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仏語:接続法と話者の考えの反映
(1) Marie doute que ce soit facile. (2) Marie trouve que c'est facile. (3) Marie sait que John a ete marie. (1) と (2) では話者(≠Marie)が「それは容易であるかどうか」の価値判断を文に表していない。一方(3)では接続法のかわりに直説法が使われているので、「ジョンが結婚した」ことを事実と見ている、つまり話者の価値判断、あるいは状況判断が表現されている。 と以上のように考えました。果たして本当でしょうか?
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次のcroireとpenserの違いに関する質問に回答をしていたら、なんとなく質問の趣旨が分かったようなので補足します。 確かに、話者が「それは容易である」かどうかは分かりません。(1)の文章では、「それは容易であることを、Marieは疑っている」という話者の判断がある、ということです。(2)の文章では、「それは容易であると、Marieは考えている」と話者は判断している、ということです。ここでは話者の判断内容の違いが接続法や直説法を要求するのではなく、話者が判断した状況の中で、Marieがdouterしているのかtrouverしているのかによって、これに続く従属節中でほぼ機械的に接続法または直接法が用いられていると思います。
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- PunPiPon
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ご質問の趣旨がよく分からないのですが、私なりに思うところは、「それは容易である」とMarieが疑っている(douter)ので接続法、「それは容易である」とMarieは考えている(trouver)ので直接法との区別がされていますが、いずれの文もやはり話者がこのように判断したのだと思います。つまり、(1)の文章ではdouterという動詞を、(2)の文章ではtrouverという動詞を選択した時点で話者の判断が働いていることにはならないでしょうか。 (3)の文章では、「ジョン~」ことを事実として見ている、とありますが、事実として見ているというよりも、事実なのです。少なくとも話者にとっては事実なのです。ですから(3)の文章は、John a ete marie. Et Marie le sait.ということです。
お礼
専門家のかたにご回答願えるなんて光栄です! (3)では a を ait に変えたらおかしいですか?その場合、判断の揺れないし自身のなさはマリーのではなく話者ということになりますか。 明確な回答をいただけてうれしいです。