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浄土真宗における悟り

浄土真宗における悟りとは何でしょうか?

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回答No.3

仏教の教えは悟りをめざします。 自らの歩みの視点では、仏道と呼び 教えの道理の視点では、仏法と呼びます。 めざす悟りとは何でしょうか。 私たちの煩悩のもとは無明(真実に暗い)です。 彼我の真実に目覚め煩悩を滅することを悟りと言います。 私は浄土真宗の門徒ですのでその立場から話してみます。 悟りへの道は大きく2通りの道があります。 一つは聖道門、もう一つは浄土門と呼ばれています。 聖道門は自力聖道門とも呼ばれ、禅定(心を静かに定める)など自らの力で悟っていく方法です。 浄土門は他力浄土門とも呼ばれ、仏のはたらきを信じそこに全てを任せ自らが必ず仏になる(悟る)ことを疑いなく受け止めていく道です。 ここからは端的に(端折って)述べます。 即身成仏(悟った)と言っても、率直にわが姿を見ると煩悩まみれの姿がある、澄み切ったと思った心がまた揺れ動いてくる。 自らのごまかしようの無い姿を直視されたのが親鸞聖人です。 とても自分は悟ることのできない身であると受け止められたところに阿弥陀仏の本願(必ず浄土に生まれさせ仏にする)が間違いの無い真実として信じられたのです。 通仏教では教行証(教えによって修行をして悟りを得る)が原則ですが、浄土真宗では「信」が重要になります。 教行信証(教えにより阿弥陀仏が願行成就されたまことを受け取って、必ず浄土に生まれ仏になる身にこの世で定まる)と表現できます。 阿弥陀仏の本願を起こされたのも、それを実現するための修行されたのも、それを衆生に働きかけるのも阿弥陀仏の仕事であり、それを私が受け取る(信心)ところに、私が必ず浄土に生まれて仏になる(悟る)ということが定まります。 この世で仏になった(悟った=正覚)とはいえないけれども、必ず浄土に生まれて仏になる(悟る)身にこの世で定まる(正定聚=等覚)というのが浄土真宗の特徴です。 八万四千の法門と呼ばれる他のあらゆる仏教を否定することは決してありませんが、全ての法門は阿弥陀仏の救いに導くための手立てと捉えます。

pas26
質問者

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ご回答ととても詳しい説明ありがとうございました!

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回答No.8

ANo.3です。 幸い親鸞聖人は、後世の私たちのために、数多くの著述を残されました。 したがってこれらの著述を通して私たちは、親鸞聖人の「生の声」を聞くことができます。 浄土真宗は、本願力(他力)回向の信心を得ることに尽きます。 自力諸行(自らの力を頼りにした修行)や 自力念仏(自らの称える念仏を頼りにする) を拠り所にするのではなく もっぱら、阿弥陀仏の願い(本願)を聞くことです。 「聞く」と言うのは、世間話を聞くことではありません。 阿弥陀仏の願いのありのままをわが身に聞き届けるところに「信心」が定まるのです。 このことを「聞即信」と言われています。 親鸞聖人は『教行信証』という著述の中で 「しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末(しょうきほんまつ)を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。」 と説かれています。 本願の生起とは本願が起こされた訳(私が迷いの中にいること=無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず)、 本末とは本願の成り行きと結末(法蔵菩薩が願いを起こされ修行により完成し阿弥陀仏となりそのはたらきを衆生に差し向けられたこと) 成仏のための自力の計らいが廃れ(自力無功)、阿弥陀仏の本願に任せるところに信心が定まるのです。 信心も「阿弥陀仏より賜りたる信心」なのです。 私の行いの善し悪しが、成仏の材料にならないことを知らされることです。 歎異抄(唯円著いわれている)と言う書物には親鸞聖人の言葉として、 第1条 「・・・・弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆゑは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと[云々]。」 また有名な第3条には 「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ(欠けている為)、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。」 (悪人=自力で成仏できない私のこと) と言われます。 浄土真宗は「絶対他力」と言われています。

pas26
質問者

お礼

2度にわたるご回答と大変詳しい説明どうもありがとうございました!

  • mmky
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回答No.7

#6 の誤り訂正 誤「即身成仏」→ 正「悉皆成仏(しっかいじょうぶつ)」 「即身成仏」は空海上人のほうでしたね。 表現間違い、ごめん。

pas26
質問者

お礼

誤り訂正ありがとうございました!

  • mmky
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回答No.6

まだ締めていないようですので、追加の参考まで 浄土真宗といえば親鸞聖人ですが、親鸞聖人は、叡山、天台宗で学んでいたんですね。非常に優秀な学生だったといわれています。天台宗の祖といえば、中国の天台智顗(てんだいちぎ)ですね。後世中国にわたった伝教大師最澄が天台宗を学び開いたのが叡山、天台宗なのですね。天台智顗(てんだいちぎ)の教えに「一念三千論」という有名な教えがあります。簡単に説明すれば、「心の針は生きている間中いつも不安定にいろいろな世界、ここでは3千世界に向いている、この針の方向こそが死後帰る世界でもある」ということですね。親鸞聖人は優秀な学生でしたからこういう「一念三千論」も学ばれたと思いますね。この親鸞聖人在世の当時は戦乱に明け暮れる世界ですから人々にとって戦争による殺人や恐怖、飢えなどが日常茶飯事だったわけですね。例えば、日々闘争に明け暮れて死んでいったとするとこの「一念三千論」に当てはめれば、その方の行く世界は闘争地獄以外にないですね。飢えで死ねば餓鬼地獄、などとろくな世界には返れないのですね。ところが天台宗では死ねば仏になる即身成仏が主流でしたから優秀な親鸞聖人も悩まれたと思いますね。叡山を下り法然上人に念仏を学びその後念仏宗派の祖といわれるようになるわけです。念仏は、天台宗の即身成仏とは違うのですね、一途に阿弥陀仏にすがるということは、「一念三千論」にあてはめれば心の針を一途に阿弥陀仏に向けるということなんですね。煩悩即菩提といいますが煩悩に心の針が振り回されることがいいといっているのではないのですね。雑念(煩悩)は生きている限りたえることはないがいつも反省し心の針を常に仏に向けるよう努力する、それが念仏の本来の意味ですね。その結果、心の針は仏に向くようになり、よい世界(天国)に帰れるということですね。心の針の平均が指す方向がそのまま個々の悟りの段階を示すということですね。仏教では執着はよくないが唯一仏(阿弥陀仏)への執着はしてもよいということですね。親鸞聖人は叡山をおり妻帯をしましたので、自身を破戒僧とせめてはいましたが、仏道の本道をはずしていたわけではないですね。この点は、今で言えば東大総長にでもなれた人物がいう「愚僧親鸞」は、当然額面とはちがいますね。

pas26
質問者

お礼

ご回答と詳しい説明どうもありがとうございました!

  • mmky
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回答No.5

#1の追伸 >阿弥陀仏の本願(一切衆生救済)を実現するよう日々精進して生きること 具体的にはどうすればいいのですか? まず、己の心をむなしゅうして阿弥陀仏の本願をつかむこと。当然、己の心をむなしゅうしてなどといっても簡単に出来るものではないですから、つかみきれるものではないですね。そこで阿弥陀仏を信じ、自らを日々正しながら日々人のために生きることですね。それだけのことです。それが日々の精進ですね。その先に悟りはあります。場所や修行形態ではありませんね。親鸞聖人のように日々人のために生きるという思いを実践すればよいだけですね。長い心の人生の旅ですね。

pas26
質問者

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補足へのご回答ありがとうございました!

pas26
質問者

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「むなしゅう」の意味を教えて頂けないでしょうか?

  • daigyo
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回答No.4

 私という人間、欲深く妬み深く見栄っ張りで怒りっぽく、聖人どころか普通の人の足元にも及ばない、本当にダメな人間だと心底思えるようになること…、でしょうかね。これがなかなか難しくて。

pas26
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました!

  • ri-zyu
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回答No.2

心の問題を阿弥陀様(他力本願)にお任せする事ではないでようか。 他力本願と言うと人任せと思いがちですが心を他力(阿弥陀様)のお任せするのであって外の現実の問題は自力だと思います。 親鸞聖人は悩みや不安は人間から絶つことは出来ない(煩悩具足のこの身)と悟られたんじゃないでしょうか。

pas26
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました!

pas26
質問者

補足

>心の問題を阿弥陀様(他力本願)にお任せする事ではないでようか。 どうしたらお任せできるのですか?

  • mmky
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回答No.1

阿弥陀仏に帰依し阿弥陀仏を信じきって阿弥陀仏の本願(一切衆生救済)を実現するよう日々精進して生きることにより心が真空妙有(菩薩界)の世界に到達することですね。 それが親鸞聖人が到達した世界ですね。

pas26
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました!

pas26
質問者

補足

>阿弥陀仏の本願(一切衆生救済)を実現するよう日々精進して生きること 具体的にはどうすればいいのですか?

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