• 締切済み

価値観というものを理解すると自我が崩壊しませんか?

価値観というものをしっかりと認識すると自我が崩壊しませんか? 例えば、人助けの使命に燃えていても、「人助け」に価値を見出したのは「私」であり、それを周囲に評価され嬉しくても、それもまた「周囲に評価されること」に「私」が価値を見出してるだけですよね。 つまるところ、人を馬鹿にすることに価値を見出すのと本質は何ら変わらないと思います。そうすると、あらゆる事象が「絶対的」に無価値でそこに価値を付与しているのは自身だとわかり、自分の信念や矜持等の価値を感じていたもの全てが崩れます。社会の成り立ち方すら、いわば地球規模の宗教と言えるかと思います。 人の価値観っていうのは思っている以上に極めて儚いものではないでしょうか?自覚していなければ儚いことにすら気がつかないとは思いますが。 この考えの矛盾点、現実で生きる上でこの視点を見失っている、こんな話があります、私も崩壊しました等なんでも良いのでご意見いただけませんでしょうか。

みんなの回答

回答No.7

 例えばいい大学行って、いい所に就職すれば、いい人生を送れるというのは、1つの価値観ですが、それにまい進していたところから、それにしっかりと疑問を持ち始めると、自我が崩壊します。(例えばひきこもり?)  その時に、じゃあ自分の新たな価値観は?と問われたひきこもりの人が、新たな価値観を学ばずに、いきなり農作業でいいのか?という疑問はあります。  自分も新たな価値観作りに、何十年かかったんだなあという思いはあります。

  • Td9wjd
  • ベストアンサー率38% (17/44)
回答No.6

価値観というものをしっかりと認識すると自我が崩壊しませんか? 自我の崩壊と呼んで良いかは分かりませんが、貴方の智性を制限するものを崩壊することになると思います。 人の価値観っていうのは思っている以上に極めて儚いものではないでしょうか? 価値観という観念「識別」は無常「必ず変化するもの」であり、「思っている以上に儚いもの」だと思います。 貴方がそれを認識し理解する高い智性を称賛します。 優れた利益のある質問、分かりやすい言葉に感謝します。 貴方の挙げている内容は、仏教的な五蘊無我、四念処の内容と同じだと思います。 五蘊「五つの集まり」の中の識別、四念処の中の観念、つまり価値観や常識等の持っている情報・観念の事です。 これは、無常「必ず変化するもの」、苦しみ、私ではない「私のものではない」、空「本質的なものではない」。 お調べになると利益があると思います。 また「四聖諦」(4つの聖なる絶対的な真理)、八正道「8つの正しい実践」を学ぶ事をお勧めします。 貴方の智恵を進歩し、苦しみを滅尽することが期待できます。 因みに「諦相応」ー絶対的な真理に関係ずけられた経典や「道相応」ー道に関係ずけられた経典があります。 良い内容や翻訳を手に入れて下さいね。 善い仲間と善い知識と善い交際を得ることをお勧めします。 改めて、貴方が優れた認識を持つ智性を称え、更なる智恵や徳の増大を望みます。 善い内容と優れた姿を拝見できたお礼と、いつかより優れた情報を皆に提案することを望みます。

lululustic90
質問者

お礼

>貴方の智性を制限するものを崩壊することになると思います。 なるほど。適切な表現ですね。 >仏教的な五蘊無我、四念処の内容と同じだと思います。 そんなに詳しいわけではないのですが、やっぱり仏教ってこういった視点が含まれるのですね。知らなかった参考にできるキーワード感謝致します。調べさせていただきます。「仏」の概念等はわからないですが、仏教って哲学的側面を持つのですね。 多角的に色々とありがとうございます。教えていただいたのと参考にまた色々と考えさせていただきます。

回答No.5

>価値観というものをしっかりと認識すると自我が崩壊しませんか? いいえ。そうは思いませんし、その根拠が意味不明です。 そもそも私は「周囲に評価され」ることに何の意味も価値もないと思っていますので、自分で「価値がある」と思えばそれでいいのです。 少なくとも私は「周囲の評価」を気にするような人間ではありません。自分は自分。人は人。

lululustic90
質問者

お礼

あくまで例なので。一般的に人間の獲得する価値観はその生涯で「他から受ける刺激」によって形成されると思うのですが、その点結局今の価値観は完全な自己ではないように感じます。 「周囲の評価に対して良いか悪いか」ではなく「周囲の評価に対して影響を受けているか受けていないか」ということですね。 回答ありがとうございます!

noname#247529
noname#247529
回答No.4

価値感という言葉の中に『感』という漢字があるように、感じる個人があってこその感覚です。客観的なものというのも、個人が持つ価値観の傾向などを元に考えるものです。 『絶対的』というなら、神の視点のようなものでしょうか?それなら宗教的観点から善悪があるように価値観も認識できます。 宗教的でもない(?)宇宙全体にとっての価値という意味で『絶対的』と言うなら、宇宙の規模に比べ、人間の活動そのものが大変規模の小さいものですから、取るに足らないものとして、個人としての自分がどうでもいい存在に思えてくることがあります。これが、質問者さんの言う自我の崩壊に当てはまるならその通りですね。自分のような小さいものが右往左往するのがばかばかしくなるような。 人間が虫の価値観のような視点を意識して考えることがないのと同じようなものでしょう。 宇宙規模で物を考えるのも面白いですが、どこに視点を持ってくるか、いろいろ変えてみることを覚えると途端に世界が違って見えるものです。 哲学の話ではなく、物理学でも、光の速度を考える宇宙規模で考える相対性理論と、原子以下のクオークやレプトンなどの小さい存在を考える量子力学で捉える世界のあり方が違ってきます。この二つを一緒に考えられる理論、統一理論とかは長らく基礎物理学者の重要なテーマの一つと思います。 人として、社会を生きるにも、大衆と個人のように規模の大小で視点を変えたり、大衆でも、世界か、日本かでも違います。富裕層と貧困層、どちらでもない一般大衆などでもいいでしょう。 さらに生活に直結する、個人の視点で自分以外の視点とを比べて考えるのも面白いですよ。分かりやすくは、異性ですね。身体の構造も違いますから。 質問者さんの求める内容になっているかは分かりませんが、わたしは質問文を読んで、こんなことを考えてみました。

lululustic90
質問者

お礼

>客観的なものというのも、個人が持つ価値観の傾向などを元に考えるものです。 結局ここなのでしょうね。日常生活的に強い傾向があると共通価値があることから絶対的だと錯覚を起こしやすいだけで、 「自我」そのものが「特定の価値を絶対的なもの」と認識しているのは少なからずあった気がします。この時点で誤解があったのですね。 仏教かどこか忘れましたが、「自然と一体になる」というのはこういうところから生まれたフレーズなのかなと。 >『絶対的』というなら、神の視点のようなものでしょうか?それなら宗教的観点から善悪があるように価値観も認識できます。 価値を付与する前の状態ですね。価値が高い低い大きい小さいではなく、ただ「無」の状態です。 いわば、「活動規模に価値を置いている」という考え方でこれもまた価値を付与済の状態になりますね。 >宇宙規模で物を考えるのも面白いですが、どこに視点を持ってくるか、いろいろ変えてみることを覚えると途端に世界が違って見えるものです。 「絶対的価値」ではないものに価値を感じないという価値観なのだったのかもしれません。 その点、学問はその分野の中ではある種絶対的な価値なので魅力的なのかもしれませんね。 でも、そう考えると「私」という中では「価値観」は絶対的なのだろうか・・・・・ 回答ありがとうございます!

  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10004/12512)
回答No.3

以下のとおりお答えします。 >あらゆる事象が「絶対的」に無価値でそこに価値を付与しているのは自身だとわかり、自分の信念や矜持等の価値を感じていたもの全てが崩れます。 ⇒興味あるご質問をありがとうございます。 仰せのご趣旨、よく分かります。近い感覚を抱いた経験があります。 いろいろ親切をしたのにひと言もお礼がなかったのです。怒りを覚えました。しかし、考えてみてハタと気づきました。おためごかしだったのだ。お礼やお返しを期待しての「親切」に過ぎなかったのだ。それは親切でも何でもない、ただの偽善だったのだ、と。 自己欺瞞と自己憎悪の意識に囚われました。考え込みました。椎名麟三の『永遠なる序章』(新潮文庫)を読みながら自省しました。そして、これからはいかなる親切心からやったことでも、それは「自己満足のためにそうしたのだ、自分がそうしたいから、そうしたのだ」と考えるようにしよう、と決めたものでした。 だいぶ昔の、青春時代の記憶です。なので、旧友に再会して、あのころの意識変化の一部を聞いてもらったような気分です。 (<Q>)

lululustic90
質問者

お礼

>それは親切でも何でもない、ただの偽善だったのだ そもそもの「善」があくまで主観的、あるいは主観の集合であって、決して絶対的なものではないというところですね。 >いろいろ親切をしたのにひと言もお礼がなかったのです。怒りを覚えました。 >それは「自己満足のためにそうしたのだ、自分がそうしたいから、そうしたのだ」と考えるようにしよう、と決めたものでした。 「一般的、普遍的価値観」として認識していると完全な崩壊をするかもしれませんね。 この思考って、まさにそういった「一般的思考」「押し付けない思考」と「生きる上」での相性が極めて悪いように感じます。 概ね、世間で生きる上で獲得する価値観の多くは「一般的な価値観」であるかと思います。 一方で、「一般的な価値観」だと思っていたものが、実際には「完全な一般」ではないことを知り矛盾を抱えます。 その上で、社会的に生きる人間にとって「普遍的ではない価値」と認識すると、どうしても押し付けがましいと価値を一般化することに踏み切れないですね(例えば政治政策)。 そもそもとして、全てを一般化することに間違い、あるいは無理があることによって生じるのかと思いますが。 結局、価値基準に他人を入れるとその時点で「自己の価値観」ではないのでしょうね。 あるいは「他人の価値観」を「自己の価値観とする価値観」といったところでしょうか。 文章乱雑になってしまい意味不明かもしれませんが失礼。

  • kon555
  • ベストアンサー率51% (1842/3559)
回答No.2

 昔の偉い人はこう言いました。 色即是空 https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E8%89%B2%E5%8D%B3%E6%98%AF%E7%A9%BA/ 空即是色 https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E7%A9%BA%E5%8D%B3%E6%98%AF%E8%89%B2/ 五蘊皆空などという言葉もありますね https://www.mitsuzoin.com/nanda_hannya03.html >>社会の成り立ち方すら、いわば地球規模の宗教 >>人の価値観っていうのは思っている以上に極めて儚いもの  まさにその通りです。ある時には絶対の正義であるものが、ある時には唾棄すべき悪徳に変わります。  例えば今はLGBTの方々を受け入れるのが社会的な当たり前になりつつありますが、少し前は治療すべき病気と見なされていました。  数千年前から『そういうもの』ですね。   >>考えの矛盾点、現実で生きる上でこの視点を見失っている~  内的、主観的な話だけなら特に矛盾も見落としもないのですが、あえて言うならば「人類に許された物理限界」という外側の観点を持つとまた視点が変わると思います。  例えば人類の歴史的に、大型動物の家畜化という概念がなかった時代を考えると、人類のパワー=人体のパワーでした。  ここに家畜化が技術体系として完成すると、人類のパワー=畜産のパワーになります。馬の存在は、社会の圧倒的な高速化を生んだでしょう。  さらに産業革命が実現すると、人類のパワー=機械のパワーになります。近年の情報化革命もまた、大きく社会を変えたと言えるでしょう。  こうした技術的な革新に伴い、社会は大きく変革してきました。例えば産業革命前後では『単純労働を黙々とこなす人材』は重宝されたでしょうが、今ではこうした人材の労働価値は下落する一方です。  ある意味で、技術=物理的なパワーが価値観を作る側面があり、そうした意味では価値観など儚いものであり、また非常に強固なモノとも言えるでしょう。

lululustic90
質問者

お礼

あまり詳しくないので若干捉え方を間違えているかもしれませんが、そういえば仏教はそういった「万物はただそこにあるのみ」のような考え方でしたね。 >ある時には絶対の正義であるものが、ある時には唾棄すべき悪徳に変わります。数千年前から『そういうもの』ですね。 日常生活上で価値を感じ生きるのは、その時その時の瞬間その人にとっては「確かな価値」を感じているのだと思いますが、それも空想でしかないと思うと悲しいですね。 >あえて言うならば「人類に許された物理限界」という外側の観点を持つとまた視点が変わると思います。 なるほど。実際の各時代の価値観の根幹というところですね。 生物の本能レベルの認識でもありますが、更なる根幹に「発展と存続」に価値を置いてますよね。 ご回答ありがとうございます!

  • kaitara1
  • ベストアンサー率12% (1154/9141)
回答No.1

要するに自我というものには何の価値もないということでしょう。

lululustic90
質問者

お礼

価値を創り出してることを自覚すると、とても空虚ですね。自覚していなければ良かったと思います。 回答ありがとうございます!

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