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玉音放送で戦争を終結させた理由は?
質問番号:6532849 開戦の詔書の「豈朕ガ志ナラムヤ」の文言は隠蔽されて http://okwave.jp/qa/q6532849.html で質問をさせていただいたものです。 玉音放送で日本が戦争を終結させた理由が分かりません。 本当に天皇の意思に忠実に従うのであれば、開戦の詔書の「豈朕ガ志ナラムヤ」の文言を見れば、天皇の意思は戦争による解決を望まないと言うことが分かるので、東條内閣を退陣に追い込み、戦争などに踏み切らなかったと思うのですが?
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たびたびですが、「国民は無責任であったのか」ということについて補足的に回答させて下さい。 昭和天皇は、ポツダム受諾の御前会議の席上、このように話されております。 「(前略)この際私としてなすべきことがあれば何でもいとわない。国民に呼びかけることがよければ私はいつでもマイクの前にも立つ。一般国民には今まで何も知らせずにいたのであるから、突然この決定を聞く場合動揺も甚だしかろう。(後略)」 つまり、天皇のお言葉通り、国民は戦争の真実については常に蚊帳の外に置かれていたのですね。国民の責任については、現在の民主的な政治体制においてはじめて言及できるのでありまして、言論・集会・結社の自由のほか、通信の秘密までも制限され、憲兵・特高が目を光らせ、帝国議会も大政翼賛会の一党独裁の状況においては、国民の責任を追及するなど酷なことだと思います。 「マスコミも戦争を煽っていた」と書きましたが、新聞・ラジオなども当然政府の検閲を受ける立場にあり、戦争を批判することが困難な状況にあったことも指摘されなければなりませんでした。国から国民に提供される情報も統制化に置かれ、「大本営発表」は周知の通り、ウソをウソで塗り固めたものでしかありませんでした。 太平洋戦争は政府・軍部の自己欺瞞と国民に対する欺瞞に満ち満ちたものであり、それだけでも、敗因の一つに十分なりうるものでした。
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- SPS700
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#6です。 >>日本国民全員とは言いませんが、圧倒的大多数が上記の立場だったと考えております。 天皇の意思をないがしろにした A と 天皇の意思に従った C 僕個人の体験から、祖父は1941年12月8日朝のニュースと号外まで、開戦を知らなかった、近所の人誰も知らなかったと言っていました。日本国民の「圧倒的大多数」の立場を知っていた人が居るはずが無いので、根拠が知りたいです。 ご参考までに、当時日本女性の投票権はなかったので、もし投票があっても約半数の意見しか分からないときの話です。
お礼
当時の時代状況を理解していませんでした。 >当時日本女性の投票権はなかったので、もし投票があっても約半数の意見しか分からないときの話です。 これは言われるまで忘れてました。 日本国民がどのようにして開戦に至ったのかについても、まったく理解しておらず、 「日本国民は戦争に至る外交折衝の進捗を新聞やラジオで知っていたはずだ」と考えていて、今回の質問をしました。
間接的な回答ですけど。 もし本当に問題を解決したいならご自分で本を読んでください。 20冊も読み込めばなんとなくはわかるでしょう。 天皇陛下と大元帥陛下、大臣現役武官制、陸軍省と参謀本部、海軍省と軍令部 皇道派と統制派、艦隊派と条約派、天皇機関説論争、重臣、軍部内下克上など多岐にわたる理解が必要です。 大正から終戦までの政治史全般を理解しないと問題は解決しないでしょう。 「天皇のため、お国のため」と言ってたヤツが天皇廃位クーデタを画策した時代。 学術論文で数万本の世界です。 本当に理解したいと思われるなら東大か京大の大学院へ進むことおすすめします。 個人的には#1さん、#5さんの回答はよいと思いますね。 引用されている史料や読み方などかなり客観的だと思います。 激動の数十年を理解することは簡単なことではありませんね。 ここで質問するよりどこかの研究所へ行かれるとよいでしょう。
お礼
当時の国民が知りえた情報がどのようなものだったのかということを理解せずに、今回質問をしたと分かりました。
- BOMBARDMENT
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たびたび失礼します。 まず、政府や軍部の一貫性のなさを疑問に挙げられていますが、一貫性がなかったのは至極当然であると考えます。なぜなら、軍部は腐敗した官僚機構に成り下がっており、当事者意識などまるでなかったからです。太平洋戦争を通じての陸海軍首脳の場当たり的な発言の多さには、目を覆わんばかりのものがあります。当今の政府にそっくりです。 軍部が堕落した理由として考えられるのは、日露大勝による慢心や、シーメンス事件、統帥権干犯問題などです。 シーメンス事件は、海軍のみならず、陸軍の幹部をも巻き込んだもので、将官クラスの軍人が位記返上に追い込まれるなど大変なもので、恐らくは、この事件を契機に、軍部は責任の所在を曖昧にする傾向が強まったのではないかと推測されます。 統帥権干犯問題は、周知の通り、戦前の「政党政治の自殺行為」と評され、軍部の政治進出を促進させる契機にもなりましたが、同時に、「統帥権独立思想」を醸成させる役割も果たしたと思われます。これによって軍部、特に陸軍の暴走に歯止めが効かなくなり、日華事変の泥沼に引きずり込まれることになるのです。さらに、政府にかかる腐敗した軍部を招じ入れたことで、政府にも当事者意識が欠如するに至るのは自然の流れで、昇進のためにか戦争をしたくてたまらない若手将校の声を無批判に吸い上げ、「開戦已む無し」となったと考えられます。 このように、制度としては確立してはいないものの、「統帥権独立思想」は陸海軍に瀰漫しており、政府の意思がどうであれ「そんなのかんけえねえ」であったことはまず間違いなく、敗戦直前の御前会議において、政府と軍部の意思統一は不可欠に近かったと思われます(これがなければ、軍部の反乱を招くことも考えられます)。統一のシンボルとして一番相応しいのは、他に誰あろう昭和天皇ということになります。 さらに、ポツダム宣言受諾・無条件降伏を鈴木首相が声明しても、玉音放送ほどの効果は挙げられなかったとも考えられます。鈴木は侍従長として昭和天皇の信任が厚かったのですが、そのせいか、皇道派将校に「君側の奸」と目され、2・26で遭難する憂き目を見てきました。鈴木としても、同じ轍は踏むまいとの考えがあったのでしょう。天皇自身も、「肝胆相許した鈴木であったから、この事(御前会議での意思統一と玉音放送のこと。カッコ内引用者)が出来たのであった」と語っておられます。(「この君にしてこの臣あり」より。原文は傍点つき) 昭和天皇に開戦の意志がなかったことや、ポツダム受諾の意志が固かったことは、さまざまな資料で証明されておりますから、ここで特段とりあげることは致しませんが、要するに、昭和天皇は、無責任な政府と軍部に振り回されたお気の毒な立場にあったということです。
お礼
>要するに、昭和天皇は、無責任な政府と軍部に振り回されたお気の毒な立場にあったということです。 軍部も政府も無責任だったということは理解できました。 それでは国民は東條を退陣させろと言うのではなく、新聞が戦争をあおる始末ですので、 国民のほうも無責任だったのでしょうか? そうであるなら、一貫性のなさは理解できます。
- masa2211
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もしかして、この部分をいっているのかな? >しかし、原爆投下・ソ連参戦に際しても陸軍首脳は相変わらず徹底抗戦を主張し、即時降伏を求める政府や >海軍の一部と激しく対立し、いつまでたっても議論がまとまりませんでした。 軍隊は政府のコントルール下にあるのが常識です。ナチなどでもそう。 ゆえに、政府が即時降伏を求めたら、意思決定は確定。陸軍首脳が交戦を主張するなら、反逆者。 普通ならそうなるところ。 ※※当時の日本は、そうとも言えない。孫子の悪影響というべきか.... 普通でない場合、陸海軍の総大将(天皇のことです。)から、「コラ!」と言ってもらうしかないです。 よしんば、継戦か降伏か、意見が真っ二つの場合は、国家元首が判断するしかかないから、 この時に限り天皇の判断で降伏しても、スジ的におかしくないでしょう。 政府が継戦でまとまり、天皇が降伏を希望し、その結果、降伏となるならスジが変ですが。 ところで、トップの引用ですが、 降伏側が政府(内閣)と海軍の一部。 継戦側が陸軍首脳。 となっています。 この文では、 海軍の一部に継戦派がいて、陸軍には降伏派がいなかった、という意味になりますが、 WikiPediaの「玉音放送」では、降伏反対は陸軍の一部 となっています。 WikiPediaのとおりなら、議論はまとまっていたことになります。
お礼
>よしんば、継戦か降伏か、意見が真っ二つの場合は、国家元首が判断するしかかないから、 >この時に限り天皇の判断で降伏しても、スジ的におかしくないでしょう。 小田原評定を続け、その結果国民の犠牲が増大しようとも、それは政府・軍部の責任であり、政府・軍部の責任を放棄して天皇に判断してもらうとは立憲君主国家としてあるまじき行為ではないのでしょうか?
- SPS700
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ABCDという四つの立場があります。 A 戦争を始めるべきだ。 B 戦争を始めるべきではない C 戦争を終わらせるべきだ D 戦争を終わらせるべきではない >>戦争開始の際は天皇の意思をないがしろにし、戦争終結の際は天皇の意思に従うと言う一貫しない行動が疑問なのですが? A と B は開戦の時、C と D は終戦の時ですから、4つの組み合わせが可能です。質問者さんは日本国民が一致して A と C の立場だったとお考えのようですが、他の3つの見方も可能ですね。ヒストリー(歴史)はストーリー(作り話)と同一語源である事をお忘れなく。
お礼
>質問者さんは日本国民が一致して A と C の立場だったとお考えのようですが 日本国民全員とは言いませんが、圧倒的大多数が上記の立場だったと考えております。 天皇の意思をないがしろにした A と 天皇の意思に従った C という組み合わせが不思議なのです。
- masa2211
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ひょっとして、peed10さんは、 「内閣は戦争を継続する気があるのに天皇が止めろと言ったから戦争を止めた」 と考えていませんか? 東条英樹はすでに辞職しており、当時は鈴木内閣です。鈴木は和平派であり、内閣も戦争を止めるつもりでいたのは明らか。 よって、開戦・終戦とも、内閣が意思決定し、天皇は、内閣の意思決定に従って宣言したということで、 つじつまは合っています。 天皇の意思だけで降伏したわけではないです。 では、なぜ、終戦時だけ玉音放送か、というと、 終戦と言っているのは日本だけ。実態は降伏だから。 開戦時は、開戦を決定してから戦争準備をして、その後、実際に開戦します。 いつ開戦するかは、政府と軍隊で完全に統制が取れています。 降伏時はそうではなくて、前線の兵士も将官も、いつ降伏するのか知らされていないから降伏しろと命令する必要があります。 全戦線に同時に送る必要があるし、暗号で送る必要もありません。 また、開戦の時と違い、軍の中で意見が割れており、戦争継続派もいます。 そういうところへ、玉音放送をたとえば鈴木首相が行ったとして、戦争継続派が言うことを聞かない可能性があります。 鈴木首相は海軍出身なので、海軍は大丈夫として陸軍の末端まで命令に従うか不明です。 (法律の上では、将軍は首相の言うことを現場の判断で無視してよい。 そういうバカなことの言い出しっぺは、「孫子」で、なぜか日本の軍隊はコレを採用した。) したがって、情報伝達手段として最も適切なのは天皇が自身の声で伝えること、と、内閣の誰かが考えたのでしょう。 もう1点。 >>「豈朕ガ志ナラムヤ」 >立憲君主として私的な意見としては戦争は望まないが、私的な意見を基に政府の決定を却下するわけには行かない そうじゃなくて、 争いを解決する手段として、戦争、会議、その他とあれば、その中で戦争の優先順位が低いということ。 よって、 戦争以外の方法はすべて試したけれどダメだったので戦争をする。 そういう風に読みます。 さらに、天皇自身が戦争をしたくてもしたくなくても、タテマエ上、ほかの方法が無い、そう言います。 おそらく、ヒトラーもムッソリーニもスターリンもルーズベルトも、ほとんど同じこと(=やりたくないけど他に方法が無いので始める)を発言しています。 要するに、「豈朕ガ志ナラムヤ」は、美辞麗句であり、中身の無い文言として読み飛ばしてかまわないのです。 ですので、 天皇個人の意思として、戦争による解決を望まないかどうかは、公式声明だけではまるでわかりません。 日常の記録とか、御前会議の議事録とか、そいいう資料を使う必要があります。
お礼
>開戦・終戦とも、内閣が意思決定し、天皇は、内閣の意思決定に従って宣言したということで、 >つじつまは合っています。 >天皇の意思だけで降伏したわけではないです。 確かに開戦・終戦とも内閣が意思決定したことは分かりますが、 開戦は「天皇は戦争を望んでいないが内閣は戦争を決定」 終戦は「戦争継続化終結かで意見が決まっていない状態で天皇の意見を聞き、天皇の意見に従い内閣が戦争終結を決定」 というように違うのではないでしょうか? >>「豈朕ガ志ナラムヤ」 >>立憲君主として私的な意見としては戦争は望まないが、私的な意見を基に政府の決定を却下するわけには行かない >そうじゃなくて、 >争いを解決する手段として、戦争、会議、その他とあれば、その中で戦争の優先順位が低いということ。 >よって、 >戦争以外の方法はすべて試したけれどダメだったので戦争をする。 >そういう風に読みます。 >さらに、天皇自身が戦争をしたくてもしたくなくても、タテマエ上、ほかの方法が無い、そう言います。 >おそらく、ヒトラーもムッソリーニもスターリンもルーズベルトも、ほとんど同じこと(=やりたくないけど他に方法が無いので始める)を発言しています。 >要するに、「豈朕ガ志ナラムヤ」は、美辞麗句であり、中身の無い文言として読み飛ばしてかまわないのです。 素直に文章を読めば、戦争による解決を望んでいなかったとしか読めませんし、開戦という国家の一大事における文章の中にわざわざ中身のない文言を入れるとは考えられません。 >戦争以外の方法はすべて試したけれどダメだったので戦争をする。 >そういう風に読みます。 ぱっと思いつく人物としては、軍部・政府の最高責任者に石原莞爾を抜擢していれば、米英に対する戦争は回避できたのではないかと考えております。 つまり、 >戦争以外の方法はすべて試したけれどダメだったので戦争をする。 ではなく、 すべて試していないのに政府が戦争を決定したので、立憲君主の名で戦争をする という風に読めます。
- SPS700
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詔書で、戦争が始まった。 詔書で、戦争が終わった。 簡単じゃないかな。
お礼
戦争開始の際は天皇の意思をないがしろにし、戦争終結の際は天皇の意思に従うと言う一貫しない行動が疑問なのですが?
- staratras
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ご質問の前提として、「昭和16年の開戦当時、天皇はあくまでも平和的な解決を求めていたにもかかわらず、軍部や政府がその意思に反して開戦した。開戦の詔書に『豈朕ガ志ナラムヤ』とあるのがその証拠である」と理解されているのだとしたら、詔書の文言の意図するところが少し違うと思います。 「豈朕ガ志ナラムヤ」の意味は大づかみに言えば「この戦争はやむを得ず行うのだ、(やりたくてやるわけではない)」ということであり、それは当時の軍部・政府の立場でもあったからです。史実がその通りであったかどうか、あるいは当時指導的な立場にいた人すべてが本当にそう考えていたかどうかは別として、「日本は事態の平和的な解決を求め続けてきた。しかし米英などは悪いことをやめない。そこで日本は自存自衛のためにやむを得ずこの戦争を始めるのだ」というのが当時の考え方(建前)です。詔書の「豈朕ガ志ナラムヤ」の部分の直前に「今ヤ不幸ニシテ米英両国ト釁端ヲ開クニ至ル 洵ニ已ムヲ得ザルモノアリ 豈朕ガ志ナラムヤ」とある通りです。 さらにこの「豈朕ガ志ナラムヤ」はこの開戦の詔書だけにある表現ではありません。日露戦争の開戦の際の詔書にも「今 不幸ニシテ露国ト釁端ヲ開クニ至ル 豈朕ガ志ナラムヤ」とあります。昭和16年の詔書のこの表現だけ特別の意味を持っているわけではないと思います。
お礼
>「豈朕ガ志ナラムヤ」の意味は大づかみに言えば「この戦争はやむを得ず行うのだ、(やりたくてやるわけではない)」ということであり 「やりたくてやるわけではない」つまり、戦争による解決を望んでいなかったと言うことではないのですか? 東條内閣に置いて戦争が決意され、立憲君主として私的な意見としては戦争は望まないが、私的な意見を基に政府の決定を却下するわけには行かないので、立憲君主たる天皇の名において戦争を行う事を決意したというわけですよね。 >それは当時の軍部・政府の立場でもあったからです。 ぱっと思いつく人物としては、軍部・政府の最高責任者に石原莞爾を抜擢していれば、米英に対する戦争は回避できたのではないかと考えております。つまり、天皇の意思に忠実に従うのであれば、戦争回避は可能だったのに、そうしなかったのではないかと考えております。 日露戦争の開戦の際の詔書においても「豈朕ガ志ナラムヤ」とあるのを知りましたが、明治天皇も昭和天皇も開戦には私心としては反対であると言うことは国民が知っていたのに、天皇の意思ではなく政府の政策に従ったのは立憲君主国として当然のことだと思いますが、開戦の際は天皇の私心をないがしろにしておいて、玉音放送や御前会議での天皇の私心に従うと言うのは行動が一貫していないので、理解できないのです。
- BOMBARDMENT
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たびたび失礼いたします。 昭和天皇が「豈朕ガ志ナラムヤ」との所存がありつつも開戦を裁可したのは、まさに天皇が「立憲君主」であったからに他なりません。 先出の「この臣にして…」には続きがあります。これも書いておくべきでした。 「(承前)それゆえに、内政、外交、軍事のある一事につき、これを管掌する官庁において、衆知を傾けて慎重に審議したる上、この成果を私の前に持って来て裁可を請うといわれた場合、合法的の手続きを尽くしてここまで取り運んだ場合には、たとえそのことが私としては甚だ好ましからざることであっても、裁可するのほかはない。立憲国の天皇の執るべき唯一の途である。(後略)」 しかし、原爆投下・ソ連参戦に際しても陸軍首脳は相変わらず徹底抗戦を主張し、即時降伏を求める政府や海軍の一部と激しく対立し、いつまでたっても議論がまとまりませんでした。 「(中略)遂に御前会議の上、鈴木は私に両論の何れを採るべきやを聞いた。茲で私は今や何人の権限を犯すこともなく、また何人の責任にも触れることなしに、自由に私の意見を発表して差し支えない機会を初めて与えられた。またこの場合私が採決しなければ、事の結末はつかない(後略)」 この後、御前会議席上で昭和天皇の語られた内容が、そのまま玉音放送に反映されるに至ったのですが、要するに、国家存亡の秋にあっては、「朕は立憲君主だから、臣下が纏めなければどうしようもない」などと杓子定規的な対応など許されなかったということでしょう。また、纏まらないものを纏めるだけの力というかカリスマ性が昭和天皇にはあったということも特筆すべきことではないかとも考えます。
お礼
>たびたび失礼いたします。 ありがとうございます。 >昭和天皇が「豈朕ガ志ナラムヤ」との所存がありつつも開戦を裁可したのは、まさに天皇が「立憲君主」であったからに他なりません。 それは分かっております、立憲君主として当然のことをしたにすぎません。 また、 >遂に御前会議の上、鈴木は私に両論の何れを採るべきやを聞いた。茲で私は今や何人の権限を犯すこともなく、また何人の責任にも触れることなしに、自由に私の意見を発表して差し支えない機会を初めて与えられた。 これも鈴木首相に意見を述べる機会を与えられたということだけで、意見は自由に述べても良いが、その発言は立憲君主の発言なので何ら法的拘束力を生じさせず、単なる参考意見としてしか扱われないと言うものではないでしょうか? >またこの場合私が採決しなければ、事の結末はつかない これは玉音放送を聞いた時に国民は、あるいは御前会議の出席者は天皇の戦争終結を希望する意見を述べた時に知っていたのでしょうか? 国民としてはあるいは御前会議の出席者は開戦の詔書も玉音放送も御前会議での意見も「天皇が法的拘束力の無い私的な意見を述べられた」としか理解していないのではないでしょうか? また、仮にそのように思ったとしても、要は立憲君主たる天皇の意見は法的拘束力が無いので、天皇の意見を汲み取るか汲み取らないかは軍部や政府や国民の判断によります。 それなのに開戦時には天皇の意思をないがしろにしておいておきながら、終戦時には天皇の意思にしたがうという一貫していない政府・軍部・国民の態度が理解できません。
- BOMBARDMENT
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再び回答させていただきます。 藤田尚徳「この君にしてこの臣あり」(鶴見俊輔・中川六平編「天皇百話」(ちくま文庫)所収)に、昭和天皇は戦争についてこう述懐されております。 「(前略)この戦争についても、どうかして戦争を避けようとして、私はおよそ考えられるだけは考え尽くした。(中略)遂に戦争に突入してしまったことは、実に残念なことであった。この頃世間には、戦争を終わらせ得た天皇が、何故開戦前戦争を阻止しなかったかという疑問を抱いているものがあるようだ。これを尤もと聞く人もあろう。然しそれはそういうことにはならない。立憲国の天皇は、憲法の枠の中にその言動を制約せられる。この枠を勝手に外して、任意の言動に出でることは許されない反面、同じ憲法には国務大臣に就いての規定があって、この大臣の憲法による権限、責任の範囲内には、天皇は勝手に容喙し、干渉することは許されない。(後略)」 たしかに明治憲法には「天皇は元首にして統治権を総攬し」「天皇は陸海軍を統帥す」「天皇は陸海軍の編制及び常備兵額を定む」と書いてはありますが、統治権は内閣が輔弼権を、統帥権は参謀本部・軍令部、編制権は陸・海軍省が帷幄上奏権をそれぞれ握り、天皇は専制君主ではありませんでした。天皇といえども、東條首相兼陸相兼参謀総長を意のままに更迭できませんし、当時のマスコミもむしろ戦争を煽る論調しかなく、政府内外ともに倒閣運動など起こる雰囲気などありませんでした。 仮に天皇がほしいままに執政できたとしても、当時の日本の施策が、米国の伝統的な政策課題である「中国の門戸開放」と衝突している以上、開戦は不可避に近かったと考えられます。 また、日露戦争前夜、ロシアのニコライ2世は「朕が欲しないのだから、日露開戦はありえない」と語ったそうです。ですが、不凍港を求めて朝鮮半島を窺うロシアを日本が放置するわけにもいかず、専制君主の意向に無関係に開戦に達してしまったことは銘記すべきではないでしょうか。 2・26事件の解決すらも昭和天皇なしにできなかった軍部に、戦争を終結させる決断などできなかったことは当然のことでして、敗戦直前の御前会議においても、天皇と鈴木貫太郎の活躍抜きには語れない、ポツダム宣言受諾までの長いドラマがあったと考えるべきではないかと思われます。
お礼
>再び回答させていただきます。 ありがとうございます。 天皇が戦前・戦中と立憲君主であったことは理解しています。 法的には天皇の意見は法的拘束力は無く天皇の意見は参考程度にとどめるべきものと理解しております。 よって玉音放送があっても、「豈朕ガ志ナラムヤ」の文言があっても、参考程度にとどめることが本来の姿と考えます。 しかし、玉音放送では天皇の意思をくんで戦争を終結した割には、 「豈朕ガ志ナラムヤ」の文言があるのに 戦争を決意した東條を退陣に追い込むのではなくあろうことか >当時のマスコミもむしろ戦争を煽る論調しかなく とは、同じ天皇の意思を参考程度にしか聞いていないとしか思えません。 どうしてこうも天皇の意思に対して全く異なる対応をとったのでしょうか?
お礼
当時の国民が知りえた情報がどのようなものだったのかということを理解せずに、今回質問をしたと分かりました。