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玉音放送のあとも……

 終戦の詔勅が出たあとも、厚木飛行場にあった海軍の戦闘隊は、東京上空から「あれは赤魔の謀略である。天皇は絶対のお方なり、絶対に降伏なし!」のビラをまいたり、接収される前に零戦を飛び立たせて持ち去ったりと、頑強に徹底抗戦を訴えていたそうですが、「大空のサムライ」の坂井三郎さんもその中のひとりだったのですか?氏が終戦後も米軍機を撃墜してしまったという話を聞きました。

質問者が選んだベストアンサー

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  • ex_hmmt
  • ベストアンサー率48% (726/1485)
回答No.3

坂井三郎は横須賀空の所属で終戦時も横須賀に居ました。 戦後彼が零式艦上戦闘機を飛ばしたのは坂井氏記録によれば8月17日。米軍記録では8月18日とも記録があります。 以下のサイトが良い資料となるでしょう。 http://www.warbirds.jp/ansq/1/A2000660.html 反乱を起こしたのは厚木の三○二空 Wikipedia-小園安名 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%9C%92%E5%AE%89%E5%90%8D などが参考になるでしょうか。 厚木の反乱と呼応する意思があったかどうかはわかりませんが、別の行動であったと考えるのが自然でしょう。

pbf
質問者

お礼

たいへん詳しい参考記事の紹介ありがとうございます。 負け知らず坂井さんですから、敗戦と決まっても一矢を報いずにはいられなかったのかもしれませんね。 ありがとうございました。

その他の回答 (2)

  • char2nd
  • ベストアンサー率34% (2685/7757)
回答No.2

 私の友人の父親が当時海軍のパイロットだったそうですが、武装解除したのは玉音放送の1ヶ月後だったそうです。  一般には終戦記念日は8月15日とされていますが、実際には武装解除に応じずに、銭湯を続けていた部隊はあったようです。

pbf
質問者

お礼

各地で同じような動きがあったそうですが、そのお知り合いの方も、命を懸けて戦ってきたのでしょうから、いきなり停戦せよと言われても、やりきれなかったのでしょうね。 たいへん貴重な話を聞かせていただきました。

  • lack03
  • ベストアンサー率13% (49/371)
回答No.1

坂井三郎氏は厚木でなく横須賀空だったので厚木の反乱には参加してません。 玉音放送後に空中戦したのは確か爆撃機を攻撃して弾を命中させただけで撃墜はしてなかったと思います。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E4%BA%95%E4%B8%89%E9%83%8E

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E4%BA%95%E4%B8%89%E9%83%8E
pbf
質問者

お礼

坂井さんは横須賀空だったのですね。 教えていただいた「厚木の反乱」で検索してみたところ、 三百二戦闘機部隊・小薗大佐は、台南空では坂井氏の上官だった人物だそうですね。 ありがとうございました。

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