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自己防衛を緩めたいんです。
無防備にものごとを受け入れられないことに困ってます。 素直に、悲・怒・淋・痛、などを感じられないこと、抱えられないことに、困ってます。 私は、自己防衛本能(?)が強いです。 だから、感情表現の激しい人が、怖いです。 抑圧されていない幼児なんかも、怖いです。 生まれたての赤ん坊なんか、強烈に、怖いです。 自分の子どもの感情さえ、うまく受け取ることができなくて困ってます。 私は、自己防衛本能(?)が強いです。 だから、言葉の武器をたくさん持っています。 特に、大切な人に対して、殺人的なほど、言葉の攻撃をしてしまいます。 自分を守るために相手を傷つけすぎることに困ってます。 私は、自己防衛本能(?)が強いです。 だから、本当は、ものすごく聞いてほしい話をするときでも、拒否されたり否定されるの を自ら避けるために「どーでもいい話なんだけどさー」とか言ってしまいます。 聞いてくれる人を混乱させてしまうことに困ってます。 この、自己防衛本能(?)を緩めるには、どうしたらよいのですか。
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◇ >自分の子どもの感情さえ、うまく受け取ることができなくて困ってます。 :うまく受け取っている方がいらっしゃれば天然記念物ものではないでしょうか。 みな、何らかの妥協の産物を背負っているはずです。 完璧なる人間はいないわけですから、肝心なことは子供を教育することではなく、本当に好きでたまらないのだという気持ちを【素直に表明】することではないか、と思います。 無論、そう感じた時だけで良いでしょうし無理に作っても意味はないでしょう。(見抜かれますから) 子供にとっては、間違いなく愛されている、愛されていたという実感以上に生きるエネルギーとして強い支えになるものはないはずで、 後は、彼(彼女)の人格(人権)を尊重するという(子供だけに限らない)当然の対処をしていれば良いということになると思います。 >大切な人に対して、殺人的なほど、言葉の攻撃をしてしまいます。 :おっしゃるように「>自己防衛本能」の現われなのでしょうね。 しかし、いかに「>殺人的」であっても言葉にしなければならないこともありますからね。 これができないと、逆に言葉だけでは済まなくなるのだろうと私はいつも考えています。 ただ、相手も感情を持った生き物ですから限度がある、ということがひとつ。 もう一つは、こういった攻撃的言動は同時に無意識に潜む自らの価値観への攻撃でもある、ということがあります。 そこを考慮して意識的に抑えていかないと、相手以上に自分が疲弊してしまうことになるでしょう。 ◇ いずれにしても、家庭の機能不全、または未熟な肉親によって受けた影響が尾を引いている、というパターンがもっとも考えられるように思われます。 ただ、繰り返しますが大なり小なりの不完全さは、どの家庭でも抱え込んでいると言えるでしょう。 だからといって、本人にとってはその不完全さによって受けた負の刺激が帳消しになるわけではありませんが、誤った思い込みから脱却することは可能であろうと思います。 誤った思い込みとは、自らが受けてきた理不尽な対応が、また繰り返されるのではないか、という怖れです。 これが自己防衛機能が発揮される本質ではないかと私は考えます。 間接的(代替的)表現ではなく、直接的にこの怖れを顕在化させるのが順当な手順なのだろうと思います。 つまり、言葉の攻撃であっても、本質を隠蔽し他の事柄にかこつけたものであると相手は戸惑うばかりでしょう。 そのためには自らを客観視する必要が出てくるでしょう。 そして客観視するためには、自らの過去と正面から向き合う覚悟が必要になってくるかもしれません。 自らを客観視(誰かに語る、文章化するなどで)することによって、過去の理不尽な(と思っている)力が浮き彫りにされ、浮き彫りにされることによって、それは紛れもなく過去の出来事であったということが実感できるようになるのではないか、と思われます。 衣類にこびりついた汚れを界面活性剤によって水面に浮かび上がらせるようなものです。 浮び上ってきた汚れを汚した張本人に投げつけることもできるでしょうが、浮び上ってきた時点で問題は殆んど解決するように思われます。 静かに排水溝に流しこむ落ちついた気持ちがそこにはあるような気がします。 そして、防がなくてはならないものが無くなった以上、防衛本能を発揮する必要もまた消滅するのではないかと思うわけです。
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- Sitri
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>自分を守るために相手を傷つけすぎることに困ってます。 この質問を見て、『ハリネズミのジレンマ』の話を思い出しました。 自分から近づくと相手を傷つけてしまう、相手から近づいてきても相手を傷つけてしまう、結果自分自身も傷ついてしまう。 この教訓は互いにベストの距離感を見付けることが重要である、ということなんですがどうでしょうか? >素直に、悲・怒・淋・痛、などを感じられないこと、抱えられないことに、困ってます。 と、ありますが、質問文を読む限り、むしろ(主にマイナス面の感情を)過剰に感じ取りすぎ、悲鳴を上げるように言葉の暴力を振り回しているように見えます。 拒まれるのを恐れ、遠回りな言い回しをするのも、上のハリネズミが自分の針が相手に刺さるのを恐れているようです。 まあ、色々と言いましたが自分としての回答は上のお話のように『相手との距離感』または『相手と自分の立ち位置』を知ることだと思います。 まぁ、「それが出来ないから相談しているんだ」と、言われそうな回答ですが、こういう人間関係の問題は一朝一夕で片付いたり、知識だけで解決するものではありませんし、リアルな人間関係での経験でしか解決し得ないと思います。 具体的なことを言うと、上で書いたことを意識した配偶者や両親、友人との会話が望ましいですが、それが難しいなら様々な人の講演会等を訪れてみるのはどうでしょうか?感情を一方的に受け取るだけですが、ああいった方は自らのストレートな主張やリアルな経験を話すことが多いので、良い経験になると思います。 自分は心理学の専門化ではないので以下のことは気休め程度に聞いてください。自分はneutralさんは充分に改善の余地があると思います。なぜならneutralさんは自分自身が素直になれないこと、自らの言葉が他人を傷つけていることを理解しているからです。世の中には平気で他人を傷つける言葉を吐いたり、自分を省みず「何故自分の言っている事が分からないんだ」と主張する人がたくさんいます。その点、neutralさんは自らの落ち度と正面から向き合い、それを改善しようとする意志があります。そういう人間はいつか必ずその落ち度を埋めることができると自分は信じています。 最後の方は、自分の持論と精神論になってしまいましたね。最後に、こういった問題と向き合い、完全に解決することは大変な苦労かと思いますが、陰ながら応援しています、自分が納得するまで妥協することなく頑張ってください。
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ご回答ありがとうございます。 >『ハリネズミのジレンマ』 なるほど・・です。確かに・・です。 人を求めているのに痛いのがイヤだから逃げてもいる、という感じです。 >互いにベストの距離感を見付けることが重要 そうですね。ハリを捨てることばかり考えていたのですが、ハリを持ったまま なるべくお互いが痛くないように過ごす距離を学習することを忘れていました。 しかも、ハリを持っている以上、近づき過ぎたときにある程度痛いということも 受け入れて行きたいものです。 >むしろ(主にマイナス面の感情を)過剰に感じ取りすぎ・・・ はい・・「悲・淋・痛」に関しては、過剰に反応はしているのですが、今のところ、 過剰に反応してそれを「感じないようにするために」、「怒っている」感じです。 距離を間違えなければ、本当は痛くないのに、常にハリを立てて警戒している感じです。 >様々な人の講演会等を訪れてみる いいですね。実はこういった場所でのやりとりも、私にとって、「人との距離を試させて いただいている」「他人の言葉を(痛いものであっても)受け取る訓練をしている」という 意味を持っていたりします。仰るとおり一朝一夕で片付くものではないようですね。 >リアルな人間関係での経験 気長に(たぶん一生)、学習して行きたいと思います。 ありがとうございました。
自己防衛本能というのは、人間が(生物が)生きていくために不可欠のもので、それ自体を緩めることはできません。 アレルギーと同じで、自分の中に他者が入ってくることを免疫機能が過剰に防御してしまうのですよね。 でもアレルギーの人もだからといって何も食べないと死んでしまう。 自己防衛本能の過剰な反応を改善するには、まずは「自己防衛本能を止めようとしないこと」です。 自分を守るためにしてくれているのですから、まずは感謝しましょう。 防衛は防衛で持っていていいのです。 それを自分で受け入れてみてください。 その上で、防衛とはまったく別に、他者と関わっていく神経回路を作って行きましょう。 怖いとか不安とかそういった感情を否定せず、でも勇気を持ってチャレンジしていくことです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 以前、「有」から「無」は作れないのだと教えてくださったことを思い出しました。 問題は、私が「怖がってはいけない」「自分を守ってはいけない」と思っているから 当たり前の「防衛」が歪んだカタチになってしまうことなのかな~とも思いました。 防衛を止めることよりも、素直に、平和的に、防衛するスキルを手に入れることとか、 怖れの感情を抱えられる力を手に入れることなんかを考えたほうがよいのかもしれない とも思いました。ありがとうございました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >うまく受け取っている方がいらっしゃれば天然記念物・・・ ・・・笑。強迫的「受け取らなくちゃ」が緩和されました。かなり。 もちろんお釈迦様みたくなりたいわけぢゃないんです。 ただ、子どもが「怒り」や「泣」「もやもや」を私に向かってぶつけることを、そこそこ逃げずに許していたいと常々思って いるのですが(私に向かってぶつけてくれることを光栄にさえ思っているのですが)、私がそれを怖がって避けたいがために、 口封じ的にアメを与えて、子どもが「怒り」「退屈」「淋」を感じる権利を奪っているような気分になるのです。これを続け ていると、子どもが無感覚になったり、自分の感情や自分の欲求に鈍感になったり、人に自分を伝える力の発達が滞ったり するのではないかとちょっと心配になったりもするのです。 >こういった攻撃的言動は同時に無意識に潜む自らの価値観への攻撃でもある・・・ ん~。自分自身が持っている、ある要素を、自分自身が許していなくて、その要素を、相手の中に見て、それを攻撃してい るから、ということですか。だいたい合ってますか。確かに私の吐く殺人的な言葉に対して「それはお前のことだろう?」 「それは自分を俺に投影してるだろう?」「俺はお前の鏡か?」とか言われるのですが、否定し切れないです。 >そこを考慮して意識的に抑えていかないと、相手以上に自分が疲弊してしまう・・・ そうですね。もともと「自分の平和」を求めて不覚にも戦争してるわけですから、目的を忘れないうちに自分で止めたいも のです。しかも私の配偶者は私の親でもなくカウンセラーでもないので、私の汚い感情を受け取る責任もないですし、受け 取られない言葉は私に返ってきますし。 >自らが受けてきた理不尽な対応が、また繰り返されるのではないか、という怖れ・・ かなりグサッと来たのでたぶん図星なのだと思います。ということは、私は、本来ある特定の人物にだけ感じていた「怖れ」 を、不特定多数の人たちに、転移させているということですか。 >自らを客観視・・ 私が何を怖がっているのかはっきりさせて、古い怖れを新鮮な怖れに戻して、素直に「これが怖いよ~」と叫んで、その怖 れを処分する、というようなことですか。 ちゃんと理解できたのか定かぢゃないのですが、とても参考になりました。長くなってすみません。