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よほどの浪費家だったのか山内一豊・千代夫婦

NHK大河でも今、やっていますが 山内一豊を支える、千代の賢妻ぶりが徐々に出てくることと思いますが 信長が京都で行った朝廷への牽制のための馬ぞろえで 乗る名馬を千代の持参金10両(NHKではこれからおそらく10両の銀子) しかし天正9年(1581年)馬ぞろえまでに彼らは 天正元年(1573年)近江国浅井郡唐国400石    天正5年(1577年)播磨国有年など2000石所領 名馬は、1573年ごろ購入されたとされているが 馬ぞろえは、1581年ですから、さすがに馬ぞろえの ために買ったとはいいがたく、年代的に隔たりがあり 大いなる矛盾があり、400石取りともなれば 馬代もだせないというのはいささか浪費が過ぎやしないかと思えます。いくら戦国の世でものいりが多かったにせよです。 千代の賢妻ぶりは、十両の馬代以上のものがあったといいます。こんな矛盾だらけのへそくり十両の話はもう伝えるべきではないと思いますが。 もっと千代の賢妻ぶりを伝える話ありませんか?

みんなの回答

noname#24872
noname#24872
回答No.2

No.1さんの書かれている枡の話以外でしたら、夫に来客があった折もてなす費用がなかったため、自分の髪を売って工面した逸話などでしょうか。 http://www.lib.pref.saitama.jp/stplib_doc/reference/list/kaz_wife/ 当時の黄金十両は仮に米十五石として約二十四貫文、足軽の年収だと8人分にあたります。下級武士としては大金に違いありませんが、四百石取りに出世した後であれば、工面に苦労する金額ではありません。 また1573年に購入したとして、既に3~4才馬だったでしょうから、1581年の馬揃えの時には11~12才馬、人で言えば40台半ばの初老にさしかかった頃で、とても馬揃えで披露することはできなかったはずです。 もともと馬揃えの逸話は江戸中期から言われだしたもので時期は不明、金額についても諸説あり、実話というよりあくまで小説の中の話と割り切ったほうが良いと思います。

  • at9_am
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回答No.1

> もっと千代の賢妻ぶりを伝える話ありませんか? 例えば「千代のまな板」はいかがでしょうか。 相当に立身するまで、千代は米を測るマスを裏返してまな板代わりに使っていました。あるとき見かねた一豊が新しいのを作らせようかと言ったところ、これで充分ですと断った、という話が残っています。 このまな板(マス)は今でも高知にあるそうです。 また、関ヶ原の直前に石田三成が大阪を押さえたとき、いち早く書状と共にそれを夫に知らせ、彼が後に土佐 50 万国の大領主になる基礎を築かせたのも有名な話です。 因みに。 米1石が銀20匁程度であり、銀一両=4.3匁ですから、銀十両ならば米2石ほどになります。これが金だとすれば金一両=銀7.5両ですので、15石ほどですね。400石取りであればそんなに高い買い物ではない、と思われても不思議ではありません。 しかし、充分に高い買い物です。この当時の武士の所領は、基本的に土地の広さであって収入とは一致しません。そこからの徴税額が収入になりますので、例えば五公五民ならば収入は200石になります。 この200石は領主(この場合は山内一豊)の給料ではなく、言ってみれば「山内商事」の売上のようなものになります。ここから家来の給料から武器防具の類までを支払い、戦の際には兵糧や弾薬の類まで調達しなければなりません。特に戦の多かった織田家にはこの辺りの支出が多かったようです。 更に、所領を与えられるとそれに見合った人数を揃えなければなりませんが、新しい領地を与えられても年貢が上がってくるのは秋です。したがってその間の分は完全に持ち出しになります。 このような事情で、領主の手元に残る金額という物はそう多くはなく、金であれ銀であれ、10両という金額は大きな物でした。 また、この当時はまだ貨幣経済自体がそれほど発達しておらず、金10両は150貫になりますが、織田信長がこの当時繁栄を極めた堺に対しての懲罰として課した額ですら20000貫ですので、その大きさが分かると思います。