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主体性や信念と社会性との両立について
自我意識、主体性、信念が強く 自分の価値観と異なる人たちと 付き合うことができません。 会話中に相手の意見を聞き流すことができずに 自分の意見を押し通したくなる衝動に駆られます。 相手が教官上司など目上の人にも 自分の信念を貫き通したくなり 逆らいたくなったり、意見したくなります。 しかし、実際には自分の意思を貫き通そうとすると、 相手の反感をかって悪い結果になり、 かえって自分自身を無防備に標的になることもあります。 まるくなって言いなりになったほうが、自分自身を 守ることにつながり、 信念を貫くことが自滅を招いたりします。 矛盾の多い実社会で主体性やポリシーを内に秘めつつ 適度に自己主張したり適度に譲歩しながら うまく自他共にコントロールしながら 生きていくための処世術について ご意見アドバイスよろしくお願いします。
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>自我意識、主体性、信念が強く それ自体は大変結構なことです。 自尊心と自我意識を履き違えないようしましょう。自我意識というのはオレがオレがという、自己中な態度。 自尊心とは、身体売っても魂売らないぞ、みたいなどん底で踏みとどまる心の支え。 主体性というのも、皆あっての主体性でありまして、周りが認めない主体性は単なる迷惑、場違い、礼儀知らず。 信念といえば聞えはいいが単なる思い込み、思いつき、執着、頑固さだったりします。 基本的に頭の固いひとほど、自分のまわりに固い鎧を作ります。 バカだと思われない程度に、柔軟になっておいたほうが身のためです。 >自分の価値観と異なる人たちと付き合うことができません。 世の中何が楽しいっかって、自分と価値観の異なる人々とつきあうことほど興味深く面白いことはないです。 ただし、そのためにこそ強固な自我やライフスタイルを持っていないといけません。 コンプレックスの強い人ほど、異なる価値観の人と付き合いたがらないものです。 その典型がヤクザ。彼らは仲間同士、あるいは自分より弱い立場のものとしか付き合おうとせずそこから搾取し生きていく。 自分と価値観が同じ人というのは、そうそう簡単に見つからないから、おのずと自分の価値観にひれ伏す人、つまり能力の低い人ばかりとつきあうことになっていつかお山の大将になってしまう。人間としても伸びないです。 町工場の二代目社長。近所のスナックでチヤホヤされていい気になっているうちに、社会の波から取り残され、お得意はすべて中国に現地工場。くるはずの発注がこなくて会社は左前。 もっと、いろいろな分野の人脈や情報網を持っていたら大所高所からものがみられたはずなのに。 >会話中に相手の意見を聞き流すことができずに自分の意見を押し通したくなる衝動に駆られます。 要するに頭が悪いのだと思ってください。普通のひとは聞きながら、覚えておくのです。しかし頭の悪い人は、そこで反論しないと忘れてしまうから、人の話を遮ってまで喋ろうとする。賢い人は 「さっき、君はこう言ったよね。でも、〇〇ちゃんはこう言った。おそらくどっちも正しくない。なぜなら、こういう見方もできるからだ。」 と時間をおいて、相手の意見を要約してしめしながら自説との比較のなかで相手の論法をうまく使うのです。 記憶力が弱いならメモをとればいいのです。つねにメモをとりながら、相手に対する反論、論拠、相手の間違っている点をメモしていけばいいのです。 >相手が教官上司など目上の人にも自分の信念を貫き通したくなり逆らいたくなったり、意見したくなります。 そりゃ、単なる我がまま。礼儀知らず。 >しかし、実際には自分の意思を貫き通そうとすると、相手の反感をかって悪い結果になり、かえって自分自身を無防備に標的になることもあります。 当然です。 >まるくなって言いなりになったほうが、自分自身を守ることにつながり、 そうではなくて、咀嚼反芻する時間が必要なのです。そういう態度でいると、あいつは賢いやつだと仲間うちから一目おかれるようになります。 >信念を貫くことが自滅を招いたりします。 咄嗟の思いつきを反射的に口にしても、隙だらけでたたきのめされるのがオチ。というかあなたは、自分を誰かに認めてもらいたくてウズウズしているだけなのかもしれません。 >矛盾の多い実社会で主体性やポリシーを内に秘めつつ適度に自己主張したり適度に譲歩しながらうまく自他共にコントロールしながら生きていくための処世術について これは、会社づとめ10年やったビジネスマンなら普通に身につけていることです。 人の話をよく聞く。自分の意見は言えといわれるまで黙っている。それだけのことです。
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ちょっと固いんじゃないかなぁ。 もう少しアバウトでいいと思いますよ。 社会は結構、流動的です。 魚のように泳げばいいんじゃないかなと、思うよ(^^) Q<~~
お礼
ありがとうございました。
- goosuka003
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真に高所大所に立てば 何を通すべきか否か 見極めはつくであろうと思いますが これがなかなか… 難しいですね。 自分のためだけでも相手のためだけでもダメなのでしょうか。 そこを突き抜けて貫き通した結果が迫害に繋がるのなら、それは「あっぱれ」と呼ぶべきことでしょう。 ただ 主体性、信念 こういったものと 征服欲 これを混同することのないよう 厳に戒めたいところです。 現実的には 価値観の違う人と無理に付き合うことはありません。 そのほうが自分も相手も傷付かずに済みます。 大概は、どちらかの人生経験もしくは洞察力に不足があるものですが 無理にでも関わっていかなければならない相手が 貴方よりも圧倒的に立場が強いのであれば ここは御自分を守るということに専念されてよいのではないでしょうか? 自分を活かせない者は他者も活かせない、という考えかたもあります。 自分が相手の言うことを理解できない、または理解したくないというときには、まず自分の側に何らかの不足がある 相手が自分の言うことを理解できない、しようとしない場合は 相手側の「機が熟していない」 ということでしょう。 「首に縄をつけたからといって無理に水を飲ますわけにはいかない」 さて御質問者の場合は、どちらでしょうか?
お礼
ありがとうございました。 私の場合、 「首に縄をつけたからといって無理に水を飲ますわけにはいかない」ではないかと思います。 参考になりました。
- russy1
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直接的な回答ではありませんが、最も重要なことは、あなたと他の人が同一の課題に対してそれぞれ顔を向けているかということがあります。又あなたにしてもあなたの顔を、課題ではなく、他の人に向けているのではないかということも考えてみてください。つまりあなたが問題としているのはなたの意見を他の人に語れないということであって課題の解決のことがどこかに行ってしまっていませんか。ほかのひとがその課題を課題と考えていない場合も考えられます。また主体性という言葉はあまりこの質問にはふさわしくないと思います。
お礼
ありがとうございました。 物の見方捉え方について 参考になりました。
- hakobulu
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自分の考えを主張するのは、話せば理解できる人間として相手をきちんと認めているということでもあり良いことです。 世の中は理不尽でくだらないことに満ち溢れています。 むざむざと自分を貶めるようなことにならないよう、ぜひその姿勢を貫いていただきたいと思います。 ただ、文章を拝見していて2,3気になる箇所がありましたので、その点について私見を述べてみたいと思います。 ◇ 意志や信念を貫くことの意義をお考えになったことはおありでしょうか。 また、pondering2000さんがお持ちの価値観が最終的に目指すものは何でしょうか。 人それぞれでしょうが、他者を納得させるためにはやはり普遍性が付与されていなければ難しいような気はします。 深い意味もわからずに、普遍性などという言葉を使ってしまいましたが、「私にとってもあなたにとっても、そして現在においても未来においても真実と目されるもの」といったぐらいの意味のつもりです。 これを納得すると、人間は変わり得ますし「動く」のではないかという気がしています。 自戒を込めて述べてみれば、この普遍性に基づかない(あるいは考慮しようとした形跡が感じられない)信念や主体性は、単なるわがまま・頑固、あるいはマスターベーショ的な自己満足だったりする傾向が強いかもしれません。 ところで、人間を幸せにするための宗教でさえ他者の不幸が無ければ成立し得ないという矛盾が生じる理由としては、信じていることの内容自体が正しいか否かということは無論重要ですが、同様にあるいはそれ以上に他者にも納得できる内容かという点がより重要であるような気もします。 イスラエル・パレスチナのいつ果てるともしれない殺戮の応酬を見聞する度に感じることでもありますが、信念や主体性自体が誤っていることが明白になることは、恐らく殆んど無いと言っていいように思うのです。 社会的犯罪を犯す人間が、これ以上ない理想的父親として立派に「家庭を」守っていたり、あるいは逆に会社では人望厚い有能な社員であるのに、家庭では精神的・肉体的虐待によって妻一人の幸せすら確保できない夫であったりすることもあるでしょう。 つまり、誰でも大なり小なり価値観は持っていると考えておいた方が良いのではないかと思います。 ◇ その価値観が他者にとっても良いもの(単なる利益ではなく、人間性に良い作用をもたらすものという意味ですが)であるならば、先に少し触れましたが、その価値観の素晴らしさを理解させようとするよりも先に、そのあなたの価値観も面白そうだな、意義がありそうだなと思ってもらえる土壌を培わなければならないのではないかと思います。 これは逆の立場になってみれば良くわかることで、いくら素晴らしい価値観を提示されても、その人間性自体に納得がいかなければとても受け入れたいとは思えないでしょう。 単なる自己満足に終わらせるのではなく、本当に主体性や信念の花を社会という野に咲かせたいと思うのであれば、その種をまく前に種が十分育っていけるような土壌を整えておく必要があるように思うわけです。 ◇ 心構えとしては、ご質問文の中にすでにある言葉の前後をちょっと変えてみるだけです。 「相手の反感をかって悪い結果になるほど、自分の意思を貫き通そうとしない」 ということです。 無理に貫き通そうとするのは、その信念に自信が無い証拠と言ってよいでしょう。 本当に確信の持てるものと自身で納得していることであれば、他者のキャパシティを超えてまでそれを開陳する必要性は殆んどありません。 相手がそれを受け入れることができるような状況を考えるゆとりが持てなければならない、ということでもあります。 ◇ その上で、確かにどうしても信念を貫く必要が生じる場合はあります。 その時こそ信念に従って、「>無防備の標的になる」ことや「>自滅」も覚悟して立ち向かわなければならないことはあるでしょう。 『信念』という言葉は、そういう時だけに使うべき言葉だと私は思います。 それだけの価値ある信念を、自己の内面で築きあげていく作業こそが【本物の自信】を生み出していくはずです。 ◇ 【>適度に自己主張したり適度に譲歩しながら うまく自他共にコントロールしながら 生きていくための処世術】 などというものは、いくら上手に使ったつもりでも心ある人間にはすぐに見抜かれます。 そして、あなたはとても大事な何かを失うことになります。 どうか今までどおり「正々堂々」とした生き方を貫いてください。 そして「何か生きづらいな」と感じたら、自他をコントロールする方法ではなく、自他に対する慈しみの気持ちを少しだけ意識してみてください。 難しいことではありません。 あなたはあなたを生かしていく権利があるし、今以上に自分自身を大事にしましょう。 そして、他者も同じように自分を生かしていこうとしている生き物なのだ、ということに気付くということです。
お礼
ありがとうございました。 私の考え方では 物事全てが小さなことの積み重ねであり 蓄積であってどんな些細なことでも 馬鹿にせずに一つ一つ大切にしていくことの 必要性だと思っています。 だから、友人とご飯を食べてもご飯粒を残したり しているとそれを見ていてあまりいい気がしません。 極論を言えば、ご飯粒食べ物を粗末にする人間は、 結果的には自分の命すらも粗末にするという風に つながるのではないかと思います。 ここまでいえば大げさですが、一つ一つの事柄が 大切だと思っています。
- nanasegawa
- ベストアンサー率18% (12/64)
私も最近までまったく同じことで悩んでいました。「我が強い」って言うんですかね。さすがに疲れて、どうにかならんかなぁ、と色々と探したら、禅、老荘思想、ストア哲学などがとても参考になると思いました。 「相手が間違っている」と思うと腹が立ってきますよね。またそれが、どうにもならないような大きな相手だとやり場のない怒りが…その時に「くだらない。どうでもいいや。こんなザコ相手にしてられるか!時間の無駄じゃ!」と思うと楽になります。 講談社の文庫で禅や老荘思想のマンガがあるので、これは本当にお勧めしますよ。一つ話を紹介します。 「立派な戦士は強がらない。うまく戦う戦士は怒りを表に出さない。上手に敵に勝つ者は自分から敵対しようとしない。」
お礼
ありがとうございました。 参考にさせていただきます。 本屋さんで探してみます。
- ipa222
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人間は単体では生きられない生命体です。 まず,コミュニケーションし,他の人間と協調することではじめて生きることができるのです。 まずは,自己主張を抑えて,協調するトレーニングをすることをお薦めします。 その後,自己主張と協調のバランスを模索すれば良いかと思いますが 。
お礼
ありがとうございました。 参考になりました。
お礼
ありがとうございました。 自分と価値観の異なる人たちと付き合っても 自分自身を見失わないようなタフさを 身につけたいです。 参考になりました。