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幕府の対応:一年間何も対策を検討せず?
- 幕府はペリーの来航までの1年間、何も対策を検討しなかったのか疑問が残ります。
- 江戸幕府は一国を預かる組織として、対応策の欠如が疑わしいです。
- 鳥羽・伏見の戦いで慶喜の対応は維新の流れに大きな影響を与えたと言えるでしょう。
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1 「検討」はしていましたよ。いやー、来たらどうしようねー。でもさー、必ずしも来るとも限らないじゃない?もしかしたらガセかもしれないし。一応幕府の方針としては長崎が交渉の場と決まっているから、もし来たら長崎に行ってもらって、今まで通りにテキトーに対応して追い返せばいいんでない? ってなところでしたね。 世間一般ではあまり知られていませんが、江戸時代後期に外国船が外交交渉を求めて日本にやってくるということがしばしばあったんですよ。例えばロシアからはラックスマンやレザーノフといった人たちがやってきましたし、アメリカもペリーから遡ること7年前にジェームズ・ビドルという人が浦賀にやってきて幕府に外交交渉を求めました。 しかしいつでも日本側は「外国との窓口は長崎と決まっているので、そっちに行ってくれ」の一点張りで、外国側がそれに応じて長崎に行くと「ウチは鎖国してるんで交渉には応じません」とニベもなく突っぱねていたのです。 そしてそれは、ペリー来航までは成功していたんですよ。それで外国船を追い返せた。だから当然「次も来たらまた同じ対応をすればいい」となってはいたのです。 だけどペリーは日本を研究していたのです。それで、日本人というのはこっちが下手に出ると調子に乗るから、胸倉を掴んでグラグラ引き回すといいって気づいたのです。 それで江戸湾(東京湾)をグイグイと日本側の警告を無視して奥まで入ってきて、江戸市民に軍艦(黒船)を見せつけたんです。日本側には海軍がないから、強引にやってくる黒船を止める術がないことをグイグイやってこられたことで幕府側も思い知らされたのです。んで、誰の目に見ても黒船の大砲に対抗できる大砲をこっちが持っていないのも明らかになった。 それでペリーはこっちはもっと大艦隊が控えている、交渉に応じてくれないならこれを先に渡しておくよって白旗を渡したんです。これはなんだという幕府側に対してペリー側はあのな、交渉決裂したら戦争になるんだけど、白旗って降伏って意味だから予め白旗を渡しておくよ、だってお前ら俺らにぜってえ勝てねえじゃんってやったんです(本当)。 これと似たようなことをやったトランプって人がいまして、アメリカの武器を買わねえなら、在日米軍への負担をもっとやらねえなら日米安保は破棄するぞ、北ナントカからミサイルが飛んできても知らねえからなってやったわけです。すると日本中が尻尾を振って武器は沢山買う約束はするわ、娘には多額のお金を贈るわをやったわけですよ。そしたらまんまとキムさんと直接会談しちゃったじゃないですか・笑。日本はJアラートなんて「空襲警報」まで出して大騒ぎしてこれですよ。 どうも日本人はアメリカ人に居丈高に接されると弱いみたいです。 2 福島第一原発事故によって発生している汚染水が、2022年に置き場所がなくなるっていう話はご存知ですか。もうこのままでいくと、2022年にはタンクを置くスペースがなくなるんですよ。たった2年後ですよ。 その日が来るのは分かっているのに、どうして私たちは対策もしなければ議論もしないのでしょうか。私たちが当時の江戸幕府の人たちを無為無策と笑う資格はありますか。ペリー来航以上に国や国民にとって重要なことから、目を逸らし続けて現実と向き合おうとしていません。 一国を預かる政府は、何をしているのでしょうね?もしかしたら、日本政府は終わっているのかもしれませんね。 3 ペリー来航から鳥羽伏見の戦いまで、15年あります。その間に下関戦争やら薩英戦争やら池田屋事件やら龍馬暗殺やら様々な出来事があります。ペリー来航と鳥羽伏見の戦いまで直結はできないですよ。 ペリーが来航したとき、老中阿部正弘は薩摩藩の島津斉彬らの力を借りたことがドミノ倒しの作用で長い目で見て幕府の権威を弱体化させました。それが幕府の滅亡に繋がったのだとしたら、ペリー来航のときに徳川斉昭が主張したように全面戦争をすればよかったのでしょうか。んなアホな。徳川斉昭は外国嫌いのネトウヨだったから後先考えずに「夷敵は払え」と主張していただけです。「日本は神の国だから絶対負けない」って、まんまネトウヨですな。 鳥羽伏見の戦いで敗北した後、もし慶喜が大阪で徹底抗戦していたら、大阪は戦災で大きな被害を受けたでしょう。もしその後でも江戸で徹底抗戦していたら、江戸も戦災で大きな被害が出たかもしれません。 そこまでして、多くの無辜の市民を犠牲にすれば、徳川幕府は守れたでしょうか。というかそれから30年後くらいには日露戦争をせにゃならないのですが、幕府の体制でロシア相手に戦争ができますかね?いずれどこかで近代国家にならなければなりませんでした。 その近代国家への緩やかな移行を狙ったのが、「大政奉還」です。政治を名目上朝廷に返す。でも朝廷に実務能力はないから、返されたところで政務を執り行うことはできない。その能力は徳川家が持っているから、朝廷新政権は結局徳川家の力を借りなければならなくなるって慶喜は読んでいたのです。 だから岩倉具視や西郷隆盛は大政奉還に頭を抱えたはずです。これじゃ公家(あるいは薩摩藩)は政務を仕切れない。権力がこっちに来なくなるって。それを打開した強引すぎる方法が「倒幕の密勅」だったのです。倒幕の密勅は岩倉具視の捏造といってほぼ間違いないので、まあいうてみれば慶喜が打った法に則った一手を岩倉具視の反則技で打開したってなものなのですよ。 私は慶喜は「もう徳川の世ァおしめえだな」って分かっていたと思いますよ。だから抵抗しなかったのだと思います。善意に解釈すれば、無駄な戦死者を出すのに忍びなかったということになろうかと思います。ヒトラーなみの徹底抗戦をしていたら、数万人レベルの大阪・江戸市民が犠牲になったと思います。
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- whaihansei
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1→検討していた 故に2、3への回答は不要ですね。 なお慶喜への非難が厳しいですね。 幕府は海外情報をかなり得ていました。 対し薩長は永らく攘夷を唱えバランス感覚が なく政権奪取後、無条件に「洋化」しました。 帝国主義(植民地奪取策)を無批判に採用して しまったのです。 これについて、どのようにお考えでしょうか。
お礼
ありがとうございました。 故に2、3への回答は不要ですね。……質問文をよく読んでほしかったです。 なお慶喜への非難が厳しいですね。……???慶喜を批判するつもりはありません。私の中で解決できない疑問はありますが。 幕府は海外情報をかなり得ていました。……「にもかかわらず」というのが質問の趣旨です。 無条件に「洋化」しました。……無条件であったか、条件付きであったか、私にはわかりませんが、外国の文化については、古来「輸入をして、それから日本独自のものに育てていく」という風土が日本にはあったように感じています。 帝国主義(植民地奪取策)を無批判に採用してしまったのです。……維新政府と結びつけるのは、無理があると感じます。
お礼
ありがとうございました。耳が痛くなるほどによくわかったような気がします。 ただ、「善意に解釈すれば」という前置きはありますが、ご回答の、 「私は慶喜は「もう徳川の世ァおしめえだな」って分かっていたと思いますよ。だから抵抗しなかったのだと思います。善意に解釈すれば、無駄な戦死者を出すのに忍びなかったということになろうかと思います。」の部分……慶喜の行動……については、「なぜ」という疑問が私の中では解決できません。これは「歴史」というよりも、「個人の心の問題」であって、慶喜に直接聞いてみないとわからないし、本人も本当のことを言ってくれるかわかりませんが、「無駄な戦死者を出すのに忍びなかった」ということが原点にあるのであれば、もっとやりようがあったのではないか???という疑問が残るのです。どうしても「慶喜は保身に走った」のではないかという疑問が私の頭をよぎってしまいますし、「保身」を考えるのであれば、それはそれで、やり方があったのではないかという気がするし、慶喜の一連の行動は要するに「中途半端」だったように感じています。 それと武士の棟梁でありながら、「武士」らしい対応……「戦」……を選択しなかったということにも、「武士の時代」はもう終わっていたのかも、という印象をもっています。浅学歴老のとるに足らない見解ですが。