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『こころ』の「上十二」2

 日本語を勉強中の中国人です。夏目漱石の『こころ』を読んでいます。「上十二」の中に理解できないところがありますので、お伺いしたいと思います。次は参考ページです。 http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/773_14560.html 1.場所が場所なので、花よりもそちらを向いて眼を峙(そば)だてている人が沢山あった。 (1)「場所が場所なので」はどういう意味でしょうか。 (2)「そちら」はどんな場面を指すのでしょうか。 (3)「眼を峙(そば)だてる」という表現は古風でしょうか。現在でも使われますか。 (4)「目を傾ける」、「目をそばだてる」、「目を澄ます」はみんなニュアンス的には微妙に違うのでしょうか。この三つの表現の中では、美しいと思われるのはどれでしょうか。 (5)「耳を傾ける」、「耳をそばだてる」、「耳を澄ます」はみんなニュアンス的には微妙に違うのでしょうか。この三つの表現の中では、美しいと思われるのはどれでしょうか。 (6)なぜ「人が沢山いた」ではなく、「人が沢山あった」と書くのでしょうか。 2.「あの冷評(ひやかし)のうちには君が恋を求めながら相手を得られないという不快の声が交(まじ)っていましょう」 「交(まじ)っていましょう」は「交じっているでしょう」という意味になるのでしょうか。現在でもこのように使われますか。  また、質問文に不自然なところがありましたら、ご指摘いただければありがたく思います。よろしくお願いいたします。

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  • ベストアンサー
  • hakobulu
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回答No.2

1、 {場所が場所なので、花よりもそちらを向いて眼を峙(そば)だてている人が沢山あった。} (1)「場所が場所なので」はどういう意味でしょうか。 :「○が○なので」は、○の特異(特殊)な事柄(状態)を表す慣用句です。 この場合の場所は上野(公園)のことで、【誰もが花見に来るため混雑する】という特異性を持った場所なわけです。 「場所が場所なので」は【沢山あった】に掛かっています。 混雑する場所で「>睦(むつ)まじそうに寄り添って」いたので、たくさんの人に見られていた、という意味です。 ご存知かもしれませんが、 「時間が時間なので学校には【誰もいなかった】」は「それほど早い(あるいは)遅い時間に学校に行った場合」、 「金額が金額なのでそう【簡単に貸すわけにはいかない】」は「それほど高額の借金を申し込まれた場合」、 などのように、比較可能なものであればどのような一般名詞でも適用できます。 (2)「そちら」はどんな場面を指すのでしょうか。 :「美しい一対(いっつい)の男女(なんにょ)が睦(むつ)まじそうに寄り添って花の下を歩いている様子」 です。 (3)「眼を峙(そば)だてる」という表現は古風でしょうか。現在でも使われますか。 :おっしゃるとおり古風でしょうね。 全く使われないことはないでしょうが、少ないでしょう。 疎んじるような目で注視する、という意味になると思います。 普通は「じっと見つめる」「注視する」などという表現になるでしょう。 (4) 「目を傾ける」という表現はしません。 「目を澄ます」は、熟視するという意味。 「目をそばだてる」も同じですが、非難のニュアンスが加わると思います。 他にも多様な慣用句があります。 http://www.geocities.jp/tomomi965/ko-jien07/ma12.html (5) 「耳を傾ける」は、熱心にじっと聞く。 「耳をそばだてる」と「耳を澄ます」は同義で、注意して聞く、という意味になります。 http://www.geocities.jp/tomomi965/index2.html 人の話を一生懸命聞いている状態を最もよく表わしているのは「耳を澄ます」でしょう。 「耳を傾ける」は、人の話を聞こうとする姿勢に重点が置かれているように思います。 「親の言うことには耳を傾けておくものだ。」などの一般論で使いやすい表現です。 「彼の歌に耳を傾けていた」と、 「彼の歌に耳を澄ましていた」では、微妙な差異があるでしょう。 後者の方が思い入れ深く聞いていたニュアンスが表現できます。 「耳をそばだてる」は、主に盗み聞きする状況を表現するとお考えになって良いと思います。 (6)なぜ「人が沢山いた」ではなく、「人が沢山あった」と書くのでしょうか。 :本質的には、『「美しい一対の男女に眼をそばだてる」という行為がたくさんあった。』ということを書いている箇所だからです。 通常では、「たくさんいた」のほうがなじむ表現でしょう。 前回出てきた「もの」の意図するところと少し似ていますね。 この文章は、 「花よりもそちらを向いて眼を峙(そば)だてているものが沢山いた」 と書き換えることが可能だろう、と私は思います。 2、 {あの冷評(ひやかし)のうちには君が恋を求めながら相手を得られないという不快の声が交(まじ)っていましょう} >「交(まじ)っていましょう」は「交じっているでしょう」という意味になるのでしょうか。現在でもこのように使われますか。 ーーーーーーーーーー :意味的には同じだと思います。 【軽い断定を含む推測】といったニュアンスでしょうが、現在でも使われないことはないと思います。 ただ、丁寧ではありますが、同時にやや気取った言い方になるでしょう。 ご質問文の添削は一箇所もありません。  

参考URL:
http://www.geocities.jp/tomomi965/index2.html
awayuki_ch
質問者

お礼

 ご回答ありがとうございました。「○が○なので」のだいたいの感覚はわかりました。「そちら」は理解できました。「眼を峙(そば)だてる」ははたして古風なんですね。中に含まれている「疎んじるような目で注視する」というニュアンスを心がけます。「目(耳)を傾ける」、「目(耳)を澄ます」、「目(耳)をそばだてる」についてニュアンスを詳しく説明していただき助かりました。参考ページの多様な慣用句も拝見しました。覚えきれませんが、読書の時に少しずつ目に入る表現を自然と覚えられたらいいなと思います。「交(まじ)っていましょう」の位置付けは参考になりました。いつも質問文までも確認していただき本当にありがとうございます。『こころ』にますます惹かれたような気がします。

awayuki_ch
質問者

補足

1. >比較可能なものであればどのような一般名詞でも適用できます。 「○が○なので」は、○の特異(特殊)な事柄(状態)を表す慣用句とは知りませんでした。「比較可能なもの」という基準がよく理解できません。どの条件に相応しい名詞はこの慣用句を使えるのでしょうか。 この慣用句をよく理解できたかどうか自信がないので、文を作ってみました。不自然なところがありましたら、添削していただけませんか。 (1)病院のルールが病院の(←ちなみに、この二番目の「病院の」は省略できるの?)ルールなので、面会できない時間で見舞うことができないのだ。 (2)パソコン音痴がパソコン音痴なので、彼女にどのように説明してもただの馬の耳に念仏だ。 (3)花火が花火なので、儚いと言われても心底から美しいと思い続けている。 (4)オムライスがオムライスなので、食事を済ましたばかりのに、それを発見したらまた目に光を放った。 2. >この文章は、 「花よりもそちらを向いて眼を峙(そば)だてているものが沢山いた」 と書き換えることが可能だろう、と私は思います。 「ものが沢山いた」は「ものが沢山あった」の入力ミスなのでしょうか。

その他の回答 (4)

  • hakobulu
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回答No.5

#3です。ご返事ありとうございました。 1、 意図は大体把握していただいたように思います。 最も大事な要点である「食べ物が食べ物なので」が記されているので、卵の殻が割れてアヒルの赤ちゃんが何とか顔を出しました。 しかし、「○が○なので~」という文の中に「オムライス」という言葉が出てくるので、また顔を引っ込めてしまったようです。 ちょっとカスタマイズしてみます。 『「ほうれん草」といえば「ポパイ」(アメリカの漫画の主人公)。「オムライス」といえば「彼女」。オムライスはまるで彼女の命の綱だ。一日食べないと元気がなくなる。 今、彼女はお腹をこわして医者から絶食を言い渡されているが、オムライスを食べたがって困る。 今日の夕食は、メニューの内容が内容なので、絶対に彼女に知られないようにしなければならない。』 2、「彼はオムライスが大嫌いだ。~」の例は、「彼女の作ったオムライス」ということが【特異性】というわけですね。 意図はわかりますが、【彼女が作った料理】が特異性になる(オムライスでなくても良い)ので、ここはオムライスを比較するよりも【作った人】を比較するほうが自然な表現になります。 『しかし、制作者が制作者なので(シェフがシェフなので)、「うまい! うまい!」と一生懸命誉めあげながら【ソース一滴も】残さずきれいに食べた。』 などとするのが良いでしょう。 文末の、 『>「今度また作るわ」と隣から嬉しそうな声が聞こえてきた……。』 というブラックユーモアは相変わらず冴えていますね。^^ 2、 【もの】【あった】→【本質的表現】 [人][いた]→[人に関する直接的表現] という分類が可能な【場合がある】と思います。 本質的表現の強い順に並べると 「ものがあった」>(「ものがいた」=「人があった」)>「人がいた」 となるでしょう。 しかし、厳密にこのように区分されているということではありません。 場合によるでしょうが、 (「ものがいた」=「人があった」)なので、文全体のニュアンスを損なわずに書き換えることが可能と考えて良いと思います。 ◆「あひるの卵」は手頃な大きさかもしれませんね。 恐竜の卵だったらショックが大きすぎてかわいそうですし、 バッタの卵だったらあまり反省しないでしょうからね。^^  

awayuki_ch
質問者

お礼

 ご返事ありがとうございました。「○が○なので~」の使い方はよくわかりました。「絶食」は中国語の場合は「(抗議の意思表示や自殺のために)ぜっしょくする」という意味しか使いません。お医者さんから「絶食」を言い渡されることはないと思います^^。また日本語と中国語の違いに気づきました。「ソース一滴も」はいいですね。実は、「ソース」、「汁」、「調味料」は思い浮かんだのですが、どれにしようか迷っていました。「制作者が制作者なので(シェフがシェフなので)」は大変参考になりました。先入観をもったせいか、私は自分の書いた作文をもう一度直すのが苦手で大変な作業になるんです^^。「もの」と「人」について本質的表現の強い順に並べていただき助かりました。「あひるの卵」を抱えちゃんと反省します。hakobuluさんのユーモアは陽だまり色だと思います♪。

  • Ishiwara
  • ベストアンサー率24% (462/1914)
回答No.4

(1)「場所が場所なので」はどういう意味でしょうか。 【答】そのような特別な場所だったので (2)「そちら」はどんな場面を指すのでしょうか。 【答】そこにいた目立つ男女のこと (3)「眼を峙(そば)だてる」という表現は古風でしょうか。現在でも使われますか。 【答】「目」には、ほとんど使いません。なぜか「耳」なら使います。「耳をそばだたせる」という「使役形」のほうが多く使われます。 (4)「目を傾ける」、「目をそばだてる」、「目を澄ます」はみんなニュアンス的には微妙に違うのでしょうか。 【答】「目」にはほとんど使いません。 (5)「耳を傾ける」、「耳をそばだてる」、「耳を澄ます」はみんなニュアンス的には微妙に違うのでしょうか。 【答】「そばだてる」「済ます」は、ごく小さい音を注意して聴こうとすること。「傾ける」は、意見などを無視しないで聞いてあげること。 (6)なぜ「人が沢山いた」ではなく、「人が沢山あった」と書くのでしょうか。 【答】ほとんど同じです。現代では「人がある」は、次第に使われなくなっています。 「交(まじ)っていましょう」は「交じっているでしょう」という意味になるのでしょうか。現在でもこのように使われますか。 【答】現在は「いるでしょう」がほとんどです。昔は、天気予報で「明日は晴れましょう」と言ったものです(80歳以下は、ほとんど覚えていませんが)。この「ましょう」は let us との混同を避けるために、使われなくなりました。しかし「いるでしょう」は、日本語に次のような不規則性をもたらしました。 ○いるでしょう ×いるです ×いるでした 日本語は、その「規則性」において、たいへん美しい言語だったのですが。

awayuki_ch
質問者

お礼

 いつもお世話になっております。ご親切に教えていただき誠にありがとうございます。理解しやすいと思いました。昔は、天気予報で「明日は晴れましょう」と言ったのですね。いろいろ参考になりました。本当にありがとうございました。美しい日本語を勉強したいので、これからもよろしくお願いいたします。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.3

#2です。ご返事ありがとうございました。 1、 >>比較可能なものであればどのような一般名詞でも適用できます。 >「○が○なので」は、○の特異(特殊)な事柄(状態)を表す慣用句とは知りませんでした。「比較可能なもの」という基準がよく理解できません。 ーーーーーーーーーー 「比較可能なもの」のわかりやすい例は、たとえば固有名詞(あるいは人称代名詞など)は不可ということです。 「複数の評価が可能なもの(こと)」という意味です。 「人格が人格なので信用できない」という表現はあっても、 「彼が彼なので~」とか「AがAなので~」という表現はできない。 「山が山なので簡単に登るわけにはいかない」は○でも、 「エベレストがエベレストなので~」は×。 といったような具合です。 提示された例は、 (ア)【特異な状況】が想定できない。 (イ)【比較できない事柄】について言及している。 という2つの理由で全て不可です。 (1)病院のルールが病院の(←ちなみに、この二番目の「病院の」は省略できるの?)ルールなので、面会できない時間で見舞うことができないのだ。 :「病院のルール」というのはどこでも殆ど同じでしょう。 その病院だけ特別に面会時間に厳しいわけではないと思います。 つまり、「病院のルール」は「比較できないもの」と解釈すべきです。 また、 「面会できない時間で見舞うことができないのだ。」というのは、 「=病院のルールそのもの」ですから「ルール」の内訳のネタバレになってしまい不可です。 【○の特異性の理由】は暗示されてこそ効果を出せるからです。 この点に関しては、他の要素と関連して後で再度言及します。 もしも、「とても厳しいルールを持つ病院」があったとすれば、 他の病院と比較して【ルールが厳しい】ということが特異性になります。 「あの病院は、他の病院と比較してとても厳しいルールがあるので、面会時間が非常に限定される」 などという表現をしたい場合が出てくると思います。 この場合は、 「(あの)病院のルールがルールなので、簡単に面会に行くことができない」 あるいは、 「あの病院はルールがルールなので、とても評判が悪い。」 などという表現が可能になります。 しかし、ルールに関連して特異性として取り上げるほど他の病院と差のある病院は殆ど無いと思われるので、実際にこのような言い方がなされることはないように思われます。 他の病院ではとても考えられないが、あの病院は全員が名医である。 というような状況は特異性が確実なので、 「あの病院は先生が先生なので評判が良い」などという表現が自然になるでしょう。 『あまりに極端な特異性の結果、~という事態が起こる』ということを表現するための慣用句ですから、確実な特異性が存在しないと不自然になります。 また、特異性の内訳をネタバレさせるとこの用法を使う意味が無くなります。 「ちなみに、この二番目の「病院の」は省略できるの?」という疑問は鋭いですね。 省略可能です。 (2)パソコン音痴がパソコン音痴なので、彼女にどのように説明しても【】馬の耳に念仏だ。(ただの馬の耳に念仏、という表現は適当ではありません。) :「パソコン音痴」という概念は比較不可能です。 「ルール」は(厳しいか厳しくないかという)比較ができますが、「音痴」はすでに「音痴でないこと(人)」比較された結果ですから、これ以上比較できません。 【特異性を暗示する】ためには、 「説明する相手が相手なので、どのように説明しても馬の耳に念仏だ。」 などと表現する必要があります。 「説明する相手」を比較しています。 「パソコン音痴」を特異性として暗示するわけです。 (ex1) A:「説明する相手が相手なので、どのように説明しても馬の耳に念仏だ。」 B:「彼女、そんなにパソコン音痴だった? 」 (ex2) A:「説明する相手が相手なので、どのように説明しても馬の耳に念仏だ。」 B:「いや、それは君の説明の仕方が悪いんだと思うよ。」 などといった会話が可能になります。 (3)花火が花火なので、儚いと言われても心底から美しいと思い続けている。 :花火はどれも美しいという前提があるのでしょうから、花火自体を比較することはできません。 特異性が不明だ、ということです。 比較したければ、 「ものがものなので、儚いと言われても私の好きなものベストテンから外す気にはなれない。」 などという表現は可能かもしれません。 「花火が花火なので~、」という表現が有効になるためには、【ある特別な花火】の存在が前提になっていなければなりません。 たとえば、名人が作った10年に一度作れるか作れないかというような花火です。 「花火が花火なので打ち上げてもらうには莫大な費用を要する」 などという表現が可能になるでしょう。 ここで少し(前回の内容を修正しつつ)整理しておきます。 【○が○なので~】は、 (ア)『○のあまりに極端な特異性の結果、~という事態が起こる』ということを表現するための慣用句。 (イ)○の持つ特異(特殊)な事柄(状態)の理由(原因)は暗示するに留める必要がある。明示すると効果は無くなる。 (ウ)○は、比較可能なものに限定される。 (4)オムライスがオムライスなので、食事を済ましたばかり【な】のに【】また目に光【が宿った】。 :これは宿題にしましょう。 ヒントは、 a.オムライスという言葉は絶対に使えない。 b.「オムライスを見ている」という状況でしょうが、それは別に(他の文で)表現する必要がある。 c.「作者はオムライスが好きである」という事実を(他の文で)読者に知らせる必要がある。 以上です。 気が向いたら、当初意図した内容を、これらの条件を全て満たしながら作り変えてみてください。 これは慣用句ですから、字の通り慣れるしかありません。 あまり深刻に受け止めないで気楽に使ってみてください。 2、 >>この文章は、 「花よりもそちらを向いて眼を峙(そば)だてているものが沢山いた」 と書き換えることが可能だろう、と私は思います。 >「ものが沢山いた」は「ものが沢山あった」の入力ミスなのでしょうか。 ーーーーーーーーーー :入力ミスではありません。^^; ここでの「(人がたくさん)あった」は、単に「人がいた」ということではなく本質を捉えた表現になっています。 「もの」という言葉も、「物」ではなく本質的概念を表わす場合が良くあります。 「[人]がたくさん【あった】」と 「【もの】が沢山[いた]」という2つの文は、 【本質】と[人に関する直接的表現]が一対の組み合わせになっているために、文全体のニュアンスを損なわずに書き換え可能ではないか、ということを述べたつもりです。 不明点があれば、どうぞ補足してください。  

awayuki_ch
質問者

お礼

 ご返事ありがとうございました。今回は大きなあひるの卵ですね^^。(中国語では、試験零点のことを「あひるの卵」と言います。ちょっと面白い言い方です。)「○が○なので~」に関しては、私の書いた文を一つずつ詳しく分析していただき心より感謝いたします。hakobuluさんの再度の説明を拝見してから、前よりは少しわかるようになりましたが、まだ自信がありません。出来上がった宿題は叱られるかどうか心配なんです……。「もの」の件はまだ難しいです。

awayuki_ch
質問者

補足

1. とんでもないフィクションを作ってみました。ちょっとした光が見られたらいいなと思います(^-^;)。 1.「ほうれん草」といえば「ポパイ」(アメリカの漫画の主人公)。「オムライス」といえば「彼女」。オムライスはまるで彼女の命の綱だ。一日食べないと元気がなくなる。食べ物が食べ物なので、中華をたくさん食べたばかりなのに、隣のテーブルのオムライスの姿を探測したら、また彼女の目に光が宿った。 2.彼はオムライスが大嫌いだ。彼女はそれを知らずに台所で一生懸命がんばっていた。出来上がった作品はオムライスだとわかった時、「災厄だ!」と彼は心の中で大声で叫んだ。しかし、オムライスがオムライスなので、「うまい! うまい!」と一生懸命誉めあげながら調味料も残さずきれいに食べた。「今度また作るわ」と隣から嬉しそうな声が聞こえてきた……。 2. >「[人]がたくさん【あった】」と 「【もの】が沢山[いた]」という2つの文は、【本質】と[人に関する直接的表現]が一対の組み合わせになっているために、文全体のニュアンスを損なわずに書き換え可能ではないか、ということを述べたつもりです。 前回の「もの」の後ろに続いたのは「いた」ではなく、「あった」でした。ここの「もの」が「人に関する直接的表現」なら、「いる」という動詞を使うのではないかと思います。 なぜ「【もの】が沢山[いた]」と「[人]がたくさん【あった】」と文全体のニュアンスを損なわずに書き換えられるのでしょうか。

noname#74006
noname#74006
回答No.1

一般読者に過ぎないので100%の解答はできませんが、わかる限り答えてみます。 1 (1)公衆の面前である、ということです。一対の男女が人気のない隠れた場所でいちゃついていたなら、他人の秘め事を盗み見たことなってしまうので、見て見ない振りをしなければなりません。ですが、二人は公衆の面前で堂々といちゃついているので、周りの人も堂々と二人のいちゃつきぶりを眺めている、ということです。 (2)桜の花は見上げないと見えませんが、花の下を睦まじそうに寄り添って歩いている男女は横を向かないと見えません。見上げるほうではなく横を向くほうを見ている、ということです。 (3)現在でも使います。ただし文学的な表現で、話し言葉では使いません。 http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E3%81%9D%E3%81%B0%E3%81%A0%E3%81%A6%E3%82%8B&stype=0&dtype=0 (4)辞書で使われている例文に注目するといいです。 耳を傾ける↓ http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E8%80%B3%E3%82%92%E5%82%BE%E3%81%91%E3%82%8B&stype=0&dtype=0 耳をそばだてる↓ http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E8%80%B3%E3%82%92%E3%81%9D%E3%81%B0%E3%81%A0%E3%81%A6%E3%82%8B&stype=0&dtype=0 耳を澄ます↓ http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E8%80%B3%E3%82%92%E6%BE%84%E3%81%BE%E3%81%99&stype=0&dtype=0 「耳を傾ける」は、自分に向けて話している相手の話に集中する、という使い方です。 「耳をそばだてる」と「耳を澄ます」は、自分に向けられているのではない、他人同士の会話や外部の音を聞き取ろうとする、という使い方です。 「耳をそばだてる」と「耳を澄ます」は同じように使いますが、「耳をそばだてる」のほうがより文学的な表現だと思います。 どれが美しいというのではなく、その時その時にもっとも適した表現を使うのが美しいのだと思います。 (6)夏目漱石氏の美的センスだと思います。もしくは、当時の流行の使い方だったかもしれません。すみません、ここはあまり自信がないです^^; 2.古い言葉だと思います。私の感覚では、戦前まではこんな使い方をときどきしていたように思いますが、今使うととてもおかしいですね。笑いは取れそうですけど。質問者さまの推測どおりの意味だと思います。昔の言葉は得意ではないので、ここも自信ないです。 ちなみに、1の舞台は上野公園だろうと思います。上野の花見の名所といったらそこですから。 質問者様の文章はとてもお上手です。私よりきれいな文章だと思います^^;

awayuki_ch
質問者

お礼

 ご親切に教えていただき誠にありがとうございます。申し訳ありませんが、1(2)のおっしゃる意味はよくわかりません。いろいろ参考になりました。励ましていただきありがとうございます。日本語はまだまだです。私の書いた日本語に不自然なところが多いと思います。語感を少しずつつかまえたいです。がんばります。

awayuki_ch
質問者

補足

> (2)桜の花は見上げないと見えませんが、花の下を睦まじそうに寄り添って歩いている男女は横を向かないと見えません。見上げるほうではなく横を向くほうを見ている、ということです。 申しわけありませんが、これは何を説明しようと思われますか。私は「そちら」という場面を知りたかったのですが……。

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