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人間は自ら言語を生み出す力を持ってますか?
人間は一般には、親などの既に言語を習得している人から言語を習い覚えます。しかし、もし、そのように予め言語を習得している人がいなかった場合、人は自ら言語を生み出す能力を持っているのでしょうか? 常識的に考えると、初めは「あー」とか「ウー」とか言っていたのが、段々、単語が増え、文節ができ、何万年か経つうちにちゃんと文法構造を持った言語ができてきたと考えるのでしょうが、本当にそんなことが起こり得るという何らかの実証的あるいは理論的裏づけはあるのでしょうか?
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お邪魔します、#4です。 >その未発達言語を使っている人種の子供を、 人種による違いはありませんから、日本人と同じですね。 それより、少し面白い、アイデアが閃きましたので、書いてみます。 >文法構造を持った言語ができてきたと考えるのでしょうが、 >本当にそんなことが起こり得るという・・・ 一般的に、知識や科学の発達を眺めてみると、意外とわれわれの認識が、逆転していることが多いですね、地動説と天動説、在るから見えるに対して、見えるからある、私と言う根拠に対して、コギトから、他者や外部への依存、等々、これらの例は、一部、定説ではありませんが、この可能性を言語の文法に当て嵌めてみると、 「文法は、思考の内部で作られるのではなく、外部の環境のなかにある」と われわれの言語は、比較的正確に、廻りの状況を説明できますが、其の為には複雑な文法が必要です、複雑な文法を、何も無い所から、作り出したとすると理解に苦しむことがあります、しかし、言語が正確に状況を表現できると言うことは、言語が正確に状況を写し取っている、と言えるのではないのでしょうか。つまり、文法は、無から意図的に作り出されたと考えるのではなく、自然の摂理、この場合は、物の物理的因果関係と、他者との関わり、と言った社会的因果関係のなかに、文法の根拠があるのではないでしょうか。 私も、言語関係の本は少しは読みますが、こんな説は聞いたこともない! チョムスキーの「生成文法」との関連はどうなるのか? ご質問者様や、他の回答者様の、緻密なご批判が聞けると面白いかな。 ところで、少し批判的になってしまって、申し訳ありませんが、 言語の起源を語るときに、 発話される「言葉・パロール」と「ラングとしてのシニフィエ」を分節せずに、単に、発話の起源だけに注意を向けているような気がしますが、例えば、右と左と言う言葉が発生する為には、各自が右と左と言う意味合いを理解している必要がありますが、この辺りの因果関係や後先を考察するのも役立つのではと、老婆心ながら、つい、書き込んでしまいました。 もう一点、申し訳ありませんが、#15様の補足を拝見すると、やはり発話される言葉に関心があるように見受けられます、このような疑問は、どちらかと言うと、ヒンジ・クレオール・方言・或い若者言葉と言った、ある種特殊な、会話技術と言った様相になりますが、どうでしょうか。 ある社会人類学者が、アフリカでの夫婦の研究生活の感想で、「二人だけでいるとほとんど日本語を話す必要がなくなる、話さなくても解ってしまう」と書かれています、この例だけでは特殊かもしれませんが、ともかく、「言語」の発生は、一世代の問題ではなく、百万年以上の単位の、骨格の変化による多彩な音声の発話能力(サルにはある種の母音が発話できない)の発達、数十万単位の集団生活の複雑化、このような、人間生活の環境と人間の脳のなかの構造の「比例関係」と考えると、面白いのかな。 半分ぐらい、批判的な回答になってしまいましたが、 「しかし、積極的な意味で私の敵である人、私が生きている平面に入ってきて、その内部で私と戦う人、その人が最高の意味で私の味方である。」G.ジンメル
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- awayuki_ch
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No.19です。補足とお礼をありがとうございました。 >「屋子」と「房間」の違いは童話の例が出てきたので、何となくわかるような気がします。「屋子」は、日本語では「お部屋」という感じでしょうか。 「屋子」はなんだか暖かい感じがします。たとえば、森の中の木小屋で、白雪姫は7人の小人と楽しい充実の毎日を送っていますとか。「お部屋」の雰囲気に似ているかもしれません。「お部屋 童話」をキーワードで検索してみたら、「童話のお部屋」という例が出てきました。私ならたぶん「童話小屋」のように訳します。 「房間」というと、「物欲横流」の現代社会を思い浮かべます。 >「選挙結果存在舞弊問題」は、「選挙結果有舞弊問題」と言うことはできますか? もし出来るとすれば、「選挙結果有舞弊問題」では、「選挙結果」の後に「里」が必要なく、「屋子里有行李」の場合は「屋子」の後に「里」が必要な理由は何でしょうか? 「選挙結果有舞弊問題」は通じるは通じるのですが、どうもおかしいです。理由がよくわかりません。 「選挙結果」が抽象的なものなので、「里」を言わなくても、「里」を指すことになるのではないかと思います。それに対して、「屋子」の場合は「里」のほかに、上下、前後左右、東西南北などいろいろな方向もあるので、限定しないと、ものがどこにあるのかわからなくなりました。 >「屋子里有行李」に関して、「在屋子里有行李」は間違いですか? 言わないような気がします。前回の「城ヶ島の磯に利休鼠の雨がふる」(城島的海辺下着灰緑色的雨)に似ている質問ですね。「場所(+方向)+有+もの」のような構造だと思います。文法の説明がよくわからないので、これくらいにしたいと思います。 >「行李在屋子里」に関して、「行李有在屋子里」は間違いですか? 「行李有在屋子里」は間違いだと思います。文法の説明ができないので、申し訳ありません。 >我心里不存在任何迷惑。 >他心里存在堅定的信念。 「迷惑」はどうも違和感を覚えています。中国語の「迷惑」は名詞として使わないような気がします。普通、動詞として使われます。意味も日本語と違って、「1.惑う。迷う。とまどう。2.惑わす。惑わされる」の意味です。「疑惑」のほうが自然なような気がします。ほかは正しい中国語の文になっています。でも、意味はよくわかりません。私の例が誤解を招いた文になっていないように願います。 >記憶が確かではありませんが、何とかと言う名の昔の人が漢字の元型を発明したのを皇帝が採用したのが初めだったとか聞いたように思います。多分、これは伝説であって実際にあったことではないかも知れませんが、漢字やその元となる文字は、どのような経緯で生まれてきたと考えられているのでしょうか? 大変恥ずかしいですが、漢字の歴史はほとんど歴史の先生に返してしまったようです。覚えているのは二つです。一つは「甲骨文」は中国ですでに発見された文字の中の一番古い文字です。もう一つは秦の始皇帝は文字を統一しました。最近、頭を使いすぎてちょっと疲れました。気が向きましたら、私も一緒に漢字の歴史を勉強させていただきます。ご参考にならなくて申し訳ありません。
お礼
ご回答ありがとうございました。 人が話す言語は理屈ではないので、慣れるしかなくて、難しいです。 コンピュータ言語みたには行かないですね。
- fishbowl66
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>現在の人類(現在の人類の遺伝子を持った人間と言っても良いと思いますが)が、 ”言語を教わる経験なし”に言語を生み出す能力があるかというものです。 質問文の後半から、前半の部分をウッカリしていました。 成る程、そう言う事ですか、この件は、私には、わかりません。 いままでの回答は、質問の後半から、言語の起源に関することでした。 大変失礼しました、ご検討をお祈りします。 PS #16の回答の「ヒンジ」は「ヒジン」の誤りでした、ゴメンナサイ。
お礼
たびたび、ご回答ありがとうございました。
#20です。 たとえば安倍晋三氏は 《子供たちの世代が自信と誇りを持てる「美しい国、日本」の実現に向け》て尽力したいそうです。 安倍氏があるいはわたしたちの誰でもいいわけですが 人がもし現状に《自信と誇りを持て》ないとすれば それは《我れが我れである》と言えない状態にあると定義することにしましょう。 言いかえると 単なる記号として《我れ》なり《自己》なりを使っていてもいいわけです。 記号あるいは まじないの如く 《我れは 我れでありたい》と言うとき そこに 言語活動があるという意味です。あるいは 実際に分節された言葉を使っていなくとも そのような思いと意志の行為があれば 言語行為だと考えられます。個人による違いがあってもです。 以上のことがらは 《歴史や地域による差異 あるいは 社会体制的必要性》の影響を受けているでしょうが その影響にかかわらず起こる人間のいとなみだと考えます。
お礼
言語活動にも色々な定義があり得ることがわかりました。ご回答ありがとうございました。
Q:《人間は自ら言語を生み出す力を持ってますか》 A:人間は 言語を使用する能力を持つ あるいは 言語能力を発達させる能力を持つと考えます。 生物としての人間の存在は 自分が生み出すものではないので 《言語を生み出す》とは言わないと思います。 存在(子)が生まれ出るための行為をおこなうのですが 生み出す力は もともと備わっていますから それと同じように 言語能力も備わっているのだと思います。 Q:《何らかの実証的あるいは理論的裏づけはあるのでしょうか?》 A:《実証的あるいは理論的裏づけ》は 上に述べたことに関して 申し訳ありませんが 持ち合わせていません。その情況説明でしたら 次のように考えます。 はじめに命題のかたちで述べるならば 《人間は まちがったとき・まちがったと気づいたとき さらにあるいは 欺かれたと気づいたとき 我れに還り その存在が存在である》と捉えます。 この意味は 《存在が存在である あるいは 我れが我れである》というとき――つまり そのように自己還帰を求めてそれに努めるとき―― そこに言語能力が芽生えてきており すでに言語表現が始まっているという情況のことです。 おそらくこのときすでに言語(ラング)を使用しており 発話や文字による伝達はなくても 言語能力は ほぼ完成されているのかも知れません。 さらにこの試行錯誤の体験をとおして まさにその過程として 言語経験をゆたかなものにしてゆくと捉えます。 人間は 本能〔だけ〕で行動するわけではないので このような試行錯誤といった自己表現もしくは自己実現の行為があり そこで言語が用いられるのだと思います。 もしたとえば猿などが 本能だけによるのではなく また 単なる学習の過程だというのでもなく 自分自身がまちがいを侵したと気づき そのために思考するのだとすれば その思考は 人間と同じ言語能力とその使用だと考えます。 言いかえると 極端に言って 《我れ考える ゆえに我れあり》という行為が 自分自身の存在にかかわる欺きだとか過ちだとかに気づくことのない思考作業のことを言っているのだとすれば その言語行為は 人間だけにゆるされ備わった能力によるものではないように思われます。 *この応答を すでに途中からでしたが 興味深く読ませていただきました。さらになお別の一つの視角が 以上のようにあるのではないかと思って 投稿しました。
補足
ご回答ありがとうございました。 なかなか難解なご回答で、充分理解できたかどうか自信がありませんが、関連して感じたことを書かせていただきます。ちょっと的外れかも知れませんがご容赦を。 「自己」という概念は、歴史的、地域的な影響と社会体制的必要性から生まれた一つの「発明品」だと思います。従って、歴史的経緯の違いと地域的差異があれば、「自己」という概念を持たない「人間集団」は充分に存在し得るのではないかと思います。日本でも江戸時代に「自己」という概念が本当にあったのかどうか、私は疑っています。と言うか、極端に言うと、現代日本ですら、「自己」という概念は本当に実在しているのでしょうか? 古代ギリシャやキリスト教の影響下で育まれた文化の伝統がない環境で、「自己」という概念が本当の意味で生まれることはないような気がします。例えば、《我れ考える ゆえに我れあり》の《我》は、日本人が考える《我》(人によって違いますが、総じて)とは全く異なったものではないかと思います。従って、《我れ考える ゆえに我れあり》の《我》が、人類共通の《我》概念だとはとても思えないのです。 それで、当初の「言語を生み出す能力」についてですが、一つの可能性は、「言語」は「発明品」ではないかということです。「発明品」であれば、「発明できる人」と「発明できない人」がいるように思います。例えば、「文字」の例だとわかりやすいかも知れませんが、「文字を発明できる人」と「文字を発明できない人」がいるのではないでしょうか。あるいは、現代人は「言語を発明する能力を既に失っている」という可能性もあるように思います。盲腸のようなものとして、「言語発明能力」を考えることはできないでしょうか?
- awayuki_ch
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こんばんは。哲学がぜんぜんわからないものでございます。No.2926666のご質問に回答を書きましたが、すでに締め切りになってしまったようで、人間の言語という共通点もあるので、こちらに投稿させていただきます。「存在」の例文を書いたので、ご参考になれば幸いです。 まず、「屋子」と「房間」は確かに両方「部屋」の意味なのですが、「屋子」は日常であまり使わないような気がします。童話を読みすぎる人は「屋子」という表現が好きかもしれません。 >中文ニュースで、「選挙結果存在舞弊問題」という文がありましたが、この文は正しいのでしょうか? 正しいです。 >もし、正しいとすると、「部屋に荷物がある」は「屋子存在行李」で良いのでしょうか? 間違っています。「屋子里有行李」が正しいです。 >また、「在屋子里存在行李」や「行李存在屋子」は間違いですか? 間違いです。正しい言い方は「屋子里有行李」、「行李在屋子里」です。また、「が」と「は」の違いに似ています。「屋子里有行李」の「行李」は不確かな「行李」で、「行李在屋子里」は特定された「行李」のことです。簡単に言えば、次のような感じです。 ・場所+有+もの=場所にもの【が】ある ・もの(特定なもの)+在+場所=もの【は】場所にある 「存在」は抽象的なものに対して使うような気がします。硬い言葉です。 「存在」を使って例文を作ってみました。 ・我無法判断他的話是否存在huang3言。 ・我不知道童話世界以外是否存在真正的愛。
お礼
このスレに直接関係することとしては、中国での文字の発明がどのように行われたのか興味があります。 記憶が確かではありませんが、何とかと言う名の昔の人が漢字の元型を発明したのを皇帝が採用したのが初めだったとか聞いたように思います。多分、これは伝説であって実際にあったことではないかも知れませんが、漢字やその元となる文字は、どのような経緯で生まれてきたと考えられているのでしょうか?
補足
締め切り後にも関わらず、ご丁寧なご回答ありがとうございました。 >童話を読みすぎる人は「屋子」という表現が好きかもしれません。 「屋子」と「房間」の違いは童話の例が出てきたので、何となくわかるような気がします。「屋子」は、日本語では「お部屋」という感じでしょうか。 >「選挙結果存在舞弊問題」は正しい、「屋子存在行李」は間違っている。 「選挙結果存在舞弊問題」は、「選挙結果有舞弊問題」と言うことはできますか? もし出来るとすれば、「選挙結果有舞弊問題」では、「選挙結果」の後に「里」が必要なく、「屋子里有行李」の場合は「屋子」の後に「里」が必要な理由は何でしょうか? >「屋子里有行李」、「行李在屋子里」 「が」と「は」の違いと考えるとわかりやすいですね。これに関連して質問があります。 (1)「屋子里有行李」に関して、「在屋子里有行李」は間違いですか? (2)「行李在屋子里」に関して、「行李有在屋子里」は間違いですか? >「存在」を使って例文を作ってみました。 以下の文を真似して作ってみました。これは、正しい表現ですか? (1)我心里不存在任何迷惑。 (2)他心里存在堅定的信念。
- fishbowl66
- ベストアンサー率29% (36/121)
怖いですね、やっぱり、言語と思考の関係ですね。 私は素人ですから、中々上手く説明できません、 kobareroさんの、補足にあわせて、考えてみます、文字数が無駄に多くなりますがお許し下さい。 >これは、大変興味深いご指摘です。私が不思議に思うのは、「パロールを持たない人類がいて、でも、高度な思考能力は持っている」ということがあり得るかという疑問です。あるいは、「シニフィアンを持たない人類がいて、シニフィエだけ持っている、すなわち、シニフィエなきシーニュを持つ人類の発達段階というのが実在したか」と言う疑問です。私は、シニフィアンがなければ、シニフィエも発達できないように思います。もし、そうだとすると、言語(ここでは、シニフィアンの意味)を持たない人類は、犬、猿なみの思考しかできなかったのではないかという疑問に取り付かれるわけです。どう思われますか? ここの部分は、誤解ですね。 Q&Aの中で、言語の習得を言語の起源と同様にお考えになっているとは思いませんが、少々紛らわしい部分もあって、そこは、回答に対する反応と言う部分もありますが、起源について語るときに、親から子供が言語を習得することは、まったく別と言うことを確認する程度です。 「言葉・パロール」と「ラングとしてのシニフィエ」の分節です、子供の言語の習得は、主として、パロールから直接シニフィエにつながって、物の名前を覚えます、つまりすでに言語が出来ているわけです。 言語の起源は、先に、シニフィエがあるのではと、想像するのです、理由は、記号より後に内容が発生するのは、言語が発達した後のことではないのかな、と言った理由です。 >これは、私の疑問に非常に関係あるのですが、「言語の発生のためには、何世代にも渡る進化が必要だった」のか、そうではなく、「既に進化は完成(言語にとってという意味)していたのだけれど、なおかつ、言語が発生するためには何世代もの時間が必要だった」のか、そのどちらの意味か、あるいは、両方かという疑問です。後者の場合だと、現代人類でも、言語のない状態からスタートすると、言語が発生するまでに、何世代(何万年?)もかかるのかという疑問です。 この部分に関しては、両方とお答えしておきますが、「言語のない現代人」こういう表現は現実にはないのではないですか、進化は不可逆的に進行していますから、言語のない人間はと言う表現は理論的におかしいと言えるほど、人間と言語は分離不可能な関係かと思います。 言い方を変えると、例えば人間がいて、言語が別の所に在る、と言うより、人間と言語がお互いに影響しあって双方が変化していく、これは、道具にしても社会生活の複雑化にしても同様で、片方に完全な形の人間、或いは言語をおいて、反対側に、その影響で変化する事項をまた固定してしまっているような印象を受けてしまいますが、如何でしょうか。 恐らく、一番の問題は、言語と思考の関係だと思いますが、 この件、少し書いてみたのですが、やはりまだ、以前お話させていただいた以上のことはまだ整理できませんね。言語の起源も、最初に素人が想像を勝手に書いていますが、それ以上は中々厄介です。 たまたま、困ったときに参考にしているページに、新しい本が出ていました、そちらの方がお役に立つのでは、尤も、自分が読んでいない本を紹介するのは、無責任なのですが、今年の一月に出版ですから、結構、新しい事が解るかも知れません。 また何か思いついたら、お邪魔するかもしれませんが、当てにはなりません。
補足
ご回答ありがとうございました。 >ここの部分は、誤解ですね。 確かに、私の文を読むと、原始の人間の言語能力について言っているかのように受け取られそうですね。でも、私の本来の質問は、現在の人類(現在の人類の遺伝子を持った人間と言っても良いと思いますが)が、”言語を教わる経験なし”に言語を生み出す能力があるかというものです。 >「言葉・パロール」と「ラングとしてのシニフィエ」の分節です、子供の言語の習得は、主として、パロールから直接シニフィエにつながって、物の名前を覚えます、つまりすでに言語が出来ているわけです。 パロールがあるということは、誰か既に言語を”話す”人がいて、その人から言語を習う場合の話ですね。従って、シニフィエは、”既に言語を知っている人”から学習するわけですから、誰も教えないのに、子供の頭の中に勝手に出来上がってくるということではないと思うのですが。確かに、犬猫でも認知できるようなもの(食べ物や母親など)に関すシニフィエは言語を教えなくても自然発生するかも知れませんが、机、イス、正午、朝、昼などは、言語を教わらなければ、文節できないのではないかと思います。わかり安い例で言えば、民主主義、平和、愛、保護などに相当するシニフィエは、言語習得(パロール/シニフィアン習得)なしでは、自然には決して生成されないと思います。 >「言語のない現代人」こういう表現は現実にはないのではないですか、 おっしゃるとおりだと思います。現実にあるとすれば、私の頭の中には狼少年の例くらいしか思い当たりません。また、人道上の問題から実験も出来ないので、あくまで、仮想的な質問です。ただ、広い世界の中には、不幸にして言語を欠いた環境で育った人間がいないこともないようには思いますが、とりあえず、実験なしで、理論的推論しかできないと思います。 >人間と言語がお互いに影響しあって双方が変化していく、これは、道具にしても社会生活の複雑化にしても同様で これも、おっしゃる通りだと思います。ただ、それは、「現実」がそうだという話であって、「仮想的に言語のない世界で育った場合どうなるか」の答えにはならないように思います。 仮想質問なので、これ以上探求するのは、無理ということかも知れませんね。
ご質問の趣旨は意味論的普遍性がひらけるかどうかということではないでしょうか? つまりサリバン先生がいらっしゃらなかったらヘレンケラーは「water」というシンボル的表現を獲得することが出来なかったということです。 せいぜい蜂のダンスのようなイコン的表現のみが可能で、狼少女のような状態が続いたと思います。
お礼
ご回答ありがとうございました。 「意味論的普遍性」の意味があまりよくわかりませんでしたが、サリバン先生が一人もいない人類があったとすれば、結局、集団狼少女状態が続くだろうというのは、私も同感です。
- shift-2007
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回答にになっているかどうか。 耳の聞こえない人は言語を発することが難しいですよね。しかしちゃんと思考しているし、手話という方法で意思の疎通を行っています。 ”言語を生み出す”というのとはちょっと違うかもしれませんが、自分の中にある気持ちや意思を他人に伝える方法の一つとして、音を使った言語という便利な道具を使っているだけの気がします。 No8の方のご回答を私も興味深く拝見しましたが、誰でも同じじゃないかと思いました、言語よりも早く考えが浮ぶはずです。それがほぼ同時に発生するために言語で考えていると錯覚するのではないでしょうか。言語化するのは自分の考えを客観的に見るためのような気がします。思考と思考する人でしょうか。
補足
ご回答ありがとうございました。 私の質問が”現実性がない”ために、回答が難しいのかも知れません。それで、もう少し具体的な状況を考えてみました(以下で、言語とは、手話も含めた広い意味の言語です)。 (1)言語を話したことがない大人が一人で森の中で生活したら、言語を生み出せるだろうか? (2)言語を話したことがない大人が二人で森の中で生活し始めたら、言語を生み出せるだろうか? (3)言語を話したことがない大人に育てられた一人の子供は、言語を生み出せるだろうか? (4)言語を話したことがない大人に育てられた二人の子供(兄弟)は、言語を生み出せるだろうか? まず、(1)の場合ですが、一人の場合は、言語を話す必要性がないので、言語は生まれてこないのではないかと思います。(2)の場合は、大人になると言語習得機能が劣ってしまうので、言語を新たに生み出すのは非常に難しいように思います。いや、そんなことはないという意見は当然あると思いますが、これに対する反論は、狼少年の例です。狼少年は2-3年言葉を教えても、結局、言葉をほとんど覚えられなかったと言われています。狼少年の話はウソだったという話もありますが、そうだしても、逆に、幼少期に言葉を全く覚えなかった子供が、大人になってから言葉を覚えたという実例があるのかとなると、それも不明なように思います。(3)の場合も狼少年と近い状況だと思います。 言語が新たに生み出される可能性がもっとも高いのは(4)の場合だと思います。ただ、その場合の具体的なプロセスが今ひとつピンと来ません。言語がなくても思考ができるという考え方があるのは、よくわかりますが、その思考というのは、決して高度な思考ではないと思います。言語がない場合の人間の思考は、犬や猿でも持てるレベルの思考ではないかと思います。それでも、言語は生み出せるのか、ちょっと疑問があります。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
#13です。 >質問: 回答12で、言語はどういう必要があって生み出されたのでしょうか? :「今日はウサギが食いたいから、西の山へ狩りに出かけよう。たしか、槍先が鈍くなっていたはずだから少し早めに起きて研いでおいたほうがいいな。」 ということを【誰かに伝えたい】という欲求、あるいは必要性です。 (複数の人間がいれば言語は自ずと生まれるのではないかということです) 空に浮かんでる雲を見て、 「なぜあんなに白く光っているのだろう」と『不思議に思う』ことは言語がなくてもできるでしょうが、 人間というのは、このような疑問を私は抱えている、ということを誰かに伝えたい欲求を持つようにできているのではないか、ということです。 (言葉を知らない人間はこのような疑問を持たない、とお考えになっているわけではありませんよね。) エネルギーの湧出とはそういう意味ですし、言語は人間の属性、と述べたのもそういう意味です。 >犬は主人を見ると識別して喜ぶから、犬は「主人」という言葉は持たないけど、「主人」という概念を持つ。あるいは、猿は台の上に乗って、棒でバナナを叩き落とすから、猿は言葉は持たないけど、「台」、「棒」、「バナナ」の概念は持つと考えるわけですね。そうだとすると、犬や猿も思考していると考えられるし・・・ :同じ「ワン」でも彼らなりに識別できる意味があるはずなので、広い意味で言語を持つと解釈することは可能だと思います。 猿(やカラスなど)もそうですが、何らかの欲求に基づいての判断がある以上、彼らなりに思考しているはずでしょう。 ただ、「何らかの欲求」と「本能的な欲求」とは区別する必要があると思います。 蚊が人間の血を吸いにくるのは思考しているわけではないはずです。 クオリアだけでも思考は可能でしょうが、伝達するためには言葉が必要になる、といったところではないでしょうか。 言語を発する脳の仕組みが「ワン」だけではないように作られているのが人間なのでしょうから、必要性(欲求)があれば言語を獲得できるはずだと思います。 自動車組み立て工場の機械は、欲求、あるいはエネルギーの湧出の結果として動いているわけではありませんから、言語、まして思考という概念が適用される余地はないでしょう。
お礼
言葉を知らない親子でも愛情、好奇心、伝達意欲があれば、自然に言葉を創造するだろうというお考えですね。ご回答ありがとうございました。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
#12です。 >必要性とは何ですか? :欲求、あるいは行き場の無かったエネルギーの湧出と言い換えても良いと思います。 >例えば、オランウータンにとって「言語」は必要なかったが、人類の祖先にとっては必要だったのでしょうか? :そう思います。 というか、なぜ彼はオランウータンで私は人間なのかという両者の差別化の一端は、その必要性の有無によって決定されているのだと思います。 また、よくはわかりませんが、オランウータンの必要範囲における彼らなりの言語はおそらく持っているのでしょう。 >>「今日はウサギが食いたいから、西の山へ狩りに出かけよう。たしか、槍先が鈍くなっていたはずだから少し早めに起きて研いでおいたほうがいいな。」 >これを言語なしにどうやって考えることが可能なのでしょうか? おっしゃっている意味は、言語ではなく、「言語の一側面としての音声」のことではないでしょうか? ーーーーーーーーーー :単に音声のみのことを述べたわけではなく、言語による表象がなくとも世界は存在しているという意味でした。 ウサギ・山・狩り・槍・起きるetc.、といったような言葉が存在しなくとも、同様の思考を巡らすことはできると思うのですが・・・。 他では、愛という言葉を知らなくても人を愛せるetc.。
お礼
ご回答ありがとうございました。 >欲求、あるいは行き場の無かったエネルギーの湧出と言い換えても良いと思います。 必要性とエネルギーの湧出の関係がよくわかりませんでしたので、質問を変えさせていただきます。 質問: 回答12で、言語はどういう必要があって生み出されたのでしょうか? >ウサギ・山・狩り・槍・起きるetc.、といったような言葉が存在しなくとも、同様の思考を巡らすことはできると思うのですが・・・。 犬は主人を見ると識別して喜ぶから、犬は「主人」という言葉は持たないけど、「主人」という概念を持つ。あるいは、猿は台の上に乗って、棒でバナナを叩き落とすから、猿は言葉は持たないけど、「台」、「棒」、「バナナ」の概念は持つと考えるわけですね。そうだとすると、犬や猿も思考していると考えられるし、自動車組み立て工場の機械なんかは、間違いなく思考しているというような広い意味の思考ですね。
補足
色々と示唆に富んだご回答ありがとうございました。 >「文法は、思考の内部で作られるのではなく、外部の環境のなかにある」と 確かにおっしゃるとおりだと思います。人が言語を必要としているのは、自然や社会関係をコントロールするためですから、そのためには、文法が外部の論理を反映していなければ、役に立たないということになりますね。また、コントロールするには、判断と行動が必要ですから、名詞、動詞、形容詞、副詞はあらゆる言語に不可欠ということになるでしょうし、仮に、外部の環境を正しくコントロールできない文法を持った人種がいたとすれば、その人種は滅んでいたと思われます。 >言語の起源を語るときに、発話される「言葉・パロール」と「ラングとしてのシニフィエ」を分節せずに、.... これは、大変興味深いご指摘です。私が不思議に思うのは、「パロールを持たない人類がいて、でも、高度な思考能力は持っている」ということがあり得るかという疑問です。あるいは、「シニフィアンを持たない人類がいて、シニフィエだけ持っている、すなわち、シニフィエなきシーニュを持つ人類の発達段階というのが実在したか」と言う疑問です。私は、シニフィアンがなければ、シニフィエも発達できないように思います。もし、そうだとすると、言語(ここでは、シニフィアンの意味)を持たない人類は、犬、猿なみの思考しかできなかったのではないかという疑問に取り付かれるわけです。どう思われますか? >#15様の補足を拝見すると、やはり発話される言葉に関心があるように見受けられます、 これについては、上の疑問と同じなのですが、発話される言葉なしに、人類は世界を十分文節できるのか、あるいは、それに応じたシニフィエを持つことができるのかという疑問です。 >ある社会人類学者が、アフリカでの夫婦の研究生活の感想で、「二人だけでいるとほとんど日本語を話す必要がなくなる、話さなくても解ってしまう」と書かれています、この例だけでは特殊かもしれませんが、 川田順造さんのお話ですね。この例は、特殊というよりも、既に言語を習得した後の人間なら誰でも有り得る状況だと思います。すなわち、一旦言語を覚えてしまえば、豊富なシーニュとラングが構築済みですから、発話しなくても、内語によって、いくらでも思考ができるということではないかと思います。 >ともかく、「言語」の発生は、一世代の問題ではなく、.... これは、私の疑問に非常に関係あるのですが、「言語の発生のためには、何世代にも渡る進化が必要だった」のか、そうではなく、「既に進化は完成(言語にとってという意味)していたのだけれど、なおかつ、言語が発生するためには何世代もの時間が必要だった」のか、そのどちらの意味か、あるいは、両方かという疑問です。後者の場合だと、現代人類でも、言語のない状態からスタートすると、言語が発生するまでに、何世代(何万年?)もかかるのかという疑問です。