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意志(意思)とモチベーションと行動力について
自分でもなにが疑問なのかハッキリつかめなくいます。 最近私は目標を持っていましても、自分のことを『モチベーションが低い』と思うことがしばしばで、例えば成功者のことを知ると同時に『この人はモチベーションが高い』と思い、その人のメルマガなどを拝見していましても、その人は他の人から『なぜそんなにモチベーションが高いのですか?』という質問を受けているんです。 そういうこともあり私は『やっぱり私はモチベーションが低いんだ』と思い、モチベーションを高くするような工夫をしてみましても、時が経つにつれモチベーションが低くなってしまいます。 目標内容や目標達成を信じる心に問題があるのかもしれないといろいろ考えてみたんですが、いくら考えてもそれは問題がないように感じています。 モチベーションにこだわっている時は、私は意志という言葉とは無縁で、気が向かなければ『明日にしよう』と思い、『私はモチベーションが低いんだ』と自分で思い込みがちだったんですが、そもそも行動力=モチベーションと思い込んでいた私が間違いでなのでしょうか? 簡単に言うと、私は目標に対して行動力、本気度が薄く感じています。 とにかく本気にもなりたいし、行動力を維持したいのですが、なかなかうまくいきませんし、なぜそうなりたいのになれないのか原因がわからずにいます。 最近はモチベーションどうこうよりも意志を使うか使わないか、ただそれだけのことかもしれないと思ってきているのですが、まだモヤモヤが残っています。 モチベーションが高ければ、意思も使いやすいといったらなんですが、多少苦なことであっても、舵取りしやすく、同じ努力でも好きな努力というような感じにもなりますが。 混乱してきました、なにかモチベーションや意思などについてもお聞きしたいです。
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モチベーション・・・私も低いです。行動力も無いです。 以前は周りの頑張っている人たちを見て、妙に焦りを感じたりしていましたが、人それぞれペースというものがありますから、今では自分のペースでいいやと開き直っています。 最低限やらなければならないことをしたら残りの時間は自分の好きに使えばよいと思いますよ。 (なので、私にとって、働いたり選挙に行ったりすることは免罪符の役割も負っています) なお、私は 意志=何かをやりとげようとする気持 モチベーション=何かをやりとげるための動機付け 行動力=何かをやりとげる具体的な行動を取る能力・才能 と解釈しております。 大きな動機は自分で恣意的に作るのはなかなか難しいのではないかと思います。
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- 石崎 大望(@hir_o_mi)
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モティベーションにも色々なタイプのものがあると思いますよ。 「面白い!もっと知りたい!」という純粋な興味からくるもの 「負けてたまるか!絶対見返してやる!」といった、プライドや反骨心のようなものからくるもの。 「ありがたい、どうにかしてこの人の信頼に応えたい」というような深い感謝の気持ちからくるもの 「この人を守りたい、何か自分にできることはないか・・・」といった愛情からくるもの 「目標を達成するという行為自体が好き」という人の場合。 「有名になりたい、認められたい」という認知賞賛を欲する気持ちからくるもの 「贅沢をしたい、出世したい」といった通俗的(否定的にいってるわけではありません)な欲望からくるもの 創造や表現の喜びを知っていて、その喜び味わうことを求めて行動している場合。 人として大きくなりたいとか人間的に成長したいという欲求から来るもの などなど。。。きりがないですね。 いずれにせよ 心に感じるものがあってそれから始まる話のような気がします。 感じて、動く。 過去の誰かの言動への反発であっても、 未来のビジョンへの憧れであっても、 現在の「楽しい、面白い、気持ちいい」といった感覚であっても 人生で育んで来た信念に基づく抽象的な動機であったとしても 胸の中でありありと何か「感じる」ことが原点の気がします。 意思だけでは心がなかなかついてきません。 ガス欠になって炎がしぼんでしまいます。 本気の情熱みたいなものを胸の中でリアルに感じているときは、うずうずしてしまって、爆発しそうで、じっとなんかしていられません。 どきどきしたり、わくわくしたり、すうーっとしたり、もやもやしたり、ずきんとしたり、ときめいたり、うずいたり、痛かったり、そういう胸の中で感じていることに意識を向けて、丁寧に丁寧に、より深く、しみじみと、豊かに、微妙に、ありありと感じていくことで、モティベーションも深まり、豊かになり、とってつけたものでない、もっとあなたらしい味わいのものになっていくはずです。本物になっていく。。。 では意思は、どう使うのか。 目標が具体化されて、それを達成しようと計画を立てた段階で、必要な作業が面倒くさいとか辛いとか感じてしまうときがありますよね。あるいは勇気がいったり。そのときに「でもこれは必要なことだから」「望みを叶えるために避けては通れないことだから」とちゃんと向き合って、必要なことを必要なタイミングで、必要な分だけはちゃんとやる。そのために意思を使うのだと思います。 社会人として日常の仕事のシーンなどで感じることですが、「できる」ひとというのは、必要な事、やるべき事をちゃんとこなします。嫌がっていても結局やり通します。そのおかげで最短距離で目標に到達します。できないひとは都合の悪いことを避けてぐちゃぐちゃ動いたりとまったりしています。きりのいいところまでやりぬかずに中途半端にしてしまうので、出来損ないの仕事ばかりで周りが尻拭いすることになります。 別の角度から言い換えると、意思は自分の選択をちゃんと検討することで強くなると思います。それをすれば(続ければ)1ヶ月後、一年後、どうなれるのか、やらなければどうなのか。あるいは1ヶ月間さぼったことでどうなったか、やり続けていたとしたらどうなっているだろうか。それを細部までよくよく想像する。情報が足りなかったら集めて、それによってビジョンをクリアにして、やろう、という気になるまでリアルに考える。ちゃんと見つめればおのずと答えは出るのでは? それでもやる気になれないとしたら、おそらく本当に疲れている(例えば毎日ベストを尽くすといっても、生身の人間は体調や精神状態によって、日々ベストの上限が違います。)か、その目標が偽者なのでしょう。 根底に「一度きりの人生を、本当によいものにしたい」という気持ちがちゃんとあれば(あると思いますが、見失いがちだったりしますよね)、自ずと日常のひとつひとつのことを大切にしようという気持ちが生まれてきて、自分で自分が思うようにならないときも、ぶん投げてしまわないで少しでも前進しよう、少なくとも後退したり完全に止まってしまわないようにしよう、という前向きな粘り強さを与えてくれるものです。そういう人は周囲からは、意志の強い人、モティベーションの高い人と見られるような気がします。
お礼
素晴らしい!本当にありがとうございます! >そういう胸の中で感じていることに意識を向けて、丁寧に丁寧に、より深く、しみじみと、豊かに、微妙に、ありありと感じていくことで、モティベーションも深まり、豊かになり、とってつけたものでない、もっとあなたらしい味わいのものになっていくはずです。本物になっていく。。。 うんうん、わかります。なんか自分でモチベーションあげれそうな気がしてきました。静かな時間を持ち、心から思慮って動機となる物を、心にたぐいよせ、それをかみ締めていく・・・実践してみます! >それをすれば(続ければ)1ヶ月後、一年後、どうなれるのか、やらなければどうなのか。あるいは1ヶ月間さぼったことでどうなったか、やり続けていたとしたらどうなっているだろうか。それを細部までよくよく想像する。情報が足りなかったら集めて、それによってビジョンをクリアにして、やろう、という気になるまでリアルに考える。ちゃんと見つめればおのずと答えは出るのでは? たしかに・・・ビジョンがあいまいなのかもしれません。クリアにし、形をしっかり作ってみます! >根底に「一度きりの人生を、本当によいものにしたい」という気持ちがちゃんとあれば(あると思いますが、見失いがちだったりしますよね)、自ずと日常のひとつひとつのことを大切にしようという気持ちが生まれてきて、自分で自分が思うようにならないときも、ぶん投げてしまわないで少しでも前進しよう、少なくとも後退したり完全に止まってしまわないようにしよう、という前向きな粘り強さを与えてくれるものです。 正直見失いがちでした。ああだ、こうだ言って、その「一度きりの人生を、本当によいものにしたい」という単純明快な理由を見失っていました。 本当にありがとうございました^^なんか、スッキリしました。感謝感謝です。あなた様とは現実で出会いたいものです(笑)出会ってもわからないだろうな・・・シクシク^^;
- rikuma
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僕も悩んでいました。 自分にはモチベーションがなく、そのせいで大学生活の半分以上を無駄にしました。 manabu3345さんのように目標があるということもなく、ほとんどなにもしませんでした。 このままでは良くないとは思っていたのですが。 そこで、なぜモチベーションがないのかということを考えました。 モチベーションとは何なのか。 僕の結論は「生きようとする力」です。 なぜ僕にモチベーションがなかったのかと振り返ってみると、 親の庇護のもと、もっと言えば日本の経済力の庇護のもとで、 それほど頑張らなくてもフワフワと生きていける現状があったからなのではないかと思います。 経済的に深刻に困ることがないから、なんとなく勉強して、 なんとなく会社にはいって(それなりの苦労はしますが)、なんとなく死んでいく。 そんなことが可能なら、自分で、本気で物事を考える必要もありません。 これは、最近のニートやフリーターにもあてはまると思います。 では、モチベーションをあげる方法は。 一言でいうと、「底入れすること」だと思います。 たとえば、行動経済成長時の日本人のことを考えると、彼らは、 最低の状況の中、貧困に苦しみ、どうにかしてはい上がろうと 頑張った結果、大きな成長を遂げたのでしょう。 そこには大きなモチベーションがあったはずです。 死にたくない、貧困はいやだといった想いがモチベーションを生んだのだと思います。 それ自体がモチベーションだとも言えます。 こう考えた結果、僕は親元を離れて一人暮らしを始めました。 当然家賃も学費も自分で払い、仕送りもなし。 わずかながらも働くこと、自分で生きることの苦しさを知りました。 今はモチベーションも上がってきて、精力的に行動するようになりました。 これはあくまで僕個人の意見なので同じようにする必要はないと思いますが、 一つの方法だとは思います。 また、「底入れ」しなくても、自分の欲望を明確に見つめ直し、高めることによっても 同じような効果が得られる可能性もあるんじゃないでしょうか。 長文、乱文失礼いたしました。
お礼
素晴らしい・・・ありがとうございます。かなり参考になります^^ 素晴らしい知恵をありがとうございました!
とてもいい質問だと思います。どのように書き出せばよいか、適切なものが直ぐには浮かびませんが、。 理知は、戦いの精神です。理に徹する事によって、微妙な生存への道を手繰り寄せ、感情の起伏では越えれぬ生存の山を、越えてきたのが、人間です。理知は、物事を客観的に捉え、己を含めた周囲の状況を把握し、適切な手を打ちます。 感情に流される日々から距離を置き、物事を理知により見つめられる人間は、強くなり、今のような、生存するに余裕のある生活をするようになります。そうしていざ平和になれば(死が遠のいたら)、理知は守り神としてその平和を維持し、感情はそこで、繁栄することになります。 ただ、理に徹することでも、越えれぬ壁があります。むしろ、理知的になることで、発生する壁です。生存の意義について、人間は考えるようになったのです。理知的になることにより、当座の死は克服できた。そしてより確かに生を獲得した。だけれど、何のために生きているのか?や、何故生存しているのか?などという風に、生きることに意味を求めるようになりました。理知に基づくことで生存の危機を追放した時、人間は、ただ生きてさえいればよかった日々からも、追放されてしまったのです。自ら出て行ったともとれます。そして、只生きているだけでは満足を得れなくなった人間は、道徳インスピレーションを獲得します。 善く生きることを可能にするのが、道徳インスピレーションです。 感情に従って生きていた人間は、生存の危機に立ち、理性を爆発させます。理性の萌芽は、人間を理知ある者に育て上げ、人間は安定した生活を獲得します。理知に基づいて生きていた人類は、やがて、理知的であるがゆえに、生存や、存在そのものに意味を求めるようになります。その事で生まれたのが、道徳インスピレーションです。この道徳インスピレーションによって、人間は善く生きる、善き存在であることができるようになりました。道徳を得ることで、人間は、生や存在に、意義を見出すことができるようになったのです。この道徳インスピレーションのある事を、悟性がはたらくと言います。 また。道徳には、善を求めない、美(調和)を求めない、真を求めない性質が含まれます。それはインスピレーションですから、静かな水面に落ちる雫のようなものです。静かで深い哲理の水面を、踊るように駆けてゆくのが道徳インスピレーションです。小さな泡がこ踊りしながら湧いてくるとも言えるかもしれません。 感情に流される日々から離れ、感情を抱きながらも、理に徹し、さらりとくらしていると、道徳インスピレーションが落ちてくるのに気付きます。静かであればあるほど、雫は雨に、雨は嵐に、嵐は轟音を伴う流れとなって、やがて哲理の水が崩壊し、世界の存在しない所に、行くことになります。 理知的に暮らす人間は、やがて聡明になります。聡明な人間は、物事を実現する力に長けています。なぜなら、物事に反発しないからです。罠をはって獲物をとるように、仕掛けをつくるのが聡明な人間です。小さな力で大きな事を動かすのが、聡明です。些細なことから大事な事実を見抜くのが、聡明な人間です。聡明な人間は、道徳インスピレーションを得ることで、人の文言に迷うことなく、より聡明に、目立たず、大胆になって行きます。
お礼
深いですね~、私みたいな未熟者には理解できるかわかりませんが、必死に理解しようとしています。 でも、ここまで深い回答を教えて頂き感謝致します! >理知的に暮らす人間は、やがて聡明になります。聡明な人間は、物事を実現する力に長けています。なぜなら、物事に反発しないからです。罠をはって獲物をとるように、仕掛けをつくるのが聡明な人間です。小さな力で大きな事を動かすのが、聡明です。些細なことから大事な事実を見抜くのが、聡明な人間です。聡明な人間は、道徳インスピレーションを得ることで、人の文言に迷うことなく、より聡明に、目立たず、大胆になって行きます。 ここが感銘を受けました。ありがとうございます!
- vagabond_0710
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>自分でもなにが疑問なのかハッキリつかめなくいます。 何がわからないのか、わからない状態ですか・・・。 >目標を持っていても、自分のことを『モチベーションが低い』と思う。 僕は、モチベーションが低かろうが、高かろうが、どっちでもかまいません。 >例えば成功者のことを知ると同時に『この人はモチベーションが高い』と思う。 それは、「成功」という結果が出ていることが前提の、つまり結果論です。その成功者と自分を比べて、『やっぱり私はモチベーションが低いんだ』と思うのは、それは、相対的な価値でしか見ていないからです。それに比べるのであれば、こっちも成功した立場で比べないとおかしいことになると思います。相対的な価値ではなくて、やらなきゃいけないのは自分自身なんだから、相対的な価値は通用しません。 >なので、モチベーションを高くするような工夫をするけど、時が経つにつれモチベーションが低くなってしまう。 どんな工夫でしょうか? 高くする必要があるということは、もともとは低かったということですよね。それに戻るのは自然だと思います。それに、モチベーションとは動機付けのことですね。いわば刺激です。なので一時的なものなのは当然です。 >モチベーションにこだわっている時は、私は意志という言葉とは無縁で、気が向かなければ『明日にしよう』と思い、『私はモチベーションが低いんだ』と自分で思い込みがち 結論から言えば、モチベーションにこだわっているからです。こだわっているから、すべてをモチベーションのせいにしてしまう。上手くいかなければ、「自分はモチベーションが低いからだ」となってしまう。そしてそれを自分で自分に言い聞かしてしまっている悪循環。自己暗示してるんです。意地悪く言えば、上手くいかないことをモチベーションのせいにして、無責任な状態になっているんです。だから何がわからないかわからない状態になってしまうんです。 >とにかく本気にもなりたいし、行動力を維持したいのですが、なかなかうまくいきませんし、なぜそうなりたいのになれないのか原因がわからずにいます。 本気になりたい、行動力をキープしたい、それができない。それは、「やらないから」です。モチベーションのせいにしたり、目標内容や目標達成を信じる心に問題があるのかもしれないといろいろ考えてみたりする余裕があるなら、責任を持って行動すればいいんです。行動するよりも、考えたり悩んだりする方にプライオリティを置いているから上手くいかないんです。 >最近はモチベーションどうこうよりも意志を使うか使わないか、ただそれだけのことかもしれないと思ってきているのですが、まだモヤモヤが残っています。 意志を強くする方法はいたってシンプルです。決意してやればいいだけです。やればそこには問題が出てきて、それを乗り越えるために闘わなければいけない。頭を使い、時にはお金を使い、時間を使い、行動します。時間との勝負でもあります。やればやるほど、意志が強くなっていきます。気安くやめることができない状況になります。やればやるほどです。目標まで絶対にやめないと決意して、それに賭ければ誰にでもできます。 どんなにくだらないことでもいいから、自分が本当にやりたいことを最後までやってみる経験を一度すると、それはクセになるかもしれませんよ。妥協しそうになる自分との闘いです。妥協しそうになったら、「お前ってその程度かよ」と僕は自分に言い聞かせてました。最後までやりとげたら、自分で自分を認めることができます。つまり、どこまで自分を信じることができるか、自分にテストをしてみると思ってもいいかもしれません。自分を信じることができなければ、何一つできないと僕は思ってます。そういう覚悟の上で、一度チャレンジしてみてはどうでしょうか?
お礼
具体的にお答え頂き感謝致します。 全てに共感致しました。ただ、私の文章を一部分だけみていくとぜんぜん伝えようとした意味が変わってしまっている気がしました。全部をひっくるめてこそわかるのですが、最後の文を見て、私が言いたいことが伝わっているようなので良かったです。 本当にありがとうございました!
- caroline
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若い頃、シュタイナー教育を学びました。ドイツにおいてそれの扱いは、時に政治的嵐(ナチ政権下)に利用され蹂躙もされたようですが、基本的にその教育における本質や実践の示しているものは、とても高い内容です。 つまり、「知・情・意」。人間性の形成には、その三つが調和されていなければならないというのが、シュタイナーの哲学の元です。知は知識、情は感性、意は意思力および行動力と私は学びました。 モチベーションばかり突出させていようとしても、それはどうかなあと思います。むしろ目には見えにくい、海の底あるいは鉱脈のような知の力や感性の豊かな波紋とのつりあいがとれてこそ、最終的にあなたという人間が存在するはずです。
お礼
>モチベーションばかり突出させていようとしても、それはどうかなあと思います。むしろ目には見えにくい、海の底あるいは鉱脈のような知の力や感性の豊かな波紋とのつりあいがとれてこそ、最終的にあなたという人間が存在するはずです。 素晴らしい。たしかに、モチベーションばかり突出させていようとしても、ダメですね。なんか最近は人間を機械化しようとしているように思えます。モチベーションが低い、なら上げろ!悩む必要はない!みたいな。
- kaitaradou
- ベストアンサー率8% (102/1147)
大変興味深い内容だと思いました。たとえばギターをうまく弾きたいという目標を立てたとします。このときギターが奏でる音楽を聴くことが心から好きでなければ決してうまくならないと思います。たとえうまくなって他の人が賞賛してくれてもやはりこれは本当のものではないと思います。収入とか名誉が得あられれば満足ということもありますが、ここまで非人間的な努力をする人はほとんどいないと思います。つまり自分にとって大切かどうかの問題だと思います。周囲の人を意識しないで目標を立てることがもっとも大切だと思います。これは、別に非社会的とか反社会的なことを企てるというようなことではなく、自分のやっていることを自分で評価するということに尽きます。やってみたいことがないのならば、それが貴方にとって一番高いモチベーションであるというように考えてみるのも成り立つかもしれません。案外、現状に完全に近いほど満足しているというようなことはないでしょうか。
お礼
なるほど、文章を拝見していまして、閃きがありました! たしかに、モチベーションの上げ方にも、なにに対してというのがありますよね。 そのなにかに応じてモチベーションが左右される。こういうとそのままなんですが、逆に利用して、自分がどこかしらモチベーションが高くなる動機だけども、なにか嫌な気がする。でも、目標としているところは同じなんだから、なにが動機付けか、そこらへんの道徳心みたいなものは無視して、動機付けになりそうな動機を使って、モチベーションをあげたって別にいいいんですよね。かなりいいこと知りました。 どこから出発するかは問題ではなく、どこにいくかが問題なんですし、動機付けになりそうなのは、使えばいいんですよね。行動している内に、迷いは答えになってきますよね! 本当にありがとうございます!!
お礼
なるほど、たしかにそう言われるとそうですね~。 参考になります。ありがとうございました!