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《貴様ぁーっ!》と《おのれぇーっ!》との違いは?

 二つとも 一般に怒りを伴なって叫んでいる場合のせりふです。  《個人》という人間の問題であり 《自己同一性》のそれです。なぜなら いづれの場合も 相手に向かって     その相手よ。あなたは《自己の同一性》を見失っているではないか?   我れに還れ! そうすれば このような事態を引き起こしておいて 平   気でいるわけがないはずだ。  と訴えていると考えられるからです。(いま その正否は別とし得るでしょう。つまり 表現の問題だということにもなります)。  そして 《自他の区別》の問題にもかかわります。  【Q‐1】 前者の《貴様ぁーっ!》の場合は そのように叫ぶ自分と相手との区別がついていると言うべきでしょうか?  【Q‐2】 後者の《おのれぇーっ!》というのは 《貴様》と呼びかけるだけではなく 《相手自身》のことを言ってその自己意識を呼び起こして 事態を明らかに見てみろとでも言っているのだと考えられます。ならばこれは 自他の区別がついているでしょうか?  【Q‐3】 ただしつまりは いづれの場合も 《自分自身》を基準にして《人間》を捉えており その《おのれ》にもとづくなら 《わたしがわたしである》アイデンティティは守られるはずだという前提を置いているようです。このとき 自他の区別はついていますか?   ついているから しかも人間にとっての普遍的な人間性(自然本性)のことを大事にしようとしているのでしょうか?  【Q‐4】 近頃 このように怒りの感情を顕わにして叫ぶ人を見かけなくなったように思いますが どうでしょう? そしてもしそうであるなら それは どういうことが起こっていると言うべきでしょうか?  (α) 個人が確立し自他の区別がきちんとつくようになったから ことさら声を荒げて叫ぶ必要がなくなったのではないか。  (β) いやいやそうではなく 人びとに共通の人間性――あるいは飛躍して神の霊? あるいは仏性?――が信じられなくなったので 《おのれ》を共有することもなくなった結果なのではないか。  (γ) あるいは その他その他(?)。――《貴様ぁーっ!》と《おのれぇーっ!》とに違いがあって その違いによって事情は異なると言うべきなのだろうか?

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noname#92784
noname#92784
回答No.6

{<なんじ>を語るひとは、対象といったようなものをもたない。なぜならば、<なにかあるもの>が存在するところには、かならず他の<なにかあるもの>が存在するからである。それぞれの<それ>は、他の<それ>と境を接する。<それ>は、他の<それ>と境を接することによってのみ存在する。しかるに、<なんじ>が語られるところでは、<なにかあるもの>は存在しない。<なんじ>は限界をもたない。 <なんじ>を語るひとは、<なにかるもの>をもたない、否、全然なにものをも、もたない。そうではなくて<なんじ>を語るひとは、関係の中に生きるのである。} {永遠の<なんじ>は、本質上<それ>とはなり得ない。なぜならば、永遠の<なんじ>は本質上、量や限界のなかにいないからである。それは計ることのできない量とか、限界の無い限界のなかにすらおかれていないからである。また、永遠の<なんじ>は、本質上、性質の総体として考えることも、超越的存在にまで高めた小勢の無限の総和として理解することも不可能である。なぜならば、永遠の<なんじ>は、世界の内部にも外部にも見出すことができないからである。それは経験することも、思惟することもできない。なぜならば、もしわれわれが、わたしは<彼>がそんざいするのを信ずるというならば、存在者としての彼を見失ってしまうであろう。<彼>ということも、また一つの比喩となる。しかし<なんじ>は決して比喩ではない。} プーパー 我と汝 植田重雄訳 <われーそれ>主体ー客体関係 <われーなんじ>根源的な関係。 <われーなんじ>という根源的な関係における<われ>は、決して認識の主体ではなく、<なんじ>もまた多様なものと境を隔てた、全体の部分であるような客体ではなくて、何にも限定されない全体そのものである。だから、汝は全体であり、<われ>はその全人格をかけてなんじを選び、直接自らをなんじに与えきってしまわなくては<われーなんじ>の関係を結ぶことはできない。そしてこの関係では選ぶことは選ばれることとなり、全人格をかけて<する>ことが、<される>ことになる。 ここまで異論はございますでしょうか?

bragelonne
質問者

補足

 gottab さん ご回答をありがとうございます。  なるほど。ブーバーも思索を深めているようですし gottab さんも充電じゅうぶんでいらっしゃるようですね。  ★ ここまで異論はございますでしょうか?  ☆ 《異論》はございません。ただ 表現が坐り心地のわるいように感じるところがあります。  今回は その点を例示してみます。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  <われーなんじ>という根源的な関係における<われ>は、決して認識の主体ではなく、<なんじ>もまた多様なものと境を隔てた、全体の部分であるような客体ではなくて、何にも限定されない全体そのものである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そもそも初めから けっきょく《無限者・絶対者》を想定しているということだと受け取ります。《神》と言い表わしてしまっても 問題ないと考えます。ぎゃくにそれゆえに  ★ <われーなんじ>という根源的な関係  ☆ が生じているということだと思われますから。  ○ 経験世界を超えた《無根拠》とわたしは相い対しているのだ。  ○ 無根拠ゆえに・わたしは無根拠と向き合うがゆえにこそ この《関係》とその《対話》は 根源的な関係であり根源語としての言葉においてあたかも話し合っていることになるのだ。うんぬん。  ☆ というふうに けっきょく《神の想定》について その中身を定義していく作業になっているのだと受け取ります。  すなわち  ○ むろんこの関係におけるこの対話にあって わたしは 《経験合理性にもとづく認識の主体》であるのではない。難なくそれを超えている。  ○ なぜなら そのときわたしは《無根拠》によってからだ全体を掬われているからである。何か隔てを介するとか 全体のこの一部の場所に位置するとかいうことのない《無根拠》とあい対しているのだから。  ○ 《だから、汝は全体であり》どころか 全体を超えた或る種の存在であり しかもおそらくこの部分あの部分それぞれにも位置しているかに推し測られる。  ○ だからわたしは すでに選ばれているのだ。わたしが選んだのではなく 選ぼうとしたのでもなく 選ばれようとしたのでもない。魚になったが如くたも(網)で掬われてしまっていたのだ。  ○ 直接わたしは この無根拠なる存在にわが身とわが心を与え切ったというのでもない。すべてをなんぢにゆだねますと祈るその前に わたしはすでに掬われてしまっていたのだ。  ○ 何をか言わんや。  ○ なんぢはわれらを包みたり。  ○ ゆえにわれらはまったき自由なり。網にかかった魚ゆえに 魚の自由意志がかえって自由に建てられると知ったのだ。  うんぬんです。おあとがよろしいようで。

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noname#92784
noname#92784
回答No.5

<われーそれ>, <われーなんじ> の違いですか。 プーパーを想いだしました。 ありがとうございました。

bragelonne
質問者

補足

 あぁ マルティン・ブーバー! ―― gottab さん ご回答をありがとうございます―― なつかしいですね。と言っても わたしの場合は あまり親しむことも出来なかったのですが そしてそもそも大昔ですので いまどこから入っていけばいいのか 戸惑っています。  不案内の方は ヰキぺを参照いただくとして。  ◆ ヰキぺ:M.ブーバー  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC  ☆ わたしがかつて書いた文章を引っ張り出して来ました。けちをつけることによって引き立たせようとしています。(邪道?)      *  つぎの見解はまちがいである。つまり  ▲ 世界は人間のとる二つの態度によって二つとなる。  (マルティン・ブーバー:我と汝・対話  第一部・冒頭 植田重雄訳)  ☆ のではない。あるいは  ▲ 人間の態度は人間が語る根源語の二重性にもとづいて 二つとなる。(同上)  ☆ のではない。《昼と夜》は世界に在るが これらの二重性にもとづいて われわれの態度が二つとなるのではない。タテマエとホンネとは むしろ個人において統括されている。  《根源語の二重性》――すなわちわれわれの考えでは 《アマテラス人格語(普遍客観語・抽象概念語)とスサノヲ人間語(基本自由動態語)》の二重性―― これはわたしたちの口のもとに在るが これらに《もとづいて ものごとが裏と表というように 二つとなる》ではない。《ブーバー先生 誤魔化せり》である。  ▲ 《根源語》〔* bragelonne 註:ともかく《人間の言葉》というほどの意であろう〕とは 《単独語》ではなく 《対応語》である。(同上)  ☆ のではなく・そうでは必ずしもなく 《単独語》すなわち《自由混沌語》ないし《異言(わけの分からない言葉)》も 《根源語》なのである。異言は 人には直ちにはわからないというに過ぎない。しかも 人間の根源語でありうる。  ▲ 根源語の一つは 《われ‐なんじ》の対応語である。(同上)  ☆ ただしい。《われ》に重きを置いたことばは スサノヲ語である。重きを置くというのは 意志の問題である。要するに 主観のことである。《われ》なる主観のことである。この主観を 《なんぢ》の主観とのかかわりにおいて捉えて述べる言葉は これもスサノヲ人間語であり 強いていえば インタスサノヲ語である。  スサノヲ人間語と インタスサノヲ語とは 同等である。  ○ 人間は その孤独において社会的に独立した存在であるが 同時に 孤独と孤独の関係として 社会的に――言うとすれば絶対的にさえ――関係しあう存在である。  ☆ この定義にもとづいて 自由独立主観としてのスサノヲ語は 関係性における主観としてのインタスサノヲ語と同等である。  しかるに 《われ》の主観を 《なんぢ》の立ち場から――または その逆のかたちで――《思いやって》言う言葉は アマテラス人格語である。――こういうふうにも 定義しうるであろう。普遍概念 もしくは 倫理規範をかたちづくりうる概念は この《思いやり》を洗練させた成果としてのアマテラス語である。  ここでは ちなみに 実際上問題となる悪い側面を取り出してみよう。  主観どうしの交換がおこなわれているという事態である。独立性があやふやであって しかも関係性が中途半端という場合である。自他の認識区分が 成っていない状態である。  思いやることと その思いやって捉えたと思っている相手の主観を しかも自分の主観であるとさえ決め込んで述べることは 別である。それは 《関係性》ではなくして 互いのスサノヲ語の混入混在の状態である。  《あたかも自らの身体を空気のようにして》相手のこころを認識し表現する。これは もし仮りに内容が確かで当たっていたとしても しかも独立自由語としてのスサノヲ主体ではなくなっている。ただ相手の心を盗んだだけである。そのあと しかもこの盗人が 相手を心理的に包み込む作業に腐心するという心理操作(マインドコントロール)が始まらないとも限らない。  これは 蝉の抜け殻のごときスサノヲ人間語なのであり きわめて中途半端なむしろ悪意のある(つまり支配の手を伸ばしかねない)アマアガリ志向の似非アマテラス語である。まやかしアマテラス語であり まやかし人格語である。  このときしかも この偽りのアマテラス語も アマテラス語としては一般に 公民性・客観性・抽象普遍性などを表わすと見なされやすいというのであるから 社会の人間関係はたまったものではない。うんぬん。

noname#131234
noname#131234
回答No.4

《貴様ぁーっ!》と《おのれぇーっ!》に違いはありません。 虎の意を借る狐と 虎の意を借るゾウリムシという表現に違いはあるでしょうか。 いずれにしても、アウグスティヌスは、「《貴様ぁーっ!》と《おのれぇーっ!》に違いがあるか」とか とるにたらない質問はしないでしょう。アウグスティヌスは「勘違い」していません。 ぞうりむしは、ラテン語もコイネもできないでしょう。日本語でさえ不自由です。

bragelonne
質問者

お礼

 取るに足りる要素があればよいがと思ったが。

  • SOLAR_RAY
  • ベストアンサー率21% (12/56)
回答No.3

>と訴えていると考えられるからです。(いま その正否は別とし得るでしょう。つまり 表現の問題だということにもなります  相変わらずむちゃくちゃ書いてますね、ネタがなくなったんですか?  正否の問題と、表現の問題というのは、同じものでは在りません。  従って、「いま その正否は別とし得るでしょう。つまり 表現の問題だということにもなります」という言は、間違いです。  その前に、人が怒っている原因が、「その相手よ。あなたは《自己の同一性》を見失っているではないか?」というものであるという前提が間違っていると思われます。単に汚い物を見て、不快に思い、怒っているケースもあるからです。メチャクチャ書いている人間に対して思う感情でもありますね。  結論から言うと、表現の問題ではありません。もしそうであるとするなら、ここでの質問自体が意味を成さなくなります。  とりあえず、質問者様は自他の区別、分別をつけられるようになってからこのサイトへ参加することをお奨めします。しかし、この質問に応答する人間が居るとするなら、またそれもその人たちの認識力の問題ですので、強制できるものではありません。  結論として、質問が無効ですから、質問自体を却下します。

bragelonne
質問者

お礼

 質問がなっていないと思うのなら ほうっておけばよいでしょう。  あなたの問題ではありません。  ひとつだけ舌足らずだと思うことを ほかのみなさんのために補います。  ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・と訴えていると考えられるからです。(いま その正否は別とし得るでしょう。つまり 表現の問題だということにもなります)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《その相手よ。あなたは・・・》という訴えの内容について もし《否》であればどうするか。つまり その訴えの中身が その当の人の叫んでいることと実際の振る舞いや考えとについて違いが生じており けっきょく間違っていたとすれば どうするか。――たしかにこういう問題があります。ありますが いまは その《正否は別とします》という意味になります。具体的に言えば 次のようです。  つまり いまは《正とする場合のみ考えます》という意味です。《正としたときに この怒りの表現に関する限り どういう捉え方が成され得るか》 こう言おうとしています。  けれどもこれくらいは判断しうるあいまい表現の例であるでしょう。  それを 分からないからと言って いちゃもんをつけるとは 落ちぶれた人間なのですね。出なおしてみたら?

  • kadowaki
  • ベストアンサー率41% (854/2034)
回答No.2

bragelonneさん、こんにちは。 「おのれー」以外には、「わりゃー」という言い方もありますよね。 また、必ずしも「怒りを伴なって」使われるとは限りませんが、そういう状況下でより頻用されるのも確かだと思います。 いずれにせよ、「おのれ」も「われ」も、そもそも一人称の代名詞でもなければ、myselfでもなく、むしろより抽象的なoneselfを意味しているとは考えられませんか。 日本語の「わたくし」という語にしても、もともと「ひそか」、「非公式」、「個人」、「プライベート」といった意味合いを帯びている以上、これをラテン文法で謂う一人称人称代名詞とは同一視できませんよね。 思うに、日本人(語)は、自己を意味する「われ」と自己以外の他者である「ひと」との差異だけを明瞭に意識してきたかもしれないが、相手(対称)に関しては、前もって客観的、固定的に規定する呼称が必要だなんて夢にも思わなかったのではないでしょうか。 その証拠に、日本語の二人称代名詞の数がほとんど無数にあり、日本人は器用にもそれらをTPOの違いによって使い分けているのではないでしょうか。 で、自分が相手と対置するとき、特に相手と深く交わろうとするとき、ある意味で相手に内在する「われ」と向き合っているということになりますよね。 このとき、自分や相手の本質はとなると、抽象的なoneselfとしての「おのれ」、「われ」以外の何物でもないということになるのではないでしょうか。 さらに言えば、相手に対して「怒りを伴なって」いる場合ほど、相手の属性に向けてよりも、もっと直接的に相手の《自己同一性》に向けて訴えようとするから、必然的に「おのれー」、「わりゃー」という呼びかけになるのではないでしょうか。 【Q‐1】についてですが、「貴様」に限らず、「おのれ」、「われ」以外の二人称を用いるときは、一応、相手を形式的には《他者》として待遇しているという程度のことは言えるのかもしれません。 それに比し、相手を「おのれ」、「われ」と呼ぶときは、相手に対して自分と同じ土俵なり、次元なりに引きずり込もうという意図なり、意気込みなりが無意識裡に表れていると解しうるかもしれませんね。 思うに、ご質問の前提、土台には、日本語(倭語)には、印欧語では自明の《人称person》という文法概念が不在であるという固有の問題が潜んでいるのではないでしょうか。 ということで、【Q‐2】以下のご質問に対する回答については、省略させていただきます。

bragelonne
質問者

お礼

 (E) それでは 欧文における《人称》とは何ぞや?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  思うに、ご質問の前提、土台には、日本語(倭語)には、印欧語では自明の《人称person》という文法概念が不在であるという固有の問題が潜んでいるのではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《 person 》とはよく《仮面》のもんだいとしても取り上げられますね。  特に考えたことがなかったので 白紙です。  (F) 中国から見た日本――その漢字使用――の問題。つまりそれにしても  ★ 倭  ☆ は 《小人》の意味あいを持つと思いますが そして事実なのでしょうが 昔の日本人はよくこれを受け容れましたね。  ○ 邪馬台国  ☆ 《邪》は やはりおかしい。いまでも疑いを持たずに使われていますね。寛容なのか鈍感なのか。《ぼく(僕)》=《しもべ》を いまも平気で使っています。  (C)についての妄説。  ○ わ(倭:たぶん→和)  ☆ は アウストロネシア(南島)語の 《 orang =人》が《ワ》という発音にちぢんで用いられたのではないかという空想を抱いています。  ○ わ‐つ‐あく: 《人》をワという語で表わす人びと‐の(=つ)‐場(=あく) > わたく > わたく‐し  * 《あく》は 《あく‐離(か)れ》=《こころがわたしの場を離れる》⇒《あこがれ》のアク。  * あるいは 南島語族で《 aku 》は 《わたし》の意味の語でもある。  * 《し》:《それ‐が‐し / なに‐が‐し》。《が》は《の=つ》(属格)。《し》は その人を取り立ててその方向で指し示す。  * 《つ》:《家(や)‐つ‐子》⇒《やつこ(奴)》。《ま(目)‐つ‐け(毛)》⇒《まつげ(睫毛)》。  

bragelonne
質問者

補足

 kadowaki さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  kadowaki さんは 往々にして高尚な内容を旨としていて質問から微妙にはづれる嫌いがまま見受けられます。今回は真正面から攻めていただいて 土俵の真ん中でガップリ四つになりましたので わたしもしっかりとお応えしてまいらねばなりません。過去のことがまだ多少は引っかかっていましたので このように皮肉交じりでご破算にしておかないとご返答に支障をきたします。  さて kadowaki さんはどれだけ問い求めていかれるか分かりませんが 今回は 解き明かすべき主題が満載です。  (A) 人と人のかかわりとして 《うち(身内)と そと》という境の問題。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  思うに、日本人(語)は、自己を意味する「われ」と自己以外の他者である「ひと」との差異だけを明瞭に意識してきたかもしれないが、相手(対称)に関しては、前もって客観的、固定的に規定する呼称が必要だなんて夢にも思わなかったのではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 身内でなくても そのときその場にともに居るなら――たとえば会社を《うちの会社》と呼ぶように―― 互いに《内向き》の言葉づかいを為し その境を超えて居る人に対しては 外向きとなる。  内向きにおいては 自称(われ)も対称(なれ・なんぢ)もあたかも互いに容易に交替しうる。おれがおまえで おまえがおれ。他称(かれ・あなた)を用いる外向きにおいては 相手を目の前にしていても 《あなた》である。  (B) 《おのれ(己)》の意味と用法は如何?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  「おのれ」も「われ」も、そもそも一人称の代名詞でもなければ、myselfでもなく、むしろより抽象的なoneselfを意味しているとは考えられませんか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たぶん《われ》は 話し手自身を指すでしょう。《おのれ》とは何ぢゃいな? となります。対称――《おのれぇーっ!》――にもなりうるとは。  《エゴー》は コギト(われ考える)の主語(主格)のことですから 《自我》を意味する言葉として使っていても 《おのれ》とは筋が違うのでしょうね。( I や Ich や je・io・yo などなどの一人称主格語と同じ語ですから。また 日本語では 《われ》と《は / が》とを分けることができますから)。  (C) それでは最も一般的だと思われる自称の《わたくし》とは 何ぞや?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  日本語の「わたくし」という語にしても、もともと「ひそか」、「非公式」、「個人」、「プライベート」といった意味合いを帯びている以上、これをラテン文法で謂う一人称人称代名詞とは同一視できませんよね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ もし《ひそか》の意味あいを帯びているとすれば 先の(A)での《内向き》の枠組みの中にあってもさらになお《わたくしわたくししている隠れた場》があると言うべきでしょうか?  (D) 《自己同一性》――わたしがわたしである――は 日本語において確立していると言うべきか?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  で、自分が相手と対置するとき、特に相手と深く交わろうとするとき、ある意味で相手に内在する「われ」と向き合っているということになりますよね。  このとき、自分や相手の本質はとなると、抽象的なoneselfとしての「おのれ」、「われ」以外の何物でもないということになるのではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これほど内面的な言葉だと言えるか? の問題です。その反面において 馴れ馴れしさを醸し出し得るようです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  それに比し、相手を「おのれ」、「われ」と呼ぶときは、相手に対して自分と同じ土俵なり、次元なりに引きずり込もうという意図なり、意気込みなりが無意識裡に表れていると解しうるかもしれませんね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • ratesu
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回答No.1

《おのれぇーっ!》は復讐心。 【Q‐4】価値観が多様化し賛同が得られなくなった。

bragelonne
質問者

お礼

 ratesu さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【Q‐4】 近頃 このように怒りの感情を顕わにして叫ぶ人を見かけなくなったように思いますが・・・もしそうであるなら それは どういうことが起こっていると言うべきでしょうか?  【A‐4】 価値観が多様化し賛同が得られなくなった。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ どうなのでしょう? これは    (α) 個人が確立し自他の区別がきちんとつくようになったから   ことさら声を荒げて叫ぶ必要がなくなったのではないか。  ☆ に該当するでしょうか? それとも    (β) いやいやそうではなく 人びとに共通の人間性――あるいは   飛躍して神の霊? あるいは仏性?――が信じられなくなったので   《おのれ》を共有することもなくなった結果なのではないか。  ☆ のほうにでしょうか? いえ ひょっとすると その《多様性》というのは  ★ 《おのれぇーっ!》は復讐心。  ☆ とおっしゃっていますから     (γ) あるいは その他その他(?)。――《貴様ぁーっ!》と《お   のれぇーっ!》とに違いがあって その違いによって事情は異なると言   うべきなのだろうか?  ☆ のほうでしょうか?  そうしますと  ★ 《おのれぇーっ!》は復讐心。  ☆ これについて もう少しきちんと見ていかなくてはならないようですね。  ううーん。どうなんでしょう?   ○ 《貴様ぁーっ!》  ☆ と叫んで怒るときにも 復讐心がある場合も見られるのではないかと思いますし 《おのれぇーっ!》と叫んでいても かえって憎からず思っている場合さえあるかも知れないと思えて来ましたが どうなんでしょうねぇ?  さぁ どうなんでしょう?