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将軍と大名の関係

素人です。易しく教えて下さい。 織田信長が足利義昭と対立したとき、延暦寺は将軍側についた。武装解除するよう要請したが、延暦寺が拒否したため、1571年、信長は延暦寺を焼き討ちし、多くの僧侶が殺害したらしいですね。 信長は大名で、義昭は将軍ですね。 大名が将軍に楯突いていいんですか? それで、切腹とかにならないんですか? 大名が寺に命令できたんですか? 教えて下さい。 よろしくお願いします。

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  • mn214
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回答No.2

本来の上下関係で言えば将軍が上であって、大名はその下ということになります。 しかしながら、この時の信長と義昭では全く状況が異なります。 足利義昭は将軍家に生まれましたが、長男ではないため子供の頃からお寺に預けられて育った人です。 つまりは元々将軍を継ぐべき人ではなかったのですが、兄の将軍が暗殺されて自分自身も身の危険があった時に細川藤孝などに助けられて脱出して、各地の戦国大名を頼った揚句、最終的に信長を頼り、信長の後ろ盾によって朝廷から将軍の官位を授かった人です。 足利将軍家は義昭の兄である将軍が松永や三好に暗殺されるくらいですから、当時は既に足利将軍の威光はほとんどなく、将軍といっても有名無実という状態です。 足利将軍をトップにその下で各地を納める守護大名がいるという図式は既に崩壊しており、各地に戦国大名と呼ばれる新しい勢力が伸し上がった頃は足利将軍の威光よりも、戦国大名同士の力関係の方がものを言う時代になっています。 将軍義昭は、信長によって名目上の将軍にしてもらっただけの実際には全く力のない将軍であり、そのことは他の大名たちも皆解っているので誰も文句など言える状況ではなかった筈です。 つまりはこの二人の実際の力関係はあくまでも信長が上です。 大名が寺に命令できたかどうか?という疑問ですが、信長を他の大名たちと同列には語れません。 信長は日本国の王になろうとしていた人であり、信長にとっては戦国大名であろうと将軍であろうと巨大な寺であろうと、自分に歯向かうものは全てが抵抗勢力に過ぎないのです。 自分に歯向かうから叩き潰す、というそれだけのことです。 信長は本能寺で殺されなければ、どうやら朝廷まで滅ぼしかねない人でしたので、将軍や寺などどうでもいいレベルの話ですよ。

appleapple
質問者

お礼

将軍はみな偉いのだとひとまとめにしていました。 信長についても教えてくださってありがとうございました。

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  • nemosan
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回答No.5

>素人です。易しく教えて下さい。 実力のある家臣が非力な主君に楯突き打ち倒すことは、 歴史用語で「下克上」と言い、この時代の特徴を表す代名詞ですね。 http://wpedia.search.goo.ne.jp/search/%B2%BC%B9%EE%BE%E5/detail.html?LINK=1&kind=epedia

appleapple
質問者

お礼

恥ずかしながら、初めて聞いた言葉です。 勉強します。 アドバイスありがとうございました。

回答No.4

徳川幕府と混同しておられるのでは? 徳川幕府は将軍が絶対権力者であり、「幕藩体制」といわれる「幕府と諸大名(藩)」の主従関係・管理システムが完全に出来上がっていました。 大名が将軍に逆らうなんて考えられないほど幕府が強固な仕組みになっていた上に、「徳川家(幕府)直轄地」(領地)が十分あり、各藩と渡り合っても負けないだけの力があったのです。 言い換えれば「幕末は力が弱くなったから体制が崩壊した」といえるわけです。 比べて室町幕府(義昭のころ)はそのような「幕府の大名を管理する仕組み」がありませんでした。 各地の守護大名の上に足利家が将軍として存在していたわけです。 事実上直轄領など無く、大名の領地の配分は大名同士の力関係に頼っていました。 実力のある大名が将軍を支援していただけです。 義昭体制では、京都を押さえていた大名家は織田家ですので、幕府の意向は「織田家の武力と経済力」が背景になっていたわけです。 矛盾ですが、幕府の中で織田家に公然と反旗を翻した(言うことを聞かなかった。当然といえば当然)人間が義昭本人だったので、実行力がない以上織田信長が義昭の指示に従うはずがありません。 結果として義昭の意向は無視され、各地の反抗は個別に鎮圧された、ということになります。 「領地は幕府によって与えられるもの」という徳川幕府と「領地を持っている大名の上に立っている」という室町幕府では、大名に対する強制力が大きく違ったでしょう。

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質問者

お礼

混同、そうです。 将軍は偉い、と思っていました。 大名に対する力の違いがあるのですね。 勉強になりました。 回答ありがとうございました。

回答No.3

延暦寺に限らず戦国時代の大寺院というのは 自ら傭兵(僧兵)を有して大名のように武装自治していました。 このため大名との勢力争いもあり、比叡山延暦寺には 信長の前にも足利6代将軍が侵攻していますし、 松永久秀が奈良の東大寺に侵攻してどちらも消失しています。 将軍ですら寺に命令しても聞いてもらえないほど 寺は力を持っていたということになります。 武将たちもそうで、松永久秀は将軍を攻め殺しています。 「大名」の定義も江戸時代とは違います。 江戸時代の大名のように将軍から与えられた地位ではなく、 戦国時代の大名は武将が勝手に官職を名乗った (大名だと宣言した)ようなものです。 ですから信長を「大名」と言うのかどうかも疑問。 信長は将軍に命令されて天下を統一しようとしたわけではなく、 事実上、崩壊していた足利幕府大勢を完全に殲滅して 新しい武士の権力機構を作ろうとしたのです。 足利尊氏は元は鎌倉幕府の将軍の家来である執権職 北条高時の家来ですよ。足利尊氏は主筋である 北条氏を攻め滅ぼして天下を獲り、後に将軍職に 就きました。

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質問者

お礼

大名の定義の違いがとても勉強になりました。 回答ありがとうございました。

  • alpha123
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回答No.1

信長が「天下統一した」っていいますね。かれ以前の人は全国に号令する力なかったわけです。のちの徳川幕府にしても長州や薩摩を排除する力はなかった。九州ほぼ勢力下の薩摩から長崎奪う(直轄地、実際は肥後(佐賀県)に任せた)程度。 信長は将軍(義昭)追放したわけです。失敗すれば反乱者で殺されたでしょう。 >寺 仏教の伝来以来、有力者と宗教は手を組みます。武士はもとは荘園の管理人、大統領警護隊(ご主人守る)みたいなものです。 武士が土地の支配者になると旧体制勢力と利害ぶつかります。 おおまかにはこういう流れ。一向宗以外は早期に武士と協定(和解とも屈服ともいえる) http://sound.jp/unira/nobunaga/honganji.html

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質問者

お礼

強い者が勝ちということですね。 だいぶわかりました。 URLもありがとうございました。 おもしろかったです。

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