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玉音放送を待たずして降伏した軍人はいますか?

8月15日の玉音放送以前に、戦陣訓に逆らって勝手に大勢の部下を連れて降伏した軍人はいますでしょうか? もちろん下級兵士で勝手に投降した人はそれなりに大勢いるとは思いますが、そうではなくて、大隊長とか旅団長とかいったレベルの幹部で、部下全員を連れて降伏した人がいるかどうかを知りたいのです。 例えば第32軍(沖縄)のナンバー3である高級参謀・八原博通は、「終戦前に捕虜となった」と読んだのですが、果たして自分一人で投降したのか、沖縄全軍ごと降伏する意図で投降したのか、調べようとしたのですがよくわかりませんでした。 お願いします。

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回答No.2

 1945年(昭20)5月、ニュギニア島の戦いにおいて、同方面の日本第18軍の将兵は、オーストラリア軍に東部のアレキサンダー並びにトリセリー山脈の山岳地域に追い詰められ、病気と飢餓に次々とたおれていましたが、このころ第41師団隷下の山砲兵第41連隊第3大隊長だった竹永中佐(陸軍士官学校出身)は、連隊が砲と弾薬を失ってからは兵とともに同師団隷下の歩兵第239連隊へ転属となり、第2大隊長となっていましたが、42名の部下を引き連れてオーストラリア軍に投降しました。投降時に差し出した武器は軽機関銃5、小銃17、拳銃5、弾薬約750発だったとのことです。  なお、竹永中佐は戦後帰国したのち、人目を避けるように山陰地方のある炭鉱で病気で亡くなるまで働いていたそうです。  資料 = 高橋文雄「真相・東部ニューギニア戦線 日本軍前代未聞の集団投降」 『歴史と人物』昭61夏号 中央公論社 所収

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  • a-koshino
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回答No.1

八原参謀の場合は、牛島司令官の命令で脱出しようとして果たせず、捕虜になったもので、みずから投降したのではない、とされています。 投降を決断した隊長がいたとしても、その通り記録に残ることは、ないのでは。

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