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秀吉の大名鉢植え政策

秀吉は小田原制圧後、徳川を関東に入れ中村、山内、堀尾といった小大名を駿河遠江に配しました。もし事が起きれば吹けば飛ぶような小大名であればすぐに徳川になびいてしまうと想像がつくと思うのですが、なぜ福島、加藤のような人材に、大領を与えて守らせるのでなく、あんな小大名を配置したのでしょうか?

みんなの回答

  • komes
  • ベストアンサー率29% (147/494)
回答No.8

No6の補足です。 秀吉は全般に直属の臣下に大録を与えない主義でした。 大録を得たのは過去の因縁があるために自然に大録になってしまった人がおおかっただけです。  前田、蒲生、上杉、伊達、徳川、島津、毛利、宇喜多、織田などがそうです。  これらに対しては僻地におくか、周辺に敵対勢力を配置するなどしています。 自身の周辺には弟秀長に大録を与えて護衛としています。 確かに直属の臣下の個々の兵力は少なくとも、天下を統一した勢力を動員出来る自信があったのです。 総兵力においては誰にも劣る事はありません。 家康を関東に移したのも伊豆、甲斐の金山を奪い蓄財を防ぐ意味もあったかとおもいます。 人間大録を得ると欲が出ることを警戒した事もあるかも・・・

yakyutuku
質問者

お礼

>秀吉は全般に直属の臣下に大録を与えない主義でした。 その割には加藤清正、福島正則に大録を与えてるんですよ。その割には加藤は遠く九州で重要な役目を与えられているのに、福島は尾張でヌクヌクと。なぜ彼らに大録を与えられるに、前線の重臣は小大名なのか?福島はなぜ大録を与えられるほど評価が高いのなら前線に配備されなかったのか?このへんがどうにもよくわからないんですよね。皆様ご解答ありがとうございました。

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.7

尾張、美濃ラインに大身の大名を入れ、東海道ラインには、足止めで時間稼ぎをすればOKという今までの回答者の皆さんの意見に合意。 補足するに、その時の尾張の大名が、羽柴秀次であり、中村、山内などが家老的な立場でつけられていた事実も重要です。 豊臣の全体の軍団の中で、秀次軍団があり、その前線部隊として中村・山内などが位置づけられた。その陣立てがそのまま領地配置になっているとすると理解しやすい。 実際の戦闘に置いては、だいたい3000名くらいで動くのが妥当で、中村など 10万石前後は、動員力でだいたい上記の3000名低堂になります。つまり、秀次軍団の中での、戦闘部隊としてちょうどよい大きさ。 戦闘単位として十分な兵力と、それなりの城郭を持った大名家が、並んでいるというのは、東海道を進む兵力にとっては十分な脅威となります。 中山道も、積年の恨みのある真田家や、徳川家から豊臣家に寝返った石川数正(松本)など、簡単には徳川家になびくような事があり得ない諸家が配置されています。

yakyutuku
質問者

補足

中山道は万全の配置に感じられます。ただ東海道を抑えれば、京に続く物流を遮断できるので、東海道で街道封鎖をするのが一番の防衛策だと思います。箱根の山か富士静岡間等の断崖をおさえれば、いくら戦上手でも相手の誘いにさえ乗らなければ、まず抜かれないと思います。そのためには3000では城を出る戦力としては不足で、できれば兵1万程度与えてしまえばと思いました。例えば福島を、前線防衛として駿河(兼遠江?)に置くほうが、清洲に置くよりよっぽど効果的に思えたしだいです。

  • komes
  • ベストアンサー率29% (147/494)
回答No.6

秀吉が関東を家康に与えた後、決して家康の反抗に備えがなかったとはおもえません。 当時の大名の配置を見ると、上野には信頼出来る真田信幸を、甲斐には浅野長政、遠江に中村一氏、駿河に山内一豊、堀尾吉晴、三河に池田、田中を尾張に福島、近江に石田三成と信頼する諸大名を配置しています。 個々には小身といえど武名は高く、相互に協力すれば強力な防壁を形成する配置でした。 この時代大録を得ていたのは秀吉の弟秀長や織田信長の係累であった秀信くらいです。  加藤清正は収め難かった九州のにらみ役として肥後に奉じられていました。 家康の背後には蒲生や佐竹を配し後年はともかく当時としては万全に気配りであったと思います。

yakyutuku
質問者

補足

大領を与えられるような大名が、手駒としてほとんどないために旧臣に細切れに駿河遠江を預けたというわけですね。単純に手駒不足ということでしょうか?

  • mn214
  • ベストアンサー率23% (306/1302)
回答No.5

#1の意見に賛成です。 駿河・遠江では大阪から見ると遠すぎてしまい、防衛ラインとしてはあくまでも第一次防衛線ということではないのでしょうか。 したがって、万一の場合は寝返る心配よりも、彼らが踏み潰されても仕方ないというくらいの気持ちで配置したのでは。 東の防衛には実際は美濃・尾張辺りが重点だと思います。

  • veldan
  • ベストアンサー率67% (125/185)
回答No.4

No.3さんの答えと被りますが、福島正則や加藤清正は秀吉からみれば若造 であり、老獪な家康に手玉にとられやすいと危うさ感じたのかもしれませ んね。 後の世では歴史的な評価が高い2人も、まだまだ頼りなかったのでしょう。 その点、中村、山内、堀尾は数十年来のベテラン軍人です。 老獪な家康に簡単に手玉に取られること無く、時間稼ぎしてくれるはずだと 踏んだのだと思います。 武将の能力は後の世の人(コ〇エイとか、笑)が決めていることであって、 当時としては人事的には悪くは無かったと思います。 現代に置き換えれば、対北朝鮮政策に当選したての25歳の若手議員を 中心メンバーに入れているようなものでしょうか。  

yakyutuku
質問者

補足

加藤清正、福島正則は秀吉から大領をまかされています。秀吉の評価がそんなに低いとは思えないのですが。 >25歳の若手議員を中心メンバーに入れているようなものでしょうか。 あれだけの大領を与えたのですから、まさに豊臣戦力の中心メンバーと考えたのだと思います。

noname#25898
noname#25898
回答No.3

おもしろそうな話題ですね。参加させてください。 秀吉公は、日本の戦乱の終結を確信していたと思います。 家康公もちょこちょこ配置転換をしていましたから、動かし易いことを念頭に入れてはいなかったでしょうか。 あと、加藤清正公、福島正則公は、少年時代から、性分を知っているので、戦がある際の重要な人物が、土地を治めたり、見張りをすることに必ずしも適していないと、踏んだのではないでしょうか。 一本気である、両公は、関ヶ原で・・・。 ですので、老練な、家康公の懐柔作戦にひっかかりそうです。

yakyutuku
質問者

補足

加藤清正は、まさに土地を治め見張りをするといった目的で熊本に入っていると思います。それに駿河は土地を見れば非常に収めやすい部類だと思います。その辺の評価は福島正則と加藤清正で違うということでしょうか?

  • veldan
  • ベストアンサー率67% (125/185)
回答No.2

山内一豊・浅野長政・堀尾吉晴・中村一氏らは美濃時代から羽柴軍の主力 でしたので、秀吉は彼らが裏切るというのは確率として低いと考えていた と思います。 吹けば飛ぶ、というのは間違いです。 仮に徳川軍が東海道を西進した場合、彼らはそれぞれの城に篭れば、 おそらく当時の機動力では日本一の羽柴軍本隊の到着まで時間稼ぎを することができます。 徳川軍がいかに強大でも、3つの要塞に篭った、しかもいずれも歴戦の 武将を立て続けに落とすのは困難です。 特に中村一氏は守戦の名人だったといいます。 確かに福島や加藤を置いても良さそうなものですが、彼らは秀吉の数少 ない一門の若者です。 彼らには大領を与え、今後の羽柴軍の主力を担ってもらわねば困ると考 えたのかもしれません。  

yakyutuku
質問者

補足

>彼らには大領を与え、今後の羽柴軍の主力を担ってもらわねば困ると考えたのかもしれません。  その場合なぜ駿河遠江ではだめなのでしょうか?土地柄も豊かですし今川、徳川が治めた土地柄で城の規模も問題ないと思います。そして家康が乱を起きしたとき、いち早く箱根の取り合いや富士静岡間の難所を大軍で封鎖されたら東海道は家康と言えども難攻不落になるのが目に見えていると思います。(信玄もそのルートは避けましたよね)主力と呼ぶには与えられた領地が少なく感じます。だったらなぜ大領を与えた次期主力をおかなかったか疑問なわけです。 領地が少ないならむしろ美濃以来の老臣にこそ中仙道で篭城をさせたら効果的に思えます。

  • 6dou_rinne
  • ベストアンサー率25% (1361/5264)
回答No.1

京大阪の防衛線は尾張、美濃でそのあたりには大身の家臣をいれており、それより関東よりの東海道筋に防衛力を強化しても中山道筋もあるので小身の家臣を監視役ということで配置したのでしょう。

yakyutuku
質問者

補足

つまりもし事が起きれば寝返りも覚悟の上で、初めから切り捨てられていたわけですね。

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