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山内一豊の妻はいつから、千代なんかになっちゃったの?

NHK功名が辻で、土佐の高知城は、連日大変な賑わいですね。さすが大河ドラマ。でも山内一豊(かつとよ)の妻、千代って・・・銅像まであるのに。名前が千代?名前分かってないのでは?千代じゃないですよね。岐阜には山内一豊の妻の像というのはあっても、妻千代とは書いてないし。山内一豊夫人顕彰会は、あっても千代の顕彰会ではないし。 山内一豊の妻という、逸話はきていたのに いつのまにか、山内一豊の妻、千代になってる。 原作者が勝手につけた名前ですか?

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回答No.1

功名が辻は見てませんが… 名前は千代の名前で有名ですが、実名かどうかは定かではないらしいですね。 以下、ウィキペディアで見つけた文章です。 見性院 (山内一豊正室) 見性院(けんしょういん、1557年(弘治3年)- 1617年12月31日(元和3年12月4日))は、安土桃山時代から江戸時代の女性。土佐国高知藩主となる山内一豊の正室。出自は諸説あり、浅井氏家臣の若宮喜助友興の子とも、群上八幡城主の遠藤盛数の子とも言われる。名は千代ともまつともいわれるが不詳。 山内一豊との間には娘(与祢姫)が一人生まれたが、天災(天正大地震)により幼くして失ってしまい、それ以降は子供には恵まれていない。 嫁入りの持参金、または臍繰りで名馬を購入した話や、俎板代わりに枡を裏返して使い倹約した話など、「内助の功」で夫を支えたエピソードで有名である。又、千代紙の命名の由来ともされている。これらの話は、江戸時代中期の新井白石の『藩瀚譜』や室鳩巣の『鳩巣小説』などから人口に膾炙したものであるが、真偽については必ずしも詳らかではない。 墓所は高知県高知市の山内家墓所。

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  • Pinhole-09
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回答No.4

No.1さんの通り、千代の名は江戸中期の新井白石等の書物によるのです。   それで戦前から千代で通っているので、司馬さんの命名ではありません。     1.白石等になんらかの根拠があったが、資料が焼失して残っていない。 2.千代夫人、まつ夫人というのは一豊の知り合いにいたので、白石等が誤って一豊夫人にした。    もっとも千代、まつは当時ありふれた名なので、二人いてもおかしくない。 正史も結構誤りがあり、伝承が後年立証されることも少なくないので、ここでは伝承として、一豊夫人は確かではないが千代といわれている。   にしたらどうでしょうか。(まつ説は傍系として)  

showta
質問者

お礼

そうですか、やはり白石の説なのですね、採用するにあたり、根拠・出自がある程度わかれば、一説として、受け入れることもしやすくなりますね。 古来、山内一豊の妻といった、呼び方で、賢妻ぶりは、日本史を学ぶ中で、解説はありましたが、なかなか女性の名前は表舞台では、記録されないもので、仕方がないものです。

  • phantom1
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回答No.3

確かに司馬氏の小説には誤った記述や事実の誤認などが散見されますが、司馬氏は歴史を題材にした小説を書いていたのであって、氏の著作は歴史研究書などでは無い事を認識するべきでしょう。歴史捏造とまで言うのは悪意を込め過ぎです。 功名が辻については、執筆時期が古く考証が充分でなかった事を司馬氏自身が認めており、生前の司馬氏は映像化の打診を断っていた事実もありますが、氏の死後になって橋本高知県知事の梃子入れにより映像化が決まった経緯があるようです。 千代と言う名前に関しては、小説の登場人物である以上、呼び名や通り名が無ければ会話のシーン等が成立し辛いので、明確な記録が無く不明の場合は作者が勝手に命名するのも仕方の無い事です。若い一豊が新妻を「見性院 」と呼ぶ訳には行かないでしょう。

showta
質問者

お礼

そうでした、高知県知事は、もとNHKでしたね。選挙速報などでもよく番組で解説してましたよね。 コネはいくらでもありますよね。 まあ、古来正史以外の合戦記などのよみもので、勘違いしている史実も多くありますね。それらを捏造と切って捨てるには気の毒な気もいたします。

回答No.2

原作者が歴史捏造の神様ですから…