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この詩を自然な日本語に添削していただけないでしょうか

 日本語を勉強中の中国人です。好きな詩を日本語に訳してみました。自然な日本語に添削していただけないでしょうか。日本語らしい日本語の潤色も歓迎します。 頭で空を支えており、 足で大地を踏んでいる。 風雨の中で、昂然として頭を上げる。 吹雪に覆われても屈服しない。 ああ、本当に大きな木だな。 いかなる狂風が吹きすさんでも。 緑の葉に無数の物語が残っている。 その中に喜びもあり、苦しみもある。 楽しい時は笑わなく、 悲しい時は泣かない。 大地にどれほどの緑の木陰が降り注いだであろう。 それは愛の音符だ。 風はあなたの歌であり、 雲はあなたの足取だ。 白昼も黒夜も、 人類のために、幸福をもたらしつつ。 ああ、本当に大きな木だな。 緑の祝福だな。 あなたの襟懐は青空にあり、 限りない愛情は土に仕舞い込んでいる。  また、質問文に不自然な日本語がありましたら、教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

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  • ベストアンサー
  • hakobulu
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回答No.8

<国語的添削> 1、{楽しい時は笑わなく 悲しい時は泣かない。} a.「笑わなく」で止めることはできません。 『笑わず』などとする必要があります。 b.また、このままの表現だと文意が通らなくなってしまいます。 「お腹が空いた時はご飯を食べない」というのと同じです。 「お腹が空いた時でもご飯を食べない」であれば自然です。 『楽しい(悲しい)時でも』 『楽しい(悲しい)時にも』 など逆接の接続詞が必要になると思います。 2、{白昼も黒夜も、} :白黒の対比は良いかもしれませんが、「黒夜」という表現は一般的ではありません。 むしろ「黒い夜」であれば独自性が出るでしょう。 一般的には『暗夜』という表現があります。 3、{襟懐} :詩語としては良いと思いますが、一般的には殆どの場合、 「襟懐を開く」という慣用句として使われます。 4、{限りない愛情は土に仕舞い込んでいる。} :「仕舞い込む」というのは、「出すのが惜しくて隠している」というニュアンスになります。 詩意からすると適切ではないでしょう。 5、句読点は不要でしょう。 6、他は一応の体裁は整っていると思います。 国語的に不自然な点はありません。 個人的に特に気に入った箇所を挙げてみます。 『風雨の中で、昂然として頭を上げる』 『ああ、本当に大きな木だな。』 『大地にどれほどの緑の木陰が降り注いだであろう』 『それは愛の音符だ』 『雲はあなたの足取だ』 『あなたの襟懐は青空にあり、』 ◆URLの音楽をしみじみと聞きながら回答しています。 とてもいい歌ですね。 お言葉に甘えて独断的な潤色もご参考までに付け足しておきます。 天を戴き 地を踏まえ 雨風を受け流し 氷雪さえものともしない 何と大きな木だろう 如何に風が荒れ狂っても 緑葉に残る無数の物語は消えない 喜びそして苦しみの記憶 楽しいからといって笑うでもなく 悲しいといって泣くわけでもない 太古の昔から大地に注がれてきた緑の陰 尽きることのない愛の調べ 風はあなたの歌 雲はあなたの足跡 耀る日の下でも 月なき夜でも 人々に幸せを与え続けてきた 何と大きな木だろう 緑色した祝福 麗しき心は青き天空にあり 永遠(とわ)の思いは豊かな大地に深く染み入る   *「耀る」は「あかる」と読んでください。「明るい+照る」を意味する個人的な当て字です。  

awayuki_ch
質問者

お礼

 ご回答ありがとうございました。北海道を詠う有名な曲、松山千春の「大空と大地の中で」はご存知でしょうか。最近別のカテゴリーで初めて「大空と大地の中で」という曲を知りました。聴き慣れているメロディーのような感じがするので、十何年前の中国の田震のこの曲に辿り着きました。田震の曲は「大空と大地の中で」にもとついた再編集だと気づきました。本当に奇遇ですね。田震のこの曲は当時中国で大ヒットしました。久しぶりに聴いて感動されました。十年は本当にあっという間です。もう一つの十年後自分はどこにいるのか、何をしているのか、ぜんぜん想像がつきません。中国語には「頂天立地」(全世界を背負って立つ<堂々たる英雄の気概を形容することば>)という言葉があります。このような気概のあるものにすごく憧れます。「天を戴き 地を踏まえ」もシンプルでいいですね。辞書で「雪を戴く富士山」、「頭(かしら)に霜を戴く」、「星を戴いて帰る」などの美しい表現を見つけました。「氷雪」は日本語にもある表現なんですね。そのまま使えるのは知りませんでした。「天を戴き 地を踏まえ」、「太古の昔から大地に注がれてきた緑の陰 尽きることのない愛の調べ」、「雲はあなたの足跡」、「耀る日の下でも 月なき夜でも 人々に幸せを与え続けてきた」、「緑色した祝福」、「麗しき心は青き天空にあり」、「永遠(とわ)の思いは豊かな大地に深く染み入る」などの言葉の雰囲気が特に好きです。当て字の作り方は大変参考になりました。「耀る」は雰囲気いいですね。私もこれから作ってみたいです^^。添削していただいた文を繰り返し繰り返し読みます。ありがとうございました。

awayuki_ch
質問者

補足

1.「ふりそそぐ」という単語がとても好きなので、「木陰がふりそそぐ」を濫用しました^^。お伺いしたいのですが、意味はさておきに、「木陰をふりそそがせる」、「木陰がふりそそぐ」、「木陰をふりそそぐ」の中では、どれが文法的にあっているのでしょうか。 2. >「笑わなく」で止めることはできません。 >『笑わず』などとする必要があります。 これはなぜでしょうか。 「楽しい時は笑わなく、悲しい時は泣かない」はもともとは「楽しい時【に】【笑わない】、悲しい時【に】泣かない」と書いたつもりでした。二つの文をつなぐために、「笑わない」を「笑わなく」に変えました。更に、対照的なニュアンスを出すために、二つの「に」を「は」に変えました。なぜ「笑わず」とする必要があるのでしょうか。 文意が通らなくなってしまう理由はよくわかりました。ちなみに、人間らしい表情や言葉が好きですよ^^。 3. >「仕舞い込む」というのは、「出すのが惜しくて隠している」というニュアンスになります。詩意からすると適切ではないでしょう。 おっしゃるとおりです。「仕舞い込む」で「画龍点瞳」を狙っていましたが、大失敗作になりましたね。これは土に深く含まれているという意味です。つまり、「土に深く染み入る」という意味です。「出すのが惜しくて隠している」とは全く関係ありません。大変勉強になりました。 4.「雨風」の読み方を教えてください。「風雨」との違いも教えてください。

その他の回答 (13)

回答No.14

 #7です。 1.文法的には「木陰がふりそそぐ」が正しいと思います。「そそぐ」だけなら「彼はジュースをそそいだ」などと言いますが、「ふりそそぐ」の場合はあまり他動詞としては使いません。「木陰をふりそそがせる」は、使役の意味になってしまい、二重に不自然です。  さらに、意味を考えるなら、「木陰がふりそそぐ」も少しおかしい気がします。「木陰」というのは、厳密に言うと、地面に映された木の形のことではなく、光が遮られた木の下の空間のことですよね。映された木の形のことなら、「ふりそそぐ」と表現しても、詩的な表現として通用しないこともないのですが、木の下の空間のことだとすると、空間がふりそそぐというのは不自然です。「木陰をなす」とか「木陰を作る」とか言う方が、しっくりきます。 2.これはこれは! ご指摘があるまで、ちっとも気がつきませんでした。「高らか」という形容動詞はナリ活用なので、連用形で接続する時は「と」ではなく「に」を使わないといけない、という理屈ですね。うーん、自分としては、「高らかと」という表現に何の違和感も覚えなかったのですが、どうも文法的には間違いだったかも知れません。両方をインターネットで検索してみると、「高らかに」は「高らかと」より53倍も優勢でした。自分の言語感覚が、だんだん信じられなくなってきました……。  というわけで、色々な辞書の用例もすべて「高らかに」になっていますし、少なくとも一般的には「高らかに」だと思います。どうして自分が気がつかなかったのか、不思議です。もしかすると、表現の揺れがあるのかも知れません。暇があったら研究してみたいと思います。 3.「きょうじ」のつもりで使いました。「きんじ」という読みは、ぼくも知りませんでした(^_^;  中国語に「誇り」という意味がないとは、驚きました。マイナス表現なのですか、おもしろいですね。我が家の漢字字典には「自信を持つ/自重する/誇る」という意味しか載ってないです。一応漢文の用例も載っているので、これは中国語の方で意味が変化したんでしょうか。それとも、両方の意味が元からあったんですかね。なんにしても、勉強になりました。 >日本語にも対句があるんですね。大変興味深く拝読しました。漢詩のよく使う手法です。夏目漱石は当て字の名手だと前回教えていただきましたね。杜甫は対句の名手です。  杜甫の詩は、日本の、文庫本になっているもので読んだことがあります。確かに、対句が見事に使われていました。本来の中国語の発音が分からないので、原文を音読することができず、韻字があっても読んで感じることができないのが、残念でした。日本人が漢詩を読む場合、はじめに、原文を古典文法に従って日本語に直したものを読みます。漢字と漢字の間に平仮名を挟み、訓読みに直してゆくような感じで、厳密なルールに則して漢文は直訳されます。そして、こんどはそれを現代語に翻訳したものを読むわけです。ですから、難しい漢字に加え、古典文法の知識まで必要になるので、漢詩を読むのは大変なんですね~。  日本人が漢文を学んできた、千年以上の歴史があるので、現代でも日本の高校生は、いったん古文に直されたものを読んで、それを現代文に直すという、二度手間をやっています。直接現代文に翻訳したら、楽だと思うんですけどね。

awayuki_ch
質問者

お礼

 再びありがとうございます。「木陰がふりそそぐ」についての説明は納得できました。「高らかに」が一般的なんですね。お気になさらないでください。  杜甫の詩をお読みになったことがあるんですね。とても嬉しいです。俳句を中国語に訳された本を読んだことがあります。どうも中国語の訳文は俳句の雰囲気を醸し出せないような気がします。中国語で漢詩を読み、日本語で俳句を読むのが一番理想的な状態だと思います。李白、杜甫、白居易の漢詩は中国で一番有名です。中国人が小さい時から、一番最初に触れた作品はたぶんこの三人の作品です。私は特に王維と李白が好きです。王維の漢詩は澄み切った感じがして水墨画のように美しいです。李白の漢詩の風格が雄大で想像力が豊富です。本当にありがとうございました。大変参考になりました。

  • gekkamuka
  • ベストアンサー率44% (138/309)
回答No.13

 No.9です。ご参考にしていただけたら幸いです。 >harabou」と読むのでしょうか。辞書には「はらばう」しか載っていません。「harabou」は古風なんでしょうか。  およそ、詩歌は朗読を意識していますから、その言葉一つひとつの持つ響きや余韻に思いをめぐらして見たいものです。  腹這うは、歴史的仮名遣いでは「はらばふ」ですし、現代仮名遣いでは「はらばう」とされても、実際の発音では「はらぼう」に近い響き方で読まれます。 ちなみに「這う這うの体」は「はふはふのてい」でも「はうはうのてい」でもなく「ほうほうのてい」と記されますし、実際そのように読まれています。簡単に言えば「はらばう」よりは「はらぼう」と、より響きよく読んでもらいたかった次第です。 >「ありて」は現代語の「あって」でしょうか。 古語ではもちろん、「あり」はラ行変格活用なので「ラ・リ・リ・ル・レ・レ」で、「ありて」となります。 一方、現代語「ある」は五段活用ですが、「ラ(ロ)・リ(ッ)・ル・ル・レ・レ」となり、「ありて」と「あって」の両形があります。 この、連用形こそ古語も現代語も同形である点に着目して、終止形ではなく連用形を見出し語にした便利な辞書(「岩波古語辞典」)もあります。 これもやはり、東京語を基盤とした共通語の促音便の「切れ」よりは、原形のもつ「おとなしさ」のような味がふさわしいと思えたものです。 あるいは佐藤春夫の、あの「秋刀魚の歌」が念頭にあったのかも知れません。     あはれ     秋かぜよ     情(こころ)あらば伝へてよ     ──男ありて     今日の夕餉(ゆふげ)に ひとり     さんまを食(くら)ひて     思ひにふける、と。 >「幸あれかしと」はどういう意味でしょうか。 【あれかし】(連語)あってほしいものだ。「幸(さち)あれかし」(小学館「現代国語例解辞典」) >何と読むのでしょうか。また、意味は何でしょうか。 げんち【玄地】遠くはるかな土地。奥深い地。(小学館「国語大辞典」) 青青としたドームのような天にという希薄にして清浄なイメージに対するに、黒黒としてどこまでも平らかな地の濃密にして地味豊かさを配して、そのコントラストを際立たせたかったものです。

awayuki_ch
質問者

お礼

 再びありがとうございます。古典は難しいですね。詳しく説明していただき誠にありがとうございました。No.9の詩の意味はやっとよく理解できました。月下無可さんの素晴らしい詩を忘れません。私はとても嬉しいです。でも、私はその詩の中で、一番気に入った単語は「寒風」なんです。佐藤春夫の「秋刀魚の歌」をご紹介いただき心より感謝いたします。これからも美しい日本語をたくさんご紹介ください。秋刀魚の味って苦いですね。人生そのものの味かもしれません。中国語には「苦尽甘来」(苦が尽きて楽が来る)という言葉があります。苦労をし尽くして気楽な生活が始まるのです。ぜひ「苦尽甘来」という言葉を信じてください。視点を変えれば、世界が大きくなります。私自分自身も苦い味ばかり味わっているくせに、偉そうなことを言ってしまって本当に申し訳ありません。心より厚くお礼申し上げます。

  • IXTYS
  • ベストアンサー率30% (965/3197)
回答No.12

こんにちは。 Awayukiさんの素晴らしい詩を味わいながら読みました。 日本語にはまだ改善の余地はありますが、その詩のこころは天性のものです。 大切にして、大きく伸ばして下さい。  頭は広大な大空を支え 足は偉大なる大地を踏みしめている いかなる雨風が来ようとも、昂然として頭を下げるこをせず いかなる大雪に見舞われても決して屈服しない ああ、偉大なる大樹よ いかなる暴風が吹きすさぼうとも 緑の葉のひとつひとつに物語が刻まれている それは喜びもあれば、苦しみも悲しみもある 偉大なる大樹よ あなたは楽しくても決して笑わず 悲しくても決して泣かない この大地にどれほど深くて広い緑の潤いを降り注いてくれたことだろう それはまさに愛の音樂だ 風はあなたの歌 雲はあなたの足跡 白熱の昼も月光の夜も 私たちのために、限りない幸わせをもたらしてくれる ああ、偉大なる大樹よ あなたは緑の祝福だ あなたの襟足は高く青空にあり 限りない愛はこの大地に深く滲み込んでいる

awayuki_ch
質問者

お礼

 いつもお世話になります。ご親切に回答していただき誠にありがとうございます。この詩は私が作ったものではありません。私がしたのは日本語に訳すということです。このような素晴らしい詩を作る才能を持っていません。でも、この詩がとても好きです。IXTYSさんの優れた詩を拝読しました。「この大地にどれほど深くて広い緑の潤いを降り注いてくれたことだろう」と「あなたの襟足は高く青空にあり」とこの2句が非常に好きです。詩には芯があるのですね。この魂のようなものを大切にしたいと思います。本当にありがとうございました。

awayuki_ch
質問者

補足

1. >いかなる雨風が来ようとも、昂然として頭を下げるこをせず 「こをせず」の「こ」は何でしょうか。 2. >この大地にどれほど深くて広い緑の潤いを降り注いてくれたことだろう なぜ「が」ではなく、「を降り注いてくれた」になるのでしょうか。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.11

#8です。 1、 >「木陰をふりそそがせる」、「木陰がふりそそぐ」、「木陰をふりそそぐ」の中では、どれが文法的にあっているのでしょうか。 :確信は持てないのですが、個人的な感覚としては、「木陰」に対しての「降り注ぐ」という表現はあくまで詩句に限定すべきかもしれません。 木陰は【できるもの(できた結果)】ですから、平叙文で「降り注ぐ」という表現は多分使えないでしょう。 文法的な活用云々という以前の問題になると思われます。 「木漏れ日が降り注ぐ」という表現はあります。 能動的表現をしたい場合は、「影(陰ではなく)を投げかける」などという表現になるでしょう。 詩句としての「木陰がふりそそぐ」は良いと思います。 「木陰をふりそそがせる」「木陰をふりそそぐ」の2点は不自然になるでしょう。 2、 >「笑わなく」で止めることはできません。 >『笑わず』などとする必要があります。 これはなぜでしょうか。 ーーーーーーーーーーーー :わかりません。(^^;) 私もぜひ知りたいので僭越ですが質問を立てさせていただきました。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2912580.html 3、 >「雨風」の読み方を教えてください。「風雨」との違いも教えてください。 :「あめかぜ」です。 意味は変わらないと思いますが、訓読みと音読みで語呂が違うので受ける印象が違うというぐらいでしょうか。 個人的な感覚としては、 「雨風」→雨が主体 「風雨」→風が主体 という気もしています。 ▼{意味はさておき【に】} :『意味はさておき』ですね。 ▼{画龍点瞳} :日本では「画龍点睛(画竜点睛)」と書きます。 しかし、「最後に竜の瞳に筆を入れたところ天に昇っていった」という故事からすると、「画龍点瞳」のほうが適切な表現のような気もしますね。 ▼{田震の曲は「大空と大地の中で」に【もとついた】再編集だと気づきました} :タイプミスだと思いますが『もとづいた(基づいた)』です。 ▼{【もう一つの】十年後自分はどこにいるのか} :『これからの十年後自分はどこにいるのか』 『今から(の)十年後自分はどこにいるのか』 ◇ ・松山千春はあまり好きな歌手ではありませんが、本当に奇遇ですね。 でも、田震さんの声の方がずっと人間味があって魅力的です。 今、また聞いています。^^ 北海道の知事は女性でしたが、この前の日曜日の選挙で再選されました。 松山千春は(間接的に)対立候補を応援していたのですが大差で落選でした。 ・「頂天立地」というのもいい言葉です。 お釈迦さまは、天と地を指差しながら「天上天下唯我独尊」と言いながらこの世に生まれてきたという伝説がありますが、何かつながりがありそうですね。 因みに私は特定の宗教に加わってはいません。  

awayuki_ch
質問者

お礼

 ご返事ありがとうございました。「木陰がふりそそぐ」は詩の中でいいんですね。「【陰】を投げかける」とは言わないんですね。涼しすぎて寒い感じが伝わってきました。大変勉強になりました。「動詞『ない』の連用形『なく』は、習慣として中止法には用いられない」と要点を提示していただきありがとうございました。助かりました。「雨風」はよく理解できました。「画龍点睛(画竜点睛)」の「睛」は日本語にない漢字だと思って、勝手に「瞳」にしました。「睛」は「眼睛」(目)の意味です。「瞳」は文学の香りが漂う字ですね。質問文の添削にも感謝いたします。「もとついた」はミスではありません。「天上天下唯我独尊」はお釈迦様の言葉なんですね。二回目この言葉を拝見したのですが、やっと出典はわかりました。田震の歌はこの一曲しか聴いたことがありません。歌声からすると、なんだか中島みゆきのような強い女性の感じがします。個人的には非常に親近感を持つ日本の歌手は熊木杏里です。たぶん田震とはぜんぜん違うタイプだと思います。こちらで試聴できます。http://www.9911.com/singer/4538

awayuki_ch
質問者

補足

>「【陰】を投げかける」とは言わないんですね。涼しすぎて寒い感じが伝わってきました。大変勉強になりました。 どうも私の日本語はまた変に聞こえるような気がします。これはhakobuluさんへの言葉ではありません。ご安心ください。

  • zephyrus
  • ベストアンサー率41% (181/433)
回答No.10

わっ、楽しそう♪こんな楽しい質問があったなんて。 あいにく中国語、まったくわかりません。 質問者さんの訳詩をたよりに「潤色」「意訳」(ついでに改悪)してみました。 ご笑覧ください。  あたまの上に空をかかえ  脚で大地をだきしめる  あめかぜにむねをさしだし  吹雪のつぶてもなんのその  きみよ、大きな樹  吹きすさぶ嵐のなかでも  みどりの葉むらはものがたる  喜びや悲しみや苦しみを  楽しいからって笑わない  悲しいからって泣きださない  日照りの大地に陰をこしらえ  それは一つのフォルテの音符  ゆすらす風に歌をつむぎ  空ゆく雲に思いをたくす  陽のさす昼も 夜の闇でも  人びとを幸福でうるおすために  きみよ、きみよ、大きな樹  みどり葉さざめく祝福よ  きみはいつでも青空に立ち  根は土深くやさしくひろがる

awayuki_ch
質問者

お礼

 いつもお世話になります。ご親切に教えていただき誠にありがとうございます。中国語がわからなくても構いませんよ。素晴らしい詩を拝読しました。「ゆすらす風に歌をつむぎ 空ゆく雲に思いをたくす」という句が一番好きです。笑覧なんてかなり難しいですよ。みっともないですね。本当にありがとうございました。大変参考になりました。いつでも遊びにいらっしゃってください♪。

  • gekkamuka
  • ベストアンサー率44% (138/309)
回答No.9

「潤色も歓迎」との広い言葉に励まされて、素敵なこの詩に肖ってみました。 梢は揚揚と雲を衝(つ)き 根は蜿蜒と地を腹這(はらぼ)う 昂然として寒風に立ち 灼熱に曝されなお超然 千年の大木ここにありて、 辺りを巡り両手を廻して抱(いだ)いてみる。 「ああ、本当に太い幹だなあ」 仰いだ天に広がる幾千万もの緑の葉群(はむら)、 幹を抱きつつその大いなる枝振りには抱かれている。 「ああ、本当に大きな木なんだなあ」 天蓋を成すその青葉は止め処なくさわめいている。 その一葉ごとが告げるその青きさざめきは千年の広がり。 そして千年の緑として残された無数の喜怒哀楽、その沈黙(しじま)。 喜びにはキラキラと風光り、悲しみにはソヨと木漏れ日落とし。 「大地にどれほどの緑の日足(ひあし)が降り注いだことだろう」 その一指(ひとさし)ごとに奏でられる慈愛のメロディー。 聞こえて来る風はあなたの歌、流れて行く雲はあなたの調べ。 明日(あした)に夕方(ゆうべ)に、並(な)べてに幸あれかしと。 「ああ、本当に大きな木なんだなあ」 天蓋を成す青葉、降り注ぐ緑の日足、 祝福のアンサンブルの主旋律は永遠(とことわ)。 あなたの願いは蒼穹にそよぎ、 あなたの思いは玄地にみなぎる。 「ああ、本当に大きな木なんだなあ」 「ああ、本当に大きな愛なんだなあ」

awayuki_ch
質問者

お礼

 いつもお世話になります。すごく感動されました。もう言葉には出来ません。涙が……。私の好きな表現はいっぱいです。月下無可さん、本当にありがとうございました!!

awayuki_ch
質問者

補足

1. >腹這(はらぼ)う 「harabou」と読むのでしょうか。辞書には「はらばう」しか載っていません。「harabou」は古風なんでしょうか。 2. >千年の大木ここにありて 「ありて」は現代語の「あって」でしょうか。 3. >幸あれかしと どうもまた古典と関係があります。「幸」は何と読むのでしょうか。「幸あれかしと」はどういう意味でしょうか。 4. >玄地 何と読むのでしょうか。また、意味は何でしょうか。「玄米」ならわかるのですが。

回答No.7

 awayuki_ch さんの日本語はかなり自然で美しいですし、他の回答者のみなさんもいろいろ書いていらっしゃるので、追加するほどの内容も別にないのですが、せっかくなので自分もやってみました。  その頭に天を抱きとめて、(頭>カシラ)  その蹠に地を踏みつける。(蹠>アシウラ)  あらしには、高らかと伸びをする。  ふぶきにも、絶えて服すことがない。  ああ、なんという大きな木だろう。  どんなに風が吹き狂おうと、  青葉に数かぎりない物語が残る。  汲めども尽きせぬ、喜びと苦しみ。(汲め>クめ)  楽しい時にも笑うことなく、  苦しい時にも泣くことがない。  木陰はどれだけ地に作られたろう。  それはあたかも愛の音符だ。  風はあなたの矜持を歌い、  雲はあなたの歴史を刻む。  白昼にも運ぶ、暗夜にも運ぶ。(暗夜>アンヤ)  人々のための幸福を。  ああ、なんという大きな木だろう。  これはみどりの祝福なのだな。  あなたの襟懐は青空にあり、  はてない慈愛は土ふかく根差す。  「蹠(あしうら)」という漢字はあまり使われませんし、アシウラと読ませるのも古風です(普通は「足の裏」です)。ただ、出だしなので、頑張って対句にしてみました。「カシラニテンヲ」と「アシウラニチヲ」で、リズムも合います。「蹠」が古風なので、対になっている「頭」も、カシラという古風な読みにしてみました。中国語って、対句が作り易い言語で良いですよね。  「青葉」は緑色の葉のことです。ちなみに、日本語の「あお」には、青色と緑色という、二種類の意味があります。  「汲めども尽きせぬ」は慣用句で、「どれだけ汲んでも尽きない」つまり「無限にある」という意味です。  「作られたろう」は「作られただろう」と同じです。  「黒夜」という表現は、日本語にはありません。まあ、造語だと考えて、使っても悪いことはないのですが、よく使われる「暗夜」という表現になおしておきました。  そんな感じです。まあ一例として、参考にしてみてくださいませ。

awayuki_ch
質問者

お礼

 いつもお世話になります。ご親切に回答していただき誠にありがとうございます。本当に雲泥の差です。恥ずかしいです。特に、「頭に天を抱きとめて」、「蹠に地を踏みつける」、「高らかと伸びをする」、「吹き狂う」、「青葉」、「数かぎりない」、「汲めども尽きせぬ」、「風はあなたの矜持を歌い」、「雲はあなたの歴史を刻む」、「白昼にも運ぶ、暗夜にも運ぶ。人々のための幸福を」、「土ふかく根差す」などの表現は大変参考になりました。日本語にも対句があるんですね。大変興味深く拝読しました。漢詩のよく使う手法です。夏目漱石は当て字の名手だと前回教えていただきましたね。杜甫は対句の名手です。「矜持」や「暗夜」の中日の表現の違いに気づきとても面白いと思います。本当にありがとうございました。

awayuki_ch
質問者

補足

1.「ふりそそぐ」という単語がとても好きなので、「木陰がふりそそぐ」を濫用しました^^。お伺いしたいのですが、意味はさておきに、「木陰をふりそそがせる」、「木陰がふりそそぐ」、「木陰をふりそそぐ」の中では、どれが文法的にあっているのでしょうか。 2. >あらしには、高らかと伸びをする 「高らかと」は「高らかに」にする必要があるのでしょうか。 http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%B9%E2%A4%E9%A4%AB&search_history=%C2%D0%B6%E7&kind=jn&kwassist=0&mode=0&jn.x=41&jn.y=13 3. >風はあなたの矜持を歌い 「矜持」には二つの読み方があるようです。ここは何と読むのでしょうか。 また、面白いことを見つけました。tani_roheiさんはおそらくプラス表現のつもりで、「矜持」をお使いになったでしょう。実は、中国人はもしこの日本語を読むと、ここの「矜持」に「あれ?」という感じが生じるかもしれません。辞書を調べたら、中日表現の違いに気づきました。中国語は「矜持」を普通マイナス表現とされています。次は中国語の「矜持」の使い方です。 矜持(jin1 chi2)=かたくなる。四角ばる。 例:彼女は壇上に立つと、いつもと違って、話しぶりが少しぎこちなくなった(日本語の「きょうじ」と違い、誇りという意味はない点に注意) でも、読者は日本の方なので、問題ないですね^^。

  • 15baby
  • ベストアンサー率28% (57/202)
回答No.6

綺麗な詩で感動しました。 しいて言えば気になるのは・・・ >「雲はあなたの足取だ。」 ここかな? >頭で空を支えており、 >足で大地を踏んでいる。 「支え」と「踏む」の良いバランスを考えると、 >風はあなたの歌であり、 >雲はあなたの足取だ。 「歌」に対して「足取」 文字数で言うと「足取」→「道」みち 言葉の音を優先すると「足取」→「軌跡」きせき 平仮名にすると読み手が自由に漢字を想像し、とらえ方も広がる。 「道」→「未知」 「軌跡」→「奇蹟」にもなる。 平仮名にするのなら、上の「歌」も「うた」に変えると、 「歌」だけでなく「詩」「唄」「唱」と読み手の想像が膨らむ。 「あなたの」が平仮名だから[ウタ][ミチ]と一部カタカナにするのも 「襟懐」と「仕舞い込んでいる」の表現は好きだ。 (青空)上を向いていれば心に気づくが、 (大地)下ばかり向いていても、愛には気づかない。ちょっと違うか・・ (仕舞い込む=簡単に見つからない)こんな勝手な解釈をしてみました。

awayuki_ch
質問者

お礼

 早速ご親切に回答していただき誠にありがとうございます。平仮名にすると読者に自由に想像させる役割があるのですね。大変参考になりました。中国語には「頂天立地」(全世界を背負って立つ<堂々たる英雄の気概を形容することば>)という言葉があります。最初の二文はたぶんこの四字熟語から転じたものだと思います。天地の二層の間に体をしゃんと伸ばし、真っ直ぐ空にそびえている生き方を想像できます。この詩はこのような生き方をしているものの無償の奉仕や愛を詠っていると思います。本当にありがとうございました。

noname#44623
noname#44623
回答No.5

n.4です どれほどの緑の木陰を降り注いできたのだろうか。 ↓ どれほどの木陰を与えてきたのだろう の方が良いかな。 日は降り注ぎますが、陰は与える方が自然かと思います。

awayuki_ch
質問者

お礼

 再びご親切に回答していただきありがとうございました。「与える」のほうが自然なのですね。

awayuki_ch
質問者

補足

「ふりそそぐ」という単語がとても好きなので、「木陰がふりそそぐ」を濫用しました^^。お伺いしたいのですが、意味はさておきに、「木陰をふりそそがせる」、「木陰がふりそそぐ」、「木陰をふりそそぐ」の中では、どれが文法的にあっているのでしょうか。

noname#44623
noname#44623
回答No.4

空を頭で支え、 大地を足で踏みしめる。 風雨の中でも昂然と頭をもたげ 吹雪ににさえも屈服せず。 ああ、偉大なる樹よ。 いかなる狂風が吹きすさもうとも 緑の葉には無数の物語が残る。 喜びも、苦しみも同化させつつ。 楽しい時に笑わず、 悲しい時にも泣かず どれほどの緑の木陰を降り注いできたのだろうか。 愛の音符を奏でながら。 風はおまえの歌となり、 雲はおまえの足跡となる。 白昼も黒夜も、 人々に幸福を与えつつ。 ああ、偉大なる樹よ。 緑色の祝福よ。 おまえの襟懐は青空にあり、 限りなき愛情は土に染み込まれていく。 ************************* 足取の意味を計りかねたのですがステップという意味の足取りと解釈しました。 詞のリズムっぽくなるようにしてみましたが、如何でしょうか。

awayuki_ch
質問者

お礼

 早速ご丁寧に回答していただき誠にありがとうございます。「踏みしめる」、「もたげる」、「愛の音符を奏でる」、「足跡」、「染み込まれていく」などの表現はいいですね。大変参考になりました。「足取」についてですが、たとえば、「純白の雪上を一匹の猫が通っている。猫の後ろに梅のような小さな( )がいっぱい咲く」という文があるとします。( )の中に入れる単語が「雲はあなたの( )」の中に入れたい単語だと思います。「足跡」なのでしたね。本当にありがとうございました。

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