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人間は自ら言語を生み出す力を持ってますか?

人間は一般には、親などの既に言語を習得している人から言語を習い覚えます。しかし、もし、そのように予め言語を習得している人がいなかった場合、人は自ら言語を生み出す能力を持っているのでしょうか? 常識的に考えると、初めは「あー」とか「ウー」とか言っていたのが、段々、単語が増え、文節ができ、何万年か経つうちにちゃんと文法構造を持った言語ができてきたと考えるのでしょうが、本当にそんなことが起こり得るという何らかの実証的あるいは理論的裏づけはあるのでしょうか?

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回答No.16

お邪魔します、#4です。 >その未発達言語を使っている人種の子供を、 人種による違いはありませんから、日本人と同じですね。 それより、少し面白い、アイデアが閃きましたので、書いてみます。 >文法構造を持った言語ができてきたと考えるのでしょうが、 >本当にそんなことが起こり得るという・・・ 一般的に、知識や科学の発達を眺めてみると、意外とわれわれの認識が、逆転していることが多いですね、地動説と天動説、在るから見えるに対して、見えるからある、私と言う根拠に対して、コギトから、他者や外部への依存、等々、これらの例は、一部、定説ではありませんが、この可能性を言語の文法に当て嵌めてみると、 「文法は、思考の内部で作られるのではなく、外部の環境のなかにある」と われわれの言語は、比較的正確に、廻りの状況を説明できますが、其の為には複雑な文法が必要です、複雑な文法を、何も無い所から、作り出したとすると理解に苦しむことがあります、しかし、言語が正確に状況を表現できると言うことは、言語が正確に状況を写し取っている、と言えるのではないのでしょうか。つまり、文法は、無から意図的に作り出されたと考えるのではなく、自然の摂理、この場合は、物の物理的因果関係と、他者との関わり、と言った社会的因果関係のなかに、文法の根拠があるのではないでしょうか。 私も、言語関係の本は少しは読みますが、こんな説は聞いたこともない! チョムスキーの「生成文法」との関連はどうなるのか? ご質問者様や、他の回答者様の、緻密なご批判が聞けると面白いかな。 ところで、少し批判的になってしまって、申し訳ありませんが、 言語の起源を語るときに、 発話される「言葉・パロール」と「ラングとしてのシニフィエ」を分節せずに、単に、発話の起源だけに注意を向けているような気がしますが、例えば、右と左と言う言葉が発生する為には、各自が右と左と言う意味合いを理解している必要がありますが、この辺りの因果関係や後先を考察するのも役立つのではと、老婆心ながら、つい、書き込んでしまいました。 もう一点、申し訳ありませんが、#15様の補足を拝見すると、やはり発話される言葉に関心があるように見受けられます、このような疑問は、どちらかと言うと、ヒンジ・クレオール・方言・或い若者言葉と言った、ある種特殊な、会話技術と言った様相になりますが、どうでしょうか。 ある社会人類学者が、アフリカでの夫婦の研究生活の感想で、「二人だけでいるとほとんど日本語を話す必要がなくなる、話さなくても解ってしまう」と書かれています、この例だけでは特殊かもしれませんが、ともかく、「言語」の発生は、一世代の問題ではなく、百万年以上の単位の、骨格の変化による多彩な音声の発話能力(サルにはある種の母音が発話できない)の発達、数十万単位の集団生活の複雑化、このような、人間生活の環境と人間の脳のなかの構造の「比例関係」と考えると、面白いのかな。 半分ぐらい、批判的な回答になってしまいましたが、 「しかし、積極的な意味で私の敵である人、私が生きている平面に入ってきて、その内部で私と戦う人、その人が最高の意味で私の味方である。」G.ジンメル

kobarero
質問者

補足

色々と示唆に富んだご回答ありがとうございました。 >「文法は、思考の内部で作られるのではなく、外部の環境のなかにある」と 確かにおっしゃるとおりだと思います。人が言語を必要としているのは、自然や社会関係をコントロールするためですから、そのためには、文法が外部の論理を反映していなければ、役に立たないということになりますね。また、コントロールするには、判断と行動が必要ですから、名詞、動詞、形容詞、副詞はあらゆる言語に不可欠ということになるでしょうし、仮に、外部の環境を正しくコントロールできない文法を持った人種がいたとすれば、その人種は滅んでいたと思われます。 >言語の起源を語るときに、発話される「言葉・パロール」と「ラングとしてのシニフィエ」を分節せずに、.... これは、大変興味深いご指摘です。私が不思議に思うのは、「パロールを持たない人類がいて、でも、高度な思考能力は持っている」ということがあり得るかという疑問です。あるいは、「シニフィアンを持たない人類がいて、シニフィエだけ持っている、すなわち、シニフィエなきシーニュを持つ人類の発達段階というのが実在したか」と言う疑問です。私は、シニフィアンがなければ、シニフィエも発達できないように思います。もし、そうだとすると、言語(ここでは、シニフィアンの意味)を持たない人類は、犬、猿なみの思考しかできなかったのではないかという疑問に取り付かれるわけです。どう思われますか? >#15様の補足を拝見すると、やはり発話される言葉に関心があるように見受けられます、 これについては、上の疑問と同じなのですが、発話される言葉なしに、人類は世界を十分文節できるのか、あるいは、それに応じたシニフィエを持つことができるのかという疑問です。 >ある社会人類学者が、アフリカでの夫婦の研究生活の感想で、「二人だけでいるとほとんど日本語を話す必要がなくなる、話さなくても解ってしまう」と書かれています、この例だけでは特殊かもしれませんが、 川田順造さんのお話ですね。この例は、特殊というよりも、既に言語を習得した後の人間なら誰でも有り得る状況だと思います。すなわち、一旦言語を覚えてしまえば、豊富なシーニュとラングが構築済みですから、発話しなくても、内語によって、いくらでも思考ができるということではないかと思います。 >ともかく、「言語」の発生は、一世代の問題ではなく、.... これは、私の疑問に非常に関係あるのですが、「言語の発生のためには、何世代にも渡る進化が必要だった」のか、そうではなく、「既に進化は完成(言語にとってという意味)していたのだけれど、なおかつ、言語が発生するためには何世代もの時間が必要だった」のか、そのどちらの意味か、あるいは、両方かという疑問です。後者の場合だと、現代人類でも、言語のない状態からスタートすると、言語が発生するまでに、何世代(何万年?)もかかるのかという疑問です。

その他の回答 (22)

回答No.2

文節というか『主語』『述語』『目的語』の概念は 脳にすでにプログラムされてるという考えがあったかと思う ソシュールだったっけか? そもそもこの3つは『行為者』『行為』『対象』という 動物として基本的に持っておくべき思考回路に 基づくところがあるので先天的なものと考えていいと思う そしてこの基本の3つに『助詞』や『前置詞』などによって 関係をはっきりさせたり『副詞』『助動詞』などによって 程度などを表現したりして意味を詳細にしていくワケだけど これもやはり動物として行動ということをする際の 思考回路に基づくところがあると考えていいと思う また 思考と言うのは基本的に世界をシミュレートするってことで 言語というのは単に思考の伝達と共有を目的とした手段ではなく 複雑で壮大なシミュレートをする為にひとつひとつの 要素を単純化、象徴化する方法という考え方もできるワケです つまり言語は単に『思考の表現方法』ではなく 『思考の効率化手段』でもあるって考えです そうすると言語はそれが声に発せられたり書かれたりする以前から その元型は構築されていただろうと考える事もできるわけです つまるところ言語の下地はそれが『表現』として 成り立っていく以前にあったと考えられる なので >「あー」とか「ウー」とか言っていたの が言語の最初というように考えなけりゃ ならないってこともないってワケです

kobarero
質問者

補足

大変おもしろい考えだと思うのですが、一つわからないことがあります。もし、言語が音声として発したり文字で書かれたりする以前に思考の手段として人間の能力に内在しているとしたら、狼に育てられた子供は、なぜ知能が発達しなかったのでしょうか? 

noname#140971
noname#140971
回答No.1

人間は、言語野を既に獲得していますので言語を生み出す能力を有すしています。 今、1万人の赤ちゃんを隔離空間で育てた場合に、果たして言語を話すか? ここでは、誰かが無言で成人になるまで育てるという実験を想定します。 この場合、当初は話さないであろうことは容易に想像がつきます。 が、時が立てば、原始言語が生まれ、やがて、体系化されて新たな言語が確立されるでしょう。 この原始言語の生成と体系化の速度は、多分、相当に速いと推測します。 1本の糸を2本に撚り合わせても、ただの太い糸です。 2本の糸を4本に撚り合わせても、ただの太い糸です。 が、この撚り合せる糸の量が一定量に達した時に質の転換が起こります。 十分な大きさに撚り合わされた糸は、もはや糸ではなく紐です。 これが、全ての事象に共通に見られる「量から質への転化の法則」です。 「あー」「いー」も、1語や2語では、ただの合図音です。 「うー」「おー」が加わっても、やはり、ただの合図音です。 が、その量が一定量に達した時に質の転換が起こります。 「おーい」、「あーい」という単語が生れるのは間違いありません。 さて、紐も綯って太くすれば綱になります。 このように一旦生まれた質もも、再び、新たな量の蓄積で次の段階の質へと移行します。 一般的には、これを「否定の否定」と言います。 それが、母音に続く子音の誕生かも知れません。 いずれにしろ、子供達は、量から質の転化、否定の否定を通じて新たな言語を生み出すことでしょう。 もちろん、質問者は、かかる実験を試みてはいけません。 あくまでも、論理的な推論の域に留めて下さい。 Q、実証的あるいは理論的裏づけはあるのでしょうか? A、現に人類が幾多の言語を生み出しているのが何よりもの証左です。 実験は、既に、我々の祖先が行っています。

kobarero
質問者

お礼

現に人類が幾多の言語を生み出しているという現実から逆算すれば、おっしゃるとおりですね。ご回答ありがとうございました。

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