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信長・信玄のエピソードから感じる中世戦国の闘い
- 織田信長が足利義昭に詰問状を突き付けたエピソードから、信長の陰湿で細かくねちっこい性格が浮かび上がる。
- 武田信玄はこのエピソードを知り、信長の狂人ぶりと相まって武田家の将来に暗い予感を抱いた。
- 中世戦国の大ベテラン信玄が信長の行動に恐怖を感じ、ただ者ではないと嘆息した。
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17条の弾劾状は、暗に将軍家が天皇家に対して不忠の態度を取っている事を糾弾しています。 つまり義昭は、信長の包囲網作成の為に信長の不忠を糾弾しましたが、信長はそれに対して義昭は天皇に対して不忠を働いていると返す事で相殺しようとした訳です。 (だから、弾劾状の最初に「御参内の儀」を持ち出している。) その後に、細々とした事象を挙げることで、義昭の反骨心は政治的・権力的対立による物でなく、いわば、口うるさいお守り役の小言に嫌気をさした子供っぽい反抗で有るかの様な印象を与える事を狙っています。 (敵対行動を批判したら信長が不忠の徒である事を自分で認めた事になる…。) そもそも、当時の有力大名にとっては、義昭と信長の不仲の原因が何であるかは、噂としては色々聞いていても確証を得ている訳ではありません。 信長に明確な不忠が有って明確な大義名分が立つ(敵対勢力との抗争が停止し、不忠たる信長を討つべく共同できるのなら)なら兎も角、くだらない小言に嫌気をさした将軍の我侭に付き合って、軍を中央に進めて、その間に我侭だと判断して包囲網に参加しなかった敵対勢力に自国の領土を襲われたらと考えたら…。 (弾劾状の直後の第二次信長包囲網には、上杉も毛利も参加しなかった訳ですし、北条に到っては第三次にも参加していない…。) まあ、歴史上の信長の事を色々知っているている質問者さんですら、この弾劾状から「信長が陰湿で細かくねちっこい性格の男」と断じた位ですから、信長の人となりを知らない当時の各大名がこの文章から何を感じたかと言えば…。 しかも、義昭にとってはこの弾劾を否定しようにも、余りにも些事すぎて逆に効果的な反論が出来ません。 (否定すればするだけ恥を晒す事になる…。) また、今後の行いで天皇家への不忠を挽回しようにも、信長の影響下にある天皇家に接触するには、信長に詫びを入れるか、自発的に軍を起こす等して天皇家への信長の影響を削がねば成りません。 (先に義昭が軍を起こせば、信長は不忠の誹りを免れますし、義昭の軍を正当防衛の名義で討つ事も可能。) まあその存在自体は誰もが知ってはいたものの、実質的には何の権力もないと見限っていた天皇家を再度持ち出す事で、信長の不忠だとされた行為が義昭の天皇家への不忠故であり、信長自身は実は忠義を全うしていたとも取れる解釈を作り出した事は、まあ上手い議論のすり替えだと思います。 (信玄が何を感じたかは流石に判りませんが…。)
お礼
ご回答有難う御座いました。大変参考になりました。 私は今までこの17か条の意見書の提出は、信長の衝動的な行動であるとばっかり思っていました。 確かに信長が天下布武実現のパートナー(厭くまで傀儡)として将軍家から禁裏に切り替えようとしていた時期にあたりますよね。 室町幕府と対決する布石としての高度な政治的演出であったとは、目から鱗の思いです。 そう言った信長の意図を見抜く事のできた当時数少ない武将の一人が武田信玄であり、自分の老いと信長の若さを比較し、また自分と全く異質の価値観を持つライバルの出現が、武田家の将来に一抹の不安を覚えずにいられなかったのかもしれません。