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100~200年で幕府や王朝は滅びるのでしょうか?
日本史や世界史を勉強していて思うのですが、100~200年で幕府や王朝は滅びるのでしょうか?それぐらいの年数で社会のシステムが駄目になるのでしょうか?それとも人間の欲求の変化があらわれる周期なのでしょうか?大変不思議ですが、教科書には何一つのっていません。ご教授ください。現在、明治維新後150年くらいたって混沌としている現在をも読み解きタイです
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幕府や王朝に限った話ではありませんが、こんな考え方もあるということで紹介します。 『文明法則史学』 http://www.ktroad.ne.jp/~bunmei/index.html 次に、王朝や幕府が滅びる件について、私見を述べます。 おおよそ一つの王朝は、創業者が征服し、二代目が基礎固めして、三代目で 一つの完成期を迎えます。 それ以降は、よくも悪くも三代目までで築いたシステムを、受け継いでいく流れ となります。 しかし、変化が遅い古代や中世においても、100年くらいの時間が経てば、 それなりに状況が変化します。 社会状況が変化したときに、うまくシステムを変革できればよいのですが、 どちらかというと改革に失敗することが多いです。 なぜなら、それまでのシステムを変革しようとすると、変革するのを嫌がる守旧派 という存在が必ず登場し、改革派との抗争が始まるからです。 江戸時代がわかりやすいので例に挙げますが、徳川家康が始めた江戸幕府は、 三代目の家光で一つの完成期を迎えます。 しかし、農民から年貢を徴収する米中心の税制度は、その後に経済発展が進む中、 相対的に米の価値が下がり、幕府や各藩は慢性的な税収不足に陥ってしまいます。 その後、徳川吉宗が幕府政治を改革して一時的に持ち直しますが、米中心の税制 は変わらなかったため、貨幣経済の発展という根本問題が放置されたままでした。 田沼意次あたりが、四苦八苦しながら何とかその流れを変えようとしますが、 その田沼も失脚し、結局この問題は未解決のまま、幕末を迎えます。 その頃、貨幣経済に対応した藩の財政改革に成功した長州や薩摩は、相対的に 力を増し、幕末の混乱期にあって倒幕勢力として頭角を現すわけです。 自分から滅びたい政権というのはまずないのですが、組織が巨大になればなる程、 組織を改革するのに抵抗する勢力も大きくなります。 一時期の長州藩や薩摩藩のように(あるいは上杉鷹山の頃の米沢藩でも)、 財政危機などの理由で瀕死の状態に陥れば、それだけ危機意識も強まります ので、改革に成功する確率は高くなります。 しかし、中国の王朝、あるいは徳川幕府のように、中央集権化が進んで国内に 敵が存在しない場合、危機意識が相対的に薄いため、守旧派が強くなり、改革 に失敗してしまうことが、多くなります。 しかし、改革せずに問題を先送りすれば、いずれそのツケをまとめて払う結果と なってしまうわけです。 最後に現在の政治の混乱についてですが、明治依頼の官僚主導政治が150年 たって、ようやく崩壊しようとしています。 橋本政権のあたりからその流れが強くなったのですが、小泉政権になってようやく 政治家と官僚(と守旧派の政治家)の力関係が、逆転したようです。 もう少しすると、今までアンタッチャブルだった特別会計に、ようやく政治のメスが 入るようになります。 ここさえ削り取ることができれば、官僚の力は決定的に後退します。 政治家主導の政治というのは、言い換えれば政治家を選ぶ国民主導の政治と いうことです。(官僚は国民が選ぶことも辞めさせることもできないので、国民の 願いと関係のない方向に走りやすい) あと10年くらい経てば、日本は今までよりずいぶん住みやすい国になることが 期待できます。
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- o24hit
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こんばんは。 私は少し視点を変えて書いてみたいと思います。 まず、王朝は日本に当てはめれば、天皇家ということになりますが、平安期以降は、現在と同じ象徴天皇みたいなもので、「権威」はあるが「権力」がない状態が明治に入るま続き、かえってそれが幸いして、いつの権力者も「天皇」を利用こそすれ、廃止しませんでしたね。これは、世界的に見てもまれなケースのようです。 次に、幕府なのですが、この幕府という言葉が曲者です。というのは、幕府という名称自体が、後世の歴史家がつけた呼び名であり、当時は幕府はなかったんです。勿論、鎌倉時代、室町時代すべて後世に歴史の区分としてつけただけで、当時はそんな概念自体がなかったんです。一番いい例が、弥生時代ですね。ご存知かもしれませんが、東京の弥生という地域で、その時代に作られた土器が発見されたことから、弥生時代と言う名前がついたんですね。 ですから、1192年にその辺を歩いている人を捕まえて「鎌倉幕府はどこに出来たんですか?」と聞いても「????」ということになります。 そもそも、豊臣秀吉が登場するまでは、本当の意味での幕府(日本全国を支配した権力)はなかったわけで、社会システムの良し悪しで滅んだのではなく、権力闘争の結果、支配者が変わっただけで、自民党の総理総裁が変わったようなものです。 その証拠に、社会システムがダメになったのであれば、フランス革命のように共和制に移ってもよさそうなものですが、権力者が争っただけで、社会の体制そのものは変わっていませんよね。
- sqwe-ir
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日本の朝廷は、世界一長い王朝としてギネスに乗っています。 ですから、法則で必ず滅びる訳では無いようです。 古代ギリシアの衰退の原因は、スパルタとの戦争と、絶対民主主義が大きな原因です。 こう言った、一歩踏み込んだ勉強が大切なのであり、 数学的な法則を取り入れるのは歴史ではなく、経済学 に近いと思います。 何故滅んだのか、思想、文化はどう変化したのか、 技術はどう変わって行ったか。 年表も大切ですが、より深く研究する事により理解が深まり、理解した事は、忘れる事自体難しいと思います。
- caesar-x
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周期説は経済学者が唱えた考えで 単に経済学や社会行動学の変動・バイオリズムを 歴史に応用しただけの根拠の薄い説です。 現実的にはほとんど当てになりません。 主に中国の王朝をモデルケースとしてますが 日本の幕府などにはあまりマッチしません。 日本の場合、天皇制がずっと続いている上に 幕府の期間も一定周期がありませんせから。 中国の場合、王朝の滅亡が繰り返されているように 表面上見えるのは、それは要するに レコードに傷があって同じところで音が飛ぶのと同じです。 つまりは制度上の問題が解消されてないという明らかな原因があって それが王朝の滅亡を促しているわけ。 王朝の問題とは、ずばり世襲制です。 世襲制は代を重ねるごとに増えていくわけで 王族・貴族・土地所有者の子供の増加は 結局、財政に寄宿する者を増やしたり、土地の分割という 結果のになるので、当然、財政や家計は逼迫し 定期的に訪れる災害のような突発的事態に対応できなくなることを意味します。 また当時は税金をしぼるだけで 投資し還元する方法がなかったので財源も先細りになるわけで これも災害に弱いという王朝独特の体質の原因になりました。 世襲制のもう一つの問題は優秀な治世者を生まないという特徴です。 血縁主義による治世者の交代は3代以上名君を生んだためしがありません。 要するにこの制度は程よく馬鹿な治世者を生み 国政を混乱させ、改革を停滞させるというわけで 自爆装置付きの制度のようなものだったわけです。 よってこれらの問題が解決されるまで 王朝はあたかも周期的に代わっていたわけです。 しかし現在はこのような問題はありません。 議員代議制は最悪のシステムだが存在するなかでは最良のもの、というチャーチルの言葉もありますが 曲がりなりにも、民主主義は世襲制の打破には成功し 選挙によって治世者を選ぶことが出来るので 我々はそこで停滞することがありません。 だから周期的滅亡という線は全く馬鹿げた根拠のない読みといえます。
- 6dou_rinne
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永遠に続いた王朝や権力機構はありませんね。 このあたりの原因についてはまだ定説はないと思いますので教科書には載らないでしょう。 原因としてはいろいろあると思いますが、権力が腐敗したりマンネリになったりして変化を求める気持ちが強くなることもあるかもわかりません。