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徳川幕府で人口が停滞した原因
政府発表の「日本の将来推計人口」に鎌倉幕府が成立した以降の、人口予想グラフが載っています。吉宗の享保改革のころで3,128万人から明治維新の3,330万人と150年以上にわたった人口停滞の原因はどこにあるのでしょうか? お教えてください。
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>150年以上にわたった人口停滞の原因はどこにあるのでしょうか? 食料すなわち農水産物を入手する手段として現在は農ビハウスや養殖など季節変動や天候に左右されない方法が採られていますが江戸時代にはありませんでした。 江戸時代には日本列島外から調達する手段も幕府がオランダとのみの交易に規制すると同時に幕府が独占していました。 最近は天然自然現象よりも幕府の政策の方が影響が大きかったとのではないかと言われています。 医療技術の未発達も言われますが戦国時代に急激に人口が増えたことをに対する説得力に欠けます。 (歴史的推定人口1200年700万人→1600年1227万人) 米を基本とする武士、町人、百姓という身分制度を維持するには省力化や合理化によっ人口の大半を占めるて百姓階級が経済力や軍事力を獲得することを抑制していました。(江戸時代の武士階級の人口は全人口の3~5%程度でした) 「今諸物足らざるものもなければ.このうへ新しき製造あるべからず」などという通達を出していました。 更に田畑勝手作禁止令というものを通達して米作を勝手に止めて野菜や果物などの換金作物を作ることを禁止していました。 町人に対しては度々奢侈禁止令を出していました。 「呉服,諸道具,書物類ハ不及申,諸商売物菓子類にても,新規ニ巧出し候事,自今以後堅ク停止たり,若無拠 子細有之ハ,役所江訴出,ゆるしを請可仕出候事 」 結果的に省力化による現状からの変化に対する忌避,具体的には機械化による失業・ 就業者構造の変化を避けることになった考えられています。 物価が上昇して消費者である武士階級が貧窮することを恐れて積極的に物価を抑制していました。 町奉行所内に市中取締諸色調掛という役職を設けていました。 同業者間で組合(株仲間)を結成させて組合による価格の監視と価格の維持・ 抑制を行わせていました。 農水産物の生産量や流通量が限られることになり百姓階級に生まれた二三男は江戸の街に働きに出ることになりました。 結果的に江戸の街では男性8に対して女性1という割合になり期せずして人口抑制策がとられることになりました。 全国の大名領の城下町でも似たような状況になっていました。 米本位の経済を貨幣経済に代えようとしたのが田沼意次でした。 明和の大火や浅間山の噴火が起きた上に天候不順による天明の飢饉が起きて改革は頓挫してしまいました。 もし改革が成功していれば明治維新も早まり人口も増加していたと思われます。
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- kitsunetoneko
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確か 天明の大飢饉とか,天保の大飢饉とかで,一般市民は,飢えに苦しみ,だいぶ餓死者や死者などが出ていたと思いますし,当時は,医療が発達していないので,流行り病(天然痘やインフルエンザ)や,結核を含む,江戸末期に流行したコレラなどの伝染病や,感染症などで,かなりの死者が出た可能性が有ります..地域によっては,田畑が,豊作などで,人口が増えている藩なども,あると思うのですが,特に,江戸などの大都市では,人口は,年々少しずつ増えていたのかもしれません..
- IXTYS
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18世紀末、フランスで市民革命、イギリスで産業革命が起きます。 これにより産業が著しく発展し、重商主義が台頭します。 19世紀、欧米各国の世界進出、帝国主義による植民地支配が始まるのです。 世界的に18世紀後半のふたつの革命が起るまでは重農主義の時代で人口は停滞していたのです。 重商主義によって世界は大きく発展を遂げて行くのですが、日本では徳川幕府は重農主義から脱却出来ていません。 従って人口も増えることはなかったのです。 19世紀に入り、薩摩藩は配下にあった琉球王国を通じてと三ヶ国貿易を行いオランダやイギリスと交易を行ない、藩の財政改革に成功します。 いち早く重商主義へ舵を切り替えることに成功したのです。 ですから幕末には77万石の薩摩藩の方が440万石の幕府より財政規模は大きかったと言われています。 徳川幕府が倒れ、薩摩長州を中心とした明治政府が樹立され、近代化が進められたのは『当然のなりゆき』だったとも言えるのです。
- jkpawapuro
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E9%AB%98 wikipediaの石高をご覧ください。 基本的には1石が人一人分の食い扶持で、おおむね国の石高と人口は比例します。 これを見るとむしろ享保期の人口は多すぎますね、霞でも食ってたのか?って話になっちゃいますが、まあ3128万がもし事実なら検地が不徹底だと考えるのが妥当でしょう。 そして18世紀も後半になると既存の技術では新田開発できる土地が残されてなく食料の増産が不可能になり、日本の人口は3000万人台で頭打ちになります。鎖国時代ですのでね、単に食糧の生産能力と一致するまでの話でしょう。
- eroero4649
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ちょうど享保の改革の頃である1645~1715年はマウンダー極小期と呼ばれる太陽の活動が極端に低下した時期でもありました。 その辺りから1850年代くらいまで、地球は小氷期と呼ばれる気温が低下した状態となります。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B0%B7%E6%9C%9F これが影響したのではないかなと思いますよ。お米というのは元々南方の植物で、基本的に低温に弱いものです。それは今はほぼ絶滅したササニシキが登場するまで米農家を常に悩ませてきたものですが、江戸時代後期には冷害による飢饉が特に東北地方を中心にしばしば発生しています。 この当時は日本に限らず世界中で気温が低下していたことが分かっています。テムズ川は当時冬になると完全に凍ったといいますし、オランダの画家ブリューゲルが残した絵画には冬のオランダの様子がよく描かれていますが、そこには今より当時のほうが寒かったことが分かっています。 また奇しくも同じ時期には富士山の宝永の大噴火があり、1783年には浅間山が大噴火を起こしてそれぞれ不作と飢饉を起こしています。 なんと同じ1783年にアイスランドのラキ火山も歴史的大噴火を起こしており、これがヨーロッパの不作を招いてフランス革命の一因ともなったといわれています。 調べてみると、この時期はヨーロッパでもペストがしばしば流行しているんですよね。ペストが一番猛威を振るったのは14世紀ですが、17世紀頃もしばしば流行しています。ペストが流行したのは、人々の栄養状態が悪くて抵抗力が落ちていたのも影響していたと思いますよ。 だからその時期は、世界的に(アフリカやインドがどうだったか分かりませんが)人口が停滞していた時期だったのではないかと推測します。
- seble
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生かさず殺さず、という政策ですから、余分な食い扶持がなく、つまりは増えようもありません。 その代わり、大名や商人は肥え太りました。 日本に限らず、他世界でもさほどの人口増加はありません。 やはり、外燃機関から始まる原動機と機械化、ペニシリン発見を代表に医学の発展が人口爆発の大きな要因と思います。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%88%86%E7%99%BA#/media/File:Population_curve.svg
- tzd78886
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人口には増える要素と減る要素があるのはお分かりかと思います。増える要素としては新田開発などで食糧増産がされることが大きいですが、当時は飢饉なども多かったですから一時的に増えてもそういう時には大幅に減ってしまいます。しかも、幕末には結核など外国から多くの病気が入ってきました。西洋医学も入って来たので何とかトントン状態だったのです。その後も長きにわたって結核は「国民病」と恐れられたのはご存知の通りです。
外部(外国)からのエネルギ-(食料・燃料)流入がなければ,日本列島の自然環境下で成立しうる人間社会の規模は,3000万人くらいだったということです。 将来の日本も,その規模か,あるいは数百万人ていどまで縮小させる必要があると,ぼくは考えています。
お礼
なるほど、治水で田や畑を造成したりしても根本的な解決には繋がらないということですね。石炭は維新後に活用されましたものね。ありがとうございます。
お礼
大きな飢饉が三つもありましたもね。幼児の死亡率も高かったのでしょうし、病気もおおきな原因かもしれませんね