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足利義昭公がこの先生

きのこるにはどうしたらよいでしょうか。将軍として実権を握り子に将軍職を譲るには? 足利 義昭(あしかが よしあき)は、室町幕府第15代(最後)の将軍[1]。(在職:永禄11年(1568年) - 天正16年(1588年))。父は室町幕府第12代将軍・足利義晴。母は近衛尚通の娘・慶寿院。第13代将軍・足利義輝は同母兄。 足利将軍家の家督相続者以外の子として、慣例により仏門に入って覚慶(かくけい)と名乗り一乗院門跡となった。兄・義輝らが松永久秀らに暗殺されると、三淵藤英・細川藤孝ら幕臣の援助を受けて奈良から脱出し、還俗して義秋(よしあき)と名乗る。美濃国の織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任する。やがて信長と対立し、武田信玄や朝倉義景らと呼応して信長包囲網を築き上げる。

みんなの回答

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1973/9604)
回答No.5

kuneokさん、こんばんは。 この際は浅井・朝倉、武田、上杉、毛利、長曾我部、島津といったまだ信長に従っていない大名と信長との関係を取り持ち、仲介の労を取って、生き延びるほかないと思います。うまくすれば、明智光秀に信長自体は殺されますから、そのまま、幕府は安泰ということになります。

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  • oska2
  • ベストアンサー率44% (2335/5193)
回答No.4

> 足利義昭公 歴史的には、秀吉から山城の国で1万石を貰って槙島藩初代藩主になっていますよね。 義昭の嫡男で2代目槙島藩主の足利義尋は、家康との会見で「自ら領地を返納」しました。 結果、槙島藩は消滅します。 足利義尋の長男・次男は「政争に巻き込まれる事を望まなかった」ので、仏門に入って天寿を全うしています。 結果、義昭の直系は無くなります。 >この先生きのこるにはどうしたらよいでしょうか。 先ず、秀吉の「お伽衆」として政治に加担しない事ですね。 実際のところ、将軍職を辞職した時から政争の道具になる事を望まなかった様です。 ※政治に関与しない(が、出陣命令があれば出陣する)方針を示したので、秀吉から1万石を与えられた。 ※藩運営は、家臣に指示を与えて間接的に統治。 関ヶ原の戦いの3年前に、61歳で大阪で死亡しました。 古文書では「腫物」ですから、「癌」かも知れませんね。 余談ですが・・・。 足利尊氏系の血筋(DNA)は、阿波公方家と喜連川藩主家で現在まで延々と続いています。

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  • meido2010
  • ベストアンサー率15% (68/448)
回答No.3

足利義明ねぇ、自らの出自ばかり偉そうに言ってましたが、実際は誰も まともに相手にされないかわいそうな人というイメージです。 足利義輝暗殺の後、貧乏のどん底に至って、それではいけないと父親が 義明を寺に行かせます。そこでは将軍家の血筋というだけで厚遇を 受けますが、そこからまた上がったり下がったりの繰り返しで、将軍職 に着いて京で暮らす内、贅沢三昧に飽きたのかまた威張りだし「おい、 信長」と言いたい放題。ついには京を追われ、貧乏将軍に逆戻り。 こんなに浮き沈みの激しい人生についていく人はいません。 それでも教訓になりますか?。

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  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11216/34841)
回答No.2

生き残るには?とおっしゃられても、実際に足利義昭は将軍を追放されてから毛利家の食客になり、そのまま天寿を全うしているので生き残れることは生き残れました。 ま、おっしゃりたいのはそういうことではなくて、足利将軍としての人生を全うして、子供に次の将軍を譲りたいということですよね? でもそれは無理だったと思います。織田信長という人は現代の基準でも日本人としては異端に映る日本史上でも空前絶後クラスの「絶対的帝王」だったからです。 後に信長は、本能寺の変の直前に突然「要らない」といいだして官位を返上したんですね。確かそのとき右大臣だったかな?で、朝廷は慌てたのです。官位がないと天皇に会わせることができない。ときの最高権力者と天皇が会えないのでは困りますよね。あくまで象徴天皇である今の時代でも、天皇と総理大臣が会うことができないと行事のときにどうすれえばいいのかとか問題が発生します。 だから朝廷はものすごく慌てて「あのー、もしかして右大臣てのが不満でらっしゃいますか。だったら、征夷大将軍、関白、太政大臣お好きなのを持ってってください」っていいだしたのです。おそらくなんですが、日本史上「好きな官位をどれでもいいから持ってけ」といわれたのは織田信長だけではないかなと思います。徳川家康でさえ形式としては朝廷に頭を下げて征夷大将軍になりましたからね。 だけど信長は、「どれもいらない」といってどの官位も受け取らなかったのです。信長の本意はいうまでもなく、「日本の帝王は俺であって、俺が官位を貰うってことは、俺が部下になるってことだ。それっておかしくね?」ってことであります。一説には天皇家というシステムさえやめようとしたといわれていて、それが本能寺の変の原因となったという「朝廷黒幕説」もありますね。 だから現実の権力者が信長である以上、足利将軍というのはどのみち不要な存在だったのです、信長にとっては。ときに自分に反逆する者に対しては苛烈なまでに復讐する信長にしては、「追放」というのはあまりに寛大な対処なんですよ。さすがに信長も「とはいうもののこうなれたのも将軍の権威があればこそだったのは否めないし」と思ったのか「さすがに将軍を磔にはできないなー」と思ったのか。でも義昭の兄の義輝は三好三人衆によって殺されちゃってるので、将軍だから世間体的に殺せないってことでもなかったとは思いますけどね。 足利幕府というのは、元々が将軍の権力がものすごく弱い政権だったんですよ。将軍そのものに実体的な権力がなかったのです。だから応仁の乱になっちゃって戦国時代になったのです。だから将軍である以上は実権も握れなかったし握れるシステムにもなってなかったのです。いってみれば今の天皇が自衛隊に檄文を送ったら自衛隊がクーデターを起こすのかって話です。そもそもが今上天皇も皇太子もそんなことはしないでしょうけれど、仮にやったとしてもその檄文に現実的な拘束力は何もないから、幕僚長も「いやー、命令系統に関係のないところからそういわれましても」と返すしかなくなりますし、実際にクーデターを起こして失敗して裁判にかけれられても「天皇の命令でやりました」といっても「天皇は関係ないやろが」といわれたらそれまでです。 足利義昭は己が野望のために決起したというような言われ方をされることが多いですが、実際のところは「いつ自分は殺されるかもしれない」という恐怖感から「決起するのは今しかない」という感じで「殺されないために決起した」という気がしないでもないです。

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  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (817/3048)
回答No.1

なんかスス板の某スレッドみたいなタイトルの付け方ですね^^ 足利義昭は史実でも実権など一度も握ったことが無く、その義昭が実権を掴みさらに子供に継承するなど無理難題です。 それでもあえて無理難題をクリアする方法を考えるなら、浅井・あるいは朝倉あたりを中心に据えた上で諸大名の格家(浅井、上杉、若狭武田、織田)から少しづつ兵を募ってから諸大名の連合政権としての体制を整えたうえで上洛することでしょうねえ。 自分に兵力が無い以上は格家を均衡させてその上に立つしかないように思います。

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