神を裁判にかけた>というのが何を氏は意味しているのかなのですが、その言葉が氏の本からの引用でしたら、その前後の話がどうなっているのかわからないと、<神を裁判にかけた>の氏の意味するところがわからないです。 で終わってしまうのもなんなので、、、、 <神を裁判にかけた>というのが、イエスを裁判にかけた というのであれば、ピラートスとの会話は、実際には無く後に付け加えられたものだと思います。 何故ならピラートスは、裁判無しに即処刑する人物だったから。 ユダの福音書。 大よそ紀元3世紀から4世紀に書かれたものと鑑定されている。 http://nng.nikkeibp.co.jp/nng/topics/n20060407_2.shtml 【紀元180年頃、フランス・リヨン(当時のローマ領ガリア)の司教だったエイレナイオスが書いた大著『異端反駁』は、『ユダの福音書』に言及した最古の文献として知られています。この書物はイエスとその教えについて、正統派教会と異なる見解をもつ者すべてを激しく批判する内容で、その中でエイレナイオスは、「裏切り者」ユダを崇拝するグループを次のように攻撃しています。「[彼らは]裏切り者ユダを……誰も知らない真理を知る唯一の存在だと主張する。……彼らはこの種の偽りの歴史を創作し、それを『ユダの福音書』と呼んでいる」。当時はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書のほかにも様々な福音書が流布していましたが、エイレナイオスは信者に対し、キリスト教徒は正統派の四福音書だけを読むべきだと主張しました。後にそれ以外の福音書は「禁書」とされ、その写本は人目につかない場所に隠されたと、専門家は言いいます。】 現在に伝わる聖書を編纂したのは、このエイレナイオス。 (ほか2人も携わったようですが) 沢山の書物の中から4つだけをエイレナイオスらは選び、ほかを焚書とした。 【福音書の記述は、次のような場面で唐突に終わっています。「彼ら[イエスを捕らえにきた人々]はユダに近づき、『ここで何をしているのだ。イエスの弟子よ』と声をかけた。ユダは彼らが望むとおりのことを答え、いくらかの金を受け取ると、イエスを引き渡した」。イエスが十字架にかけられることも、復活することも、この福音書には何も書かれていません。】 作家たちの手によって内容が違っており、あるいは作家によって元の話に話を追加していったふしがある。 全部創作の可能性もある。 事実が不明なのに、「イエスを殺したのはユダヤ人だ。イエスは神だった。従って神を殺したのはユダヤ人だ。」として、虐殺していいものなのか。 よかったとしたから虐殺したわけですが、、、、、 ユダヤ人虐殺(ショア)が、人々が神を試すために行われたとしたら、、、、 「エリ エリ レマ サバクタニ」 イエスがそう叫ぶと、人々はイエスが神を呼んでいると思って、神がイエスを助けるかみてやろうとした。 ショアでは、人々は神がユダヤ人を助けるかどうかみてやろうとして虐殺したのか。 エリ エリ レマ サバクタニは、詩篇22にからくるもので、作者はこれを使ったと思います。 【わたしの神よ、わたしの神よ なぜわたしをお見捨てになるのか。 なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず 呻きも言葉も聞いてくださらないのか。 わたしの神よ 昼は、呼び求めても答えてくださらない。 夜も、黙ることをお許しにならない。 だがあなたは、聖所にいまし イスラエルの賛美を受ける方。 わたしたちの先祖はあなたに依り頼み 依り頼んで、救われて来た。 助けを求めてあなたに叫び、救い出され あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。】 この状態が心が貧しい状態。 神の起訴状。 これまた前後の内容を見ないと、何を意味しているのかわかりません。 神の起訴状となると、イエスの磔刑の時に添えられていた板を思い浮かべますが、<神の起訴状にある人々」はイエスの罪状版ではないですし。 >神を弾劾しながらも、神の力を認め続けることが出来る。 これがヨブの状態ですが、ヨブは直接神と対決したため、身に起こった理不尽さを受容できたわけです。 が、これは集団で神に抗議するものじゃないです。 個人でなければできないもの。 署名がたまったから、神に嘆願書を提出し、神はそれを吟味する義務があるってもんじゃない。
- ANASTASIAK
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矛盾していません。 人が弾劾するのは悲劇であって、神ではないからです。