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人間は自ら言語を生み出す力を持ってますか?
人間は一般には、親などの既に言語を習得している人から言語を習い覚えます。しかし、もし、そのように予め言語を習得している人がいなかった場合、人は自ら言語を生み出す能力を持っているのでしょうか? 常識的に考えると、初めは「あー」とか「ウー」とか言っていたのが、段々、単語が増え、文節ができ、何万年か経つうちにちゃんと文法構造を持った言語ができてきたと考えるのでしょうが、本当にそんなことが起こり得るという何らかの実証的あるいは理論的裏づけはあるのでしょうか?
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お邪魔します、#4です。 >その未発達言語を使っている人種の子供を、 人種による違いはありませんから、日本人と同じですね。 それより、少し面白い、アイデアが閃きましたので、書いてみます。 >文法構造を持った言語ができてきたと考えるのでしょうが、 >本当にそんなことが起こり得るという・・・ 一般的に、知識や科学の発達を眺めてみると、意外とわれわれの認識が、逆転していることが多いですね、地動説と天動説、在るから見えるに対して、見えるからある、私と言う根拠に対して、コギトから、他者や外部への依存、等々、これらの例は、一部、定説ではありませんが、この可能性を言語の文法に当て嵌めてみると、 「文法は、思考の内部で作られるのではなく、外部の環境のなかにある」と われわれの言語は、比較的正確に、廻りの状況を説明できますが、其の為には複雑な文法が必要です、複雑な文法を、何も無い所から、作り出したとすると理解に苦しむことがあります、しかし、言語が正確に状況を表現できると言うことは、言語が正確に状況を写し取っている、と言えるのではないのでしょうか。つまり、文法は、無から意図的に作り出されたと考えるのではなく、自然の摂理、この場合は、物の物理的因果関係と、他者との関わり、と言った社会的因果関係のなかに、文法の根拠があるのではないでしょうか。 私も、言語関係の本は少しは読みますが、こんな説は聞いたこともない! チョムスキーの「生成文法」との関連はどうなるのか? ご質問者様や、他の回答者様の、緻密なご批判が聞けると面白いかな。 ところで、少し批判的になってしまって、申し訳ありませんが、 言語の起源を語るときに、 発話される「言葉・パロール」と「ラングとしてのシニフィエ」を分節せずに、単に、発話の起源だけに注意を向けているような気がしますが、例えば、右と左と言う言葉が発生する為には、各自が右と左と言う意味合いを理解している必要がありますが、この辺りの因果関係や後先を考察するのも役立つのではと、老婆心ながら、つい、書き込んでしまいました。 もう一点、申し訳ありませんが、#15様の補足を拝見すると、やはり発話される言葉に関心があるように見受けられます、このような疑問は、どちらかと言うと、ヒンジ・クレオール・方言・或い若者言葉と言った、ある種特殊な、会話技術と言った様相になりますが、どうでしょうか。 ある社会人類学者が、アフリカでの夫婦の研究生活の感想で、「二人だけでいるとほとんど日本語を話す必要がなくなる、話さなくても解ってしまう」と書かれています、この例だけでは特殊かもしれませんが、ともかく、「言語」の発生は、一世代の問題ではなく、百万年以上の単位の、骨格の変化による多彩な音声の発話能力(サルにはある種の母音が発話できない)の発達、数十万単位の集団生活の複雑化、このような、人間生活の環境と人間の脳のなかの構造の「比例関係」と考えると、面白いのかな。 半分ぐらい、批判的な回答になってしまいましたが、 「しかし、積極的な意味で私の敵である人、私が生きている平面に入ってきて、その内部で私と戦う人、その人が最高の意味で私の味方である。」G.ジンメル
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- hakobulu
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「>自ら言語を生み出す能力」は持っているように思います。 ただ、言語は必要に応じて生み出されるのでしょう。 「>予め言語を習得している人がいなかった場合」というよりは、 「必要とされる状況が発生していない場合」、言語は生み出されないと考えます。 狼少年の例を挙げてましたが(嘘か本当かはさておき)、 狼と共に暮らしていれば、必要性がないという理由で言語も覚えられず、知能も(一定以上には)発達しないと思います。 ただ、言語というのは人間の属性として備わっているものではないかという気がします。 人間社会に復帰するのがよほど遅くなければ、言語も覚えるでしょうし知能も以前よりは発達するのでしょう。 何かを考える時、言語にして思考を組み立てるということはあるかもしれませんが、言語がなくとも思考はできるように思います。 たとえば、今日一日の予定というものを頭に浮かべた場合、 「今日はウサギが食いたいから、西の山へ狩りに出かけよう。たしか、槍先が鈍くなっていたはずだから少し早めに起きて研いでおいたほうがいいな。」 などと考えるのは言語の力を借りずに、殆ど感覚として思考できるように思います。 ただ、狼相手であれば別ですが、それを他者に伝えようと思えば言語化する必要が出てきます。 コミュニケーションが欲求として兆す程度に比例して言語が発達してきたように思います。 言語が発達してきたということは、それを必要とする知能の広がりが背景にあったはずでしょうから、その意味で言語と知能はある程度の比例関係にあるような気はします。 無論、知能と理性とが比例するかどうかはまた別の問題でしょうが。
補足
ご回答ありがとうございました。 >狼と共に暮らしていれば、必要性がないという理由で言語も覚えられず、知能も(一定以上には)発達しないと思います。 必要性とは何ですか? 例えば、オランウータンにとって「言語」は必要なかったが、人類の祖先にとっては必要だったのでしょうか? >「今日はウサギが食いたいから、西の山へ狩りに出かけよう。たしか、槍先が鈍くなっていたはずだから少し早めに起きて研いでおいたほうがいいな。」 これを言語なしにどうやって考えることが可能なのでしょうか? おっしゃっている意味は、言語ではなく、「言語の一側面としての音声」のことではないでしょうか?
- acorn_001
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No8、10です。 頂いた補足の内容を理解するのに、少し時間がかかっています。 必ず回答しますので、締め切らずに少しお待ち下さいませ。
お礼
ご回答ありがとうございました。 前回、ご回答いただいた後、色々考えてみたのですが、一つ大変なことを発見しました。 それは、たまたま、放送大学の心理学関連講座をテレビで聞いていたときでした。私は、通常、人の話を聞くときは、音声は頭の中を通過するだけで、意識の中に音声はないと思っていましたが、それを確かめようとして、先生の発話に注意を集中してみました。そうすると、驚いたことに、講義内容が全く理解できなったのです。これは、本当に、びっくりでした。どうしてそうなるのか考えてみたのですが、結局、以下のようなことだと思いました。 先生の発話に注意を集中すると、「肉声」が聞こえてきます。ところが、その「肉声」は「音」なのです。「音」には意味がないから理解できないということになります。では、普段は「音」を聞いていないのかと考えてみると、聞いていなかったんですね、これが。大発見でした。じゃ、普段は何を聞いていたのかというと、「音声(音)」ではなく、「音声の抽象化されたイメージ」ではないかと思います。それは、男でもなく、女でもなく、個性を消された抽象化された音声のようなものだと思います。あらためて、調べてみたのですが、それは、「内語」というようなものではないかと思いました。 このように考えてみると、私が普段ものを考えるときは、「内語」を用いている場合が多いように思います。前回の補足で、「音声を出さない独り言」と表現したのは、この内語のように思います。この「内語」は、具体的な「音質イメージ」は伴わないように思います。また、非常な矛盾ですが、自分の思考中にこの「内語」に意識を持っていくと、思考できなくなります。だから、自分で話したり、文を書いたりしているとき、自分では「内語」を使っていないように思っていても、実は、使っているのかも知れないと思うようになりました。結構、微妙で難しい問題がありそうです。
補足
そろそろ、締め切らせていただこうかと思っております。 機会があれば、また、よろしくお願いいたします。
- acorn_001
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No8です。 「読み」「書き」「聞く」「話す」もできます。 ですが、頭の中に言語は無いのですよ。 いつも頭の中には霧がかかった様な感覚で、 書く瞬間に 霧→映像→場に適切な言語 に変換しています。 読んで理解する時はこの逆 書かれた言語→映像→霧 に変換して理解しています。 話す時も書く時同様に 霧→絵→言語 に変換して発音しています。 頭の中に言語が無いものだから、自分が何を考えているのかを正確に知るには「書く」「話す(独り言も可)」をして、読んで・聞くしか方法が無いのです。 無言で何も書かない状態では自分の本当の意見etcが自分ですら理解できません。 快・不快などの感情はあるのですが、かなり大雑把だと思います。 一番問題なのは「聞く」時。 通常は変換機能がスムーズに働くのですが、精神的なショックを受けた時とか、疲れている時はこの機能が完全にストップしてしまいます。 人の話を聞いても ただの音声にしか捕らえられず、全く意味が理解できなくなります。 >二、三年程前には、自分が人間であるとか、自分はご飯を食べる生き物であるとか、自分は日本に住んでいるとか、そういうことが全くわからなかったということでしょうか???? これは”思考”では無く”知識”や”状況理解”ですよね? 人間である事や日本に住んでいる事などのように後付の知識で補える物に関しては知ってはいました。 食事は、、、そうですね、”一日3食摂るもの”と知識として持っているので知っています。 ただ、私は殆ど空腹感を感じない体質で時計を見ないと食べ忘れるくらいなので、本質的にはわかっていないのかも知れません。 (静)である知識は頭の中に貯えられているが、 (動)の状態の思考する事に言語を使う事はできない って感覚なのですが。 この(動)の方法が珍しいようです。 疑問に思って主治医に確認した事があるので、少数派である事に間違いはないと思うんですけど。
補足
大変興味深いご回答ありがとうございました。回答を読ませていただいた限りでは、思考プロセスが私の場合と同じような気がしますので、頭がこんがらかってしまいました。それで、もう少し質問させてください。 まず、「言語」という言葉の意味が不明瞭だと話がこんがらかるので、以下のように整理しておきます。「言語」は以下の2つの側面を持っていると思います。 (1)物理的な現象としての側面、すなわち、音声や紙の上に書かれた文字など。 (2)物理的な現象として表現されたものが指し示す内容。これは心の中で「感じ取る」ものであって、音声イメージでも、文字イメージでもない。 例えば、「リンゴ」という文字や「リンゴ」と発音された音声は(1)、そして、「リンゴ」が指し示す内容が(2)と考えます。 >頭の中に言語は無いのですよ。 ここで言う「言語」が(1)のことをおっしゃっているのなら、私も(というか、誰でも)、"通常は"、(1)の言語は頭の中にはないと思います。頭の中にあるのは(2)だけだと思います。また、頭の中で(1)を生成させるためには、「独語(音声は出さなくても可)」が必要だと思います。それには、頭の中で意識的に「三角形」のイメージを浮かべるのと同じような努力が必要です。その努力を意識的にしなければ、(1)は通常、頭の中にはないと思います。 >書く瞬間に 霧→映像→場に適切な言語 に変換しています。 私の場合、通常は「霧→言語(1)」なのですが、場合によっては、「霧→映像→言語(1)」になります。例えば、まず、リンゴのイメージを頭の中に浮かべてから、「リンゴ」と書くような場合です。でも、通常は、そんなことをやっていると疲れるので、やはり「霧→言語(1)」です。 >頭の中に言語が無いものだから、自分が何を考えているのかを正確に知るには「書く」「話す(独り言も可)」をして、読んで・聞くしか方法が無いのです。 これも、「言語」が(1)を意味しているのなら、誰でも同じだと思います。たとえば、10分間の話をする場合、10分間分の言語(1)が頭の中に予め用意されていて、それを読み上げるようにして話をするなんていうことはあり得ないと思います。ですから、通常は、頭の中には(2)だけがあって、(1)は「霧→言語」として無から湧き上がって来るとしか言えない気がします。これはすごく不思議なことですが。ところで、acorn_001さんのおっしゃる「独り言」は”音声を伴わない”と有効でないのでしょうか? もし、そうなら、そこは私と違うと思います。 >無言で何も書かない状態では自分の本当の意見etcが自分ですら理解できません。 誰でも同じではないでしょうか? 自分の考えを確かめようと思ったら、独り言(音声は出さなくても可)によって、(1)を生成するしかないと思います。ただ、重要なことは、(1)がなくても「直感でおおよそのイメージはわかる」ということがあります。acorn_001さんの場合は、それもないのでしょうか? もし、ないとすると、自分は次の瞬間に突然踊りだすかどうかさえもわからないということになるのですが、そういうことはありますか? >人の話を聞いても ただの音声にしか捕らえられず、全く意味が理解できなくなります。 これは、程度の差があるのかも知れませんね。ただ、だれでも、人の話の半分も聞いていないと私は思います。特に何か気がかりなことや他に夢中になっているときは、他人の話す内容は、ほとんど音に過ぎず、意味は理解されないまま消えてしまいます。 >これは”思考”では無く”知識”や”状況理解”ですよね? 確かに狭い意味での”思考”ではないかも知れませんが、日常の思考のほとんどは、むしろ、知識や状況理解の組み合わせではないかと思います。 >(静)である知識は頭の中に貯えられているが、 >(動)の状態の思考する事に言語を使う事はできない > って感覚なのですが。 私は、思考の本質は言語(1)ではなく、言語(2)にあると思っています。ですから、acorn_001さんのおっしゃる言語が言語(1)のことなら、それは、使えなくて当然だと思います。 以上、話がごちゃごちゃして、わかりずらかったかも知れませんね。済みません。最後に質問を絞ると、以下の一点に集約されます。 <質問>acorn_001さんのおっしゃる「言語」とは、「言語(1)」のことではないでしょうか?
- H240S18B73
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#2#3#7 『知能が発達しなければ言語は扱えない』から 『言語が扱えないならば知能が発達していない』とは言えないよ 『言語が扱えるなら知能が発達している』とは言えるけどね (一応『高度な言語』と言い換えた方がいいかもしれない) 先にも言ったのだけど『言語』っていうのは 『思考の効率化手段』でもあるんだ 例えば数学の問題で数の『概念』を数字という『象徴』に 置き換える事なくそのまま扱おうとしたら 一般人は脳みそがパンクしちゃう 数式というのは数の『概念』を効率的に扱うための 一種の『言語』のようなものなんだよ こういう『思考の効率化手段』をもつことは より複雑で壮大な『思考』を可能にするけど それはつまり『知能が高い』ということではないんだ 実際知能指数の高い天才と呼ばれる人には 複雑な『概念』を『言語』にして扱う事無く そのまま『概念』として『思考』する事が できるというタイプの人が多い 難しい数学の問題を数式を書かずに まるで直感的に解いちゃったりとかね 頭を使わなきゃ知能は発達しない とはいえるかもしれないけど 言語を覚えなきゃ知能は発達しない ということは必ずしもいえないと思う
お礼
言語が扱えなくても知能が発達していることはあり得るということですね。ご回答ありがとうございました。
- acorn_001
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アスペルガー症候群(自閉症の一種)の者です。 元の質問から外れますが、No5さんへの補足欄への書き込みで少し回答できそうな部分があったので、ちょっと回答してみます。 >あくまで「人類」の範疇での進化過程で「言語」なき「思考」がどの程度のレベルのものであったのか大変興味があります。オランウータン以上の知能が可能だったのでしょうか? 私は一応 進化した人類ですけど ^^;言語を使わないで思考します。 と言うか、二、三年程前くらいまで、人間が言語で思考しているなんて想像もしていませんでした。 で、私の思考レベルですね、多分オランウータン以上だと思います。 IQで100以上。 私にとっての言語は他者との意思疎通の為に存在する程度に過ぎないのです。 アスペルガーの人でも言語で思考する人もいるらしいので、自閉症者全員がイメージ思考をする訳ではありません。 あくまで言語を使わなくてもオランウータン以上の知能を持つ人間もいるぞ、との参考に。
補足
ご回答ありがとうございました。 >私は一応 進化した人類ですけど ^^;言語を使わないで思考します。 済みません。意味がよくわかりませんでした。現に言語使って文章を書いておられるのに、言語を使わないで思考するというのは、具体的にはどういう意味でしょうか? 思考の「過程」で言語を使わないということですか? もし、そうなら、人は誰も思考の「過程」では、言語は使わないと思うのですが。言語は思考の結果を外へ出したり、問題を思考の中に抛り込んだりするときに使うものだと思いますが。 >二、三年程前くらいまで、人間が言語で思考しているなんて想像もしていませんでした。 えっ!!! これは、すごく興味深いことですが、具体的にはどうもよく理解できません。^^; 二、三年程前には、自分が人間であるとか、自分はご飯を食べる生き物であるとか、自分は日本に住んでいるとか、そういうことが全くわからなかったということでしょうか???? >私にとっての言語は他者との意思疎通の為に存在する程度に過ぎないのです。 一人で本を読むという場合はどうですか? 本は読めないのでしょうか....? あれっ? そんなことはないですよね。現に文章を書いておられるわけですから、書かれた文は読めるはずですね。済みません。やっぱり、どうも情況がよくわかりません。
- H240S18B73
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えぇと、あんまりここじゃレス者にレスするのは よくないかとは思うのだけども >思考より先に言語があったはずです 狭義の意味での『思考』ならそうだろうけど そもそも『言語の発生』を扱おうとしているのだから 『思考』という言葉は広義な意味で用いた方が なにかとやりやすいと思う それに『思考』の要素である『概念』ってのは 必ずしも『言語』によって表現可能なものじゃないし 『言語』で表現しなければ扱えないワケでもない さらに広義の意味での『思考』は 『行為』の『判断』の為に知識や経験に基づいて さまざまな『現象』の可能性をシミュレートすることであって 必ずしも『概念』ってものを必要としない 絵を描いたり音楽ひいたり運動したりするのに 『言語』による『思考』とかしないでしょ (まあ初心者はしちゃいがちだけども) 筆で考える、楽器で考える、身体で考える みたいなことをして『思考』をする このもっとも基礎の『現象を模倣する思考』があってその次に 現象の中から概念を見いだして扱う『概念による思考』がありそして 概念を記号化して効率的に扱う『言語による思考』がある 『思考より言語が先なはずだ』というのは ちょっと『思考』を狭義に捉えすぎてる
お礼
ご回答ありがとうございました。 >さらに広義の意味での『思考』は『行為』の『判断』の為に知識や経験に基づいて、さまざまな『現象』の可能性をシミュレートすることであって必ずしも『概念』ってものを必要としない 確かにおっしゃるとおりではないかと思うのですが、ひとつどうしても疑問が出てきてしまうのは、#2の補足にも書いたのですが、「なぜ、狼に育てられた子は知能が発達しなかったのか」ということです。もっとも、#3の方の参照URLの結論は、狼少年も狼少女もウソだったという話なので、本当は発達するのかも知れませんが...。
- _-_-_
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まず、思考より先に言語があったはずです。 それは危険を知らせる合図や子供が親を呼ぶ合図などが初期の言語でしょう。空腹、満腹を示す言語、うれしい、嫌だを示す言語と数が増えていき、微妙なニュアンスも伝えられるように徐々に進化していったものと思われます。 この程度の言語であれば鳥でも持っています。高度な思考はなく、合図と反応によって成り立っていると言ってよいでしょう。 ある鳥の求愛のさえずりに関する研究があります。何種類かのパターンがあるのですが、それがあるとき1羽の鳥が間違えて鳴いたことにより新しいパターンが増え、それをまねする鳥が現れました。新しいパターンの誕生です。こうしてさえずりは多様化するでしょう。メスが複雑なさえずりを好む傾向があれば新しいパターンを採用する鳥は増え、さえずりは複雑になる傾向をもつでしょう。美しいさえずりへと進化すると言い換えてもよいです。 このように言語は徐々に高度に進化してきたのです。それを扱うために脳も徐々に大きくなっていたのでしょう。どちらが先というものではないです。発音をする唇、記憶する脳、学習する脳などは遺伝により獲得しますが、言語そのものは後天的に学習するものです。ですからあらかじめ言語を習得している人がいなかった場合、人間(その固体)は高度な言語を獲得することはありません。 今の人間が突然言葉を失って、何百万年後に現在と同等の言語を獲得するかはわかりません。理論的な裏づけはないでしょう。獲得する可能性は十分にありますが、現在の言語ほど高度な言語を必要とする必然性は証明されていません。このあたりになるとまだ科学ではなく哲学の範囲なのかもしれませんね。 回答になっているかわかりませんが、いかがでしょうか。
お礼
ご回答ありがとうございました。 >このように言語は徐々に高度に進化してきたのです。それを扱うために脳も徐々に大きくなっていたのでしょう。 これは、とてもユニークな発想でおもしろいです。言語能力進化論ですね。より幼稚な言語を持った人種から、より高度な言語を持った人種へ長い時間をかけて進化していったということですね。オランウータンは今でも生き延びているのに、幼稚な言語を持った人種が滅びてしまったのは、本当に残念です。
- nisekant
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《言語》 言語を用いる能力そのものは思考の一部ではない。我々は、人が言っていることを理解するとき何が起こっているか、或いは我々自身が言葉を産出するとき何をしているのかを意識しているわけではない。一方、我々はしばしば内面的な独白あるいは対話を経験する。それはつまり我々に言語能力があるということである。言語が進化上で人間能力に加わったのはきわめて最近である。このことは、言語が、ここで列挙して示した他の認知的機能の存在を前提としているという事実によって説明できる、ということを後に示してみたい。しかしながら、言語が思考による能力のうち一番最後に現れたという私の見解については、全ての研究者が同意しているわけではない。 以上にあげた思考の構成要素のどれもが進化上の機能を持っている。これ以降焦点をしぼって論じる問題は、これらの構成要素を出現させた進化の諸力はどのようなものなのか、ということである。この問題を検討するために、私は、この認知機能のそれぞれにおいて、何故その機能をもった動物がより高い適応を享受し、したがって自然淘汰の過程で有利だったかの合理的な説明を提示しなくてはならない。 様々な機能は、進化の過程でだいたい以上に提示した順序で現れたと私は主張したい。これから、確かな基本的な機能から論じはじめ、順次それ以外の機能が出現してくるというふうに話を進めていこうと思う。特に人間と他の動物を区別するような機能に焦点をあててみよう。私の主たる関心は、様々な認知能力が機能的に相互に依存しあっていることをハッキリと説明することだ。本書の中心的なテーマは、他の諸機能が備わっていないと新しい機能は決して発達することはできないということである。内面世界をもっていなければ計画を立てることはできないし、計画を立てることができなければ他者を欺くこともできない。他者を欺くことができなければ自己意識をもつことはできないし、自己意識をもっていなければ十分に発達した言語能力をもつことはできない。進化は不器用な修繕屋で、既にある構造の上に別の建物を立てている。例えて言えば、人間の思考の機能的階層はケーキのようなものである。下の層ができていなければ、その上に次の層を積み重ねることはできない。本書全体を通して言わんとすることの一つは、ケーキを高く積み上げるほど、思考の自由はより大き くなるということだ。 脳移植についての殆どの議論は、脳だけが思考に対して唯一特権的な地位を占めているという前提に立っている。しかし、全ての思考が脳で起こっているわけではない。脳も完全に孤立した状態では機能しない。脳が置かれている肉体に大いに依存しているのである。幾つかの異なった計画の中から何れかを選ぶには、それぞれを実行したときの意味あいを評価できなくてはならない。肉体の生理的な反応がこの仕事に主たる役割を果たす。もし危ないことを考えたりすれば、肉体は、心臓がドキドキしたり足が震えたりという反応をする。こういう反応は進化上は意識的な計画能力よりも古い生理学的システムに基づいている。哲学者ダニエル?デネットは、より古い生理学的システムを共鳴板として用いることで脳はより賢明な判断をくだすことができると言っている。 思考は脳に限った営みではなく、生物全体にある。別の肉体に移植された脳は間違いなく順路に迷う。よくある見解に反して、脳は主(あるじ)と考えるのはやめるべきだ。寧ろ肉体のために働く召使いと考えた方がよい。 認知科学の更に一歩進んだち知的潮流に状況認知という理論がある。脳が機能するには、肉体だけではなく周囲の世界が必要だという考えである。感覚器官と周囲の世界の境界線がハッキリしない領域はたくさんある。潜水艦の司令官は目でなく潜望鏡で見る。視覚障害者は手でなく杖で探る。同様に、我々は道路標識やカレンダー、電卓で考えるのである。頭の中で営まれる思考と外部で起こる思考とは、ハッキリとした区別はできないのである。意識は世界に漏れ出ている。
補足
ご回答ありがとうございました。 >言語が思考による能力のうち一番最後に現れたという私の見解 #2の方の回答とも関連するのですが、あくまで「人類」の範疇での進化過程で「言語」なき「思考」がどの程度のレベルのものであったのか大変興味があります。オランウータン以上の知能が可能だったのでしょうか? また、素人でよくわからないのですが、そもそも、「言語を話さない人類」というのは現実に存在したのでしょうか? もちろん、個別の個体としては、例外的に話さない人間はいると思いますが、種全体として、言語を持たない人類種というものは有り得るのでしょうか(「猿の惑星」には登場しましたけど....)?
- fishbowl66
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こんちは、面白い質問ですね。 私もウル覚えですが、 アフリカとミクロネシアの辺りですと 何千人単位にしか通じない言葉があるらしいです、 文法的にも不十分で、言語の成立に関するヒントになるようです。 残念ながら、どの本で読んだか失念しましたが。 普通言われていることは、言語の成立は、人に指図するためらしいですが、南洋の採取生活では複雑な行動は必要ないですが、社会生活が複雑になると、それにしたがって行動の指図も複雑になり、文法などが必要になったのでしょうね。 それと、回答にはなりませんが、 この問題は、「秩序問題」と言う一般性があるらしいです、 韓国のハングルは珍しい上から秩序を権力で普及させますが、 下からの秩序がどのように成立するかは、難問との事です。 中段に書かれた内容は、私の想像です。
お礼
>何千人単位にしか通じない言葉があるらしいです、文法的にも不十分で、言語の成立に関するヒントになるようです。 こういう中間段階があると、言語能力の成長過程を研究するには好都合ですね。もし、その未発達言語を使っている人種の子供を、生まれたときから、現代語の環境で育てたら、我々と同じレベルの言語が話せるようになるのか興味深いです。 ご回答ありがとうございました。
- H240S18B73
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#2 言語が『表現』として確立する以前にもあっただろう っていってるのはあくまで『言語の元型』『言語の下地』 物事を単純化、象徴化して思考する思考回路 言語ってものの最大の役割は 『表現』にあるのは間違いないっしょ ちなみに >狼に育てられた子供 下記リンク参照 ついでにロムスとレムスはしっかり 知能がありましたのですよ 神話の類いでありましょうが
お礼
ご回答ありがとうございました。 リンクに載ってる話、とてもおもしろかったです。「狼少女」「狼少年」の話はウソだという結論なんですね。初耳でした。
補足
色々と示唆に富んだご回答ありがとうございました。 >「文法は、思考の内部で作られるのではなく、外部の環境のなかにある」と 確かにおっしゃるとおりだと思います。人が言語を必要としているのは、自然や社会関係をコントロールするためですから、そのためには、文法が外部の論理を反映していなければ、役に立たないということになりますね。また、コントロールするには、判断と行動が必要ですから、名詞、動詞、形容詞、副詞はあらゆる言語に不可欠ということになるでしょうし、仮に、外部の環境を正しくコントロールできない文法を持った人種がいたとすれば、その人種は滅んでいたと思われます。 >言語の起源を語るときに、発話される「言葉・パロール」と「ラングとしてのシニフィエ」を分節せずに、.... これは、大変興味深いご指摘です。私が不思議に思うのは、「パロールを持たない人類がいて、でも、高度な思考能力は持っている」ということがあり得るかという疑問です。あるいは、「シニフィアンを持たない人類がいて、シニフィエだけ持っている、すなわち、シニフィエなきシーニュを持つ人類の発達段階というのが実在したか」と言う疑問です。私は、シニフィアンがなければ、シニフィエも発達できないように思います。もし、そうだとすると、言語(ここでは、シニフィアンの意味)を持たない人類は、犬、猿なみの思考しかできなかったのではないかという疑問に取り付かれるわけです。どう思われますか? >#15様の補足を拝見すると、やはり発話される言葉に関心があるように見受けられます、 これについては、上の疑問と同じなのですが、発話される言葉なしに、人類は世界を十分文節できるのか、あるいは、それに応じたシニフィエを持つことができるのかという疑問です。 >ある社会人類学者が、アフリカでの夫婦の研究生活の感想で、「二人だけでいるとほとんど日本語を話す必要がなくなる、話さなくても解ってしまう」と書かれています、この例だけでは特殊かもしれませんが、 川田順造さんのお話ですね。この例は、特殊というよりも、既に言語を習得した後の人間なら誰でも有り得る状況だと思います。すなわち、一旦言語を覚えてしまえば、豊富なシーニュとラングが構築済みですから、発話しなくても、内語によって、いくらでも思考ができるということではないかと思います。 >ともかく、「言語」の発生は、一世代の問題ではなく、.... これは、私の疑問に非常に関係あるのですが、「言語の発生のためには、何世代にも渡る進化が必要だった」のか、そうではなく、「既に進化は完成(言語にとってという意味)していたのだけれど、なおかつ、言語が発生するためには何世代もの時間が必要だった」のか、そのどちらの意味か、あるいは、両方かという疑問です。後者の場合だと、現代人類でも、言語のない状態からスタートすると、言語が発生するまでに、何世代(何万年?)もかかるのかという疑問です。