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井伊家(彦根藩)35万石

譜代の井伊家が 親藩である水戸徳川家(常陸35万石)と同格なのは何故でしょうか? 外様の前田や島津は謀反など色々配慮して高禄なのは分かりますが…

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  • tanuki4u
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回答No.2

対大坂城攻撃態勢の凍結したカタチ というのが家康の各大名評価。 だから 彦根藩 直孝(なおたか)〔正四位上・左中将〕 15万石→20万石→25万石→30万石(35万石格) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%A6%E6%A0%B9%E8%97%A9 津藩 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E8%97%A9 石高は伊勢・伊賀2国を合わせた22万石(大坂の役後、32万3,000石に加増 両翼に信用できて実践能力の高い井伊直孝と藤堂高虎を配置。 その配置が、凍結した 別の言い方をすると、徳川四天王だとか、御三家とか言っても、実際の軍事を考えれば、現場指揮者として使えるやつが、使われて加増を受けている。それが 井伊直孝と藤堂高虎 水戸家との比較など実際に戦闘することを考えれば関係ない。

azuki-7
質問者

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ありがとうございます

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  • sudacyu
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回答No.5

 大名家の格と石高は一致しません。  徳川幕府における武家としての格付けは、江戸城に登城した際に詰める「大廊下、大広間、溜間、帝鑑間、柳間、雁間、菊間広縁」の7つに大きく分かれます。  水戸家は、最上位の「大廊下上之部屋」詰めなのに対して、彦根井伊家は、溜間詰めです。  また、この家格・石高の他に、朝廷から与えられる官位による格付けもありました。  水戸家は、正三位で中納言(三位以上は、正・従の二つの区分だけ)  井伊家は、正四位上権中将(四位以下は、正・従の他にそれぞれ上と下の区別がある)  参考までに、松の廊下刃傷事件で有名な吉良義央は、4200石ですが、従四位上 左近衛権少将でした。  薩摩島津家    72万石 従四位上 権中将  仙台伊達家    62万石 従四位上 権中将  肥後熊本細川家  54万石 従四位下 権少将    江戸幕府は大名を、石高・幕府における席順・朝廷の官位という、三つの異なる物差しで格付けしていました。  石高の上下=席順=官位であれば、誰が誰の上位か明確になることで、競争が激しくなります。  全く異なる物差し三つを併用することで、領地を与えることなく自尊心を満足させたり、忠誠心を高めたり、褒美として使うなど、微妙な人間関係の調整を行いました。 <参考> 伺候席 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%BA%E5%80%99%E5%B8%AD

azuki-7
質問者

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ありがとうございました

回答No.4

azuki-7 様、 私の知識より回答させて頂きます。近江、佐和山藩(後の彦根藩)の初代藩主であった徳川四天王と呼ばれた井伊 直政が軍事・外交に長けた傑物であり、彼は早くから徳川家の家臣となり、家臣となった当初は一介の外様大名に過ぎませんでしたが、井伊の赤備えと言う武田信玄の軍隊の赤色に統一した鎧や具足を踏襲して徳川家の最精鋭部隊として大活躍したからです。その勲功が認められて江戸時代は親藩大名として幕府の枢要な部署で活躍しました。 それと、水戸藩とは根本的に異なるのは、水戸藩は参勤交代も免除された関東の筑波(日本の東の尽きる場所の意味)と呼ばれる僻遠の藩に過ぎませんが、彦根藩は京都に近く、幕府側の雄藩として政治・文化の中心であった近畿地方一帯に睨みを利かす為に相応の石高を軍事力として必要としていたからです。幕府は減封したり改易することなく大藩である彦根藩を近畿地方の交通の中心地でもある近江の国に据えたものと思われます。 余談ですが、維新戦争では彦根藩は戊辰戦争に官軍側として参戦しました。

azuki-7
質問者

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noname#224207
noname#224207
回答No.3

秀忠が今わの際に家光の後見人として直孝を大政参与なる役職につけたのがヒントでしょう。 体の弱い戦をろくに知らない三代目に対して年寄りどもが侮るのを抑え込むのに適任とみたのでしょう。 二言目には三河以来を口にする年寄りを牽制して藩幕体制を確立するのには年寄りを抑え込む人物が必要と考えたのでしょう。 井伊の家系というのは初代の直政以来武芸だけではなく外交交渉などの交渉事の才覚を持っているようです。 Wikipediaの人物像などを眺めてみても直孝は伊達政宗や水戸光圀をへこませたことがあるようです。 普段は無口なのにいざとなるとこういうことを平気でやってのけることができる性格や才能は、爺さんに憧れて体が弱く個性の強かった家光にとってはお気に入りだったのでしょう。 トットコトットコ加増しています。 外様でありながな譜代扱いとされた藤堂家(32万石)なみ以上の家禄というと35万石ということだったのでしょう。 家光にとっては大叔父だのなんだのとでかい顔をする御三家の爺さんたちの家禄を増やすなどとんでもネェというとこでしょう。 創業者から引き継いで組織化するというのは何時の時代どこでも難しいものです。 直孝を認めた側近の連中も官僚としては有能だったのでしょう。 どうも日本人は英雄独裁者による治世よりも官僚組織による治世を好むようです。 ロシアや中国とは大分違います。 以来徳川300年が続きました。

azuki-7
質問者

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  • 0fool0
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回答No.1

全くの逆です。 謀反の可能性の高い外様の石高は、減封されています。 信用出来るからこその加増です。 前田家は恭順の意を早々に示しています。 島津は単に外交努力でもって、状況を乗り越える事が出来ただけです。 「宝暦治水事件」を見れば、島津に配慮等をせず、危惧していたのは明白です。 井伊家の家格が高いのは、単純に家康が井伊家を好きだったとしか思えません。 更に言えば、井伊家は江戸期を通して、失政をしなかったからです。

azuki-7
質問者

お礼

ありがとうございます

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